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関東綱五郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
かんとうつなごろう

関東綱五郎
1871年(明治4年)の写真。
生誕 鈴木 綱之助 (すずき つなのすけ)
鈴木 綱五郎 (すずき つなごろう)

1822年
日本の旗 日本 武蔵国多摩郡上椚田村字落合
死没 1886年11月??
日本の旗 日本 神奈川県南多摩郡浅川村字落合
別名 大瀬の半五郎 (おおせのはんごろう)
職業 侠客博徒
活動拠点 清水湊
親戚 持田ツネ (孫)
持田治郎 (孫の夫)
鈴木幸雄 (鈴木家8代目)
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関東綱五郎(かんとうつなごろう、1822年 - 1886年11月)は、日本の侠客である[1][2][3][4][5]村上元三小説次郎長三国志』に同名で登場[1][2]清水次郎長配下の「清水二十八人衆」に数えられる大瀬の半五郎(おおせのはんごろう)[6]と同一人物であるとされる[4][7][8][9]。本名は鈴木 綱五郎(すずき つなごろう)、出生名は鈴木 綱之助(すずき つなのすけ)[3][4]関東の綱五郎(かんとうのつなごろう)とも。

人物・来歴

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1822年(文政5年)、武蔵国多摩郡上椚田村字落合(現在の東京都八王子市高尾町1915番地)に八王子千人同心を務める鈴木惣七の息子、つまり鈴木家の6代目・綱之助として生まれる[3][4]。先祖は甲斐国にあったが、甲州征伐による1582年4月3日(天正10年3月11日)の武田氏滅亡に際して、同地に移住したとされる[3]甲州街道(現在の国道20号)に面して、その生家は立地した[5]

八王子市に残る綱五郎の墓碑銘によると、数え年19歳のときにあたる1840年(天保11年)に出奔し、上野国(現在の群馬県)を経て各地を遍歴し、駿河国清水湊(現在の静岡県静岡市清水区港町)に流れ着いたという[4]。山本鉄眉(天田愚庵、1854年 - 1904年)が次郎長に聞き書きし、次郎長の生前に上梓した『東海遊侠伝』(1884年)には、第十二回『笠砥高市両党争威 荒神激闘二魁殞命』(笠砥の高市に両党威を争い荒神の激闘に二魁命を殞す)という章があり、綱五郎がかつて「半五郎」だったころ、江戸にいて遊郭に遊んでいたが、ある娼妓が綱五郎が粗野なのが嫌で雑に扱ったところ、綱五郎は拳銃を懐に入れて店に現れて娼妓を射殺、駿河国へと逃亡、やがて次郎長一家に入ったという略歴を伝えている[7][8]。次郎長とは2歳しか年齢が変わらず、大政よりも10歳年長であった。

1866年5月22日(慶応2年4月8日)、伊勢国荒神山(現在の三重県鈴鹿市高塚町観音寺)で勃発した「荒神山の喧嘩」では、大政が率いる本隊に対する別働隊として、綱五郎は甲斐国八代郡上黒駒村黒駒勝蔵(1832年 - 1871年)らを制圧するために隊を組んで甲斐・信濃へ転戦しており、この2隊が三河国幡豆郡寺津村(現在の愛知県西尾市寺津町)で合流し、吉良の仁吉を先頭に荒神山へ向かったという[10][11]。荒神山では、黒駒勝蔵一家・穴太徳一家の連合軍と戦闘、仁吉を失ったものの、勝利を収めた[10][11]


明治維新後の1871年(明治4年)に行われた荒神山の手打式の終了直後に撮影された清水一家の集合写真には、「大瀬の半五郎」として写っている[12]。この時点ですでに満49歳である[3][4]。その後、間もなく清水一家を離れ、故郷に戻る[3][5]。1872年12月21日(明治5年11月21日)、鈴木家の菩提寺である真言宗正名山大光寺(現在の八王子市初沢町)の庫裏が消失したため[13]、1877年(明治10年)前後に家屋(約45総欅造)を同寺に寄贈、同寺の庫裏として、2015年(平成27年)現在も使用されている[3][13][14]。郷里の浅川村字落合では、多くの乾分を養って「任侠の士」として慕われたという[4]

1886年(明治19年)11月、神奈川県南多摩郡浅川村字落合(生地と同じ)で死去した[3]。満64歳没。

『東海遊侠伝』は、綱五郎の亡くなる2年前である1884年(明治17年)、次郎長の生前に上梓されている[15]。次郎長が死去したのは、綱五郎の没後7年を経た1893年(明治26年)6月12日、満73歳であった[11]。綱五郎の墓所は落合山にあったが、のちに1977年(昭和52年)3月27日、妻セキ(1901年没)の菩提とともに大光寺境内に移された[3][4]。同年7月13日、旧来の墓所に綱五郎の実孫である持田ツネ、その夫である持田治郎(1901年 - 1984年)、鈴木家8代目に当たる鈴木幸雄の連名で「関東綱五郎墓之跡」の石碑が建立された[3]。持田治郎は、1960年(昭和35年)7月、社会運動家講談師大谷竹雄(1911年 - 1997年[16])の著書『関東綱五郎の生涯』を小島政二郎の監修を受けて、出版した[17]

大瀬半五郎別人説

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次郎長の生前に上梓された『東海遊侠伝』に「綱五郎、武州の産、初め半五郎と称す」とあり、関東綱五郎は大瀬半五郎であるとみなされているが[7][8]藤田五郎によれば、埼玉県八潮市伊勢野伊勢野天満宮の敷地にある光明寺跡墓地に「侠客大瀬半五郎之墓」があるという[18]。これは、1970年(昭和45年)4月、初代八潮村長であり埼玉県議会議員であった恩田理三郎(1904年 - 1991年)が建立したものである[18]。藤田によれば、「大瀬半五郎」は通称であり本名は大作 半五郎(おおさく はんごろう)といい、縁故者の大作信喜がその墓の荒廃を嘆いており、私財を投じて再建されたものであるという[18]。半五郎の略歴については峯岸光太郎が調査した記録を墓所のある真言宗豊山派光明寺に収めたが、同寺は墓所再建後、1981年(昭和56年)3月末日までのある時期に廃された[18]。同寺跡の近辺に「大瀬」(おおぜ)という地名が残っている[19]

別人ではなく同一人物であるとするものの、出身を前述の墓所のある地域にする例もある。佃實夫は「大瀬綱五郎は、もとの名を半五郎といい、のち関東綱五郎」と書いているが、その出身地を武蔵国埼玉郡伊勢野村(現在の埼玉県八潮市伊勢野)とする[9]。佃は「隣村大瀬の博徒を斬ったので、人呼んで大瀬の半五郎」と由来を書く[9]。『次郎長三国志』の村上元三は、三代目神田伯山の創作による講談を評して「大瀬の半五郎の件りなど、うまく出来ているが、次郎長の乾分の中には大瀬の半五郎というのはいない。関東綱五郎という乾分がそのモデル」と断定している[20]。小説『関東綱五郎』(1926年)を書いた長谷川伸は「関東綱五郎」を仮名、「大咲 半五郎」(おおさく はんごろう)を本名とし、1881年(明治14年)に伊勢野で病死したとする[21]。長谷川は享年36としており、1846年(弘化3年)生まれとみていることになる[21]。『架空人名辞典 日本編』は、実在するとされている吉良の仁吉、森の石松も掲載しているが、「大瀬半五郎」の項目もあり、別名を「関東綱五郎」として同一視しているが、「江戸神田淡路町の人、鉄砲鍛冶の息子」と記載している[22]

フィクションの人物像

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次郎長三国志』(1963年)のスチル写真、左から2番目が松方弘樹の演じる関東綱五郎。

史実において関東綱五郎あるいは大瀬半五郎が「清水二十八人衆」であった時代は、正確には伝えられていないが、1864年以前のある時期から1871年までの時期であったことは明らかである。そもそも「清水二十八人衆」には架空の人物も数えられており、講談師の三代目神田伯山(1872年 - 1932年)の創作であるとされる[23]。三代目伯山の挙げる「清水二十八人衆」での綱五郎は「大瀬の半五郎」と表記され[6]、村上元三の小説『次郎長三国志』では「関東綱五郎」と表記される[1]。『架空人名辞典 日本編』では、「大瀬半五郎」を別名「関東綱五郎」、清水次郎長を親分、大政、小政、森の石松、吉良の仁吉を仲間、黒駒の勝蔵を敵と定義している[22]。「次郎長がまだ駆け出しだった頃、二人目の子分として盃をもらった」とする[22]。同書では「大瀬」を姓であるとする[22]

マキノ雅弘の代表作とされる映画『次郎長三国志』(東宝、1952年 - 1954年)、『次郎長三国志』(東映、1963年 - 1965年)の2つのシリーズでは[24][25]、それぞれ森健二松方弘樹(第4作のみ曽根晴美)が演じている[25]。映画『次郎長三国志』は、村上元三の同名の小説を原作にしており、第1章『桶屋の鬼吉』に始まり、『東海遊侠伝』を書いた天田愚庵(1854年 - 1904年)を描く第22章『天田五郞』、講談『名も高き富士の山本』を創作した三代目神田伯山を描く第23章『神田伯山』で終わる、全23章で構成される同作において、綱五郎を描く『關東綱五郞』は鬼吉に次ぐ第2章に当たる[2]。東宝版・東映版ともに第1作から登場し、桶屋の鬼吉(1813年 - 1887年)に次いで、次郎長第二の乾分になる設定である[26][27]

「酒飲みねえ、すし食いねえ、江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」で知られる二代目広沢虎造浪曲『石松三十石船道中』の原型は、三代目神田伯山の創作である[28]。江戸っ子が石松に対し、清水一家で一番強いのは「大政、小政、大瀬半五郎、増川仙右衛門、法印大五郎、追分三五郎…」と挙げていくなかで、綱五郎は「大瀬半五郎」として、大政・小政に次いで3番目に登場、「三番目は千住草加の在の村役人の倅、大瀬半五郎だね」と語られる[23]。16人挙げたところで、大瀬の次に石松を失念していたことを忘れていたことを思い出す、という筋である[23]。このくだりのあった時期は、設定では「文久2年の3月半ば」、つまりグレゴリオ暦では1862年4月13日前後に当たり、史実においては、綱五郎は40歳前後の時期であるが、石松は2年前にすでに死んでいる時期である[29]。「千住草加の在」という表現がされているが、千住宿草加宿はそれぞれ、日光街道および奥州街道の第一、第二の宿場であり、同一の地域ではない。二代目虎造の浪曲『清水次郎長伝 大瀬半五郎』で知られる。

フィルモグラフィ

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「関東綱五郎」あるいは「大瀬半五郎」が登場するおもな劇場用映画テレビ映画の一覧である[30][31][32][33][34]。公開日の右側には、「綱五郎(次郎長)」の形式で綱五郎を演じた俳優名とともに、次郎長を演じた俳優も記し、綱五郎・半五郎が重複して登場する作品はその順で記した。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、デジタル・ミーム等での所蔵状況も記した[30][35]

  • 続次郎長富士』 : 監督森一生、脚本八尋不二、製作大映京都撮影所、配給大映、1960年6月1日公開(映倫番号 12027) - 舟木洋一(長谷川一夫)
  • 清水港に来た男』 : 監督マキノ雅弘、脚本小国英雄、製作東映京都撮影所、配給東映、1960年7月31日公開(映倫番号 11989) - 月形哲之介(大河内傳次郎)、91分の上映用プリントをNFCが所蔵
  • 東海一の若親分』 : 監督マキノ雅弘、脚本マキノ雅弘・小野竜之助、製作東映京都撮影所、配給東映、1961年6月21日(映倫番号 12328) - 渥美清中村錦之助)、93分の上映用プリントをNFCが所蔵
  • 若き日の次郎長 東海道のつむじ風』 : 監督マキノ雅弘、脚本小野竜之助、製作東映京都撮影所、配給東映、1962年1月3日公開(映倫番号 12635) - 渥美清(中村錦之助)、89分の上映用プリントをNFCが所蔵
  • 次郎長三国志』 : 監督マキノ雅弘、原作村上元三、脚本マキノ雅弘・山内鉄也、製作東映京都撮影所、配給東映、1963年10月20日公開(映倫番号 13343) - 松方弘樹鶴田浩二
  • 続 次郎長三国志』 : 監督マキノ雅弘、原作村上元三、脚本マキノ雅弘・山内鉄也、製作東映京都撮影所、配給東映、1963年11月10日公開(映倫番号 13344) - 松方弘樹(鶴田浩二)、90分の上映用プリントをNFCが所蔵
  • 次郎長三国志 第三部』 : 監督マキノ雅弘、原作村上元三、脚本マキノ雅弘・山内鉄也、製作東映京都撮影所、配給東映、1964年2月8日公開(映倫番号 13476) - 松方弘樹(鶴田浩二)、94分の上映用プリントをNFCが所蔵
  • 次郎長三国志 甲州路殴り込み』 : 監督マキノ雅弘、原作村上元三、脚本マキノ雅弘・山内鉄也、製作東映京都撮影所、配給東映、1965年8月25日公開(映倫番号 14073) - 曽根晴美(鶴田浩二)、90分の上映用プリントをNFCが所蔵
  • クレージーの無責任清水港』 : 監督坪島孝、脚本小国英雄、製作東宝・渡辺プロダクション、配給東宝、1966年1月3日公開(映倫番号 14274) - 関田裕土屋嘉男ハナ肇
  • 次郎長三国志』 : 原作村上元三、1968年4月7日 - 同年9月29日放映(連続テレビ映画・全26回) - 入川保則中野誠也

脚注

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  1. ^ a b c 村上[1953], p.37-60.
  2. ^ a b c 次郎長三国志+村上元三、国立国会図書館、2015年8月5日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j 関東綱五郎墓之跡、持田ツネ・鈴木幸雄・持田治郎、1977年7月13日付、2015年8月5日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h 綱五郎墓1綱五郎墓2、2015年8月5日閲覧。
  5. ^ a b c 侠客関東綱五郎住宅跡、持田治郎・持田ツネ、2015年8月5日閲覧。
  6. ^ a b 清水次郎長の二十八人衆を知りたい国立国会図書館、2015年8月5日閲覧。
  7. ^ a b c 山本[1884], p.132.
  8. ^ a b c 愚庵[1904], p.65.
  9. ^ a b c [1972], p.315.
  10. ^ a b 今川[1971], p.171-178.
  11. ^ a b c 清水次郎長、コトバンク、2015年8月5日閲覧。
  12. ^ [1]ウィキメディア・コモンズ、2015年8月5日閲覧。
  13. ^ a b 縁起真言宗正名山大光寺、2015年8月5日閲覧。
  14. ^ 境内案内、真言宗正名山大光寺、2015年8月5日閲覧。
  15. ^ 東海遊侠伝山本鉄眉近代デジタルライブラリー国立国会図書館、2015年8月5日閲覧。
  16. ^ 大谷竹山、コトバンク、2015年8月5日閲覧。
  17. ^ 関東綱五郎の生涯、国立国会図書館、2015年8月5日閲覧。
  18. ^ a b c d 藤田[1983], p.400.
  19. ^ 埼玉県八潮市大瀬、コトバンク、2015年8月5日閲覧。
  20. ^ 村上[1977], p.215.
  21. ^ a b 長谷川[1971], p.268.
  22. ^ a b c d 架空[1989], p.132, 290, 805.
  23. ^ a b c 足立[1967], p.209.
  24. ^ 次郎長三国志、コトバンク、2015年8月5日閲覧。
  25. ^ a b 次郎長三国志KINENOTE, 2015年8月5日閲覧。
  26. ^ 次郎長三国志 第一部 次郎長売出す - KINENOTE, 2015年8月5日閲覧。
  27. ^ 次郎長三国志 - KINENOTE, 2015年8月5日閲覧。
  28. ^ 森の石松はどのように創られたか田村貞雄、『次郎長』第27号、次郎長翁を知る会、2015年8月5日閲覧。
  29. ^ 笹川[1936], p.236, 262.
  30. ^ a b 所蔵映画フィルム検索システム検索結果、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年8月5日閲覧。
  31. ^ 日本映画情報システム検索結果、文化庁、2015年8月5日閲覧。
  32. ^ KINENOTE検索結果、キネマ旬報社、2015年8月5日閲覧。
  33. ^ 日本映画データベース検索結果、日本映画データベース、2015年8月5日閲覧。
  34. ^ 日活作品データベース検索結果、日活、2015年8月5日閲覧。
  35. ^ フィルムリスト検索結果、デジタル・ミーム、2015年8月5日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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