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移剌元臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

移剌 元臣(いらつ げんしん、? - 1293年)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。

概要

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移剌元臣は最初期にモンゴル帝国に降った移剌捏児の子の移剌買奴の息子であった。

元臣は父同様に16歳にして宿衛(ケシクテイ)に入ったが、応対に優れていたため、クビライは丞相のコルコスンに「この勲臣の子は非凡な器である」と述べたという。 そこで、元臣はケシクテイのビチクチに任命され、父の地位を継いでミンガン(千人隊)を率いた。南宋侵攻が始まると元臣は淮西方面軍に属し、瓜洲・通州・泰州の攻略に功績を挙げた[1]

1275年(至元12年)にはバヤン軍に属し、武義将軍・中衛親軍総管の地位を得た。1277年(至元14年)、シリギの乱に呼応して応昌で叛乱を起こしたジルワダイ討伐に派遣され、ジルワダイ軍の撃破およびジルワダイの捕縛に功績を挙げた。その後、ジルワダイによって捕らわれたの身となっていた魯国公主は元臣に応昌に留まるよう要望したため、元臣は1年間応昌に滞在した。一時京師に召還されて明威将軍・後衛親軍副都指揮使に任じられた後も応昌への駐屯を続け、その間昭勇大将軍に昇格となった[2][3]

1285年(至元22年)には昭毅大将軍・同僉江淮行枢密院事となり、行枢密院事が廃止となると高州に帰った。ナヤンの乱が勃発した際には元臣は僅か50の兵を率いて先鋒を務めることを申し出たという。1291年(至元28年)には僉湖広行枢密院に移り、渓洞の施州・容州らの蛮の叛乱を平定した、その後1293年(至元30年)に在職中に亡くなった[4]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻149列伝36移剌捏児伝,「元臣、別名哈剌哈孫、年十六入宿衛、応対進止有度、世祖謂丞相和魯火孫曰『此勲臣子、非凡器也』。以為怯薛必闍赤、襲千戸、将其父軍。従伐宋、攻淮西、戍清口、取瓜洲、下通・泰、累有功」
  2. ^ 松田1992,106頁
  3. ^ 『元史』巻149列伝36移剌捏児伝,「至元十二年、従丞相伯顔平宋、進階武義将軍・中衛親軍総管、佩金虎符。十四年、只児瓦台叛、囲応昌府、時皇女魯国公主在囲中。元臣以所部軍馳撃、只児瓦台敗走、追至魚児濼、擒之、公主賜賚甚厚、奏請暫留元臣鎮応昌、以安反側。居一歳、召至京師、遷明威将軍・後衛親軍副都指揮使、還鎮応昌。又三歳、召還、加昭勇大将軍。十九年、帝以所籍入権臣家婦賜之、元臣辞曰『臣家世清素、不敢自汚』。帝嘉嘆不已」
  4. ^ 『元史』巻149列伝36移剌捏児伝,「二十二年、進昭毅大将軍、同僉江淮行枢密院事。行院罷、帰高州。帝親征乃顔、元臣率家僮五十人見行在所、願効前駆。八年、移僉湖広行枢密院、時渓洞施・容等州蛮獠作乱、元臣親入其境、喩以禍福、賊首魯万丑降。三十年、卒于官。贈安遠功臣・龍虎衛上将軍・同知枢密院事、追封興国公、諡忠靖。子迪、中奉大夫・湖広宣慰使都元帥」

参考文献

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  • 松田孝一「モンゴル帝国東部国境の探馬赤軍団」『内陸アジア史研究』第7/8合併号、1992年
  • 元史』巻149列伝36移剌捏児伝
  • 新元史』巻135列伝32移剌捏児伝
  • 蒙兀児史記』巻49列伝31移剌捏児伝