酒泉竹軒
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 承応3年(1654年) |
死没 | 享保3年5月25日(1718年6月23日) |
改名 | 酒泉忠之進[1]、彦左衛門、彦大夫 |
別名 | 字:道甫・恵廸、諱:弘[2]、号:如達・天録[3]・小魯庵・水酉白水子[4] |
墓所 | 江戸小石川見樹院、水戸常磐共有墓地 |
官位 | 贈正五位 |
主君 | 徳川光圀→綱条 |
藩 | 水戸藩 |
氏族 | 源姓堤氏、酒泉氏 |
父母 | 堤正直、栗野氏 |
兄弟 | 池田勝久 |
妻 | 馬瀬氏、吉川氏 |
子 | 酒泉輝 |
酒泉 竹軒(さかいずみ ちくけん)は江戸時代の儒学者。筑前国福岡出身。水戸藩彰考館総裁。酒泉氏始祖。『大日本史』編纂者の一人。書道、篆刻、中国語にも通じた。
経歴
[編集]遊学
[編集]承応3年(1654年)[3]筑前国警固に[5]浪人堤正直の2男1女の子として生まれた[6]。6歳で父と死別し、母栗野氏に育てられた[6]。9歳で平田某に書を学んだ[6]。
寛文10年(1670年)江戸に出て、前橋藩酒井忠清・藤堂和泉守等と接触した[7]。
延宝5年(1677年)頃長崎に出て[8]唐通事本木家に滞在し、病気の治療を受けつつ[9]、周麟に書道を学んで同門今井元昌と交流し[10]、清人に中国語・唐様書道を学び[9]、唐通事彭城仁左衛門・仁右衛門、深見玄岱等と交流した[8]。
数年後京都に上り、貞享2年(1685年)4月9日小河茂介成材の紹介で伊藤仁斎に入門したが[1]、師は多忙で、生活の見通しも立たなかったため[11]、貞享3年(1686年)5月今井元昌と相談して江戸に出て[12]、壬生藩三浦明敬に出仕した[13]。村松藩堀直利、鳥羽藩土井利益からも誘いがあったが、小藩のため断った[11]。
水戸藩出仕
[編集]元禄2年(1689年)今井元昌が水戸藩に出仕したのに続き[12]、元禄4年(1691年)9月15日佐々宗淳の推薦で水戸藩彰考館右筆となり、『大日本史』編纂に加わり[1]、六国史を講読した[14]。元禄8年(1695年)12月26日大番組に入った[1]。
元禄9年(1696年)9月5日から11月5日まで西山荘で徳川光圀に近侍し[15]、『洪武正韻』研究を命じられ、『洪武聚分韻』編纂に着手した[16]。
元禄11年(1698年)1月25日水戸彰考館設置に伴い水戸に赴任し、元禄12年(1699年)7月28日総裁となった[1]。元禄13年(1700年)12月1日小納戸役[17]。同月光圀が死去し、元禄14年(1701年)『義公行実』編纂に関わった[18]。元禄15年(1702年)11月通称を彦左衛門から彦大夫に改めた[19]。
宝永4年(1707年)2月28日江戸彰考館総裁となり、宝永5年(1708年)1月11日小姓頭を兼ねた[17]。宝永7年(1710年)9月徳川綱吉死去を受けて常憲院霊廟の銅灯を手配した[20]。正徳元年(1711年)朝鮮通信使の応接に関わった[21]。正徳5年(1715年)『大日本史』本紀・列伝が完成すると、志類と本紀・列伝続編(北朝分)の編纂を建白したが、打越樸斎・神代鶴洞・藤田東湖等の反対に遭った[22]。
死去
[編集]享保2年(1717年)1月16日徳川綱条への講経を終えた直後、中風で倒れ、左半身が麻痺した[17]。数日後小石川馬場火事で自宅を焼け出され、中里村に避難した[2]。
享保3年(1718年)5月25日小石川壱岐坂の自邸千秋室で死去し、27日伝通院末見樹院に葬られた[17]。享保9年(1724年)11月養子輝により墓が建てられた[17]。
著書
[編集]- 「江都聞見録」 - 寛文10年(1670年)江戸に出た時の見聞記[24]。
- 『竹軒遺集』[17] – 享保年間成立[25]。
- 『竹軒外集』 - 享保年間成立[26]。
- 『竹軒遺稿』 - 明治24年(1891年)酒泉彦太郎編[27]。
- 「犬吠集」[31]
- 「切磋集」[32]
- 「二十二社奉幣考」[33]
『大日本史』では列伝のうち平敦盛・経盛、平清盛、伊東祐親・祐清・祐経、平将門・藤原純友分を自撰した[34]。
門人
[編集]家族
[編集]- 曽祖父:堤大隅守 – 幼名は泉次郎[2]。肥後国に移った[2]。
- 祖父:堤大隅[2]
- 父:堤徳左衛門正直 – 号は恵山[2]・宗春[3]。筑前国に移った[2]。
- 母:栗野氏[2] – 元禄10年(1697年)病没[21]。
- 弟:堤藤三郎勝久 – 祖母の実家池田氏を継いだ[17]。
- 先妻:馬瀬氏[2]
- 後妻:吉川氏[2]
- 子:石(?)松 – 9歳で没[2]。
- 娘3人 - 皆夭折した[2]。
- 養子:酒泉文蔵輝 – 弟勝久の子[17]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e 吉田 1965, p. 381.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 行状.
- ^ a b c 久野 1983, p. 59.
- ^ a b c 久野 1983, p. 61.
- ^ 吉田 1965, p. 383.
- ^ a b c 吉田 1965, p. 380.
- ^ 倉員 1996, pp. 50–51.
- ^ a b 倉員 1997, p. 31.
- ^ a b c 久野 1983, pp. 60–61.
- ^ 倉員 1997, p. 39.
- ^ a b 倉員 1997, p. 32.
- ^ a b 久野 1983, p. 58.
- ^ 倉員 1996, p. 50.
- ^ 久野 1983, pp. 58–59.
- ^ 吉田 1965, p. 384.
- ^ 倉員 1997, p. 33.
- ^ a b c d e f g h 吉田 1965, p. 382.
- ^ 久野 1983, p. 62.
- ^ 吉田 1965, p. 389.
- ^ 久野 1983, p. 64.
- ^ a b 倉員 1996, p. 55.
- ^ 久野 1983, pp. 63–64.
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.36
- ^ 倉員 1996.
- ^ 竹軒遺集 – 日本古典籍総合目録データベース
- ^ 竹軒外集 – 日本古典籍総合目録データベース
- ^ 久野 1983, p. 65.
- ^ 言志集 – 日本古典籍総合目録データベース
- ^ 久野 1983, p. 60.
- ^ 久野 1983, p. 63.
- ^ 犬吠集 – 日本古典籍総合目録データベース
- ^ 切磋集 – 日本古典籍総合目録データベース
- ^ 二十二社奉幣考 – 日本古典籍総合目録データベース
- ^ 吉田 1965, pp. 388–389.
- ^ 久野 1983, p. 57.
参考文献
[編集]- 中島通軒「竹軒先生酒泉氏行状」『耆旧得聞附録』 巻六、享保3年(1718年)9月。NDLJP:2560388/26
- 吉田一徳「酒泉彦太夫弘と紀伝脱稿呈覧」『大日本史紀伝志表撰者考』風間書房、1965年3月。
- 久野勝弥「竹軒酒泉弘」『水戸史学』第18号、水戸史学会、1983年4月。
- 倉員正江「酒泉竹軒の江戸見聞記と「下馬将軍」像 ―翻刻 『江都聞見録』―」『近世文芸研究と評論』第51号、早大文学部谷脇研究室、1996年11月。
- 倉員正江「水戸藩儒酒泉竹軒と韻書『洪武聚分韻』の編纂 -書肆茨木多左衛門との関係に及ぶ-」『近世文藝』第66号、日本近世文学会、1997年7月。
外部リンク
[編集]- 酒泉彦大夫事蹟 – 大正大礼贈位内申書巻二十七
- 伊東祐親附祐経祐清 . 曾我傳 - Google ブックス