野溝甚四郎
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野溝 甚四郎 | |
---|---|
生誕 |
1852年8月5日 日本豊後国岡藩竹田茶屋の辻 (現:大分県竹田市) |
死没 |
1928年9月24日(76歳没) 日本大分県別府市 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1876年 - 1912年 |
最終階級 | 陸軍大佐 |
戦闘 |
西南戦争 日清戦争 日露戦争 |
子女 |
野溝弐彦(三男) 野溝七生子(次女) |
親族 | 野溝自然斎(父) |
野溝 甚四郎(のみぞ じんしろう、1852年8月5日〈嘉永5年6月20日〉 - 1928年〈昭和3年〉9月24日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍歩兵大佐。正五位勲三等功四級。
経歴
[編集]- 1852年8月5日(嘉永5年6月20日)、豊後国岡藩竹田茶屋の辻(現・大分県竹田市茶屋の辻)で岡藩士の父・野溝自然斎の長男として生まれる。甚四郎の父は、広瀬重武などと共に岡藩の代表的な勤王家であり、藩校の由学館頭取や武道修練所の経武館塾頭などを勤めた[1][2]。
- 1876年(明治9年) 少尉試補に任官し歩兵第12連隊第二大隊第三中隊に配属される[3]。
- 1887年(明治20年)4月27日 歩兵大尉任官[4]。同28日 歩兵第12連隊第2大隊中隊長[5]。
- 1888年(明治21年)7月6日 歩兵第10連隊第一中隊長[6]
- 1895年(明治28年)10月14日 歩兵少佐に任官[7]。同日 占領地総督部兵站司令官[8]
- 1896年(明治29年)3月1日 歩兵第10連隊附[9]
- 1897年(明治30年)10月11日 歩兵第40連隊第二大隊長[10]
- 1899年(明治32年)6月8日 台湾守備歩兵第十大隊長[11]
- 1900年(明治33年)5月9日 歩兵第35連隊第一大隊長[12]
- 1902年(明治35年)9月30日 歩兵中佐に任官。 同日 金沢連隊区司令官[13]
- 1904年(明治37年)9月5日 旅順攻略戦で前任の大内守静歩兵大佐が戦死したため歩兵第7連隊長に就任[14][15]。
- 1905年(明治38年)3月7日 奉天会戦にて転湾橋と造化屯を攻撃中に負傷、『野溝連隊の苦戦』と報じられる程の戦闘であった[1]。5月2日 歩兵大佐に任官[16]。
- 1906年(明治39年)2月19日 第9師団司令部附[17]
- 1907年(明治40年)3月2日 予備役[19]
- 1912年(明治45年)4月10日 退役[20]
- 1928年(昭和3年)8月5日 病死[1]
栄典
[編集]位階
[編集]勲章
[編集]家族親族
[編集]特記のない場合『旧岡藩勤王家略伝』による[2]
- 父:野溝自然斎(岡藩士)
- 子女
- 兄弟
- 弟:嬰 秀親(僧侶) 靖𥪮 三宮虎六 近士 吾作
- 妹:シン スマ キヨウ
脚注
[編集]- ^ a b c d 『緒方町誌 続 第2編』緒方町、1958年、259頁。doi:10.11501/3041845 。
- ^ a b 『旧岡藩勤王家略伝 : 主トシテ義挙に参加シタル勤王家』竹田町教育会、昭和15、49-50頁。doi:10.11501/1094352 。
- ^ 『陸軍省官員録 明治9年6−12月』陸軍省、明治9年。doi:10.11501/780367 。
- ^ 『官報 1887年5月2日』大蔵省印刷局、1887年5月2日、2頁。doi:10.11501/2944383 。
- ^ 『官報 1887年5月5日』大蔵省印刷局、1887年5月5日、41頁。doi:10.11501/2944386 。
- ^ 『官報 1888年7月11日』大蔵省印刷局、1888年7月11日、97頁。doi:10.11501/2944747 。
- ^ 『官報 1895年10月19日』大蔵省印刷局、1895年10月19日、253頁。doi:10.11501/2946968 。
- ^ 『官報 官報 1895年10月22日』大蔵省印刷局、1895年10月22日、301頁。doi:10.11501/2946970 。
- ^ 『官報 1896年3月10日』大蔵省印刷局、1896年3月10日、137頁。doi:10.11501/2947084 。
- ^ 『官報 1897年10月12日』大蔵省印刷局、1897年10月12日、156頁。doi:10.11501/2947572 。
- ^ 『官報 1899年6月8日』大蔵省印刷局、1899年6月8日、126頁。doi:10.11501/2948070 。
- ^ 『官報 1900年5月11日』大蔵省印刷局、1900年5月11日、154頁。doi:10.11501/2948348 。
- ^ 『官報 1902年10月1日』大蔵省印刷局、1902年10月1日、2-3頁。doi:10.11501/2949077 。
- ^ 『旅順要塞戦史』豊川堂、明39.3、110頁。doi:10.11501/774540 。
- ^ 『歩兵第七聯隊史 : 附・下士優遇及志願心得』帝国聯隊史刊行会、大正7。doi:10.11501/941893 。
- ^ 『官報 1905年5月3日』大蔵省印刷局、1905年5月3日、95頁。doi:10.11501/2949881 。
- ^ 『官報 1906年2月20日』大蔵省印刷局、1906年2月20日、804頁。doi:10.11501/2950129 。
- ^ 『官報 1906年3月15日』大蔵省印刷局、1906年3月15日、471頁。doi:10.11501/2950149 。
- ^ 『官報 1907年3月4日』大蔵省印刷局、1907年3月4日、55頁。doi:10.11501/2950445 。
- ^ 『官報 1912年4月10日』大蔵省印刷局、1912年4月10日、259頁。doi:10.11501/2951996 。
- ^ 『官報 1900年2月12日』大蔵省印刷局、1900年2月12日、156頁。doi:10.11501/2948273 。
- ^ 『官報 1905年4月6日』大蔵省印刷局、1905年4月6日、173頁。doi:10.11501/2949858 。
- ^ 『官報 1907年5月11日』大蔵省印刷局、1907年5月11日、300頁。doi:10.11501/2950503 。
- ^ 『官報 1886年7月9日』大蔵省印刷局、1886年7月9日、90頁。doi:10.11501/2944126 。
- ^ 『官報 1896年2月25日』大蔵省印刷局、1896年2月25日、490頁。doi:10.11501/2947072 。
- ^ 『官報 1903年11月28日』大蔵省印刷局、1903年11月28日、513頁。doi:10.11501/2949432 。