源高明
時代 | 平安時代前期 - 中期 |
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生誕 | 延喜14年(914年) |
死没 | 天元5年12月16日(983年1月2日) |
別名 | 西宮左大臣(号)、覚念(法名) |
官位 | 正二位、左大臣、贈従一位 |
主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇→円融天皇 |
氏族 | 醍醐源氏 |
父母 | 父:醍醐天皇、母:源周子(源唱の娘) |
兄弟 | 勧子内親王、宣子内親王、恭子内親王、克明親王、保明親王、慶子内親王、代明親王、勤子内親王、婉子内親王、都子内親王、重明親王、常明親王、修子内親王、敏子内親王、式明親王、雅子内親王、有明親王、普子内親王、時明親王、長明親王、高明、兼明親王、兼子、厳子、靖子内親王、韶子内親王、自明、康子内親王、允明、斉子内親王、英子内親王、寛明親王、章明親王、成明親王、為明、盛明親王 |
妻 | 藤原実頼の娘、藤原師輔の娘、愛宮(藤原師輔の娘)、源泉の娘、他 |
子 | 為平親王妃、忠賢、椎賢、俊賢、藤原道長室・明子、致賢、経房、藤原正光室、源重信室、藤原相尹室 |
源 高明(みなもと の たかあきら、延喜14年〈914年〉 - 天元5年〈983年〉)は、平安時代中期の公卿。醍醐天皇の第十皇子。官位は正二位・左大臣。
一世源氏の尊貴な身分に加えて学問に優れ朝儀にも通じており、また実力者藤原師輔やその娘の中宮・安子の後援も得て、朝廷で重んじられた。師輔・安子の死後、藤原氏に忌まれて安和の変で失脚し、政界から退いた。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、西宮左大臣と呼ばれた。
経歴
[編集]延喜20年(920年)7歳で源朝臣姓を与えられ臣籍降下する。朱雀朝初頭の延長8年(930年)无位から従四位上に直叙されると、承平2年(932年)正四位下と急速に昇進し、大蔵卿を経て、天慶2年(939年)参議に任ぜられ弱冠26歳で公卿に列した。
議政官として大蔵卿・衛門督を兼帯し、天慶9年(946年)村上天皇の即位に伴って従三位に昇叙され、翌天暦元年(947年)権中納言に昇任される。当初、高明は藤原実頼の次女と結婚していたが、この頃に妻を喪っている。
その後も、天暦7年(953年)大納言、天暦9年(955年)正三位と昇進を続ける。朝廷の実力者でかつ高明と同じく故実に通じた藤原師輔の三女を妻とし、この妻が没すると五女の愛宮を娶って友好関係を結び、師輔は高明の後援者となっていた。また、妻の姉の安子は村上天皇の中宮として東宮(皇太子)憲平親王・為平親王・守平親王の三皇子を産んでいたが、高明は安子に信任され中宮大夫を兼ねていた。しかし、天徳4年(960年)師輔が、康保元年(964年)安子が相次いで没し、高明は朝廷における重要な応援者を失ってしまう。
この状況の中で高明は康保3年(967年)右大臣兼左近衛大将に任ぜられて、左大臣・藤原実頼と大臣として太政官のトップに並び立つとともに、自身の娘を次期春宮の有力候補である為平親王の妃とした。翌康保4年(968年)憲平親王の即位(冷泉天皇)に伴い高明は左大臣に昇る。冷泉天皇は狂気の病があったため、早急に後嗣を立てる必要があったが、春宮には為平ではなく弟・守平親王(のち円融天皇)が立てられる。これは高明が将来天皇の外戚となることを藤原氏に恐れられた為とされる。既に師輔も安子も亡く、高明は宮中で孤立していた。ただし、守平の擁立は冷泉天皇の皇子に皇位をつなぐ「一代主」が必要とされたためで、冷泉と年が近く既婚であった為平は「一代主」に相応しくなかったためとする説[1]もある。
安和2年(969年)3月に左馬助・源満仲と前武蔵介・藤原善時らが中務少輔・橘繁延と左兵衛大尉・源連らによる謀反を密告。右大臣・藤原師尹は諸門を閉じて諸公卿と廷議を開き、参議・藤原文範を遣わせて密告文を関白・藤原実頼に送るとともに、検非違使を派遣して関係者を逮捕させた。その中には高明の従者の前相模介・藤原千晴とその子息の久頼も含まれていた[2]。謀反の容疑は高明にも及び、検非違使に邸を取り囲まれ、大宰権帥に左遷する詔が伝えられた。これは事実上の流罪であり、高明は長男の忠賢ともども出家して京に留まることを願うが許されず、大宰府へ流された。これは、師輔の死後、高明と確執を深めていた藤原氏の策謀であったとされる(安和の変)。高明が配流されてまもなく、平安京右京にあった豪壮な高明の邸宅である西宮殿は焼失し[3]、子息の致賢や妻の愛宮も次々と出家した。
天禄2年(971年)10月に罪を赦されて、翌天禄3年(972年)4月に帰京するも、政界に復帰することはなく葛野に隠棲した[4]。天延2年(974年)封戸300戸が与えられる。天元5年(982年)12月16日薨去。享年69。最終官位は前大宰権帥正二位。
かつて高明が国司を兼ねていた備前国の住民が祠を建てて祭っており、その請いにより文安5年(1448年)に従一位が追贈されている。
人物
[編集]学問を好み、朝儀・有職故実に練達し、『西宮記』を著した。和歌にも優れ、『後撰和歌集』(10首)以下の勅撰和歌集に22首が採録されている[5]。
逸話
[編集]伴廉平という人相を善く見る者がいて、高明の顔を見たところ、これほどの貴相を見たことがなかった。しかし、その背中を見て、恐らくは左遷の禍を受けるだろうと予見したという。
『今昔物語』には高明の左遷にまつわる説話がある。高明が桃園の邸宅に居たとき、寝殿の柱の節穴から毎夜、少児の手が出てしきりに差し招く怪異が起きた。柱に経典、仏画を掛けても怪異は止まず、征矢を刺して穴を塞ぐと怪異はようやく止んだが、やがて、左遷の禍が起きたという。
いろは唄(いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこへてあさひゆめみしえひもせす)を作ったのは源高明だとする説もある。
官歴
[編集]注記のないものは『公卿補任』による。
- 延喜20年(920年) 12月28日:臣籍降下(源朝臣)[6]
- 延長7年(929年) 2月16日:元服[7]
- 延長8年(930年) 11月21日:従四位上(直叙)
- 延長9年(931年) 3月13日:近江権守
- 承平2年(932年) 11月16日:正四位下(大嘗会悠紀)。11月26日:昇殿
- 承平5年(935年) 2月23日:大蔵卿
- 天慶2年(939年) 8月27日:参議
- 天慶3年(940年) 3月25日:兼備前権守
- 天慶4年(941年) 12月18日:兼右衛門督
- 天慶7年(944年) 日付不詳:止備前権守
- 天慶8年(945年) 3月28日:兼讃岐守
- 天慶9年(946年) 4月28日:従三位(即位次)
- 天暦元年(947年) 4月26日:権中納言。6月6日:更兼右衛門督
- 天暦2年(948年) 正月30日:中納言兼左衛門督。2月17日:為検非違使別当
- 天暦3年(949年) 4月12日:見楽所別当[8]
- 天暦4年(950年) 10月8日:見内教坊別当[9]
- 天暦7年(953年) 9月25日:大納言
- 天暦9年(955年) 2月7日:正三位
- 天暦10年(956年) 正月1日:勅授帯靭
- 天徳2年(958年) 正月29日:兼按察使。10月27日:兼中宮大夫(中宮・藤原安子)
- 天徳5年(961年) 正月7日:従二位
- 応和3年(963年) 正月28日:辞按察使
- 康保2年(965年) 5月11日:兼左近衛大将
- 康保3年(966年) 正月17日:右大臣。正月27日:左大将如元(除目)。2月3日:東大寺俗別当。2月11日:昇殿
- 康保4年(967年) 6月16日:勅授帯剣。10月11日:正二位(即位次)。12月13日:左大臣。12月19日:左大将如元
- 安和2年(969年) 3月26日:大宰権帥
- 天禄2年(971年) 10月29日:召還
- 天禄3年(972年) 4月20日:帰洛
- 天延2年(974年) 8月14日:封300戸
- 天元5年(982年) 12月16日:薨御(前大宰権帥正二位)[4]
- 文安5年(1448年) 9月29日:贈従一位
系図
[編集]60 醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
61 朱雀天皇 | 62 村上天皇 | 兼明親王 | 源高明 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
広平親王 | 63 冷泉天皇 | 致平親王 | 為平親王 | 64 円融天皇 | 昭平親王 | 具平親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
65 花山天皇 | 67 三条天皇 | 66 一条天皇 | 源師房 〔村上源氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敦明親王 (小一条院) | 禎子内親王 (陽明門院) | 68 後一条天皇 | 69 後朱雀天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
70 後冷泉天皇 | 71 後三条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
系譜
[編集]子のうち長男の忠賢と致賢は安和の変で出家したが、俊賢と経房は後に政界で昇進して活躍している。また、娘の明子は藤原道長の妻となった。
著作
[編集]- 『西宮記』 - 当時の儀式・年中行事の式次第・内容を詳細に記した有職故実書。平安時代中期の宮中儀礼の様子を知ることができる一級史料である。
- 『源氏物語』 - 作者は紫式部とされるが、源高明が書いたとする説を推理小説作家の藤本泉が唱えた。また、主人公・光源氏のモデルを源高明とする説もある[10][11]。
脚注
[編集]- ^ 沢田和久「冷泉朝・円融朝初期政治史の一考察」初出:『北大史学』第55号、北大史学会、2015年12月/所収: 倉本一宏 編『王朝再読』臨川書店〈王朝時代の実像 1〉、2021年 pp. 6-8.
- ^ 『日本紀略』安和2年3月25日条
- ^ 『日本紀略』安和2年4月1日条
- ^ a b 『日本紀略』
- ^ 『勅撰作者部類』
- ^ 『日本紀略』
- ^ 『一代要記』
- ^ 『西宮記』
- ^ 『九暦』
- ^ 森田知之「『源氏物語』と源高明 : 光源氏ならざる皇子」『國文論叢』第57号、神戸大学文学部国語国文学会、2021年11月、168-181頁、doi:10.24546/0100477500、ISSN 0286-6412。「源高明を光源氏の准拠と見なす「源高明准拠説」について、古くは、源具顕筆録の『弘安源氏論議』(1280年成立)のなかで言及されている。」
- ^ “高松神明神社 “光源氏のモデル” 源高明の人物画制作”. NHK 京都府のニュース. 日本放送協会 (2023年10月18日). 2024年4月23日閲覧。 “京都市にある神社が、源氏物語の主人公の光源氏のモデルの1人ともされ、神社を創建したと伝わる源高明の人物画を制作し、地元の歴史を知るきっかけにしてほしいと公開を始めました。”
参考文献
[編集]- 森田知之「源高明年譜 : 附、源高明関係系図」『国文学研究ノート』第57巻、神戸大学「研究ノート」の会、2018年3月、1-16頁、doi:10.24546/e0041516、hdl:20.500.14094/E0041516、ISSN 0385-8189、NAID 120006653238。
- 黒板勝美・国史大系編修会 編『公卿補任 第一篇』吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1982年。
- 黒板勝美・国史大系編修会 編『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1987年。
公職 | ||
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先代 橘公頼 |
大宰権帥 969 - 972 |
次代 橘好古 |
先代 藤原実頼 |
左大臣 968 - 969 |
次代 藤原師尹 |
先代 藤原顕忠 |
右大臣 966 - 968 |
次代 藤原師尹 |
先代 藤原顕忠 |
陸奥按察使 958 - 963 |
次代 藤原師尹 |
軍職 | ||
先代 藤原顕忠 |
左近衛大将 965 - 969 |
次代 藤原師尹 |
先代 藤原顕忠 |
左衛門督 948 - 953 |
次代 藤原師尹 |
先代 藤原忠文 |
右衛門督 942 - 947 |
次代 藤原師氏 |