藤島神社 (諏訪地方)
藤島社(諏訪市)
[編集]藤島社 | |
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所在地 | 長野県諏訪市中洲(旧中洲村)神宮寺 |
位置 | 北緯36度00分09秒 東経138度07分08秒 / 北緯36.00250度 東経138.11889度 |
主祭神 |
木花開耶比売命 藤島明神? |
社格等 | 諏訪大社上社摂社(中十三所筆頭) |
創建 | 不詳 |
別名 | 藤島大明神、藤諏訪森 |
主な神事 | 御田植祭(6月第1日曜日) |
概要
[編集]諏訪大社上社の摂社であり、いわゆる「中十三所」の筆頭。上社本宮から北へ約500m離れた位置にある。
諏訪地域に伝わる神話によると、建御名方神(諏訪明神)が諏訪に進入して国津神の洩矢神と相争ったとき、明神が藤を手にして、鉄器を持った洩矢神を降伏させた。のちに明神がこの藤を植えた(あるいは投げ捨てた)ところ、たちまち繁茂して藤の木となったという。この神話は、宝治3年(1249年)の『諏訪信重解状』「守屋山麓御垂跡事」や[1][2][3]、延文元年(1356年)の『諏方大明神画詞』「祭 第三夏 下」などに載録されている[4][5]。
『画詞』では、この伝承が摂社藤島社の由来譚として述べられている[4][5]。
近年、地区の区画整理事業で当社は元の場所から中央自動車道の東南下方に移転された[2]。
祭神
[編集]なお、嘉禎4年(1238年)の奥書を識す『諏訪上社物忌令之事』においては、「藤島大明神」の本地仏が不動明王とされる[9]。
神事
[編集]- 御田植祭(6月初旬)
- 藤島社の隣に神田(御作田)があり、ここでは毎年、諏訪上社の御田植祭が行われる。神事で植えた苗がその一ヶ月後には塾稲となって神前に供えることができたと言われ、諏訪大社七不思議の一つ「御作田の
早稲 ()」と数えられる[2]。『画詞』では6月晦日(30日)に行われていたとあるが、現在は6月の第1日曜日に執行。
藤島神社(岡谷市)
[編集]藤島神社 | |
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藤島神社 (川岸天竜河畔諏訪明神入諏伝説の地) | |
所在地 | 長野県岡谷市川岸上1-1 |
位置 | 北緯36度03分11秒 東経138度02分03秒 / 北緯36.05306度 東経138.03417度 |
主祭神 |
藤島明神 三宝荒神 |
創建 | 不詳 |
別名 | 藤島大明神、陵明神、十五所明神、荒神塚 |
例祭 | 3月第2日曜日 |
荒神塚古墳 | |
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形状 | 円墳(現存せず) |
規模 | 幅1.8m、長さ7.2m(伝) |
出土品 | 勾玉、管玉、轡、直刀、須恵器片(提瓶、横瓶) ほか |
築造時期 | 6世末~7世紀初頭 |
被葬者 | 不明 |
概要
[編集]岡谷市川岸上三沢区(旧三沢村)、県道14号沿いにある。石室を備えた円墳(荒神塚古墳)の跡である。
諏訪地方の古墳の中では平地、しかも水辺にあるのはこの荒神塚古墳だけであり、築造は6世紀~7世紀初頭と推定される。その位置から、天竜川の源流という交通の要所を支配した武人(役人)の墓だと思われる。後世になって「陵明神」または「十五所明神」と呼ばれ、更に三宝荒神が合祀されると「荒神塚」と名づけられた[10]。
中世成立の文献においては、諏訪明神と洩矢神が争った場所を守屋山の麓(上社本宮周辺)とされているが、江戸時代の伝承記録には天竜川のほとりを両者の戦場とする異伝が見られる。これらの文書では、諏訪入り伝承ゆかりの藤島社を三沢村の荒神塚としている[5][11]。
言い伝えによれば、昔は三沢村の藤島社の対岸に橋原村(現在の岡谷市川岸東橋原区)の洩矢神社があり、この二社から伸びた藤がからまって、天竜川を覆っていた。とある人夫が高島藩主の命令でこの藤を伐採したところ、たちまち狂死してしまったという[12][13][5]。
明治14年(1881年)には古墳が初めて調査され、それ以降も何回か再調査された[14]。
祭神
[編集]祭事
[編集]- 例祭(3月の第2日曜日)[15]
- 神社委員会により執行。
交通アクセス
[編集]脚注
[編集]- ^ 諏訪市史編纂委員会 編「第八節 「諏訪信重解状」と『諏方大明神画詞』」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、811-814頁。
- ^ a b c d e 宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社、1992年、88-93頁。
- ^ 細田貴助『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』ほおずき書籍、2003年、16-19頁。
- ^ a b 諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、682-683頁。
- ^ a b c d 山本ひろ子「中世諏訪社の一考察 : 失われた芸能と伝承を求めて(研究プロジェクト 「諏訪学」提唱のための多角的研究)」『東西南北』第2016巻、和光大学総合文化研究所、2016年3月、243-206頁、NCID AN10441247。
- ^ 塙保己一編「続群書類従巻七十三 諏訪大明神絵詞」『続群書類従 第3輯ノ下 神祇部』続群書類従完成会、1925年、494-539頁。
- ^ 諏訪教育会編「諏方大明神画詞」『諏訪史料叢書 巻2』1926年、39頁。
- ^ 『長野県町村誌 第3巻 南信篇』長野県町村誌刊行会、1936年、3297頁。
- ^ 武井正弘「祭事を読む-諏訪上社物忌令之事-」『飯田市美術博物館 研究紀要』第9巻、飯田市美術博物館、1999年、121-144頁、doi:10.20807/icmrb.9.0_121、ISSN 1341-2086、NAID 110008434555。
- ^ 三沢区誌編纂委員会 編『三沢区誌 三沢の歴史』三沢区、2013年、16頁。
- ^ 山田武文『荒神塚古墳』長野県諏訪建設事務所、岡谷市教育委員会、2005年、6-7頁 。
- ^ 今井野菊「洩矢神と命の力くらべ」『神々の里 古代諏訪物語』国書刊行会、1976年、41-43頁。
- ^ “洩矢神社”. 長野県神社庁. 2018年10月1日閲覧。
- ^ 山田武文『荒神塚古墳』長野県諏訪建設事務所、岡谷市教育委員会、2005年、8-23頁 。
- ^ a b 三沢区誌編纂委員会 編『三沢区誌 三沢の歴史』三沢区、2013年、308頁。
参考文献
[編集]- 今井野菊『神々の里 古代諏訪物語』国書刊行会、1976年。 NCID BB07630391。
- 諏訪市史編纂委員会編 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』諏訪市、1995年。 NCID BN02906048。
- 武井正弘「祭事を読む-諏訪上社物忌令之事-」『飯田市美術博物館 研究紀要』第9巻、飯田市美術博物館、1999年、121-144頁、doi:10.20807/icmrb.9.0_121、ISSN 1341-2086、NAID 110008434555。
- 細田貴助『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』2003年。ISBN 978-4-434-03552-4。
- 三沢区誌編纂委員会 編『三沢区誌 三沢の歴史』三沢区、2013年。
- 宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社、1992年。ISBN 978-4-876-63178-0。
- 山田武文『荒神塚古墳 平成15・16年度国補緊急地方道路整備(街路)事業に伴う荒神塚古墳発掘調査報告書』長野県諏訪建設事務所、岡谷市教育委員会〈郷土の文化財 25〉、2005年 。
- 山本ひろ子「中世諏訪社の一考察 : 失われた芸能と伝承を求めて(研究プロジェクト 「諏訪学」提唱のための多角的研究)」『東西南北』第2016巻、和光大学総合文化研究所、2016年3月、243-206頁、NCID AN10441247。
- “洩矢神社”. 長野県神社庁. 2018年10月1日閲覧。