真田幸民
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代初期 |
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生誕 | 嘉永3年4月17日(1850年5月28日) |
死没 | 明治36年(1903年)9月8日 |
改名 | 保麿(幼名) |
墓所 |
長野県長野市松代町松代の長国寺 青山霊園 |
官位 | 従五位信濃守、従二位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 信濃松代藩主 |
氏族 | 真田氏 |
父母 |
父:伊達宗城、母:栄信院(武田氏) 養父:真田幸教 |
兄弟 | 幸民、伊達宗敦、柳原初子、武丸、奥平昌邁、松根敏、理、三井照子、瀧脇信広、松田幾、牧野忠良、伊達宗倫、阪田泰、伊達宗曜、伊達方正、蒔田広城、伊達善重、園子 |
妻 |
正室:大村純熈の次女・隆子(利宇・真隆院) 継室:伊東祐相の娘・宏子(真宏院) 継室:島津久光の養女(竹内治則の娘)・輯子(おさこ、真浄院) |
子 | 幸正(長男)、幸久(次男)、清棲幸保(三男)、松子(島津忠麿正室)、田鶴子(大村純英正室)、信子(藤堂高紹正室) |
真田 幸民(さなだ ゆきもと)は、江戸時代末期の大名、明治時代の日本の華族(伯爵)。信濃松代藩の第10代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事。血統上は伊達政宗の男系子孫である。
生涯
[編集]伊予宇和島藩主・伊達宗城の長男。幼名は保麿。先代藩主・真田幸教の養嗣子となる。慶応2年(1866年)3月9日、養父・幸教の隠居により、家督を相続した。同年4月25日、従五位下信濃守に叙任した。慶応4年(1868年)1月19日、旧幕府から甲府城代を命じられる。同年1月25日、辞退する。戊辰戦争に際しては、2月頃から新政府側として行動する。同年3月3日、新政府から甲府城代を命じられる。また、北越戦争、会津戦争へ出兵し、重要な戦功を挙げた。これにより新政府から賞典禄3万石を加増された。
明治2年(1869年)1月、上洛する。同年6月、版籍奉還により知藩事となった。明治3年(1870年)、松代騒動が勃発し、一揆勢の説諭にあたる。明治4年(1871年)、廃藩置県で免官となる。
明治5年(1872年)4月、横浜港を出発し、欧米各国を視察した。明治6年1月、帰国した。明治17年(1884年)に子爵、明治24年(1891年)に伯爵となった。明治36年(1903年)9月8日、東京で死去した。享年54。
栄典
[編集]家族
[編集]- 父:伊達宗城(伊予宇和島藩第8代藩主)
- 母:栄信院、栄、栄浦(武田氏)
- 養父:真田幸教(信濃松代藩第9代藩主)
- 正室:大村隆子(真隆院、大村純熈の次女)[注 1]
- 継室:伊東宏子(真宏院、伊東祐相の娘)[注 7]
- 継室:島津輯子(真浄院、島津久光の養女、竹内治則の娘)[注 8]
脚注
[編集]注釈
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 陞爵 |
伯爵 (松代)真田家初代 1891年 - 1903年 |
次代 真田幸正 |
先代 叙爵 |
子爵 (松代)真田家初代 1884年 - 1891年 |
次代 陞爵 |