米田甚太郎
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米田 甚太郎(よねだ じんたろう、1875年(明治8年)8月27日[1] - 1938年(昭和13年)3月4日)は、日本の内務官僚、朝鮮総督府官僚。実業家。
経歴
[編集]富山県出身。1898年(明治31年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、翌年に判事検事登用試験と弁護士試験に合格した[1]。司法官試補、宮津区裁判所判事、札幌区裁判所・札幌地方裁判所検事を務めた[1]。1905年(明治38年)に北海道庁警視に転じ、栃木県事務官・警察部長、秋田県内務部長、石川県内務部長を歴任した[1][2]。さらに朝鮮総督府に移り、忠清北道知事、平安南道知事、京畿道知事を務めた[2]。
退官後は、朝鮮水力電気株式会社社長、朝鮮電気株式会社取締役、天安電灯株式会社取締役などに就任した[2]。
1938年(昭和13年)3月4日、病気療養中に朝鮮京城府東四軒町(現大韓民国ソウル特別市中区奨忠洞)の自宅で死去、62歳[3]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 人事興信録 1918, p. よ之部(米) よ六.
- ^ a b c 人事興信録 1937, p. ヨ之部 米(田) ヨ一〇七.
- ^ 「米田甚太郎氏 元京畿道知事」『京城日報』京城日報社、1938年3月5日、夕刊、2面。2024年3月28日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版(下)』人事興信所、1937年。