日本とラオスの関係
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日本とラオスの関係(にほんとラオスのかんけい、ラーオ語: ສາຍພົວພັນ ລາວ-ຍີ່ປຸ່ນ、英語: Japan-Laos relations)は日本とラオスの二国間関係を指す。日寮関係とも呼ぶ。ラオスは東京に大使館を、日本はヴィエンチャンに大使館を置いている。日本とラオスは1955年3月5日に国交を樹立した[1]。
概要
[編集]第二次世界大戦中の1945年、当時ラオスはフランス保護領ラオスとしてフランスの植民地下にあったが、日本軍は明号作戦を発動してフランス軍を制圧、ルアンパバーン朝のシーサワーンウォン国王(後のラオス王国初代国王)は4月8日に独立を宣言した。しかし、8月15日に日本が連合国軍に降伏するとシーサワーンウォン国王は一旦独立を撤回した。その後ラーオ・イサラが結成され臨時政府を設立、独立を宣言したが、フランス軍が再度侵入、制圧されることとなった。独立派はタイに亡命してネオ・ラーオ・イサラを組織、その後も第一次インドシナ戦争において対フランス闘争を続けた。
第一次インドシナ戦争終結後の1955年、日本はラオスと国交を樹立した後、1957年に岸信介首相(当時)が日本の要人として初めてラオスを訪問した。1967年に佐藤栄作首相(当時)がラオスを訪問した後、1989年にはカイソーン・ポムウィハーン首相がラオスの要人として初めて日本を訪問した。その後も、1995年にはカムタイ・シーパンドーン第2代首相が、2004年にはブンニャン・ウォーラチット第4代首相が来日、2000年には小渕恵三首相(当時)が、2004年には小泉純一郎首相(当時)がラオスを訪問している[2]。
2012年3月、ラオス首相のトーンシン・タムマヴォンが日本を訪問し、野田佳彦首相(当時)と首脳会談を行った[3]。また、2012年6月には皇太子徳仁(当時。令和時代の天皇)がラオスを初訪問している[4]。
貿易
[編集]対ラオスの貿易輸出入額は2012年時点で以下のようになっている。日本への主要輸出品目はコーヒー、ケイ素などの無機化合物、衣類など、日本からの主要輸出品目は自動車や鉱山用機械となっている[5]。
- 対ラオス輸出額: 110億円(2012年)
- 対ラオス輸入額: 90億円(2012年)
2010年代からは安価な労働力を求めて日本企業の進出も見られる。人件費の安さから労働集約型の部品製造に適しているとされ、矢崎総業、トヨタ紡織などが2013年時点で進出している[6]。労働集約型のアパレル業界では他国における現地労働者の賃金上昇に伴い、例えば1990年代から韓国、2000年代では中国からの撤退の動きが見え、ラオスを含むメコン地域へのシフトが進むことは確実視されている[7]。2020年代の賃金予測でもラオスは優位を占めると見られている[7]。また光学機器の分野でもニコンはタイからラオスに工場を移管する計画で、これは人件費が3分の1から4分の1に抑えられるという[8]。一方で弱点としては、内陸国のために港が使えない(ASEANで唯一海がない[9])、国内市場の小ささ(2012年時点でのIMFによる推定で638万人[10])による完成車の販売は他国と比較して多くは見込めない、といった点も指摘される[11]。
支援活動
[編集]日本はラオスにとって世界最大の援助国であり、2012年時点で1584億円(有償含む)の資金協力および607億円の技術協力を行っている[5]。また、2003年には技術協力協定が、2008年には投資協定が締結されている[5]。
政府開発援助(ODA)による資金・技術協力の例としては、2006年のヴィエンチャン1号線整備や2011年のワットタイ国際空港(ヴィエンチャン国際空港)のターミナル拡張[12]、2013年のターケーク郡上水道整備計画などのインフラ整備があり、この他にも小学校建設や医療体制改善計画などがある。
文化交流
[編集]2020年時点で在日ラオス人の数は2,917人、2020年時点の在ラオス日本人の数は833人となっている[5]。
日本は1976年より文化無償協力を実施しており、文化遺産保存、スポーツ交流、人材育成等様々な分野で交流を行っている[5]。
サッカー分野では、日本サッカー協会がラオスサッカー連盟からの要請を受け、アジア貢献事業の一環として2012年よりサッカーラオス代表の監督に木村浩吉が就任[13]、AFCチャレンジカップ2014ではラオス代表を本戦初出場に導いた。
外交使節
[編集]在ラオス日本大使
[編集]在ラオス日本大使館
[編集]- 住所 : ヴィエンチャン都サイセッタ郡Sisangvon Road
- アクセス : ビエンチャン公共バス、That Luang Public Space ເດີ່ນທາດຫລວງ (タート・ルアン広場)バス停より600m
駐日ラオス大使
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
- ティアオ・カマオ(1956~1959年、信任状捧呈は10月18日[14])
- ティアオ・カムヒン(1972年~、信任状捧呈は11月29日[15])
- スパンタファングシー・シサルムサク(1989年以前[16]~1990年[17])
- カムシン・サヤコーン[18](1990~1995年、信任状捧呈は5月28日[19])
- トーンサーイ・ポーティサーン(1995~2001年[20]、信任状捧呈式は9月21日[21])
- (臨時代理大使)ブンニョン・ソンナオン(2001~2002年)
- スクタヴォン・ケオラ(2002~2006年[22]、信任状捧呈は3月11日[23])
- シートン・チッニョーティン(2006[22]~2012年、信任状捧呈は2007年4月5日[24])
- (臨時代理大使)ブンネム・チュアンホム(2012年)
- ケントン・ヌアンタシン(2012~2016年、信任状捧呈は4月4日[25])
- (臨時代理大使)ソムサヌック・ウォンサック(2016~2017年)
- ヴィロード・スンダーラー(2017~2021年、信任状捧呈は4月11日[26])
- フォンサムット・アンラワン(2021年~、信任状捧呈は7月14日[27])
駐日ラオス大使館
[編集]-
ラオス大使館全景
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ラオス国旗
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ラオス大使館駐車ゲート
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ラオス大使館表札
脚注
[編集]- ^ “歴代大使リスト”. 在ラオス日本国大使館. 2014年1月5日閲覧。
- ^ “ラオス概要と日本との関係”. 在ラオス日本国大使館. 2014年1月5日閲覧。
- ^ “日・ラオス首脳会談(概要)”. 外務省 (2012年3月16日). 2014年1月5日閲覧。
- ^ “皇太子殿下のラオス御訪問”. 在ラオス日本国大使館. 2014年1月5日閲覧。
- ^ a b c d e “ラオス人民民主共和国 - 基礎データ”. 外務省. 2014年1月5日閲覧。
- ^ 坂田 2013, pp. 34–35
- ^ a b 坂田 2013, p. 37
- ^ 坂田 2013, p. 36
- ^ 坂田 2013, p. 26
- ^ 坂田 2013, pp. 26–27
- ^ 坂田 2013, p. 35
- ^ “対ラオス無償資金協力「ビエンチャン国際空港拡張計画」”. 政府開発援助ホームページ. 2014年1月5日閲覧。
- ^ “公益財団法人 日本サッカー協会 2012年度第2回理事会”. 日本サッカー協会 (2012年5月10日). 2014年1月5日閲覧。
- ^ 外務省情報文化局第一課 1956, p. 125.
- ^ 外務省情報文化局『外務省公表集(昭和四十七年)』「六、儀典関係」「32 新任駐日ラオス大使の信任状捧呈について」
- ^ List of Official Mourners Representing Foreign Countries and International Organizations at the Funeral Ceremony of Emperor Showa | Diplomatic Bluebook 1989
- ^ ご引見(平成2年) - 宮内庁
- ^ Foreign Representatives, Heads of Missions and Accompanying Persons at the Ceremony of the Enthronement of the Emperor at the Seiden | Diplomatic Bluebook 1991
- ^ 信任状捧呈式(平成2年) - 宮内庁
- ^ 天皇皇后両陛下のご日程(平成13年10月~12月) - 宮内庁
- ^ 信任状捧呈式(平成7年) - 宮内庁
- ^ a b 秋篠宮家のご日程:平成18年(10月~12月) - 宮内庁
- ^ 信任状捧呈式(平成14年) - 宮内庁
- ^ 外務省: 新任駐日ラオス人民民主共和国大使の信任状捧呈について - 2007年4月4日
- ^ 外務省: 新任駐日ラオス人民民主共和国大使の信任状捧呈 - 2012年4月4日
- ^ 駐日ラオス大使の信任状捧呈 | 外務省 - 2017年4月11日
- ^ 駐日ラオス大使の信任状捧呈 | 外務省 - 2021年7月14日