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藤井行徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤井行徳
藤井行徳
時代 江戸時代後期 - 昭和時代
生誕 安政2年4月8日[1]1855年5月23日
死没 昭和7年(1932年3月5日[1][2]
墓所 青山霊園
官位 従二位勲三等[3]子爵
主君 明治天皇大正天皇
氏族 藤井家
父母 父:藤井行道、母:藤井寛子
兄弟 道子、行徳行理、従子、孝子
田中光顕養女・テツ
曦子、兼誼兼和伴兼光兼籌兼徳
兼治、拾子、末子、兼隆
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藤井 行徳(ふじい ゆきのり)は、幕末公家、明治期の神職政治家貴族院子爵議員

経歴

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山城国京都中務権大輔藤井行道の長男として生まれる[1][4]。父の死去に伴い、1891年(明治24年)7月24日、子爵を襲爵した[5]

慶応元年2月1865年2-3月)元服して昇殿を許され、慶応2年1月1866年2-3月)従五位上に叙せられ、右馬権頭に任じられた[4][6]明治元年1868年)京都皇学所で漢学を修める[6]

1879年(明治12年)10月、宮中祗候となる[2][4]。以後、岡山始審裁判所書記、秋田始審裁判所書記、白峯宮宮司松尾神社宮司を歴任し、1895年(明治28年)に宮司を辞職[2][4][6][7]1897年(明治30年)英照皇太后御葬祭斎官となり、以後、歌御会講頌御人数、歌御会講師御人数、大喪使祭官などを務めた[2][6]

1897年(明治30年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[8]1918年(大正7年)7月9日まで3期在任した[2]1922年(大正11年)5月、平野神社宮司に就任し、1929年(昭和4年)に依願退職[7]1930年(昭和5年)8月30日に隠居した[1]

系譜

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栄典

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位階

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勲等・褒章

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  • 1906年(明治39年):勲四等旭日小綬章[6]
  • 1916年(大正5年):勲三等瑞宝章[6]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 霞会館 1996, 443–445頁.
  2. ^ a b c d e 衆議院 & 参議院 1990, 53頁.
  3. ^ 人事興信所 1928, フ50–51頁.
  4. ^ a b c d 人事興信所 1903, 833頁.
  5. ^ 『官報』第2421号、明治24年7月25日。
  6. ^ a b c d e f g h i j ルーブル社出版部 1921, 245–246頁.
  7. ^ a b 神社新報社 1986, 257頁.
  8. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、7頁。
  9. ^ a b c d 人事興信所 1915, ふ7頁.
  10. ^ 『人事興信録 第25版 下』(人事興信所、1969年)ふ60頁

参考文献

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  • 人事興信所 編『人事興信録』(初)人事興信所、1903年。 
  • 人事興信所 編『人事興信録』(4版)人事興信所、1915年。 
  • ルーブル社出版部 編『大日本人物名鑑』《巻4の1》ルーブル社出版部、1921年。 
  • 人事興信所 編『人事興信録』(8版)人事興信所、1928年。 
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 神社新報社 編『神道人名辞典』神社新報社、1986年。 
  • 衆議院; 参議院 編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。 
  • 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《下巻》吉川弘文館、1996年。 


日本の爵位
先代
藤井行道
子爵
藤井家第2代
1891年 - 1930年
次代
藤井兼誼