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第1次近衛内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第一次近衛改造内閣から転送)
第1次近衛内閣
記念撮影に臨む閣僚
内閣総理大臣 第34代 近衛文麿
成立年月日 1937年昭和12年)6月4日
終了年月日 1939年(昭和14年)1月5日
与党・支持基盤 挙国一致内閣
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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第1次近衛内閣(だいいちじ このえないかく)は、貴族院議長近衛文麿が第34代内閣総理大臣に任命され、1937年昭和12年)6月4日から1939年(昭和14年)1月5日まで続いた日本の内閣

第1次近衛内閣

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国務大臣

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1937年(昭和12年)6月4日任命[1]。在職日数357日。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 34 近衛文麿 貴族院
無所属
(無会派[注釈 1]
公爵
初入閣
外務大臣 49 広田弘毅 貴族院
無所属
(無会派)
内務大臣 49 馬場鍈一 貴族院
無所属
研究会
1937年12月14日免[注釈 2][2]
50 末次信正 海軍大将
海大甲種7期
初入閣
1937年12月14日任[2]
大蔵大臣 37 賀屋興宣 大蔵省 初入閣
陸軍大臣 26 杉山元 陸軍大将
陸大22期
対満事務局総裁兼任 留任
海軍大臣 19 米内光政 海軍大将
海大甲種12期
留任
司法大臣 38 塩野季彦 司法省 留任
文部大臣 47 安井英二 内務省 初入閣
1937年10月22日免[注釈 3][3]
48 木戸幸一 貴族院
無所属
火曜会
侯爵
厚生大臣兼任 初入閣
1937年10月22日任[3]
農林大臣 12 有馬頼寧 貴族院
無所属
(研究会)
伯爵
初入閣
商工大臣 15 吉野信次 商工省 初入閣
逓信大臣 42 永井柳太郎 衆議院
立憲民政党
鉄道大臣 15 中島知久平 衆議院
立憲政友会
予備役海軍機関大尉
海大機関科
初入閣
拓務大臣 11 大谷尊由 貴族院
無所属
(研究会)
初入閣
厚生大臣 (厚生省未設置) 1938年1月11日設置
1 木戸幸一 貴族院
無所属
(火曜会)
侯爵
文部大臣兼任 1938年1月11日任[4]
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時などの一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官

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1937年(昭和12年)6月4日任命[1]

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣書記官長 39 風見章 衆議院
無所属
法制局長官 36 瀧正雄 衆議院
無所属
1937年10月25日免[注釈 4][5]
37 船田中 衆議院
立憲政友会
1937年10月25日任[5]
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時などの一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

政務次官

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1937年(昭和12年)6月24日任命[6]

職名 氏名 出身等 備考
外務政務次官 松本忠雄 衆議院/立憲民政党
内務政務次官 勝田永吉 衆議院/立憲民政党
大蔵政務次官 太田正孝 衆議院/立憲政友会
陸軍政務次官 加藤久米四郎 衆議院/立憲政友会
海軍政務次官 一宮房治郎 衆議院/立憲民政党
司法政務次官 久山知之 衆議院/立憲政友会
文部政務次官 内ヶ崎作三郎 衆議院/立憲民政党
農林政務次官 高橋守平 衆議院/立憲民政党
商工政務次官 木暮武太夫 衆議院/立憲政友会
逓信政務次官 田島勝太郎 衆議院/立憲民政党
鉄道政務次官 田尻生五 衆議院/立憲政友会
拓務政務次官 八角三郎 衆議院/立憲政友会
厚生政務次官 (厚生省未設置) 1938年1月11日設置
(欠員) 1938年1月18日まで
工藤鉄男 衆議院/立憲民政党 1938年1月18日任[7]

参与官

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1937年(昭和12年)6月24日任命[6]

職名 氏名 出身等 備考
外務参与官 船田中 衆議院/立憲政友会 1937年10月25日免[注釈 5]
(欠員) 1937年12月15日まで
春名成章 衆議院/旧昭和会 1937年12月15日任[8]
内務参与官 木村正義 衆議院/立憲民政党
大蔵参与官 中村三之丞 衆議院/立憲民政党
陸軍参与官 比佐昌平 衆議院/立憲民政党
海軍参与官 岸田正記 衆議院/旧昭和会
司法参与官 藤田若水 衆議院/立憲民政党
文部参与官 赤木桁平 衆議院/立憲民政党
農林参与官 助川啓四郎 衆議院/立憲政友会
商工参与官 佐藤謙之輔 衆議院/立憲民政党
逓信参与官 犬養健 衆議院/立憲政友会
鉄道参与官 金井正夫 衆議院/旧昭和会
拓務参与官 伊礼肇 衆議院/国民同盟
厚生参与官 (厚生省未設置) 1938年1月11日設置
(欠員) 1938年1月18日まで
山本芳治 衆議院/立憲政友会 1938年1月18日任[7]

第1次近衛改造内閣

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国務大臣

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1938年(昭和13年)5月26日任命[9]。在職日数225日(通算581日)。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 34 近衛文麿 貴族院
無所属
(無会派)
公爵
外務、拓務大臣兼任 留任
外務大臣 50 宇垣一成 陸軍大将
(陸大14期)
留任
1938年9月30日免[10]
51 近衛文麿 貴族院
無所属
(無会派)
公爵
内閣総理大臣、
拓務大臣兼任
1938年9月30日任[10]
1938年10月29日免[11]
52 有田八郎 貴族院
無所属
(無会派)
1938年10月29日任[11]
内務大臣 50 末次信正 海軍大将
(海大甲種7期)
留任
大蔵大臣 38 池田成彬 民間 商工大臣兼任 初入閣
陸軍大臣 26 杉山元 陸軍大将
(陸大22期)
対満事務局総裁兼任 留任
1938年6月3日免[12]
27 板垣征四郎 陸軍中将
陸大28期
対満事務局総裁兼任 初入閣
1938年6月3日任[12]
海軍大臣 19 米内光政 海軍中将
(海大甲種12期)
留任
司法大臣 38 塩野季彦 司法省 留任
文部大臣 49 荒木貞夫 予備役陸軍大将
男爵
農林大臣 12 有馬頼寧 貴族院
無所属
(研究会)
伯爵
留任
商工大臣 16 池田成彬 民間 大蔵大臣兼任
逓信大臣 42 永井柳太郎 衆議院
立憲民政党
留任
鉄道大臣 15 中島知久平 衆議院
立憲政友会
予備役海軍機関大尉
(海大機関科)
留任
拓務大臣 11 大谷尊由 貴族院
無所属
(研究会)
留任
1938年6月25日免[注釈 6][13]
12 宇垣一成 陸軍大将
(陸大14期)
外務大臣兼任 1938年6月25日任[13]
1938年9月30日免[10]
13 近衛文麿 貴族院
無所属
(無会派)
公爵
内閣総理大臣、
外務大臣兼任
1938年9月30日任[10]
1938年10月29日免[11]
14 八田嘉明 貴族院
無所属
(研究会)
初入閣
1938年10月29日任[11]
厚生大臣 1 木戸幸一 貴族院
無所属
(火曜会)
侯爵
留任[注釈 7]
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時などの一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官

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1938年(昭和13年)5月26日留任。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣書記官長 39 風見章 衆議院
無所属
留任
法制局長官 37 船田中 衆議院
立憲政友会
留任
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時などの一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。


政務次官

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1938年(昭和13年)5月26日留任。

職名 氏名 出身等 備考
外務政務次官 松本忠雄 衆議院/立憲民政党 留任
内務政務次官 勝田永吉 衆議院/立憲民政党 留任
大蔵政務次官 太田正孝 衆議院/立憲政友会 留任
陸軍政務次官 加藤久米四郎 衆議院/立憲政友会 留任
海軍政務次官 一宮房治郎 衆議院/立憲民政党 留任
司法政務次官 久山知之 衆議院/立憲政友会 留任
文部政務次官 内ヶ崎作三郎 衆議院/立憲民政党 留任
農林政務次官 高橋守平 衆議院/立憲民政党 留任
商工政務次官 木暮武太夫 衆議院/立憲政友会 留任
逓信政務次官 田島勝太郎 衆議院/立憲民政党 留任
鉄道政務次官 田尻生五 衆議院/立憲政友会 留任
拓務政務次官 八角三郎 衆議院/立憲政友会 留任
厚生政務次官 工藤鉄男 衆議院/立憲民政党 留任

参与官

[編集]

1938年(昭和13年)5月26日留任。

職名 氏名 出身等 備考
外務参与官 春名成章 衆議院/旧昭和会 留任
内務参与官 木村正義 衆議院/立憲民政党 留任
大蔵参与官 中村三之丞 衆議院/立憲民政党 留任
陸軍参与官 比佐昌平 衆議院/立憲民政党 留任
海軍参与官 岸田正記 衆議院/旧昭和会 留任
司法参与官 藤田若水 衆議院/立憲民政党 留任
文部参与官 赤木桁平 衆議院/立憲民政党 留任
農林参与官 助川啓四郎 衆議院/立憲政友会 留任
商工参与官 佐藤謙之輔 衆議院/立憲民政党 留任
逓信参与官 犬養健 衆議院/立憲政友会 留任
鉄道参与官 金井正夫 衆議院/旧昭和会 留任
拓務参与官 伊礼肇 衆議院/国民同盟 留任
厚生参与官 山本芳治 衆議院/立憲政友会 留任

勢力早見表

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内閣発足当初

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※ 前内閣の事務引継は除く。

出身 国務大臣 政務次官 参与官 その他
りつけんせいゆうかい立憲政友会 1 6 3
りつけんみんせいとう立憲民政党 1 6 6
しようわかい昭和会 0 0 2
こくみんとうめい国民同盟 0 0 1
けんきゆうかい研究会 3 0 0
むしよそく無所属 2 0 0 内閣書記官長法制局長官
くんふ軍部 2 0 0
かんりよう官僚 4 0 0
みんかんしん民間 0 0 0
13 12 12

内閣改造後

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※ 改造前の事務引継は除く。

出身 国務大臣 政務次官 参与官 その他
りつけんせいゆうかい立憲政友会 1 6 3
りつけんみんせいとう立憲民政党 1 7 6
しようわかい昭和会 0 0 3
こくみんとうめい国民同盟 0 0 1
けんきゆうかい研究会 2 0 0
かようかい火曜会 1 0 0
むしよそく無所属 1 0 0 内閣書記官長、法制局長官
くんふ軍部 5 0 0
かんりよう官僚 1 0 0
みんかんしん民間 1 0 0 国務大臣のべ2
13 13 13 国務大臣のべ14

内閣の動き

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1930年代半ばの日本は、世論の支持を背景に社会の革新と総動員体制への移行を目指す軍部と、議会に議席を持つ政党とが対立しており、陸軍出身の林銑十郎首相は議会の大多数を占める二大政党(立憲民政党および立憲政友会)を敵に回して第20回衆議院議員総選挙で大惨敗した結果、在任4か月に終わる。西園寺公望元老は後任として、声望の高い近衛文麿貴族院議長を推挙することとし、近衛内閣が成立。近衛首相は施政方針として「相剋摩擦の緩和」を掲げ、特に国民向けのラジオ演説を行うなど、従来の首相にはない新鮮さが世論の支持を受けるところとなった。

主な政策
  • 日華事変…1937年7月7日、盧溝橋事件が引き金となって日華両軍の武力衝突が発生。勃発当初、陸軍は戦線拡大に消極的であり[注釈 8]、現地の両軍の間では停戦交渉がもたれる。しかし、メディアを席巻した強硬論に迎合する形で、近衛首相は強硬に軍事進出を訴える。また、海軍は当初は中支の在留邦人の引揚支援等に留まっていたが、8月9日の大山事件がきっかけとなって強硬論に転じる。かくして8月15日、政府は「南京政府断固膺懲」を声明、全面対決に踏み切ることとなった[15]。戦闘自体は日本側の優位に進む、同年末には中華民国の首都・南京を占領するが、和平交渉(トラウトマン工作、孔祥熙工作、渡辺工作等)は、世論に引きずられた日本側の強硬な態度(近衛声明)によっていずれも失敗に終わり[16]、日華両国の戦いは1945年まで長期化することとなる。
  • 企画院発足…近衛内閣発足前から、第一次世界大戦のような総力戦の再来に備えて、国策を合理的に遂行するための社会の革新化が政府内で計画されていたが、日華事変の勃発に伴い、革新化の流れが加速する。内閣直属の革新政策の研究機関として企画庁が存在したが、これを総動員にかかる実務を担当する機関への拡充が図られ、1937年10月、企画院へ改組される[17]
  • 統制関連法の成立…1937年秋より総動員体制確立のための種々の関連法案が成立する。中核を占める国家総動員法は1938年2月に帝国議会に提出され、民政党・政友会の保守二大政党は反対するが、革新政党として躍進していた社会大衆党国家社会主義の観点から積極的に賛成の立場を表明する。そして、近衛首相本人の人気および事変が進行中であるという時局から、両党も便乗的な雰囲気から賛成に回り、3月24日、同法は成立する。一連の関連法案を含む政府提出法案は、全件可決という高成績を見た[18]
  • 政党合同運動…1938年1月以降、政友会院外団を起点として、全政党が解党、新党を結成して、一国一党(ファシズム)によりこの時局を乗り切ることが提唱されるようになる[17]。この時の動きは、総動員法の審議に当たり近衛首相の声望を高めるために利用されたところがあり、総動員法の成立と同時に一旦沙汰闇となる。

近衛首相は、総動員法が成立した1938年3月頃から辞意を周囲に漏らすようになる。西園寺元老らの慰留によって、5月に内閣改造、一旦は留任となるが、9月頃から政党合同運動がまた盛り返し、近衛首相が新政党の党首に擬せられるようになると、近衛首相はこの動きに嫌気がさし、12月末に突如として辞任。翌年1月、後継の平沼騏一郎枢密院議長が立つ。

脚注

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注釈

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  1. ^ 近衛は火曜会に所属していたが、貴族院議長ならびに内閣総理大臣在任中は無会派。
  2. ^ 病気療養のため辞任。1週間後に心筋梗塞で死去。
  3. ^ 病気療養のため辞任。
  4. ^ 企画院総裁に転出。
  5. ^ 1937年(昭和12年)10月25日法制局長官に転出。
  6. ^ 北支那開発総裁に転出。
  7. ^ 文相兼任から厚相専任。
  8. ^ 当時の陸軍は、省内最大派閥である一夕会統制派の領袖であった林前首相が失脚した直後であり、組織としての立て直しを行っている段階であった。個別の幹部でも、杉山元陸相は積極的に軍事行動などの政治決断を行う性格ではなく、参謀本部の実務を差配していた石原莞爾第一部長は対ソ警戒を理由に事変拡大には反対であった[14]

出典

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参考文献

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  • 倉山満『検証 財務省の近現代史 政治との闘い150年を読む』光文社東京都文京区〈光文社新書〉、2012年3月20日。ISBN 978-4-334-03674-4 
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年
  • 升味準之輔『日本政治史 第3巻 政党の凋落、総力戦体制』東京大学出版会東京都文京区、1988年7月8日。ISBN 4-13-033043-8 
  • 升味準之輔『新装版 日本政党史論 第6巻 挙国一致と政党』東京大学出版会東京都文京区、2011年12月15日。ISBN 978-4-13-034276-6 
  • 関口哲矢著『昭和期の内閣と戦争指導体制』吉川弘文館、2016年、オンデマンド版 2024年 ISBN 9784642738569

関連項目

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外部リンク

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