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酒泉竹軒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
酒泉 竹軒
時代 江戸時代中期
生誕 承応3年(1654年
死没 享保3年5月25日1718年6月23日
改名 酒泉忠之進[1]、彦左衛門、彦大夫
別名 字:道甫・恵廸、諱:弘[2]、号:如達・天録[3]・小魯庵・水酉白水子[4]
墓所 江戸小石川見樹院、水戸常磐共有墓地
官位正五位
主君 徳川光圀綱条
水戸藩
氏族 姓堤氏、酒泉氏
父母 堤正直、栗野氏
兄弟 池田勝久
馬瀬氏、吉川氏
酒泉輝
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酒泉 竹軒(さかいずみ ちくけん)は江戸時代儒学者筑前国福岡出身。水戸藩彰考館総裁。酒泉氏始祖。『大日本史』編纂者の一人。書道、篆刻、中国語にも通じた。

経歴

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遊学

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承応3年(1654年)[3]筑前国警固[5]浪人堤正直の2男1女の子として生まれた[6]。6歳で父と死別し、母栗野氏に育てられた[6]。9歳で平田某に書を学んだ[6]

寛文10年(1670年)江戸に出て、前橋藩酒井忠清藤堂和泉守等と接触した[7]

延宝5年(1677年)頃長崎に出て[8]唐通事本木家に滞在し、病気の治療を受けつつ[9]、周麟に書道を学んで同門今井元昌と交流し[10]人に中国語唐様書道を学び[9]、唐通事彭城仁左衛門仁右衛門深見玄岱等と交流した[8]

数年後京都に上り、貞享2年(1685年)4月9日小河茂介成材の紹介で伊藤仁斎に入門したが[1]、師は多忙で、生活の見通しも立たなかったため[11]、貞享3年(1686年)5月今井元昌と相談して江戸に出て[12]壬生藩三浦明敬に出仕した[13]村松藩堀直利鳥羽藩土井利益からも誘いがあったが、小藩のため断った[11]

水戸藩出仕

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元禄2年(1689年)今井元昌が水戸藩に出仕したのに続き[12]、元禄4年(1691年)9月15日佐々宗淳の推薦で水戸藩彰考館右筆となり、『大日本史』編纂に加わり[1]六国史を講読した[14]。元禄8年(1695年)12月26日大番組に入った[1]

元禄9年(1696年)9月5日から11月5日まで西山荘徳川光圀に近侍し[15]、『洪武正韻』研究を命じられ、『洪武聚分韻』編纂に着手した[16]

元禄11年(1698年)1月25日水戸彰考館設置に伴い水戸に赴任し、元禄12年(1699年)7月28日総裁となった[1]。元禄13年(1700年)12月1日小納戸役[17]。同月光圀が死去し、元禄14年(1701年)『義公行実』編纂に関わった[18]。元禄15年(1702年)11月通称を彦左衛門から彦大夫に改めた[19]

宝永4年(1707年)2月28日江戸彰考館総裁となり、宝永5年(1708年)1月11日小姓頭を兼ねた[17]。宝永7年(1710年)9月徳川綱吉死去を受けて常憲院霊廟の銅灯を手配した[20]正徳元年(1711年)朝鮮通信使の応接に関わった[21]。正徳5年(1715年)『大日本史』本紀列伝が完成すると、類と本紀・列伝続編(北朝分)の編纂を建白したが、打越樸斎神代鶴洞藤田東湖等の反対に遭った[22]

死去

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享保2年(1717年)1月16日徳川綱条への講経を終えた直後、中風で倒れ、左半身が麻痺した[17]。数日後小石川馬場火事で自宅を焼け出され、中里村に避難した[2]

享保3年(1718年)5月25日小石川壱岐坂の自邸千秋室で死去し、27日伝通院末見樹院に葬られた[17]。享保9年(1724年)11月養子輝により墓が建てられた[17]

大正4年(1915年)、正五位を追贈された[23]

著書

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  • 「江都聞見録」 - 寛文10年(1670年)江戸に出た時の見聞記[24]
  • 『竹軒遺集』[17]享保年間成立[25]
  • 『竹軒外集』 - 享保年間成立[26]
  • 『竹軒遺稿』 - 明治24年(1891年)酒泉彦太郎[27]
    • 「言志集」 – 元禄元年(1688年)成立[28]
    • 「象奎知源録」 - 長崎時代の作。漢字の書体の由来を検討する[29]
    • 「明語要録」 - 長崎時代の作。中国語の単語帳[9]
    • 「助語考」 - 長崎時代の作。中国語の助辞の用例集[4]
    • 「達而和名」 - 京都時代の作。中国語の単語を検討して、日本語での用例と比較する[4]
    • 「巳年中留書」 - 正徳3年(1713年)成立[30]
  • 「犬吠集」[31]
  • 「切磋集」[32]
  • 二十二社奉幣考」[33]

大日本史』では列伝のうち平敦盛経盛平清盛伊東祐親祐清祐経平将門藤原純友分を自撰した[34]

門人

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家族

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先祖は肥前国松浦郡出身で、姓堤氏を称した[2]

  • 曽祖父:堤大隅守 – 幼名は泉次郎[2]肥後国に移った[2]
  • 祖父:堤大隅[2]
  • 父:堤徳左衛門正直 – 号は恵山[2]・宗春[3]筑前国に移った[2]
  • 母:栗野氏[2]元禄10年(1697年)病没[21]
  • 弟:堤藤三郎勝久 – 祖母の実家池田氏を継いだ[17]
  • 先妻:馬瀬氏[2]
  • 後妻:吉川氏[2]
  • 子:石(?)松 – 9歳で没[2]
  • 娘3人 - 皆夭折した[2]
  • 養子:酒泉文蔵輝 – 弟勝久の子[17]

脚注

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  1. ^ a b c d e 吉田 1965, p. 381.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 行状.
  3. ^ a b c 久野 1983, p. 59.
  4. ^ a b c 久野 1983, p. 61.
  5. ^ 吉田 1965, p. 383.
  6. ^ a b c 吉田 1965, p. 380.
  7. ^ 倉員 1996, pp. 50–51.
  8. ^ a b 倉員 1997, p. 31.
  9. ^ a b c 久野 1983, pp. 60–61.
  10. ^ 倉員 1997, p. 39.
  11. ^ a b 倉員 1997, p. 32.
  12. ^ a b 久野 1983, p. 58.
  13. ^ 倉員 1996, p. 50.
  14. ^ 久野 1983, pp. 58–59.
  15. ^ 吉田 1965, p. 384.
  16. ^ 倉員 1997, p. 33.
  17. ^ a b c d e f g h 吉田 1965, p. 382.
  18. ^ 久野 1983, p. 62.
  19. ^ 吉田 1965, p. 389.
  20. ^ 久野 1983, p. 64.
  21. ^ a b 倉員 1996, p. 55.
  22. ^ 久野 1983, pp. 63–64.
  23. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.36
  24. ^ 倉員 1996.
  25. ^ 竹軒遺集 – 日本古典籍総合目録データベース
  26. ^ 竹軒外集 – 日本古典籍総合目録データベース
  27. ^ 久野 1983, p. 65.
  28. ^ 言志集 – 日本古典籍総合目録データベース
  29. ^ 久野 1983, p. 60.
  30. ^ 久野 1983, p. 63.
  31. ^ 犬吠集 – 日本古典籍総合目録データベース
  32. ^ 切磋集 – 日本古典籍総合目録データベース
  33. ^ 二十二社奉幣考 – 日本古典籍総合目録データベース
  34. ^ 吉田 1965, pp. 388–389.
  35. ^ 久野 1983, p. 57.

参考文献

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  • 中島通軒「竹軒先生酒泉氏行状」『耆旧得聞附録』 巻六、享保3年(1718年)9月。 NDLJP:2560388/26
  • 吉田一徳「酒泉彦太夫弘と紀伝脱稿呈覧」『大日本史紀伝志表撰者考』風間書房、1965年3月。 
  • 久野勝弥「竹軒酒泉弘」『水戸史学』第18号、水戸史学会、1983年4月。 
  • 倉員正江「酒泉竹軒の江戸見聞記と「下馬将軍」像 ―翻刻 『江都聞見録』―」『近世文芸研究と評論』第51号、早大文学部谷脇研究室、1996年11月。 
  • 倉員正江「水戸藩儒酒泉竹軒と韻書『洪武聚分韻』の編纂 -書肆茨木多左衛門との関係に及ぶ-」『近世文藝』第66号、日本近世文学会、1997年7月。 

外部リンク

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