伊東祐相
伊東 祐相 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文化9年8月12日(1812年9月17日) |
死没 | 明治7年10月21日(1874年10月21日) |
改名 | 彦松(幼名)、祐相 |
墓所 | 谷中霊園 |
官位 | 従五位下左京大夫、修理大夫 |
幕府 | 江戸幕府奏者番 |
主君 | 徳川家斉→家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 日向飫肥藩主 |
氏族 | 日向伊東氏 |
父母 |
父:伊東祐民 母:浅野重晟娘 |
妻 |
正室:水野忠邦娘 継室:三浦義次養方叔母ら多数 |
子 | 祐帰、徽美、亀井茲明正室、本堂親久正室、宏子、亀井茲明継室、久 |
伊東 祐相(いとう すけとも)は、江戸時代後期の大名。日向国飫肥藩の第13代藩主。江戸幕府奏者番。藩知事。
経歴
[編集]第11代藩主・伊東祐民の長男として江戸に生まれる。父・祐民は文化9年6月29日、祐相の誕生に先立って死去しており、祐民の弟で祐相の叔父・祐丕が家督を継いでいた。文化11年(1814年)、祐丕が嗣子無くして死去したため、3歳で家督を継いだ。
藩政においては殖産興業政策、軍制改革、海防のための砲台建設、養蚕業の奨励や運輸業の改革、飫肥藩教学の確立などに努め、多くの成功を収めた。後にこの教学により郷校・明教堂が建設され、阿万豊蔵、落合双石など多くの人材を輩出している。明治期に入ると薩摩藩に従って新政府側に与し、戊辰戦争では二条城と甲府城の守備を務めた。
明治2年(1869年)の版籍奉還により藩知事となったが、同年7月23日に長男・祐帰に家督を譲って隠居した。明治7年(1874年)10月21日、63歳で死去した。墓所は谷中霊園甲8-21と日南市旧報恩寺。
系譜
[編集]父母
正室、継室
子女
主要家臣
[編集]天保14年の武鑑や飫肥藩分限帳に見える家臣
[編集]『大武鑑』掲載の天保14年(1843年)刊行の江戸武鑑に掲載される主要家臣。なお、参考文献では原本の一部しか記載していないので、記載分のみ。また、括弧内の石高などは天保13年(1842年)の『飫肥藩分限帳』で補足。
- 家老
- 河崎権助
- 川崎一学
- 川崎宮内
- 伊東中務(高300石、飫肥城下の馬廻)
- 河崎縫殿助
- 中老
- 松岡勝四郎
以下は「飫肥藩分限帳」に記載の主な藩士
- 高65石 長倉喜太郎(飫肥城下の馬廻)
- 高65石 安井仲平(飫肥城下の馬廻)
- 高100石 御加増 阿萬豊蔵(清武の馬廻)
参考文献
[編集]関連作品
[編集]松竹によって2007年2月、劇化された。演出はラサール石井。
他の出演:
上演当時の惹句
「黒船が来航する幕末、宮崎の小藩に実在した藩主・伊東祐相を中心に繰り広げる人情喜劇!殿のちょんまげの運命は果たして如何に!?どっと笑って、ほろりと泣いて、新橋演舞場でひと足早い「笑春」をお楽しみ下さい。」
あえて、史実と大幅に異なるストーリーとしている。伊東祐相は明治維新に伴い、武士を辞めて市井の人となっていた。しかし、県の圧政に苦しむ人民を救うため立ち上がり、県民の圧倒的支持を得て自らが知事になる… というものである。