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石天応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石 天応(せき てんおう、1162年 - 1222年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。字は瑞之。興中府永徳県の出身。

概要

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石天応は騎射を得意とする一方で読書も嗜み、郷里の人から慕われる人物であった。チンギス・カンによる金朝侵攻が始まると、石天応は左翼万人隊長のムカリ率いる軍団に投降した。そこでムカリは石天応に興中府尹・兵馬都提控の地位を授け、石天応はモンゴル軍に属するようになった。石天応は武器の建造や臨機応変な用兵によって信任を得、更に龍虎衛上将軍・元帥右監軍の地位を授けられた。石天応の部隊は黒色の旗を用いていたため、人々からは「黒軍」と呼ばれていたという。石天応はムカリの下で大小200余りの戦を戦い、常に先陣を切って奮戦したため、 功績により右副元帥の地位を授けられた[1]

1221年辛巳)8月、陝西方面へ侵攻するに当たり、石天応は西夏領の東勝済河を経由して南下し、葭州を攻略した。そこで石天応はムカリに対して「西夏はモンゴルに降ったといっても、信用できません。この州(葭州)は金朝・西夏国境地帯の要衝であり、住民は壮健にして倉庫の備蓄は豊富です。有力な将軍にこの地を守らせ、船を多く建造し守らせればよいでしょう」と進言したため、これを受けてムカリは石天応に金紫光禄大夫・陝西河東路行台兵馬都元帥の地位を授け、5000の兵とともに葭州に駐屯させた。石天応は自らの進言通り多く舟を建造して船橋を作ろうとしたものの、諸将の多くは増水により船橋が流されてしまうことを恐れた。しかし、石天応は反対意見を封じて船橋の建造を断行し、遂にこれが完成すると諸将はみな喜び従った。また、王公佐が失地回復のため函谷関を攻めてきたが、船橋が完成しているのを見て撤退し、石天応は葭州・綏州一帯を平定することに成功した[2]

その後、石天応は汾水の東でムカリから河中方面に進出するよう指示を受け、石天応は本拠に戻ると配下の諸将に今後の方策について諮った。そこである者は「河中は南に潼関があり、西には京兆があり、いずれも金軍が駐屯している。また新たに降った民は未だ心が一つとは言えず、守備にも不安があります」と述べて河中への進出を諫めた。しかし、石天応は河中が要衝の地でありまさに武功を立てるべき地であること、また自らは既に60歳の高齢でこれ以上功名を立てられないまま病牀に伏すことは耐えられないことを述べ、河中への進出を強行した[3]

同年9月、石天応は遂に軍を率いて河中に移ったが、既に石天応の動きを察知していた金軍は河中を襲った。石天応はこれに対し配下の呉沢を伏兵として要路に置き備えとしたが、呉沢は酒を飲んで酩酊してしまい、金軍はその隙に間道を進んで河中府城下に到った。石天応側は守備の準備が整っておらず、動揺した新参の兵達は次々に逃れ去ったため、金軍はこれに乗じて攻撃を始めた。石天応は自ら奮戦したものの従う者は40騎余りとなってしまい、配下の者達は「呉沢が我らを害したのだ」と語り、また西に向かって河を渡るべきであると進言した。しかし、石天応は「先に配下の者達は我が南に向かうのを諫めたのに、我はそれを無視してここまで到ってしまった。太師ムカリは我が罪を許してくれたというのに、このままでは何の面目があって見えることができようか。今となってはただ死ぬことしかできない。汝らも励め」と述べて徹底抗戦を選び、激戦の末戦死した。後に、これを聞いたムカリは石天応の死を痛み惜しんだという[4]

石天応の死後、息子の石煥中・石執中・石受中らはいずれもモンゴル帝国に仕えた[5]。また、石佐中(石天応の弟の石天禹の子)は河中の敗戦から辛うじて生き残り、ムカリの助けを得て石天応の仇を討った。石佐中の子の石安琬クビライに仕えて活躍している[6]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻149列伝36石天応伝,「石天応字瑞之、興中永徳人。善騎射、豪爽不羈、頗知読書、郷里人多帰之。太祖時、太師・国王木華黎南下、天応率衆迎謁軍門。木華黎即承制授興中府尹・兵馬都提控、俾従南征。天応造戦攻之具、臨機応変、捷出如神、以功拝龍虎衛上将軍・元帥右監軍、戍燕。天応旌旗色用黒、人目之曰黒軍。屡従木華黎、大小二百餘戦、常以身先士卒、累功遷右副元帥」
  2. ^ 『元史』巻149列伝36石天応伝,「辛巳秋八月、従木華黎征陝右、假道西夏、自東勝済河、南攻葭州抜之。天応因説太師曰『西戎雖降、実未可信。此州当金・夏之衝、居人健勇、倉庫豊実、加以長河為限、脱為敵軍所梗、緩急非便、宜命将守之、多造舟楫、以備不虞、此万世計也』。木華黎然之、表授金紫光禄大夫・陝西河東路行台兵馬都元帥、以勁兵五千、留守葭蘆。遂造舟楫、建浮橋、諸将多言水漲波悪、恐労費無功、天応下令曰『有沮吾事者、断其舌』。橋成、諸将悦服。先時、葭守王公佐収合餘燼、攻函谷関、将図復故地、及見橋成、遂潰去。於是分兵四出、悉定葭・綏之地」
  3. ^ 『元史』巻149列伝36石天応伝,「一日、謁木華黎於汾水東、木華黎諭以進取之策。天応還鎮、召将佐謂曰『吾累卿等留屯於此、今聞河中東西皆平川広野、可以駐軍、規取関陝、諸君以為如何』。或諌曰『河中雖用武之地、南有潼関、西有京兆、皆金軍所屯。且民新附、其心未一、守之恐貽噬臍之悔』。天応曰『葭州正通鄜・延、今鄜已平、延不孤立、若発国書、令夏人取之、猶掌中物耳。且国家之急、本在河南、此州路険地僻、転餉甚難、河中雖迫於二鎮、実用武立功之地、北接汾・晋、西連同・華、地五千餘里、戸数十万、若起漕運以通餽餉、則関内可剋期而定、関内既定、長河以南、在吾目中矣。吾年垂六十、老耄将至、一旦臥病牀第、聞後生輩立功名、死不瞑目矣。男児要当死戦陣以報国、是吾志也』」
  4. ^ 『元史』巻149列伝36石天応伝,「秋九月、遂移軍河中。既而金軍果潜入中条、襲河中。天応知之、先遣驍将呉沢伏兵要路。沢勇而嗜酒、是夕、方酔臥林中、金兵由間道已直抵城下。時兵燼後、守具未完、新附者争縋而去、敵乗隙入。天応見火挙、知敵已入、奮身角戦、左右従者四十餘騎、皆曰『呉沢誤我』。或勧西渡河、天応曰『先時人諌我南遷、吾違衆而来此、事急棄去、是不武也。縦太師不罪我、何面目以見同列乎。今日惟死而已、汝等勉之』。少頃、敵兵四合、天応飲血力戦、至日午、死之。木華黎聞而痛惜焉」
  5. ^ 『元史』巻149列伝36石天応伝,「子煥中、知興中府事。執中、行軍千戸。受中、興中府相副官」
  6. ^ 『元史』巻149列伝36石天応伝,「初、天応死事時、弟天禹子佐中在軍中。伺敵少懈、倒抽其斧、反斫之、突城而出、趨木華黎行営、求得蒙古軍数千、回与敵戦、敗之。木華黎嘉其勇、奏授金符、行元帥。尋詔将官各就本城、授興中府千戸。子安琬、襲職、佩金符、従征大理、討李璮、皆有功。十三年、隆興之分寧叛、行省檄安琬討之。賊背山而陣、安琬引兵出陣後、賊驚潰、退而距守。安琬揮兵直抵塁門、賊揚言曰『願少容行伍而戦、死且不憾』。安琬従之、賊果出陣、安琬突陣而入、大呼曰『吾止誅賊首、庸卒非我敵也』。手刃中賊背、生擒之。累功至右衛親軍副都指揮使、進階懐遠大将軍、賜金虎符、後授大同等処万戸、領江左新附卒万人、屯田紅城。大徳三年、李万戸当戍和寧、親老且病、安琬請代其行、及還、以病卒。子居謙襲職、後改忠翊侍衛親軍都指揮使」

参考文献

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  • 元史』巻149列伝36石天応伝
  • 新元史』巻146列伝43石天応伝