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藤圭子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤圭似子から転送)
藤 圭子
出生名 阿部 純子
別名 藤 圭似子
Ra U(RA U)
生誕 (1951-07-05) 1951年7月5日 / 岩手県一関市
出身地 日本の旗 日本北海道旭川市
死没 (2013-08-22) 2013年8月22日(62歳没)
日本の旗 日本東京都新宿区
ジャンル 演歌歌謡曲ロック
職業 歌手
活動期間 1969年 - 1979年
1981年 - 1998年
レーベル RCAビクター
RVC
CBS・ソニー
リバスター音産
ポリドールレコード
クラウンレコード
センチュリーレコード
共同作業者 U3、石坂まさを榎本襄

藤 圭子(ふじ けいこ、1951年昭和26年〉7月5日 - 2013年平成25年〉8月22日)は、日本演歌歌手俳優。本名:宇多田 純子(うただ じゅんこ)[1]。旧姓:阿部(あべ)。

夫は音楽プロデューサーの宇多田照實、子はシンガーソングライター宇多田ヒカル

元夫は歌手の前川清

実兄は1970年にデビューし、引退後飲食店などの経営を経て、2022年に復帰した演歌歌手の藤三郎。姪は三郎の長女で、父の活動再開と同時に歌手デビューした[2]

1960年代末から1970年代初頭にかけ、夜の世界に生きる女の情感を描いた暗く哀切な楽曲(『怨歌[注 1]』)を、ドスの効いたハスキーボイスと凄みのある歌いまわしで歌唱し、その可憐な風貌とのギャップも相俟って一世を風靡した。

代表曲は『新宿の女』『女のブルース』『圭子の夢は夜ひらく』『京都から博多まで』など。

他の歌手のヒット曲も幅広くカバーしており、多くの曲で本家を凌駕する歌唱力と表現力を発揮したと評される。『うそ』をカバーされた中条きよしは「こんなにうまく歌われたらたまんないよ」と作曲した平尾昌晃に伝えた[4]

来歴

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浪曲師の父・松平国二郎こと阿部壮(つよし)[5]、同じく浪曲師であり曲師でもある母・阿部澄子こと竹山澄子(2010年に死去。享年80)[5]との間に3人きょうだい末子・阿部純子として父の出身地でもある岩手県一関市県立磐井病院にて巡業中に生誕する。

一家は純子が生まれてまもなく母親の実家のある北海道名寄市へ渡道し、道内・東北を中心に祭り・炭鉱・寺の御堂・旧家大広間などを旅回りの巡業をしながら細々と生計を立てていた。仕事のないときは、長女富美恵に乳飲み子の純子を背負わせ、澄子は三味線を抱え、国二郎は長男・博(のちの歌手・藤三郎)の手を引き風呂敷包みを背負いながら一軒一軒農家を廻り営業した。純子3歳の時に姉の小学校入学から旭川市に定住。

一家の生活は赤貧洗うが如し厳しきもので、純子が幼い頃は市内の忠別橋上流の通称サムライ部落で雨風を凌いで暮らした。純子が幼い頃澄子は下駄で忠別川の氷を割って、おしめを洗っていたとの証言もある。

小学校に入った後も転校を繰り返し、純子が4年生の頃旭川市立大有小学校に転入した当時の担任は「在学証明書を一度に4~5枚も重ねて提出してきたことにまず驚かされた」と語る。旭川市旭町にあった住まいは、畳もなく、床が剥き出しで、裸電球一つぶら下がる部屋であった。両親が巡業から戻るのが遅くなり食費に困った幼い兄弟は納豆や豆腐を売り歩き日銭を稼ぐこともあったという[6]。小学校5年になり客前で初めて歌った(畠山みどり「出世街道」)ところ大反響を得、その後学校の休みの日に両親の巡業に同行(中学3年夏の岩見沢への転居まで続ける)。結果一家の収入も増え神居に家を建て5年生の夏、旭川市立神居小学校に転校。旭川市立神居中学校3年の夏まで過ごす。岩見沢の温泉施設「きらく園」で住み込みの専属の歌手として請われ両親と共に岩見沢へ転居。

1967年3月北海道の岩見沢市立栄中学校(1983年閉校)卒業[注 2]。勉強好きで成績優秀だったが、家計を支えるために、高校進学を断念[5]。1967年2月に岩見沢で行われた雪祭り歌謡大会のステージで急きょ代役として出場、北島三郎の「函館の女」を歌った。居合わせた作曲家・八洲秀章がその才能を評価し両親に上京を勧めた。

中学の卒業式の日に両親と上京。西日暮里のアパートに住み八洲秀章のレッスンを受け歌手 島純子として「ホテル層雲小唄」「島牧音頭」「島牧小唄」「火まつり音頭」などを録音し、北海道出身の八洲氏に連れられ活動した。この時期、蕎麦屋の店員や錦糸町や浅草などで母と流しをして生活した。

その後、作詞家の澤ノ井龍二(石坂まさを)と知り合う。石坂まさをは純子の歌う「星の流れに」「カスバの女」を聴きドスの効いた声と人生の哀愁をにじませた退廃的な歌い方に圧倒されスカウト。石坂まさをの自宅に住み込み弟子となりレッスンを受ける[7]。いくつかのレコード会社のオーディションを受けるが全て不合格。石坂まさをからRCAレコードの当時のディレクター榎本襄(現・音楽プロデューサー)を紹介。純子の歌う「星の流れに」「カスバの女」を聴いた榎本襄も同じく圧倒され他社からデビューが決まっていたところを断り自社からのデビューを強く勧めた。石坂まさをは東芝専属作詞家を辞し「藤プロ」という個人事務所としてスタート[8]。三人でデビュー曲を練り、1969年9月25日RCAレコードより「新宿の女」でデビュー。

以後、石坂まさをと組んでヒット曲を連発。オリコンチャートで、ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位、間を置かずリリースされたセカンドアルバム「女のブルース」は17週連続1位を記録。計37週連続1位という空前絶後の記録を残す。なお、内山田洋とクール・ファイブとの共作「演歌の競演 清と圭子」も含めると計42週連続1位となる。シングルにおいても「女のブルース」は8週連続1位、続く「圭子の夢は夜ひらく」も10週連続1位を記録し、18週連続1位という同一歌手での連続記録を残す。

演歌を歌いながらもアイドル歌手としての人気も集め、青少年に大きな影響力を持っていた少年マガジンなど多数の雑誌の表紙を飾った。またその人気からテレビアニメ『さすらいの太陽』のヒロインのモデルにもなった。

1971年、当時ともに絶頂期であった内山田洋とクール・ファイブのボーカル前川清と結婚するが、大スター同士の結婚生活はすれ違いが重なり、翌1972年に離婚。

1974年、喉のポリープの手術を受けたことで、自身が強みと考えていた声の特徴が失われたと悩むようになり、引退を考え始める。

1975年2月、石坂まさをの澤ノ井音楽事務所[注 3]から新栄プロダクションに移籍。

1979年10月17日、RCAレコード本社に於いて引退の記者会見を開き、1979年12月26日新宿コマ劇場で引退公演を行った、その後渡米する。

1981年7月29日に帰国。同年8月1日より「藤 圭似子」の芸名でニュージャパンプロダクションに所属し[10][11]、RCAレコードからCBSソニーに移籍し、第一弾となるシングル「螢火」を発表した。

1982年に、宇多田照實と再婚。以降、照實との間で7回の離婚・再婚を繰り返す。

1983年1月19日ニューヨークにて、長女・を出産。網膜色素変性症を発症し視力が徐々に低下していた頃の出来事だったことから、「我が子から光が失われないように」という願いを込め「光」(ひかる)と命名した[12]。その後、光を世界で通用する歌手に育てるため、1990年から照實とともに光を連れて初めて渡米、お金が足りなくなると日本に戻って歌い、お金が貯まるとまた渡米することを繰り返した。その際にはいくつかのテレビ番組にも顔を出しており、複数回出演した『THE夜もヒッパレ』(日本テレビ)では光とのエピソードを交えつつ、当時のヒット曲を歌唱している[13]。更に1996年11月26日に出演した『徹子の部屋』(テレビ朝日)では当時13歳だったデビュー前の光の歌声を紹介した。光デビュー直前の1997年まではテレビ番組出演を続けており、1月27日放送の『ふたりのビッグショー』(NHK総合)では八代亜紀と共演、往年のヒット曲「女のブルース」など多数の曲を歌唱、八代と昔の思い出を語りあうなど健在ぶりを見せていた。

光が15歳となった1998年宇多田ヒカルの名で歌手デビューし、これを機に藤も再び注目を浴びた。しかし、光のデビューと入れ替わるように自身は歌手活動を封印、以降ほとんどステージで歌うことはなくなった。

2013年8月22日午前7時頃、都内で倒れているのが発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。衣服の乱れや争ったような跡がないことなどから、新宿警察署は自死と断定[14]。享年63(62歳没)。照實と光はそれぞれコメントを発表し、藤が1988年頃から精神疾患を患っていたことを公表した[1]

葬儀は遺言書に従って執り行わず家族のみの直葬とし[15]、遺灰は海に散骨された[16]。その後、藤の実家の阿部家側によって、ファン有志とともに「しのぶ会」が行われた。

年譜

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  • 1951年7月5日 - 岩手県一関市に生まれる。生まれてすぐに北海道名寄市に移る。3歳の頃、旭川市に引っ越して15歳初めまで生活する[17]
  • 1966年 - 中学3年生の夏、父母とともに旭川を離れ、北海道岩見沢市の温泉保養センター「きらく園」にて三条純子の芸名で専属歌手となる。
  • 1967年 - 2月、岩見沢雪まつりのステージにて代役歌手として出場、八洲秀章にその才能を見出される。純子の中学卒業と同時に両親と上京。八洲指導によるレッスンの傍ら、16歳から母親と錦糸町、浅草周辺で流しをするなどして両親の生活を支える。島純子名義で本人作詞による「男の仁義」をソノシート制作。
  • 1968年 - 発声のレッスンを受けていた作曲家・上条たけしのところで東芝音楽工業専属作詞家の澤ノ井龍二(のちの石坂まさを)と出会うも、東芝でのデビューは困難を極めた。純子の才能に賭けた石坂は東芝を退職し、純子は新宿区東大久保の石坂の家に住み込み特訓。日本音楽放送の工藤宏と縁が出来たことから工藤を社長に据え、藤プロダクションを設立。工藤の藤、工藤の妹の名である桂子から純子の芸名は藤圭子と改められる。
  • 1969年9月25日 -RCAビクターよりファーストEP「新宿の女」で歌手デビュー。
  • 1970年
  • 1971年 - 前川清と結婚。 前川の地元である長崎県佐世保市俵町教会で挙式。第8回ゴールデン・アロー賞大賞を演歌歌手としては初めて受賞。
  • 1972年 - 8月、前川と離婚。離婚会見は12日に赤坂プリンスホテルで行われた。
  • 1974年 - 5月、喉のポリープ手術。
  • 1979年 - 5月、日本劇場にて「10周年記念リサイタル~圭子のすべて!」を開催。ステージにて前向きな意欲を語ったものの、10月突如「普通の女になりたい」と引退を表明し、アメリカ合衆国に渡る。
  • 1980年 - アメリカニューヨークに滞在。ライターの田家正子と3ヶ月共同生活を営む。またこの時、米国でコーディネーターをしていたミュージシャンの宇多田照實と出会う[19]。当時「コロンビア大学のジャーナリズム科に通う予定だった」と圭子は田家に話していた[20]
  • 1981年 - 7月帰国。藤圭似子の名で芸能界に復帰。10月、ドラマ「新海峡物語」で主演を務める。同時にシングル「螢火」をリリース。
  • 1982年 - 照實と結婚(再婚)。
  • 1983年 - 長子・光(後の宇多田ヒカル)を出産。
  • 1984年 - 芸名を藤圭子に戻す。
  • 1988年 - この頃から照實・光・澄子へ攻撃的な言動が見られるようになる。現実と妄想の区別が曖昧となり、自身の感情や行動のコントロールを失うことも見られるなど精神状態が悪化したと思われる[21]。照實が通院を薦めるも拒絶。母澄子とも被害妄想による金銭トラブルになるなど家族関係も悪化したとみられる[22]
  • 1993年
    • 照實とともに有限会社ユースリー・ミュージックを資本金300万円で東京都杉並区に設立し、自らも取締役になる。
    • 照實と光の3人で音楽ユニット「U3」を結成してセンチュリーレコードと契約し、アルバム「STAR」を発表。
  • 2002年 - 照實・光と別居。ニューヨークを拠点に、気まぐれに世界中を旅する生活を最期まで営む。家族には時々電話をかけていた。
  • 2006年 - ニューヨークケネディ国際空港にて約42万ドル(当時のレートで約4900万円)に上る多額の現金を没収される騒動を起こし、世界各国のカジノなどで5年の間に5億は使ったと述べている[23]
  • 2007年 - 照實と最後の離婚[24]。以降、二度と再婚することはなかったが、照實と絶交することはなく、姓は宇多田のまま、本名は宇多田純子であった。
  • 2009年 - 2006年の米空港での42万ドル没収事件について、事件性がないとして全額返還された[25]
  • 2010年 - 11月、母・澄子が肝癌にて80歳で逝去。
  • 2013年8月22日 - 逝去。享年62歳。遺言書はこの年のはじめにしたためられていた。また8月14日には、圭子から照實に電話をかけていた。照實は「この時は珍しく明るい口調で、元気そうな純子の声でした。約8分間、世間話を含め、お願いごとを何件か受け、了承し電話を切りました。」と語った。本人の強い遺志にて通夜・葬儀はなく、火葬のみ執り行った[26]

エピソード

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  • 圭子の人物像について、公式サイトにて光は「とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。」照實は「出会った頃から彼女には感情の不安定さが見受けられましたが、心を病んでいるというよりも、類い稀な『気まぐれ』な人としか受け止めていませんでした。僕にとっては十分に対応出来る範囲と捉えていました。」と評している。
  • マスコミが『一卵性母娘』と名付けるほどとても母思いで仲がよかった。レコード歌手になろうとしたのも、母をもっと楽にさせてあげて、不自由な目を治してあげられるかもしれないからだったという[27]。しかし、1990年頃に精神状態悪化からの金銭トラブルになり母とは絶縁状態となった[28]
  • 五木寛之は「1970年のデビューアルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。これは『演歌』でも、『艶歌』でもなく、まちがいなく『怨歌』だと感じた。」と評している[29]
  • 村上春樹は著書「村上朝日堂」の中で、学生時代にアルバイトしていた新宿のレコード店に藤圭子が訪れ、すまなそうなかんじで「あの、売れてます?」とニコッと笑って僕にたずねた。「あ、調子いいですよお」と店長が言うと、彼女はまたニコッと笑って「よろしくお願いしますね」と言った。その後、今に至るまで藤圭子という人のことをとても感じの良い人だと思っている。ただ、この人は自分が有名人であることに一生なじむことができないんじゃないかなという印象を、その時僕は持った。と語っている。
  • 育ての親である作詞家:石坂まさをに ”アメリカ人になりたい” と話しており、デビューしてから間もなく、熱心なファンのハーフの少女と友だちになり英語の勉強を始める[28]。デビュー当時、マネージャーだった成田忠幸は、藤から「いつか、アメリカに行きたい」と聞かされており、藤はアメリカに住んで、そこで、ロックを歌いたいのだろうなと感じたという[28]。1979年に引退する前、八代亜紀は藤から「アメリカに行って、ロックを歌うんだ」と聞かされている[30]
  • 紅白出場に強い執着があり、1974年の紅白では力を入れていた新曲『命火』もヒットし、事前にほとんどのメディアが当選確実と報じていたにもかかわらず、落選したことで大きなショックを受けてダウンし、その様子を心配した母親が医師に往診を頼んだほどだった。結局それ以降1週間に渡って仕事をキャンセルしている[31]
  • 娘の光を天才と信じ、知り合いの音楽関係者にことあるごとに光を売り込んでいた。その売り込みは光が9歳のとき、藤圭子育ての親である石坂まさをにも行われ、光がいかに天才歌手であるかを力説していたほどだった[28]。同じ頃、藤がデビュー前に世話になった初代林家三平の妻である海老名香葉子のもとにも訪れ、光の歌を吹き込んだデモテープを聴かせている[28]
  • 大の虫嫌いで虫全部が嫌いだと述べている[32]。光が子供の頃、いたずらで体中にセミの抜け殻をまとって帰宅したところ、それを見た藤が卒倒してしまい、おおごとになったという[33]
  • ビートルズTレックスシャーデーのファン。また、圭子は時代を先取りする嗜好があり、1993年頃にはヒップホップに熱中した。ドクター・ドレーの「The Chronicle」とスヌープ・ドッグの「DOGGY STYLE」を光と愛聴し、ヒップホップのダンス教室で真剣にレッスンを受け、「この曲のキックドラムが凄い」「ノリが、グルーヴがどうだ」など語っていたという[34]
  • 沢木耕太郎 が1979年の引退を前に藤圭子にインタビューした著書「流星ひとつ」(2013年)のあとがきで、水晶のように硬質で透明な精神。美しかったのは「容姿」だけではなかった。「心」のこのようにまっすぐな人を私は知らない。まさに火の酒のように、透明な烈しさが清潔に匂っていた。と語った。また著書「深夜特急」の元になった1974年春から1975年冬までのアジアからヨーロッパへ至るひとり旅の最後にパリ・オルリー空港において藤圭子と奇跡的に遭遇していたことが著書「旅する力──深夜特急ノート」新潮社(2008年)にも記されている。

音楽

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シングル

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# 発売日 A/B面 タイトル 作詞 作曲 編曲 オリコン
最高順位
規格品番
RCA/日本ビクタービクター音楽産業RVC
1 1969年
9月25日
A面 新宿の女 石坂まさを
みずの稔
石坂まさを 小谷充 9位 JRT-1037
B面 生命ぎりぎり 石坂まさを 池田孝
2 1970年
2月5日
A面 女のブルース 石坂まさを 猪俣公章 成田征英 1位 JRT-1057
B面 あなた任せのブルース 森川登 池田孝
3 1970年
4月25日
A面 圭子の夢は夜ひらく 曽根幸明 原田良一 1位 JRT-1077
B面 東京流れもの 不詳
4 1970年
7月25日
A面 命預けます 石坂まさを 曽根幸明 3位 JRT-1097
B面 ネオン街の女 池田孝
5 1970年
10月25日
A面 女は恋に生きてゆく 7位 JRT-1117
B面 盛り場数え唄 石坂まさを 中村泰士 原田良一
6 1971年
2月5日
A面 さいはての女 彩木雅夫 池田孝 8位 JRT-1137
B面 東京花ものがたり 石坂まさを
7 1971年
5月5日
A面 恋仁義 石坂まさを 曽根幸明 21位 JRT-1167
B面 涙ひとしずく 野々卓也 池田孝
8 1971年
6月5日
A面 みちのく小唄 23位 JRT-5
B面 会津磐梯山 不詳
9 1971年
7月5日
A面 愛の巡礼 浅木しゅん 石坂まさを 高田弘 44位 JRT-1177
B面 圭子の三度笠 石坂まさを 池田孝
10 1971年
10月25日
A面 知らない町で 石坂まさを 曽根幸明 46位 JRT-1197
B面 圭子の網走番外地 不詳 池田孝
11 1972年
1月25日
A面 京都から博多まで 阿久悠 猪俣公章 20位 JRT-1207
B面 街の子 竹村次郎
12 1972年
5月25日
A面 別れの旅 池田孝 14位 JRT-1237
B面 哀別 石坂まさを 中村泰士 馬飼野俊一
13 1972年
9月25日
A面 花は流れて 鈴木邦彦 池田孝 19位 JRT-1257
B面 遊侠の人
14 1972年
12月5日
A面 悲しみの町 浜圭介 竜崎孝路 JRT-1267
B面 白い坂道が見える窓 野々卓也
15 1973年
3月25日
A面 明日から私は 山上路夫 鈴木邦彦 21位 JRT-1277
B面 別れ道 石坂まさを
16 1973年
7月25日
A面 花小唄 野々卓也 池多孝春 JRT-18
B面 新東京小唄 神坂薫
17 1973年
8月25日
A面 遍歴 石坂まさを 曽根幸明 50位 JRT-1297
B面 愛の孤独 たつみりょう 馬飼野俊一
18 1973年
11月5日
A面 恋の雪割草 山口洋子 猪俣公章 竹村次郎 41位 JRT-1327
B面 御用牙 石坂まさを 曽根幸明
19 1974年
4月5日
A面 京都ブルース なかにし礼 馬飼野康二 JRT-1337
B面 女の人生
20 1974年
6月5日
A面 火の国小唄 石坂まさを 野々卓也 池多孝春 JRT-21
B面 萩の女 はぞのなな 森山慎也 竜崎孝路
21 1974年
7月5日
A面 私は京都へ帰ります 山口洋子 猪俣公章 池多孝春 JRT-1357
B面 雨の仙台 石坂まさを たつみりょう 馬飼野俊一
22 1974年
9月5日
A面 命火 石坂まさを 小杉仁三 34位 JRT-1377
B面 夜のブルース 原田良一
23 1975年
1月25日
A面 あなたの噂 山口洋子 猪俣公章 竹村次郎 JRT-1397
B面 銀座のお恵ちゃん 石坂まさを 三条ひろし 長作幸男
24 1975年
4月25日
A面 生きてるだけの女 浜岡幸 賀川幸生 小山恭弘 JRT-1417
B面 さすらい花 石坂まさを 岡千秋 小谷充
25 1975年
9月25日
A面 さすらい よしかわかおり 遠藤実 斉藤恒夫 JRT-1447
B面 風子二十四不幸せ 島田幸一
26 1975年
11月5日
A面 はしご酒 はぞのなな 赤坂通 小山恭弘 43位 JRT-1457
B面 裏町流し唄 石坂まさを 岡千秋 佐藤まさと
27 1976年
4月25日
A面 女だから 小谷夏 中村泰士 馬飼野俊一 RVS-1007
B面 あなたはもう他人
28 1976年
8月25日
A面 聞いて下さい私の人生 六本木哲 池多孝春 RVS-1027
B面 薄化粧 石坂まさを 若林いさむ 竜崎孝路
29 1977年
2月5日
A面 哀愁酒場 平尾昌晃 竜崎孝路 RVS-1047
B面 あなたへの未練 山田孝雄
30 1977年
6月25日
A面 貴方ひとすじ 石坂まさを 若林いさむ 池多孝春 RVS-1077
B面 新宿エレジー 上條たけし
31 1977年
11月5日
A面 面影平野 阿木燿子 宇崎竜童 馬飼野俊一 RVS-1107
B面 圭子のドンデン節
32 1978年
5月
A面 銀座流れ唄 大村雅朗 RVS-1127
B面 猫と女
33 1978年
10月
A面 酔い酔い酒場 小山恭弘 RVS-1148
B面 女文字
34 1979年
3月
A面 北の港町 遠藤実 斉藤恒夫 RVS-1167
B面 わくらばの宿 一条貴之 岡千秋 池多孝春
35 1979年
9月21日
A面 可愛い女 中山大三郎 船村徹 栗田俊夫 RVS-1197
B面 赤ちょうちんブルース
CBS・ソニー
36 1981年
10月1日
A面 螢火[注 4] 阿木燿子 三島大輔 若草恵 07SH-1057
B面 恋狂い 一文字まこと 森川範一
ロリーポップ
37 1984年
7月
A面 あいつが悪い[注 5] 伊藤アキラ 浜圭介 桜庭伸幸 a-15267
B面 (カラオケ) -
リバスター
38 1984年
10月
A面 蝶よ花よと 鳥井実 西谷翔 池多孝春 7RC-0037
B面 酒の駅 荒川利夫 立木達也 南郷達也
ポリドール
39 1986年
6月25日
A面 東京迷路[注 6] 浅木しゅん 杉本真人 松井忠重 7DX-1436
B面 (カラオケ) -
40 1987年
2月25日
A面 新宿挽歌 なかにし礼 船村徹 丸山雅仁 7DX-1471
B面 北国流れ旅 八坂こうじ 武田芳美 斉藤恒夫
41 1988年
3月25日
A面 旅路 星野哲郎 北原じゅん 馬場良 7DX-1547
B面 群馬慕色
42 1989年
2月25日
A面 新地の雨[注 7] 桂三枝 美波有 桜庭伸幸 7DX-1591 (EP)
H10P-40012 (CD)
B面 浪花の女 藤田まさたか
センチュリーレコード
43 1994年
4月21日
01 酒に酔うほど Ra U[注 8] Ra U
Sking U
平岩嘉信 CEDC-10390
02 婚約解消 Ra U
日本クラウン
44 1996年
8月21日
01 天国 荒木とよひさ 三木たかし 若草恵 CRDN-341
02 献身
45 1996年
9月25日
01 冷たい月[注 9] Ra U & Sking U 宮川彬良 CRDN-347
02 ゴールデン・エラ[注 10]
46 1996年
10月23日
01 千年のかがり火 曲保 曽根幸明 CRDN-2011
02 MY FRIENDS
47 1997年
10月22日
01 男と女 Ra U Ra U
Sking U
Como-Lee CRDN-511
02 抱いて…
スバック
48 2014年
2月13日
01 母子舟[注 11] 石坂まさを 平尾昌晃 竜崎孝路 SVCA-241
02 恋して母は

アルバム

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オリジナル・アルバム

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発売日 規格 規格品番 アルバム
RCA
1970年3月5日 LP JRS-7067 新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて
1970年7月5日 LP JRS-7087 女のブルース
1971年3月5日 LP JRS-7117 さいはての女
1971年7月5日 LP JRS-7137 圭子の人生劇場
1971年12月25日 LP JRS-7174 圭子のわらべ唄
LP JRS-7177 知らない町で
1972年6月25日 LP JRS-7194 別れの旅
1972年12月5日 LP JRS-7221 遠くへ行きたい/「演歌の旅」
1973年2月25日 LP JRS-7237 悲しみの町
1973年6月 LP JRS-7251 演歌の旅 緋牡丹博徒
1973年9月 LP JRS-7277 遍歴/明日から私は
1974年2月 LP JRX-14 女のブルース/藤圭子ブルースを唄う
1974年4月 LP JRS-7303 京都ブルース
1974年7月 LP JRS-7321 夜とあなたが
1974年9月 LP JRS-7327 圭子のにっぽんひとりあるき
1974年10月 LP JRX-16 藤圭子演歌の世界
LP JRS-7328 命火
1975年3月 LP JRS-7347 あなたの噂
1975年6月 LP JRS-7356 生きてるだけの女
1976年6月 LP RVH-7017 女だから
1976年12月 LP RVL-7081 南国土佐を後にして
LP RVL-7082 明治一代女
LP R4J-7037 緋牡丹博徒
LP RVL-7084 霧の摩周湖
LP RVL-7085 女の意地
LP RVL-7086 黒い花びら
1977年4月 LP RVL-7020 哀愁酒場
1977年7月 LP RVL-7024 貴方ひとすじ
1977年12月5日 LP RVL-7041 面影平野
CBS・ソニー
1981年11月 LP 28AH-1374 螢火-右・左-
リバスターレコード
1984年11月 LP 28RL-0012 蝶よ花よと

ライブ・アルバム

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発売日 規格 規格品番 アルバム
RCA
1970年12月5日 LP JRS-9039/40 歌いつがれて25年 藤圭子演歌を歌う

※ 1970年10月23日 渋谷公会堂ライブ

※ オリコン2位獲得

1971年10月5日 LP JRS-7157 藤圭子リサイタル

※ 1971年7月5日 サンケイホール ライブ

LP JRD-3014 圭子の網走番外地/藤圭子のミニ・リサイタル
1972年5月25日 LP R4J-7010 藤圭子オン・ステージ

※ 1970年発売の渋谷公会堂ライブの一部を4チャンネルステレオ

1976年11月5日 LP RVL-2001/2 聞いて下さい私の人生/デビュー七周年記念 藤圭子リサイタル

※ 1976年9月24日 新宿コマ劇場ライブ

1978年5月 LP RVL-7045 ビッグ・ショー演歌・浪曲・おんなの涙

※ 1978年2月26日『NHKビック・ショー』ライブ

1980年2月21日 LP RVL-2079 さよなら藤圭子

※ 1979年12月26日 新宿コマ劇場 さよなら公演ライブ

ベスト・アルバム

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発売日 レーベル 規格 規格品番 アルバム
1973年 RCA LP JRX-10 オリジナル・ゴールデン・ヒット曲集
RCA LP RHL-3007 ベスト28
1974年 RCA LP JRX-32 ゴールデン・ヒット・デラックス
1976年 RCA LP RVL-7055 藤圭子≪第1集≫
1976年 RCA LP RVL-10002 ゴールデン・ヒット・デラックス16
1976年 RCA LP RVL-10029 スター・ベスト・ヒット・エッセンス
1977年 RCA LP RVL-2019/20 藤圭子スペシャル
RCA LP JRS-9095/6 豪華版 藤圭子 第1集
RCA LP JRS-9237/8 藤圭子大全集 ダブル・デラックス
RCA LP JRX-8021/2 ビッグヒット20
1978年 RCA LP RVL-10026 マイ・セレクション 藤圭子※ 藤が自ら選曲したベストアルバム。
1980年 RCA LP RHL-3007 スーパー・ツイン藤圭子
1999年5月21日 BMG JAPAN CD BVCK-37032 圭子の夢は夜ひらく 藤圭子 HIT COLLECTION
CD BVCK-37033 藤圭子 POPS COLLECTION
1999年10月21日 CD BVCK-37046 藤圭子 伝説の名曲
2005年10月26日 Sony Music Direct CD BVCK-38110 GOLDEN☆BEST 藤圭子
2005年12月11日 エー・アール・シー CD ASB-1027 スーパーベスト
2010年12月8日 GT music CD MHCL-1825 GOLDEN☆BEST 藤圭子 ヒット&カバーコレクション 艶歌と縁歌
2012年9月1日 CSレコード CD DQCL-2101 藤圭子 ベスト・ヒット
CSレコード CD DQCL-6001 藤圭子 スーパー・ヒット
2012年11月1日 CSレコード CD DQCL-2112 藤圭子 ベスト・ヒット 昭和歌謡を歌う
CSレコード CD DQCL-6012 藤圭子 スーパー・ヒット 昭和歌謡を歌う
2013年9月30日 CD NCCR-130930 宇多田純子さん安らかに

企画アルバム

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発売日 レーベル 規格 規格品番 アルバム
1970年12月 RCA LP JRS-7100 演歌の競演 清と圭子

※ 前川清と藤圭子の代表曲を片面ずつ収録したアルバム。

1978年12月20日 RCA LP RVL-7207 歌謡劇場
  • 第一幕:「歌謡浪曲」
  • 第二幕:NHK-FM「歌謡ドラマ/圭子の夢は夜ひらく」

で構成されたアルバム。

1979年5月 RCA LP RVL-7220 10周年記念 涙唱!藤圭子 船村徹・遠藤実作品集
1973年12月5日 RCA LP JRS-9221/8 演歌全集8枚組
  • 『故郷/艶姿』
  • 『任侠/港灯』
  • 『憂愁/恋心』
  • 『巷歌/出発』

と分冊でも発売

1993年9月17日 センチュリー CD CECC-10307 STAR

※ 「U3」(RA U(藤圭子)、SKING U(宇多田照實)、HIKASO U(宇多田ヒカル)らが1990年に家族3人で結成した音楽ユニット)で発表したアルバム。

2000年12月20日 BMG JAPAN CD BVCK-37085 聞いて下さい私の人生〜藤圭子コレクション(通販限定・6枚組CD-BOX)
  • 『シングル・コレクション1』
  • 『シングル・コレクション2』
  • 『ブルース』
  • 『怨歌・任侠・さすらい』
  • 『昭和の名曲』
  • 『リサイタル』

合計101曲収録。

2005年9月21日 BMG JAPAN CD 藤圭子 コンプリート・シングル・コレクション 〜15年の輝石〜(通販限定・6枚組CD-BOX)
  • 『シングル・コレクション1969~1971』
  • 『〃1971~1973』
  • 『〃1974~1976』
  • 『〃1976~1984』
  • 『任侠・股旅&80'S歌謡』
  • 『大正~昭和名曲集』
  • RCA時代のシングル盤A面B面全曲他 合計109曲収録。
2010年11月1日 CSレコード CD DYCL-1695 藤圭子 艶・怨・演歌(通販限定・5枚組CD-BOX)
  • 『オリジナルを歌う』
  • 『男の情を歌う』
  • 『女心を歌う』
  • 『人生・昭和を歌う』
  • 『ふるさと・叙情を歌う』

の五つのテーマで構成されている。

自身のヒット曲22曲に加え、男性歌手の曲や抒情歌などカバー曲を86曲、合計108曲収録。

2016年10月19日 Sony Music CD 藤圭子劇場(通販限定・6枚組CD-BOX)
  • 『歌いつがれて25年 藤圭子演歌を歌う』
  • 『藤圭子リサイタル』
  • 『聞いて下さい私の人生』
  • 『さよなら藤圭子-1』
  • 『さよなら藤圭子-2』(同タイトルLPのリマスタリング
  • 『ディレクターズ・セレクション』(榎本襄選曲によるスタジオ録音8曲)

合計110曲を収録。

付録の小冊子には、デビューから引退までの10年間担当だった元RCAディレクター榎本襄のインタビューも掲載。

2016年11月15日 CSレコード CD DYCL-3291

CMソング

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NHK紅白歌合戦出場歴

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年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1970年(昭和45年)/第21回 圭子の夢は夜ひらく 13/24 西郷輝彦
1971年(昭和46年)/第22回 2 みちのく小唄 09/25 舟木一夫 内山田洋とクール・ファイブのメインボーカル代理として

港の別れ唄』も歌唱[注 13]

1972年(昭和47年)/第23回 3 京都から博多まで 13/23 美川憲一
1975年(昭和50年)/第26回 4 さすらい 03/24 堺正章
1976年(昭和51年)/第27回 5 はしご酒 15/24 殿さまキングス

(注意点)

  • 対戦相手の歌手名の( )内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。

主な出演作

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映画

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舞台

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テレビ番組

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ほか多数

書籍

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タイトル 著者 出版年月 出版社 備考
演歌の星 藤圭子物語 藤圭子 1971年7月10日 ルック社 絶版
宇多田ヒカル 母娘物語 石坂まさを 1999年11月1日 ゴマブックス 絶版
きずな 藤圭子と私 石坂まさを 2013年10月10日 文藝春秋 1999年刊行『きずな』の再発売 現在は電子版が入手可能
流星ひとつ 沢木耕太郎 2013年10月11日 新潮社
藤圭子 追悼 夜ひらく夢の終わりに 編集:阿部晴政 2013年10月29日 河出書房新社 KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集 藤圭子
悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾 大下英治 2013年11月1日 イースト・プレス
怨歌の誕生 五木寛之 2013年12月12日 双葉社 表題作は1970年6月7日付毎日新聞日曜版エッセイ

『艶歌と援歌と怨歌』に加筆[注 14]。現在は電子版が入手可能

漫画

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脚注

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注釈

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  1. ^ 五木寛之による表現[3]
  2. ^ 3年生半ばまで 旭川市立神居中学校に在校。
  3. ^ 藤をプロモートするため立上げた「藤プロダクション」が前身、その後石坂が引継いだ(石坂の本名が澤ノ井)藤移籍後事務所を閉じた[9]
  4. ^ 藤圭似子名義。
  5. ^ 圭子名義。
  6. ^ ホース音楽出版から発売された自主制作盤も存在する(規格品番:a-18222)。
  7. ^ 桂三枝とのデュエット。
  8. ^ 藤のペンネーム。
  9. ^ 藤圭子 with cubic U名義(宇多田ヒカルとのデュエット)。
  10. ^ 1999年5月5日に、本楽曲とそのカラオケ版の2曲を収録したシングルCDが発売された(規格品番:CRDP-214)。
  11. ^ 1984年頃に録音された未発表曲2曲を収録したシングルCD[35]
  12. ^ 灘五郷(西宮)震災後酒造部門廃業。
  13. ^ 当時の夫であった内山田洋とクール・ファイブメインボーカル前川清が急病でダウンしたため。内山田洋とクール・ファイブの出番自体はフォーリーブスに振り替えられたが、『港の別れ唄』は藤がメインボーカルを担当し残りのメンバーがバックコーラスを務める形で歌われた。
  14. ^ 初出:オール讀物(文藝春秋)1970年10月、1971年『 四月の海賊たち』で単行本化。

出典

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  1. ^ a b Hikki's WEBSITE (2013年9月5日). “09.05(THU) 09:44 藤圭子を長年応援してくださった皆様へ”. 2013年9月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月5日閲覧。
  2. ^ 藤圭子のめいが演歌デビュー 本人は「叔母さんにはかなわない」「(宇多田)ヒカルちゃんもすごい」 - デイリー新潮2022年8月29日配信。
  3. ^ “「藤圭子の衝撃、まちがいなく怨歌」五木寛之さん”. 朝日新聞デジタル. (2013年8月22日). オリジナルの2014年7月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140726085328/http://www.asahi.com/culture/update/0822/TKY201308220390.html 2019年3月20日閲覧。 
  4. ^ Asagei+plus 藤圭子、デビュー時のインパクトは宇多田ヒカルを超えていた 2018年12月26日閲覧
  5. ^ a b c “宇多田の祖母逝く…娘、孫との再会の願いかなわず” (日本語). Sponichi Annex. (2010年11月6日). オリジナルの2010年11月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101107035549/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2010/11/06/01.html 2014年8月23日閲覧。 
  6. ^ 藤圭子さん、旭川で過ごした少女時代の光と影”. 株式会社北海道経済 (2013年9月19日). 2023年3月20日閲覧。
  7. ^ 石坂まさを著「宇多田ヒカル母娘物語 ゴマブックス[要文献特定詳細情報]
  8. ^ 秘蔵映像!藤圭子熱唱 名曲秘話と波乱の人生(2022年4月1日、BS-TBS)デビュー曲「新宿の女」誕生秘話より
  9. ^ 石坂まさを『きずな : 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月、127頁。ISBN 978-4-16-376900-4 
  10. ^ 東京地方裁判所 昭和57年(ワ)5969号 判決 - 大判例 with 政治団体オープンサイエンス”. daihanrei.com. 2022年7月19日閲覧。
  11. ^ 藤圭子さんについて私が調べたこと(2019.10.1版)その2”. 矢部進72歳の雑記帳. 2022年7月19日閲覧。
  12. ^ 視力低下の病に悩んだ藤圭子「光が失われないで」と娘を命名 NEWSポストセブン 2013年9月6日
  13. ^ 藤圭子さんが音楽番組で踊ったステップ。デビュー前の宇多田ヒカルが教えていた。 TechinsightJapan編集部 真紀和泉 2013年9月1日
  14. ^ 藤圭子さん飛び降り自殺 数年前「話す人いなくて寂しい」”. スポニチ. 2023年8月2日閲覧。
  15. ^ 藤圭子さんの遺言書あった…宇多田が明かす「母らしい遺言書」 スポニチ 2013年9月5日
  16. ^ 宇多田ヒカル、散骨した藤圭子さん偲ぶ デイリースポーツ online 2016年3月21日
  17. ^ サンデー毎日2013年9月15日号 藤圭子 「裸電球と畳1枚」に秘めた「怨」
  18. ^ BARKS 藤圭子の歴史は、誰にも破られていない伝説の歴史”. ジャパンミュージックネットワーク株式会社 (2013年11月26日). 2023年3月23日閲覧。
  19. ^ NEWSポストセブン 藤圭子さん 米国滞在時、愛車に乗り家族3人で7年間地方旅行”. 小学館 (2013年8月31日). 2023年3月21日閲覧。
  20. ^ 藤圭子がニューヨークで待っていた作家・沢木耕太郎!引退インタビューきっかけに接近”. J-CASTニュース (2013年10月25日). 2023年3月21日閲覧。
  21. ^ MESSAGE from Hikki”. 宇多田ヒカル (2013年9月5日). 2023年3月21日閲覧。
  22. ^ 宇多田照実氏のコメント全文/藤さん悼む”. 日刊スポーツ (2013年8月27日). 2023年3月21日閲覧。
  23. ^ MSN産経ニュース (2009年1月28日). “藤圭子さんに42万ドル返還へ 米空港で06年差し押さえ”. 2009年1月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年1月29日閲覧。
  24. ^ 藤圭子、宇多田照實氏と“離婚7回”の理由 〈週刊アサヒ芸能 2013年 9/5号〉”. Asagei Plus. 徳間書店. 2020年4月20日閲覧。
  25. ^ MSN産経ニュース (2009年1月28日). “藤圭子さんに42万ドル返還へ 米空港で06年差し押さえ”. 2009年1月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年1月29日閲覧。
  26. ^ MESSAGE from Hikki”. 宇多田ヒカル・宇多田照實 (2013年8月26日). 2023年3月21日閲覧。
  27. ^ 1971年3月発行 月刊平凡 圭子の自叙伝 第2回
  28. ^ a b c d e 大下英治著「悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾」 イースト・プレス[要文献特定詳細情報]
  29. ^ 五木寛之著「怨歌の誕生」双葉社[要文献特定詳細情報]
  30. ^ 「姉」が藤圭子さんのママぶりを振り返る 〈週刊朝日〉”. AERA dot. (アエラドット). 朝日新聞出版. 2019年3月20日閲覧。
  31. ^ 1974年12月発行 週刊明星 紅白落選に呆然 大ショック 藤圭子が突然発病、ダウン!
  32. ^ 沢木耕太郎流星ひとつ新潮社、2013年10月。ISBN 978-4103275169  [要ページ番号]
  33. ^ utadahikaruのツイート(217777656861687810)
  34. ^ <完全版インタビュー Part.1>時代、そして自分自身と向き合いながら。ポップミュージックの最前線を更新し続ける、2020年代の宇多田ヒカル”. ビルボード・ジャパン (2021年6月2日). 2023年3月23日閲覧。
  35. ^ Sponichi Annex 2013年12月21日付
  36. ^ くだん書房:目録:マンガ:雑誌:集英社:りぼん”. www.kudan.jp. 2024年10月20日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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