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真田幸民

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
真田幸民
時代 江戸時代後期 - 明治時代初期
生誕 嘉永3年4月17日1850年5月28日
死没 明治36年(1903年9月8日
改名 保麿(幼名)
墓所 長野県長野市松代町松代の長国寺
青山霊園
官位 従五位信濃守、従二位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
信濃松代藩
氏族 真田氏
父母 伊達宗城:栄信院(武田氏)
養父:真田幸教
兄弟 幸民伊達宗敦柳原初子、武丸、奥平昌邁松根敏、理、三井照子瀧脇信広松田幾牧野忠良伊達宗倫阪田泰伊達宗曜、伊達方正、蒔田広城伊達善重、園子
正室:大村純熈の次女・隆子利宇真隆院
継室:伊東祐相の娘・宏子真宏院
継室:島津久光の養女(竹内治則の娘)・輯子おさこ真浄院
幸正(長男)、幸久(次男)、清棲幸保(三男)、松子(島津忠麿正室)、田鶴子(大村純英正室)、信子(藤堂高紹正室)
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真田 幸民(さなだ ゆきもと)は、江戸時代末期の大名、明治時代の日本華族伯爵)。信濃松代藩の第10代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事。血統上は伊達政宗の男系子孫である。

生涯

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伊予宇和島藩主・伊達宗城の長男。幼名は保麿。先代藩主・真田幸教の養嗣子となる。慶応2年(1866年)3月9日、養父・幸教の隠居により、家督を相続した。同年4月25日、従五位下信濃守に叙任した。慶応4年(1868年)1月19日、旧幕府から甲府城代を命じられる。同年1月25日、辞退する。戊辰戦争に際しては、2月頃から新政府側として行動する。同年3月3日、新政府から甲府城代を命じられる。また、北越戦争会津戦争へ出兵し、重要な戦功を挙げた。これにより新政府から賞典禄3万石を加増された。

明治2年(1869年)1月、上洛する。同年6月、版籍奉還により知藩事となった。明治3年(1870年)、松代騒動が勃発し、一揆勢の説諭にあたる。明治4年(1871年)、廃藩置県で免官となる。

明治5年(1872年)4月、横浜港を出発し、欧米各国を視察した。明治6年1月、帰国した。明治17年(1884年)に子爵、明治24年(1891年)に伯爵となった。明治36年(1903年)9月8日、東京で死去した。享年54。

栄典

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家族

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脚注

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  1. ^ 『官報』第308号、1884年7月9日。
  2. ^ 『官報』第610号「賞勲叙任」1885年7月14日。
  3. ^ 『官報』第2342号、明治24年4月24日。
  4. ^ 認許状の文書あり

注釈

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  1. ^ ?~明治17年(1884年
  2. ^ 明治9年(1876年)3月7日~明治39年(1917年)9月
  3. ^ 明治11年(1878年)~昭和18年(1943年
  4. ^ (明治13年(1880年)~?
  5. ^ 明治15年(1882年)~昭和40年(1965年
  6. ^ 明治17年(1884年)~昭和48年(1973年
  7. ^ 1864年)~明治32年(1899年
  8. ^ 元治元年4月17日(1864年5月16日)~昭和3年(1928年)10月15日
  9. ^ 明治34年(1901年)~昭和50年(1975年
日本の爵位
先代
陞爵
伯爵
松代真田家初代
1891年 - 1903年
次代
真田幸正
先代
叙爵
子爵
(松代)真田家初代
1884年 - 1891年
次代
陞爵