藤井行徳
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藤井行徳 | |
時代 | 江戸時代後期 - 昭和時代 |
生誕 | 安政2年4月8日[1](1855年5月23日) |
死没 | 昭和7年(1932年)3月5日[1][2] |
墓所 | 青山霊園 |
官位 | 従二位勲三等[3]、子爵 |
主君 | 明治天皇→大正天皇 |
氏族 | 藤井家 |
父母 | 父:藤井行道、母:藤井寛子 |
兄弟 | 道子、行徳、行理、従子、孝子 |
妻 | 田中光顕養女・テツ |
子 |
曦子、兼誼、兼和、伴兼光、兼籌、兼徳、 兼治、拾子、末子、兼隆 |
藤井 行徳(ふじい ゆきのり)は、幕末の公家、明治期の神職・政治家。貴族院子爵議員。
経歴
[編集]山城国京都で中務権大輔・藤井行道の長男として生まれる[1][4]。父の死去に伴い、1891年(明治24年)7月24日、子爵を襲爵した[5]。
慶応元年2月(1865年2-3月)元服して昇殿を許され、慶応2年1月(1866年2-3月)従五位上に叙せられ、右馬権頭に任じられた[4][6]。明治元年(1868年)京都皇学所で漢学を修める[6]。
1879年(明治12年)10月、宮中祗候となる[2][4]。以後、岡山始審裁判所書記、秋田始審裁判所書記、白峯宮宮司、松尾神社宮司を歴任し、1895年(明治28年)に宮司を辞職[2][4][6][7]。1897年(明治30年)英照皇太后御葬祭斎官となり、以後、歌御会講頌御人数、歌御会講師御人数、大喪使祭官などを務めた[2][6]。
1897年(明治30年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[8]、1918年(大正7年)7月9日まで3期在任した[2]。1922年(大正11年)5月、平野神社宮司に就任し、1929年(昭和4年)に依願退職[7]。1930年(昭和5年)8月30日に隠居した[1]。
系譜
[編集]栄典
[編集]位階
[編集]勲等・褒章
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 霞会館 1996, 443–445頁.
- ^ a b c d e 衆議院 & 参議院 1990, 53頁.
- ^ 人事興信所 1928, フ50–51頁.
- ^ a b c d 人事興信所 1903, 833頁.
- ^ 『官報』第2421号、明治24年7月25日。
- ^ a b c d e f g h i j ルーブル社出版部 1921, 245–246頁.
- ^ a b 神社新報社 1986, 257頁.
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、7頁。
- ^ a b c d 人事興信所 1915, ふ7頁.
- ^ 『人事興信録 第25版 下』(人事興信所、1969年)ふ60頁
参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録』(初)人事興信所、1903年。
- 人事興信所 編『人事興信録』(4版)人事興信所、1915年。
- ルーブル社出版部 編『大日本人物名鑑』《巻4の1》ルーブル社出版部、1921年。
- 人事興信所 編『人事興信録』(8版)人事興信所、1928年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 神社新報社 編『神道人名辞典』神社新報社、1986年。
- 衆議院; 参議院 編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《下巻》吉川弘文館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 藤井行道 |
子爵 藤井家第2代 1891年 - 1930年 |
次代 藤井兼誼 |