コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

飛鳥井雅典

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
飛鳥井 雅典
時代 江戸時代末期 - 明治時代
生誕 文政8年10月25日1825年12月4日
死没 明治16年(1883年2月23日[1]
官位 正二位権大納言
主君 仁孝天皇孝明天皇明治天皇
氏族 飛鳥井家
父母 父:飛鳥井雅久、母:家女房
梅(花山院家厚の長女)
雅望、芳子、雅之、貞三、恒麿勝道、生子、忠三郎
テンプレートを表示

飛鳥井 雅典(あすかい まさのり)は、江戸時代後期(幕末)から明治時代公卿歌人華族。官位は正二位権大納言従一位権大納言・飛鳥井家24代当主。先代飛鳥井雅久の子。飛鳥井家は和歌蹴鞠を家職とする一族。

経歴

[編集]

幕末、廷臣八十八卿列参事件に加わったほか、武家伝奏を務めた文久3年(1863年)2月、国事御用掛となり、同年3月、賀茂社行幸に供奉し、翌月4月には岩清水行幸にも供奉した。同年8月18日の八月十八日の政変に際しては参内、他行、他人面会を停められたが、ほどなく赦されて朝議に復した。慶応2年(1866年)7月には大坂城に病臥中の徳川家茂見舞の勅使を勤め、同年12月には徳川慶喜将軍宣下に際して勅使としてこれを伝宣した。慶応3年(1867年)12月、王政復古の大号令によって 公武合体派として参朝を停められたが、翌明治元年(1868年)に明治天皇元服に際して赦されたが権大納言を辞任した。明治元年(1868年)9月および翌明治2年(1869年)3月の東京遷幸に供奉し、明治4年(1871年)11月には宮内省に出仕した。

明治7年(1874年)6月18日、隠居した[1]。明治16年(1883年)薨去、59歳。

系譜

[編集]
  • 父:飛鳥井雅久
  • 母:家女房
  • 妻:梅(花山院家厚の長女)
    • 男子:飛鳥井雅望(1842-1906、飛鳥井家25代当主。1884年華族令により伯爵に列する[2])岳父に四条隆謌
    • 女子:飛鳥井芳子(永井直哉の妻)
    • 男子:藤枝雅之(1855-1922)
    • 男子:杉貞三(別名:基静、持明院基和の養子、後に離籍)
    • 男子:飛鳥井恒麿(1859年生。津守国美の養子となるも後に離籍し、没した兄雅望の家督を継いで1907年に飛鳥井家26代当主となり、雅望長男の雅広(1875年生)を引き取る[3]。長女は侯爵久我通久の養子となる[3]。二男の飛鳥井雅信は帝室林野局事務官、その弟の翠は日本防水布社長矢野丑乙の養子となり、妹登美は男爵北垣晋一(北垣国道の孫)の妻[4]。雅信の子に飛鳥井雅道
    • 男子:大谷勝道(大谷光勝の養子、城端別院善徳寺18代住持)
    • 男子:下山忠三郎(下山忠兵衛の養子)
    • 女子:飛鳥井生子(石田沢心の妻)

脚注

[編集]
  1. ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』上巻, p. 31.
  2. ^ 飛鳥井雅望(読み)あすかい まさもちデジタル版 日本人名大辞典+Plus
  3. ^ a b 飛鳥井恒麿『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  4. ^ 飛鳥井雅信『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

参考文献

[編集]