一条昭良
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(藤原兼遐から転送)
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長10年4月26日(1605年6月12日) |
死没 | 寛文12年2月12日(1672年3月11日)[1] |
改名 | 九宮(幼称)→兼遐→一条昭良→恵観(法名) |
官位 | 従一位、摂政、関白、左大臣 |
主君 | 後水尾天皇→明正天皇→後光明天皇→後西天皇→霊元天皇 |
氏族 | 皇別一条家 |
父母 |
父:後陽成天皇、母:近衛前子 養父:一条内基 |
兄弟 | 後水尾天皇#系譜参照 |
妻 |
正室:織田頼長の長女 側室:西洞院時直の娘 |
子 | 教輔、醍醐冬基 |
一条 昭良(いちじょう あきよし)は、江戸時代前期の公卿。後陽成天皇の第九皇子[2]。関白・一条内基の養子となり一条家14代当主となる。それにより一条家は皇別摂家となった。官位は従一位・摂政、関白、左大臣。
経歴
[編集]後陽成天皇の第九皇子として生まれる。幼称は九宮。慶長14年(1609年)前関白・一条内基の養子となり、兼遐(かねとお)と称した。寛永6年(1629年)関白となり、後に摂政となった。寛永12年(1635年)名を昭良に改め、摂政を退任している。正保4年(1647年)摂政に再任され、その後関白となった。承応元年(1652年)出家して恵観と称した。寛永18年(1641年)頃から洛北西賀茂に山荘を営み、醍醐家の祖となった次男・冬基に伝領された。
賀茂の山荘(一条恵観山荘)の茶室が、1959年に建築家堀口捨己の監修の下に鎌倉市浄明寺に移築され、現存する(国の重要文化財)[3][4]。
系譜
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107 後陽成天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
108 後水尾天皇 | 近衛信尋 | 高松宮(有栖川宮)好仁親王 | 一条昭良 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
109 明正天皇 | 110 後光明天皇 | 111 後西天皇 | 112 霊元天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
有栖川宮幸仁親王 | 113 東山天皇 | 福子内親王 | 有栖川宮職仁親王 | 吉子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正仁親王 | 114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一条家
[編集]内基13 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭良14 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
教輔15 | 醍醐冬基 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
兼輝16 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||