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針生一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

針生 一郎(はりう いちろう、1925年12月1日 - 2010年5月26日)は、日本美術評論家文芸評論家和光大学名誉教授。映画プロデューサー針生宏は弟。

人物

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宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院美学を学ぶ。

大学院在学中、岡本太郎花田清輝安部公房らの「夜の会」に参加。1953年、軍国少年だったことへの反省から日本共産党に入党したが、1961年60年安保闘争時の時の共産党の指導方針を批判して除名される。

反権威的な美術評論・文芸評論で活躍、日本藝術院批判の急先鋒でもあった。1970年大阪万博に反対。第三世界にも目を向けた活動を行った。

1974年4月、朴正熙の独裁政権に反対するデモを起こした大学生らのうち180人が拘束される「民青学連事件」が発生[1][2]。7月16日までに、金芝河ら14人に死刑、15人に無期懲役、日本人の太刀川正樹と早川嘉春を含む26人に懲役15年から20年の刑が科せられた[3][4]。7月21日に金の死刑は無期懲役に減刑されるも[5]、針生、金達寿鶴見俊輔李進熙ら4人は「金芝河氏ら全被告を釈放せよ」と抗議し、7月27日から30日にかけて数寄屋橋公園でハンガー・ストライキを行った[4][6][7]

新日本文学会の活動に積極的に参加し、2005年の会の解散時には議長の任にあたっていた。

国際美術展などのプランナーとしても活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ1977年1979年)のコミッショナーを務め、2000年には、韓国で開催された光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2002年、自由な作品発表・批評の場として来場者による参加型のアートスポット「芸術キャバレー」(主催:JAALA海外交流部)を設立、戦争と芸術のテーマで連続講座を開催するなど積極的な活動を行う。

また、ドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』(大浦信行監督:2005年)へ出演し、話題となった。

多摩美術大学教授、和光大学教授、岡山県立大学大学院教授などを歴任。美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長なども務めた。

2010年5月26日川崎市で急性心不全により逝去(享年84)。

職歴

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著書

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編著

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翻訳

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映画出演

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  • 『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男。』(2001年)監督:大浦信行
  • 『17歳の風景——少年は何を見たのか』(2005年)監督:若松孝二

脚注

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  1. ^ 恩地洋介 (2022年7月29日). “故・金芝河さん(韓国の詩人) 独裁と闘った「抵抗詩人」”. 日本経済新聞. 2024年12月24日閲覧。
  2. ^ キム・ミヒャン (2018年12月10日). “白基玩・張俊河…民青学連裁判記録、45年ぶり公開”. ハンギョレ新聞. 2024年12月29日閲覧。
  3. ^ 『朝日新聞』1974年7月17日付朝刊、19面、「韓国軍法会議の判決に 抗議行動広がる 東京ではハンスト 国際連帯も」。
  4. ^ a b 金芝河 著、金芝河刊行委員会 訳『苦行 獄中におけるわが闘い』中央公論社、1978年9月30日、660-670頁。 
  5. ^ 『コリア評論』1974年10月号、コリア評論社、57-60頁、「韓国日誌」。
  6. ^ 中島健蔵『回想の文学 1』平凡社、1977年5月25日、8-9頁。 
  7. ^ 「民族詩人金芝河(キムジハ)の夕べ」における金達寿の所感(音声)”. 神奈川近代文学館 (2021年1月21日). 2024年12月24日閲覧。

参考文献

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  • 特集「針生一郎」『Bien(美庵)』Vol.18、藝術出版社、2002年
編集部取材記事(誌上企画展・仕事検証)、映画「日本心中」監督・大浦信行インタビュー、椹木野衣論考「グローバリズムに相対する批評—針生一郎活動“再開”の突破口」、針生一郎の盟友による一口コメント(山口勝弘鶴見俊輔堀浩哉鵜飼哲矢野純一守谷訓光菊畑茂久馬磯崎新重岡依里福田恒太いいだもも) http://web-bien.art.coocan.jp/bien-backnumber.html

外部リンク

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