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郭宝玉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

郭 宝玉(かく ほうぎょく、? - 1222年)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。字は玉臣。

概要

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モンゴルに仕えるまで

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華州鄭県の人で、唐代安史の乱鎮圧に活躍した郭子儀の末裔とされる[1]。天文・兵法に通じ、騎射を得意としたという。当初は金朝に仕えて汾陽郡公兼「猛安」とされ、定州に駐屯していた[2]

1210年庚午)、誕生したばかりのモンゴル帝国の脅威が広まっていた華北では、「揺々としてブグタグ至り、河南、閼氏を拝せん(揺揺罟罟、至河南、拝閼氏)」という俗謡が流行していた。郭宝玉は太白(金星)の異変を見て「モンゴル軍が南下して開封を降したならば、必ずや王朝は交代するだろうと」と嘆じたという。1211年辛未)、遂に南下を始めたモンゴル軍に対し、金朝は独吉思忠率いる宣徳行省軍を組織し北方に派遣した。しかし郭宝玉率いる部隊は烏沙堡の戦いにて大敗を喫し、郭宝玉は部隊を挙げてモンゴル軍に降ることになった[3]

郭宝玉を捕虜とした左翼万人隊長のムカリはその才能を見抜き、チンギス・カンに引見させた。チンギス・カンに謁見した郭宝玉は漢土平定の策略を進言し、これを受け容れたチンギス・カンによって5カ条の条例が制定されたという[4]

また、チンギス・カンが西蕃は天険の山城が多いと聞くがどう攻めるべきかと尋ねたとき、郭宝玉は「都市が天上にあるのならば取ることはできませんが、天上になければ、一度軍が至ればただちに奪取いたします」と答えたため、この言葉を壮としたチンギス・カンより「抄馬(Čaqmaq)都鎮撫」の称号を授けられた。1213年癸酉)にはムカリ軍に属して永清・高州を平定し、北京・龍山を下した。その後チャクマク軍を率いて錦州より燕南に出て、太原・平陽の諸州県を破った[5]

征西への従軍

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これによりモンゴル軍に属するようになった郭宝玉は、以後主に西方への遠征に起用されるようになった。1214年甲戌)には西遼を簒奪したナイマンクチュルク討伐軍に属し、首都フスオルド攻めに加わった。この時に戦闘で傷を負った郭宝玉は、牛の腹を割きその中に負傷ヶ所を入れるというモンゴル人独自の治療法を受けたことが記録されている[6][7]

傷が癒えた後はホラズム遠征にも従軍し、ビシュバリク城を経てシル河河畔に至った。シル河はホラズム軍との間に熾烈な戦闘が行われたが、郭宝玉の奮戦によって遂にこれを撃退した。敵軍を追ってサマルカンドに至ると、アム河では河中の敵舟に火矢を射かけ、水軍の敗走に乗じて河岸に布陣する5万の大軍も撃破した[8]

1221年辛巳)、モンゴル軍はインドに至った。深さ2丈にも至る大雪山に入った時、郭宝玉は山川の神々を封じたという[9]

晩年

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1222年壬午)3月には山川の神々を祀って崑崙山を玄極王に、大塩池を恵済王とした[10] その後も遼東地方への出兵に加わり、功により断事官(ジャルグチ)とされたが、最後には寧夏の賀蘭山にて死去した[10]。息子には郭徳海と郭徳山がおり、郭徳山は万戸として金朝の陝州・潼関攻めに活躍したことで知られている[11]

脚注

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  1. ^ 宮2018,604頁
  2. ^ 『元史』巻149列伝36郭宝玉伝,「郭宝玉字玉臣、華州鄭県人、唐中書令子儀之裔也。通天文・兵法、善騎射。金末、封汾陽郡公、兼猛安、引軍屯定州」
  3. ^ 『元史』巻149列伝36郭宝玉伝,「歳庚午、童謡曰『揺揺罟罟、至河南、拝閼氏』。既而太白経天、宝玉嘆曰『北軍南、汴梁即降、天改姓矣』。金人以独吉思忠・僕散揆行中書省、領兵築烏沙堡、会太師木華黎軍忽至、敗其兵三十餘万、思忠等走、宝玉挙軍降」
  4. ^ 『元史』巻149列伝36郭宝玉伝,「木華黎引見太祖、問取中原之策、宝玉対曰『中原勢大、不可忽也。西南諸蕃勇悍可用、宜先取之、藉以図金、必得志焉』。又言『建国之初、宜頒新令』。帝従之。於是頒条画五章、如出軍不得妄殺。刑獄惟重罪処死、其餘雑犯量情笞決。軍戸、蒙古・色目人毎丁起一軍、漢人有田四頃・人三丁者簽一軍。年十五以上成丁、六十破老、站戸与軍戸同。民匠限地一頃。僧道無益於国・有損於民者悉行禁止之類皆宝玉所陳也」
  5. ^ 『元史』巻149列伝36郭宝玉伝,「帝将伐西蕃、患其城多依山険、問宝玉攻取之策、対曰『使其城在天上、則不可取、如不在天上、至則取矣』。帝壮之、授抄馬都鎮撫。癸酉、従木華黎取永清、破高州、降北京・龍山、復帥抄馬従錦州出燕南、破太原・平陽諸州県」
  6. ^ 『元史』巻149列伝36郭宝玉伝,「甲戌、従帝討契丹遺族、歴古徐鬼国訛夷朶等城、破其兵三十餘万。宝玉胸中流矢、帝命剖牛腹置其中、少頃、乃蘇」
  7. ^ なお、『元史』の中では巻123布智児伝や巻162李庭伝などにも同様の治療法について言及されている(小林1972,260頁)
  8. ^ 『元史』巻149列伝36郭宝玉伝,「尋復戦、収別失八里・別失蘭等城。次忽章河、西人列両陣迎拒、戦方酣、宝玉望其衆、疾呼曰『西陣走矣』。其兵果走、追殺幾尽。進兵下撏思干城。次暗木河、敵築十餘塁、陳船河中、俄風濤暴起、宝玉令発火箭射其船、一時延焼、乗勝直前、破護岸兵五万、斬大将佐里、遂屠諸塁、収馬里四城」
  9. ^ 『元史』巻149列伝36郭宝玉伝,「辛巳、可弗叉国唯算端罕破乃満国、引兵拠撏思干、聞帝将至、棄城南走、入鉄門、屯大雪山、宝玉追之、遂奔印度。帝駐大雪山前、時谷中雪深二丈、宝玉請封山川神」
  10. ^ a b 小林1972,262頁
  11. ^ 『元史』巻149列伝36郭宝玉伝,「壬午三月、封崑崙山為玄極王、大塩池為恵済王。従柘柏・速不台二先鋒収契丹・渤海等諸国、有功、累遷断事官、卒于賀蘭山。子徳海・徳山。徳山以万戸破陝州、攻潼関、卒」

参考文献

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  • 小林高四郎『元史』明徳出版社、1972年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 『元史』巻149 列伝36 郭宝玉伝