コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

米内内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
米内政権から転送)
米内内閣
総理官邸で記念撮影に臨む閣僚
内閣総理大臣 第37代 米内光政
成立年月日 1940年昭和15年)1月16日
終了年月日 1940年(昭和15年)7月22日
与党・支持基盤 挙国一致内閣
内閣閣僚名簿(首相官邸)
テンプレートを表示

米内内閣(よないないかく)は、軍事参議官予備役海軍大将米内光政が第37代内閣総理大臣に任命され、1940年昭和15年)1月16日から1940年(昭和15年)7月22日まで続いた日本の内閣

閣僚の顔ぶれ・人事

[編集]

国務大臣

[編集]

1940年(昭和15年)1月16日任命[1]。在職日数189日。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 37 米内光政 予備役海軍大将
海大甲種12期
外務大臣 55 有田八郎 貴族院
無所属
(無会派)
内務大臣 53 児玉秀雄 貴族院
無所属
研究会
伯爵
大蔵大臣 41 櫻内幸雄 衆議院
立憲民政党
企画院総裁兼任
陸軍大臣 28 畑俊六 陸軍大将
陸大22期
対満事務局総裁兼任 留任
海軍大臣 20 吉田善吾 海軍中将
甲種13期
留任
司法大臣 40 木村尚達 司法省→)
貴族院[注釈 1]
初入閣
文部大臣 51 松浦鎮次郎 文部省 初入閣
農林大臣 16 島田俊雄 衆議院
立憲政友会
(中島派)
商工大臣 19 藤原銀次郎 貴族院
無所属
(研究会)
初入閣
逓信大臣 46 勝正憲 衆議院
立憲民政党
初入閣
鉄道大臣 19 松野鶴平 衆議院
立憲政友会
(久原派)
初入閣
拓務大臣 17 小磯國昭 予備役陸軍大将
陸大22期
厚生大臣 5 吉田茂 内務省 初入閣
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官

[編集]

1940年(昭和15年)1月16日任命[1]

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣書記官長 43 石渡荘太郎 (大蔵省→)
貴族院[注釈 1]
法制局長官 40 広瀬久忠 (大蔵省→)
貴族院[注釈 1]
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

政務次官

[編集]

1940年(昭和15年)1月24日任命[2]

職名 氏名 出身等 備考
外務政務次官 小山谷蔵 衆議院/立憲民政党
内務政務次官 鶴見祐輔 衆議院/立憲民政党
大蔵政務次官 木村正義 衆議院/立憲政友会(中島派)
陸軍政務次官 三好英之 衆議院/立憲民政党
海軍政務次官 松山常次郎 衆議院/立憲政友会(中島派)
司法政務次官 星島二郎 衆議院/立憲政友会(中島派)
文部政務次官 舟橋清賢 貴族院/無所属(研究会)/子爵
農林政務次官 岡田喜久治 衆議院/立憲民政党
商工政務次官 加藤鐐五郎 衆議院/立憲政友会(中島派)
逓信政務次官 武知勇記 衆議院/立憲民政党
鉄道政務次官 宮澤裕 衆議院/立憲政友会(中島派)
拓務政務次官 松岡俊三 衆議院/立憲政友会(久原派)
厚生政務次官 一松定吉 衆議院/立憲民政党

参与官

[編集]

1940年(昭和15年)1月24日任命[2]

職名 氏名 出身等 備考
外務参与官 小高長三郎 衆議院/立憲政友会(中島派)
内務参与官 青山憲三 衆議院/立憲政友会(中島派)
大蔵参与官 松田正一 衆議院/立憲民政党
陸軍参与官 宮崎一 衆議院/立憲政友会(中島派)
海軍参与官 小山邦太郎 衆議院/立憲民政党
司法参与官 高木正得 貴族院/無所属(研究会)/子爵
文部参与官 仲井間宗一 衆議院/立憲民政党
農林参与官 松木弘 衆議院/立憲政友会(久原派)
商工参与官 喜多壮一郎 衆議院/立憲民政党
逓信参与官 藤生安太郎 衆議院/立憲政友会(久原派)
鉄道参与官 大島寅吉 衆議院/立憲民政党
拓務参与官 加藤成之 貴族院/無所属(公正会)/男爵
厚生参与官 飯村五郎 衆議院/立憲政友会(中島派)

勢力早見表

[編集]

※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

出身 国務大臣 政務次官 参与官 その他
りつけんせいゆうかいなかしまは立憲政友会中島派 1 5 4
りつけんせいゆうかいひさはらは立憲政友会久原派 1 1 2
りつけんみんせいとう立憲民政党 2 6 5
けんきゆうかい研究会 2 1 1
こうせいかい公正会 0 0 1
くんふ軍部 4 0 0
かんりよう官僚 4 0 0 法制局長官内閣書記官長
14 13 13

内閣の動き

[編集]

前の阿部内閣が瓦解した後、当初一部では陸軍大臣畑俊六が後継首班に噂されていた。折しも第二次世界大戦が勃発しポーランドを難なく分割占領したドイツの攻勢に触発されて、いよいよ日本でも防共協定から日独伊三国同盟締結を求める声が高まりをみせつつあった中、1940年(昭和15年)1月には日米通商航海条約が失効し、日米関係は両国開国以来の無条約時代に突入した。これを深く憂慮した昭和天皇は陸軍からの首班を忌避し、むしろこうした風潮に抗するには海軍からの首班こそが必要だと考えていた。

実は天皇には意中の人物がおり、その者の名を内大臣湯浅倉平に自ら推挙したのである。海軍の良識派として知られ、その温厚な人柄とも相まって人望が厚かった海軍大将米内光政その人である。天皇の方から後継首班の条件について意見した例は過去にもあったが( →「斎藤内閣」を参照)、天皇が特定の人物の名をあげて推挙するというのはまったく異例のことだった[3]

米内は組閣と同時に自ら現役を退いて予備役となった。現役の陸海軍大将に組閣の大命が下った例は他にも山県有朋、寺内正毅、山本権兵衛、加藤友三郎、東条英機があるが、彼らはいずれも現役のまま内閣総理大臣を務めており、組閣と同時に予備役というのは後にも先にもこの米内を除いて例を見ない。

米内は親英米派で日独伊三国同盟反対論者だったこと、近衛文麿らによる新体制運動を静観する姿勢を貫いたことなどにより、陸軍や親軍的な世論から不評を買う。特に畑ないし陸軍出身者に大命が降下すると確信していた陸軍部内は米内首班に激しく反発、これを「重臣ブロックの陰謀」と決めつけて非難した。米内内閣の倒閣運動は、その組閣と同時に始まったといえる。米内内閣発足直後に民政党斎藤隆夫議員が行ったいわゆる「反軍演説」に過剰な反応を示してついに斎藤を議員除名に至らせたのがその嚆矢となった。

しかし前年9月の第二次世界大戦勃発以降、防共協定を結んだ日本を軽視した同盟国のドイツとの関係が悪化する中で、ポーランド作戦が終わると約半年にも及ぶ「奇妙な戦争」と呼ばれる不戦期に入っていたが、これが実質的に米内内閣の存続条件となった。

しかし5月にナチス・ドイツのフランス侵攻が始まり、ドイツが破竹の進撃を続けて翌6月にはフランスを降伏に追い込むと、独伊への接近を企図する陸軍は日独伊三国軍事同盟の締結を目指して外交一新を掲げ、倒閣の意図をいよいよ明確に表し始める。米内内閣は、三国軍事同盟を締結すれば対英米開戦が必至になるとして反対の立場をとり続けた。7月4日、陸軍首脳部は「陸軍の総意」として参謀総長閑院宮載仁親王を通じて畑に陸相辞職を勧告、これを受けて畑は16日に帷幄上奏を行い単独で辞表を奉呈した。米内は後任の陸相を求めたが陸軍三長官会議はこれを拒絶、これで米内内閣は総辞職に追い込まれた。

米内は退陣声明の中で「(前略)內外重要國務の遂行につき全力を舉げて努力し來たりたるも、陸軍大臣は近時の政情に鑑み辞表を提出したるにより(後略)」と、それが陸軍による倒閣に他ならないことを明確に述べているが、個人的には畑陸相の単独辞任を彼本人の意思ではないとみていたともいわれ、その立場を最後まで崩すことはなかった。戦後極東国際軍事裁判において、A級戦犯被告となった畑がこの単独辞任について厳しく問われた際も、証人として2日に渡って出廷した米内は、畑が他から圧力を受けたものと思うと証言している[4]。米内は畑については、徹底して庇う証言を繰り返した。ただしその際、裁判長の注意をも無視するかのように、たびたび検事の質問に答えず自身の否定主張ばかりを繰り返す等して、裁判長からは信頼性のない証人として退廷させるところだと注意されている。結局、畑は訴因29、31の対英米戦遂行及び訴因1の戦争の共同謀議においても有罪[5]となっている。畑の部下らも含めた陸軍が、かねて三国同盟に熱心だった証拠品として検事が提出した新聞記事などの方が、よほど信頼性が高いとの印象を判事らに与えた可能性もある。

米内に軍人としての理想像を見出していたと考えられる昭和天皇には、米内について言及した記録が多く残っている。米内内閣が瓦解した際には、木戸幸一内大臣に「米內內閣を今日も尚」信任していること、そして「內外の情勢により更迭を見るは不得止とするも、自分の氣持ちは米內に傳へる樣に」命じていることや[6]、戦後も「もし米内内閣があのまま続いていたなら戦争(対米戦争)にはならなかったろうに」と悔いていたことが知られている[7]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ a b c 退任当日の1940年(昭和15年)7月16日、貴族院勅選議員勅任。

出典

[編集]

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]