コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

船場 (姫路市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
花影町 (姫路市)から転送)
船場 (姫路市)
地域名
姫路市船場地区の航空写真(2010年)に「姫路城下絵図」(1806年)と町名・主要施設名を重ねたもの。マゼンダ線の南が船場小学校区、北が城西小学校区。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
姫路市船場地区の航空写真(2010年)に「姫路城下絵図」(1806年)と町名・主要施設名を重ねたもの。マゼンダ線の南が船場小学校区、北が城西小学校区。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
日本の旗 日本
都道府県 兵庫県
市町村 姫路市
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
市外局番 079[1]
ナンバープレート 姫路

船場(せんば)は兵庫県姫路市の中心部西部を指す地域名。姫路城の西側にある旧町人地・中下級武士の居住区およびその周囲の田畑が宅地化された地域であり、姫路市立船場小学校の校区東部および姫路市立城西小学校の校区南部を指す。

姫路城外曲輪内の内町に対して、その外側に広がる町を外町(そとまち)と称し、船場はそのうち西側の西国街道沿いの地域である。南に隣接する地区である飾万津口(しかまづぐち)、北に隣接する野里(のざと)、東に隣接する神谷(かみや)、それらに含まれる町を合わせて姫路78町と呼ばれた[注釈 1][2]。内町・外町を総称して姫路町と称する[3]

本項では船場に含まれないがこれらの町と隣接し特に関係が深い町についても解説する。

歴史

[編集]
『最新実測姫路市街全図』1933年(昭和8年) 3月25日赤西萬有堂発行。姫路城西側の船場川西部に広がる市街地が船場地区。西国街道は福中門を西へ出たあと、船場本徳寺近辺から北へ進んで歩兵第39連隊の西側にある龍野町1丁目より西へ進む。その南西部の花影町・東雲町のあたりはまだ市街地としての発展が見られない。

市川支流の船場川は二股川、妹背川あるいは三和川と呼ばれていた。この両岸にまたがって福中村があり、川をはさんで東側を上福中村(のち福中町)、西側を下福中村と称した[4]。その北東・姫山周辺に中村が、後の景福寺山周辺に中村の出作村があった[5][6]。また三和川の支流として過去に雲見川という流れがあり[7](柿山伏から龍野町に至る水路がその名残か[8])、性空上人がここで紫雲が書写山に留まるのを見て圓教寺を開く場所を定めたという伝説がある[9][10]

天正8年(1580年)、羽柴秀吉英賀城を滅ぼした際に、その城下町の人々をこの地の西国街道沿いに集め、龍野町[注釈 2]に禁制[注釈 3]を発給して楽市と定めている[12]

江戸時代には元和4年(1618年)、本多忠政東本願寺の要請を受けて、東本願寺別院として船場本徳寺を開基する[13]。また本多忠政は(池田輝政が頓挫した三左衛門堀の開削に代わって)妹背川を改修して寛永元年(1624年)に完成、高瀬舟が通行出来るようにした。現在の炭屋橋[注釈 4]から材木町・小利木町にかけて船着き場を設けて市之橋の附近に市を開き、妹背川を船場川と、この附近を「船場」と称した[14]。また船場にも姫路藩の下級武士・足軽の居住区・長屋が置かれている。宝暦7年(1710年)榊原政邦の時に中村の出作村を(姫路城内に取り込まれた)本村の名を取って中村と改めている。寛延2年(1749年)[注釈 5]には船場川の大洪水(寛延二年大洪水)があり溺死者408名・流失家屋161戸を数え、船場地区にも甚大な被害を出している[14]

江戸時代の福中村は「天保郷帳」「旧高旧領取締帳」共に441石余り[4]。中村は同様に292石余り[6]

明治初頭には飾磨県庁が龍野町5丁目(のち姫路赤十字病院を経て空き地)におかれた[15]。明治・大正時代にも西国街道沿いの龍野町を中心に繁栄し、特に多数の会社の経営や投機をおこなった龍野町1丁目の初井家(歌人・初井しづ枝の婚家)が知られる[16]

1889年(明治22年)4月1日に姫路に市制が施行された際には船場の各町もこれに含まれる。さらに1912年(明治45年)4月には国衙村から一部が編入され、大正年間にその地域で耕地整理がおこなわれ、1926年(大正15年)にはここに新たに船橋町ほかの町名が設定され広義の船場に含まれる。

太平洋戦争末期、1945年7月3日深夜からの第2次姫路空襲で船場も東部を中心に被災。戦後には被災区域において戦災復興都市計画による区画整理が行われ、船場川が本多忠政による改修で外曲輪南西角で大蔵前町の東へ屈曲していた[注釈 6]のを直線形に改めて旧流路を埋め立てている[注釈 7][17]。また国道2号も拡幅整備されて北沿いにビル群が建設される。1984年(昭和59年)9月21日に船場東部を含む復興第1工区が換地処分され[18][19]町名が変更・整理されている。

含まれる町丁

[編集]

凡例・補足:

  • 町名リンク先も参照。
  • 船場の分類は橋本政次『姫路市町名字考』p.12-19を元に現在の町名に対応させた。
  • 江戸時代の分類は特記無き場合は町人地。
  • 明治初期から市制施行まで各町名に「姫路」を冠している(それ以後に成立した町を除く)。
  • 校区欄の校名は「姫路市立○○小学校/中学校/小中学校」を省略表記。
船場に属する町丁
  町名      読み[20]    郵便番号[21] 世帯数[20] 人口[20] 主な施設・備考/概要 校区[22]  
小利木町 こりきまち 670-0022 65 125 城西小琴陵中
姫路城清水門(跡)の西にある、大野川と船場川の合流点付近より下流沿いにある逆くの字状の町。小利木とは樵(こ)った木のこと[注釈 9][24]で薪を多く扱ったという[25]。羽柴秀吉時代の姫路城の大手にあたる。船場川の水運で発展した。市制施行時より姫路市に属する[25]
柳町 やなぎまち 670-0023 25 47
小利木町の西。天正以前にはここに柳の名木と「柳の井」があったという[24]。侍屋敷が置かれた時期もあった。市制施行時より姫路市に属する[26]
鷹匠町 たかじょうまち 670-0024 105 207
柳町の南西。武家地。侍屋敷・組屋敷が置かれ、鷹匠が住んでいた。市制施行時より姫路市に属する[27]。北に隣接して「餌差町(えさしまち)」があった(現在は山野井町の一部)[24]
岡町 おかまち 670-0026 165 366
鷹匠町の西。元・山野井村の一部。1936年(昭和11年)にこの地域の古名「岡」より命名された[24][29]。戦前は裁判所が置かれていた[30]
嵐山町 あらしやまちょう 670-0029 183 385
  • 姫路城の西郵便局
岡町の西。元・山野井村の一部。1936年(昭和11年)に景福寺山の古名「嵐山」より命名された[24][31][32]
材木町 ざいもくまち 670-0025 113 210
小利木町の南、船場川沿い。姫路城市橋門(跡)のすぐ外側に位置する。寛永元年、本多忠政がここに(旧)材木町(後の堺町竹田町)や生野町橋之町・龍野町にあった材木問屋を集めたことに由来する[33][34]。江戸時代後期には姫路藩の特産品である木綿の晒しもおこなわれていた[34]。市制施行時より姫路市に属する。1912年(大正元年)に増位町を編入[34]
景福寺前 けいふくじまえ 670-0027 62 116
材木町の西。元武家地(組屋敷)。元は吉田町の一部。景福寺は1749年(寛延2年)に酒井忠恭によって坂田町から孝顕寺跡[注釈 14]へ移された[33]。市制施行時より姫路市に属する[36]
吉田町 よしだまち 670-0031 121 240
材木町と景福寺前の南。池田輝政の故地・三河吉田(現・豊橋市)あるいはそこからの移住者にちなんだ町名[33]。市制施行時より姫路市に属する[37]
農人町 のうにんまち 670-0038 39 84
吉田町の西。慶長年間に町屋敷となったが、百姓が多くいたことからか[33]。市制施行時より姫路市に属する[38]
柿山伏 かきやまぶし 670-0037 127 240
農人町の西。江戸時代は武家地(足軽町)。寛永頃の絵図では弓鉄砲町とも。それ以前に山伏が住んでいて柿を多く植えていたという[33]。市制施行時より姫路市に属する[39]
龍野町1丁目 たつのまち 670-0032 84 147
龍野町2丁目 60 105
龍野町3丁目 76 126
龍野町4丁目 14 36
龍野町5丁目 75 115
龍野町6丁目 65 119
西国街道沿いの町人地。吉田町の南・姫路城車門(跡)の西が1丁目、以後西へ順に続いて薬師山の下に6丁目。龍野方面に通じるところから命名されたともいう。羽柴秀吉が出した楽市の制札は拓本が現存する[5]。1丁目から2丁目にかけて江戸後期から明治にかけて酒造業も多く位置した[16][注釈 17]。市制施行時より姫路市に属する[12]
小姓町 こしょうまち 670-0043 112 176 船場小琴陵中
龍野町1・2丁目の南、一部は国道2号の南側。芥田家文書の木下家定書状に既に町名がある。小姓がいたことから命名された[5]。当初は町人地だったが次第に侍屋敷・組屋敷が増えた。市制施行時より姫路市に属する[41]
元町 もとまち 670-0049 232 432
小姓町の西、龍野町3丁目の南、国道2号の南北にまたがる。1912年(大正元年)に中村を廃した際に、姫路草分けの中村の名という由緒から元町と命名された[5]。一部が大正15年に船橋町・東雲町・花影町に、1968年(昭和43年)船丘町になり、同年西新町・船丘町の一部を編入[42]
西新町 にししんまち 670-0033 232 425
元町の西、龍野町4・5丁目の南。1912年(大正元年)に中村を廃した際に、元町の西隣の字へ命名された[5]。1968年(昭和43年)一部が元町・船丘町となる[42]
上片町 かみかたまち 670-0041 4 11
龍野町1丁目の南。船場川沿いの道の片側にのみ町屋があることから[5]。市制施行時より姫路市に属する。一部が1972年(昭和47年)米田町に、1984年(昭和59年)博労町に編入[43]
米田町 よねだまち 670-0042 64 102
龍野町1丁目の南、上片町の西。米屋街であったことにちなむ[44]。古くは瓦屋町、かわら町と呼ばれたのを元禄の頃までに改めた模様[5]。市制施行時より姫路市に属する。1972年(昭和47年)上片町・小姓町の一部を編入、1984年(昭和59年)一部が地内町・博労町に編入[44]
博労町 ばくろうまち 670-0906 143 213
米田町の国道2号を越えた南、西国街道が南北に延びる町。博労がいて馬を飼い慣らしたので、道幅が特に広かった[5]。市制施行時より姫路市に属する。1984年(昭和59年)上片町・米田町・地内町・片田町・相生町・大蔵前町・福中内新町西魚町・福沢町・東雲町1丁目の一部を編入、一部が地内町となる[45]
地内町 ぢないまち 670-0044 10 27
博労町の西。船場本徳寺の地内であることから。榊原忠次など歴代藩主から土地を寄進されて寺域に編入した。同寺とその子院が町域の大半を占める[5]。市制施行時より姫路市に属する。1984年(昭和59年)米田町・小姓町・片田町・博労町の一部を編入して一部が博労町に編入される[46]
片田町 かただまち 670-0045 31 49
地内町の南。1912年(大正元年)に西下片町と西富田町とを統合した際に一字ずつ取って命名[47]。1984年(昭和59年)東雲町1~6丁目の一部を編入、一部が地内町・博労町となる[48]
福沢町 ふくざわちょう 670-0992 324 561
博労町の南。1889年(明治22年)市制施行当初から姫路市に含まれた福中村と、1912(明治45年)姫路市に編入した豊沢村字柳茶屋とを合併した時に一字ずつ取って命名[47]
千代田町 ちよだまち 670-0993 314 551
福沢町の南。1912(明治45年)豊沢村の一部を姫路市に編入した際にめでたい名前をもって命名[47]
船丘町 ふなおかちょう 670-0034 148 192
西新町の南、元町の西。1932年(昭和7年)福沢町より分割の際に、景福寺山を『播磨国風土記』にいう「船丘」とみて命名[47]
琴岡町 ことおかちょう 670-0035 102 170
船丘町の西、龍野町6丁目の南。1932年(昭和7年)福沢町より分割の際に、薬師山を『播磨国風土記』にいう「琴丘」とみて命名[47]
船橋町2丁目 ふなはしちょう 670-0034 145 273
船橋町3丁目 13 33
船橋町4丁目 20 37
船橋町5丁目 230 503
船橋町6丁目 38 73
地内町の西へ延びる町丁。大正年間の耕地整理によって、1926年(大正15年)に福沢町の字名より命名。1丁目から6丁目まであったが、1丁目は戦後の区画整理で東雲町1丁目に吸収[47]
東雲町1丁目 しののめちょう 670-0046 24 37
東雲町2丁目 188 467
  • 姫路市立船場幼稚園
東雲町3丁目 45 62
東雲町4丁目 90 202
東雲町5丁目 112 184
東雲町6丁目 27 51
船橋町の南。大正年間の耕地整理によって、1926年(大正15年)にめでたい名前をもって命名[47]
花影町1丁目 はなかげちょう 670-0047 55 92
花影町2丁目 113 197
  • 耕地整理記念碑[11]
花影町3丁目 22 28
花影町4丁目 85 141
東雲町の十二所前線をはさんだ南側。大正年間の耕地整理によって、1926年(大正15年)に福沢町の字名より命名[47]
神田町1丁目 かんだちょう 670-0991 41 56
神田町2丁目 95 157
神田町3丁目 11 24
神田町4丁目 31 59
花影町の南。大正年間の耕地整理によって、1926年(大正15年)に福沢町と千代田町にまたがる字名「神谷田」(神谷田自体は神田町の外である)を略して命名[47]
定元町 さだもとまち 670-0994 5 10
神田町の南。大正年間の耕地整理によって、1926年(大正15年)に千代田町の字名より命名[47]

現存しない町名

[編集]
  町名     読み 消滅時期 現状・概要
増位町 ますいまち 1912年(大正元年) 材木町の一部

戦国時代末期に増位山随願寺)の衆徒たちが一時ここに逃れていたことによる。彼らが虚無僧をしていたことから虚無僧町とも[33][50]

下片町 しもかたまち 大蔵前町の一部

上片町と併せて片町とも[51]

西下片町 にししもかたまち 片田町の一部

寛延二年大洪水で下方町が一時西へ移った地[52]

富田町 とみたまち 大蔵前町の一部

田地の字飛田に由来するという[53]

西富田町 にしとみたまち 片田町の一部

元は二十軒町と称したともいう[54]

相生町 あいおいちょう 1984年(昭和59年) 博労町の一部

元は備前町と称したが文政3年(1820年)酒井忠道が備前守に改めたのを機にその名を避けて改称[注釈 21][55]。高砂相生松の文様(松影染)を染めたことによるという[56]

大蔵前町 おおくらまえちょう 博労町・福沢町・塩町十二所前町忍町久保町のそれぞれ一部

江戸時代に船場川を屈曲させた西側[注釈 7]。姫路藩の米倉があった[57][58]

船場に含まれないが関連する町丁

[編集]
 町名     読み[20]    郵便番号[21] 世帯数[20] 人口[20] 主な施設・備考/概要 校区[22]
山畑新田 やまはたしんでん 670-0036 33 58 高岡小/琴陵中[注釈 22]
龍野町の西、薬師山(『播磨国風土記』の「琴丘」に比定)とその東西に位置する。元は龍野町の新田。「旧高旧領」には龍野町新田(山畑新田か)144石余り、龍野町出作(白国村随願寺が名古山北東・東辻井に持っていた寺領か[59])が279石余りとある。1889年(明治22年)高岡村に、1935年(昭和10年)姫路市に合併。一部が1975年(昭和50年)に東辻井1~4丁目の一部に、1984年(昭和59年)に名古山町の一部になる[12]
土山東の町 つちやまひがしのちょう 670-0995 186 338 船場小琴陵中
元は土山・花影町・神田町・定元町の一部。土山 (姫路市)参照。
山野井町 やまのいちょう 670-0021 282 523 城乾小城乾中
小利木町の西・鷹匠町の北。水尾山(秩父山)[注釈 25]の上から水が湧いていたことによるという。山野井村当時に男山の山麓に東山焼(姫路藩の御用窯による陶磁器)が東山村より移され、この陶工の池田弥七が廃藩後に「弥七コンロ」を開発して名を上げた[62]。「旧高旧領」296石余り。1889年(明治22年)城北村に、1925年(大正14年)姫路市に合併、1936年(昭和11年)に岡町・嵐山町・岩端町を分離[63]
岩端町 いわばなちょう 670-0028 535 1100 城西小琴陵中
山野井町と嵐山町の西。1936年(昭和11年)に山野井町から分離する際に附近の通称から名づけた。『播磨国風土記』にいう伊和里の端にあたることからともいう[64]。1984年(昭和59年)に一部が名古山町[65]

ゆかりの人物

[編集]
  • 初井家 - 英賀城三木家の別族・北田家の後裔と伝わる[66]。龍野町1丁目に初井家住宅(屋号:英賀屋)が現存する[67]
    • 初井佐七郎(実業家) - 姫路市会議員、第三十八銀行・山陽鉄道・播磨紡績・姫路銀行等の役員を務める[66]
    • 初井奈良吉(実業家) - 佐七郎の養子。第三十八銀行・播磨紡績・姫路銀行等の役員を務める[66]
    • 初井しづ枝(歌人) - 大黒町より初井奈良吉の長男・佐一に嫁ぐ[68][67]
  • 中川勇次郎(鷺脚)(陶工) - 元姫路藩士、小姓町で「鷺脚焼」を製作する[69]
  • 牛尾健治(実業家) - 福沢町に住所を置いていた[70]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 88町ともいうが、これは末広がりの験を担いだものである。
  2. ^ 「龍野町」は「竜野町」と書かれることもあるが(角川地名(1988)、p.914など)、ここでは引用を除き時代にかかわらず姫路市の公式表記に合わせる。
  3. ^
    条々  龍野町

    一、当龍野町市日之事先規の如く罷立つべき事
    一、市の日諸商人ゑらむべからざる事
    一、同諸公事役これあるべからざる事
      以上

    天正八年十月二十八日 藤吉郎花押
    [11]
  4. ^ 現在の材木町と吉田町の間、船入川に架かる橋。
  5. ^ 角川地名(1988)p.842には「寛政2年」とあるが誤記。
  6. ^ 寛延二年大洪水ではこの屈曲が原因の一つとなって姫路城下が甚大な被害を被っている。
  7. ^ a b このため、元大蔵前町の区域は船場川の東にありながら船場小学校の校区だが、教育委員会への届出により白鷺小中学校への通学が可能となっている。
  8. ^ 『城 - 田舎からの手紙-』より、姫路空襲の夜に天守が赤く照らされる様を描写した一節が刻まれている。
  9. ^ 木を樵る職業が樵(きこり)。
  10. ^ 播州平野』執筆時に当地附近(文学碑の場所からは離れている)にあった旅館「まつや」に宿泊した縁による。
  11. ^ 同寺住職が戦後占領期に第39連隊の軍旗断片を秘匿し守った縁による。歩兵第39連隊#血染めの軍旗参照。
  12. ^ 姫路藩剣術指南、無外流高橋派師範。明治期の剣術家・高橋赳太郎の父。
  13. ^ 神姫バスグループ・しんきエンジェルハート運営
  14. ^ 越前(結城)松平家の菩提寺。松平朝矩の移封時に上野前橋へ共に移った。
  15. ^ 歌人・初井しづ枝の婚家。屋号「英賀屋」。
  16. ^ 船場川の川船を繋ぎ止めていた石。庭園の石として保存されている。
  17. ^ のち合併して名城酒造となり豊富町(香寺町須加院附近にある市川西岸の飛び地)に移転。
  18. ^ a b c d e f g 国道2号北沿いのビル群を構成するビル
  19. ^ 船場川の水流の一部を姫路城の外堀へ引き込むための堰。
  20. ^ 窓口は船場支店に移転(店舗内店舗)、ATMのみ存置
  21. ^ すぐ横の備前門も福中門と改めている。
  22. ^ 教育委員会への届出により、小学校は船場小もしくは城西小に、中学校は高丘中に変更可能。
  23. ^ 射楯兵主神社境内より明治3年移転。
  24. ^ 大正時代の邸宅が改修され、和室ほか5件が国登録有形文化財となっている。
  25. ^ 現在の新在家1丁目にあった小山。

出典

[編集]
  1. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2023年10月7日閲覧。
  2. ^ 姫路市史14巻 1988, p. 103.
  3. ^ 平凡社歴史地名 1999, p. 447.
  4. ^ a b 角川地名 1988, p. 1319「福中」、1320「福中町」.
  5. ^ a b c d e f g h i 橋本 1956, p. 15.
  6. ^ a b 角川地名 1988, p. 1030「中〈姫路市〉」.
  7. ^ 姫路市史14巻 1988, p. 41-43.
  8. ^ 姫路市史14巻 1988, p. 44-45間の図1「自然地形と城郭プラン」.
  9. ^ 柳沢 1982, p. 18-19.
  10. ^ 城西小学校 1993, p. 134.
  11. ^ a b c d e f g h 文化財見学シリーズ20 『船場』をたずねて”. 姫路市教育委員会文化財課. 2024年7月28日閲覧。
  12. ^ a b c 角川地名 1988, p. 914「竜野町」「竜野町新田」「竜野町出作」.
  13. ^ 角川地名 1988, p. 725-726「地内町」.
  14. ^ a b 角川地名 1988, p. 842「船場〈姫路市〉」、「船場川」.
  15. ^ 城西小学校 1993, p. 138.
  16. ^ a b 城西小学校 1993, p. 140.
  17. ^ 復興の歩み 1960, p. 59-60.
  18. ^ 土地区画整理誌 2017, p. 8-9,29.
  19. ^ 土地区画整理事業施行済みの地区一覧”. 姫路市. 2024年5月2日閲覧。
  20. ^ a b c d e f 町別人口・年齢別人口-令和6年(2024年)3月末-”. 姫路市役所 デジタル戦略本部 デジタル戦略室 統計解析室. 2024年5月1日閲覧。
  21. ^ a b 郵便番号検索 兵庫県 > 姫路市の郵便番号一覧”. 日本郵便. 2024年5月1日閲覧。
  22. ^ a b 市立小学校・中学校・義務教育学校への入学・転校など”. 姫路市役所教育委員会事務局学校教育部学校指導課 (2024年1月22日). 2024年5月1日閲覧。
  23. ^ a b 文化財見学シリーズ57 「文学碑」をたずねて その2”. 姫路市教育委員会文化財課. 2024年7月28日閲覧。
  24. ^ a b c d e 橋本 1956, p. 13.
  25. ^ a b 角川地名 1988, p. 642.
  26. ^ 角川地名 1988, p. 1513.
  27. ^ 角川地名 1988, p. 873.
  28. ^ 新・姫路の町名 2006, p. 93.
  29. ^ 角川地名 1988, p. 324.
  30. ^ 最新実測姫路市街全図. 赤西萬有堂(発行). (1933) 
  31. ^ 角川地名 1988, p. 117.
  32. ^ 新・姫路の町名 2006, p. 83.
  33. ^ a b c d e f 橋本 1956, p. 14.
  34. ^ a b c 角川地名 1988, p. 651.
  35. ^ しんきエンジェルハート株式会社”. 2024年7月26日閲覧。
  36. ^ 角川地名 1988, p. 575.
  37. ^ 角川地名 1988, p. 1567.
  38. ^ 角川地名 1988, p. 1161.
  39. ^ 角川地名 1988, p. 371.
  40. ^ 都市景観重要建築物等”. 姫路市役所都市局まちづくり部まちづくり指導課. 2024年7月26日閲覧。
  41. ^ 角川地名 1988, p. 619.
  42. ^ a b 角川地名 1988, p. 1478.
  43. ^ 角川地名 1988, p. 421.
  44. ^ a b 角川地名 1988, p. 1574.
  45. ^ 角川地名 1988, p. 1182.
  46. ^ 角川地名 1988, p. 725-726.
  47. ^ a b c d e f g h i j 橋本 1956, p. 17.
  48. ^ 角川地名 1988, p. 394.
  49. ^ 西支店 移転のご案内”. 播州信用金庫. 2024年7月25日閲覧。
  50. ^ 角川地名 1988, p. 1380.
  51. ^ 角川地名 1988, p. 746.
  52. ^ 角川地名 1988, p. 1120.
  53. ^ 角川地名 1988, p. 1015.
  54. ^ 角川地名 1988, p. 1129.
  55. ^ 橋本 1956, p. 16.
  56. ^ 角川地名 1988, p. 60.
  57. ^ 角川地名 1988, p. 286.
  58. ^ 平凡社歴史地名 1999, p. 471.
  59. ^ 出口 2012, p. 36-38.
  60. ^ 望景亭”. 姫路文学館. 2024年7月28日閲覧。
  61. ^ 姫路文学館望景亭(旧濱本家住宅)和室”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年7月28日閲覧。
  62. ^ 文化財見学シリーズ19 『男山周辺』をたずねて”. 姫路市教育委員会文化財課. 2024年7月28日閲覧。
  63. ^ 角川地名 1988, p. 1536.
  64. ^ 橋本 1956, p. 32.
  65. ^ 角川地名 1988, p. 217.
  66. ^ a b c 出口 2012, p. 94.
  67. ^ a b 姫路文学館, ed (1998). 白秋門下歌人初井しづ枝. 姫路文学館 
  68. ^ 出口 2012, p. 128-129.
  69. ^ 出口 2012, p. 89.
  70. ^ 『姫路飾磨神崎紳士大鑑』68頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年4月1日閲覧。

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]