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竹中七郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
竹中 七郎
たけなか しちろう
生年月日 1895年4月25日
出生地 愛知県碧海郡刈谷町肴町
(現刈谷市
没年月日 (1959-07-23) 1959年7月23日(64歳没)
出身校 愛知県立医学専門学校
(現名古屋大学医学部)
前職 医師
称号 正五位
勲四等旭日小綬章

選挙区 愛知県地方区
当選回数 1回
在任期間 1947年 - 1950年
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竹中 七郎(たけなか しちろう、1895年明治28年)4月25日[1] - 1959年昭和34年)7月23日[1][2])は、大正から昭和期の医師政治家参議院議員(1期)、愛知県碧海郡刈谷町長、刈谷市長。刈谷市名誉市民[1]

経歴

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愛知県[2]碧海郡刈谷町肴町(現刈谷市)で、紺屋業・竹中石松の長男として生まれる[1]。1913年(大正2年)、愛知県立第二中学校(現愛知県立岡崎高等学校)卒業[1][3]。1918年(大正7年)愛知県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)を卒業した[1][2]。同年、愛知県立愛知病院(現名古屋大学医学部附属病院)に勤務し、1921年(大正10年)耳鼻咽喉科病院を開業した[1][2]

1932年(昭和7年)刈谷町会議員に選出され、以後、刈谷町長、愛知県町村長会長、愛知県会議員などを務めた[1][2]

1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙愛知県地方区に無所属で出馬して当選し[1][4]、参議院議員に1期在任した[2]。この間、民主党総務、国民民主党両院議員会長、参議院通商産業委員長などを務めた[2]。その後、1953年(昭和28年)4月の第3回通常選挙自由党公認で立候補したが落選した[4]

1955年(昭和30年)7月20日、刈谷市長に就任[1]。教育、土木、民生事業に重点を置いた施策を推進した[1]。病のため1期で1959年7月19日に市長を退任し、同月23日に死去[1]。名誉市民の称号が贈られ市民葬が行われた[1]。死没日をもって勲四等旭日小綬章追贈、正五位に叙される[5]

その他、豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)顧問、豊田製鋼(現愛知製鋼)監査役なども務めた[2]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本の歴代市長』第2巻、497頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』350頁。
  3. ^ 『岡高同窓会名簿 1986』 愛知県立岡崎高等学校同窓会長、1986年10月1日、14頁。
  4. ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』471頁。
  5. ^ 『官報』第9780号578頁 昭和34年7月30日号

参考文献

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  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第2巻、歴代知事編纂会、1984年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
議会
先代
深川栄左衛門
日本の旗 参議院通商産業委員長 次代
結城安次
公職
先代
岡本謹平
愛知県刈谷市長
1955年 - 1959年
次代
高田一郎