コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

聴濤克巳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
聴涛克巳から転送)
聴濤克巳
きくなみ かつみ
生年月日 1904年1月11日
出生地 香川県
没年月日 (1965-08-30) 1965年8月30日(61歳没)
出身校 関西学院大学
前職 朝日新聞記者
所属政党日本共産党→)
無所属

選挙区 東京都第6区
当選回数 1回
在任期間 1949年1月24日 - 1950年6月6日
テンプレートを表示

聴濤 克巳(きくなみ かつみ、1904年(明治37年)1月11日[1] - 1965年(昭和40年)8月30日[1])は日本のジャーナリスト労働運動家。息子は元参議院議員聴濤弘

生涯

[編集]

香川県生まれ。関西学院大学卒業後、朝日新聞社に入社。朝日新聞記者として論説委員などを歴任[1]。戦後の1945年日本共産党入党[1]。朝日新聞労働組合委員長(初代)にも就任した[1]1946年には全日本新聞通信労働組合委員長(初代)と全日本産業別労働組合会議(産別会議)議長(初代)に就任した[1]

二・一ゼネストでは伊井弥四郎とともに最高責任者の1人になったが、1947年1月20日右翼団体新鋭大衆党による襲撃を受け全治1ヶ月の重傷を負った[2]

1949年第24回衆議院議員総選挙で日本共産党から衆議院議員に当選するが、翌1950年レッドパージによる公職追放を受け失職[2]。中国に渡航して北京機関のメンバーとなり、自由日本放送の業務にも従事した[3]。その後日本共産党代表としてヨーロッパで活動をおこなった[2]1958年に帰国し、アカハタ編集局長、党幹部会員および書記局員を務めた[1]

1964年春闘公共企業体等労働組合協議会(公労協)の4.17ゼネストを「挑発行為」と非難したため、指導責任を問われて自己批判し、中央委員に降格された[2]

著書

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 聴濤 克巳』 - コトバンク
  2. ^ a b c d 『昭和史事典』毎日新聞社〈別冊1億人の昭和史〉、1980年5月、90頁。 
  3. ^ 伊藤律『伊藤律回想録 - 北京幽閉二七年』文藝春秋社、1993年、p31

関連項目

[編集]