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伊東祐堯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊東祐堯
時代 室町時代
生誕 応永16年(1409年
死没 文明17年4月28日1485年6月10日
改名 六郎
別名 大和守
戒名 源徳本公惣昌院
墓所 宮崎県宮崎市清武の大安寺(惣昌院)跡及び伊東祐堯の墓(清武町指定史跡)
氏族 日向伊東氏
父母 父:伊東祐立?、伊東祐武?
兄弟 祐武?、祐堯祐賀祐為祐幸祐友
存忠祐豊
(日向記)祐家祐堯祐郡
正室:土持氏
土持堯綱室、祐国島津立久室、祐邑
祐英祐円祐兄佐土原豊前守室、祐岑右松宮内少輔室、幻生、玉阿、大賢、
男子(出家)、一海法印、男子(出家)、祐具祐運長倉若狭守室、伊東美作守室、
佐々宇津近江守室、清武三郎室、
上別府尾張守室、清武兵部少輔室、
伊東河内守
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伊東 祐堯(いとう すけたか)は、室町時代武将日向伊東氏6代(伊東氏11代)当主。

伊東祐立の子とされるが、一説には祐立には祐武という子が別におり、祐武の子が祐堯とも言われる。

生涯

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文安元年(1444年)、伊東祐立の死去により36歳で家督を継ぐ(『日向記』によると、祐立の家督を継ぐ筈であった祐家を、家督簒奪を目論んだ祐郡が殺害、この不義を家臣が認めず、祐郡を追放し祐堯を擁立したとある)。反抗的な一族の討伐に乗り出し、まず宮崎城曽井氏を攻め滅ぼした。翌文安2年(1445年)以降も土持氏の同意を得て門川、穆佐清武など各地の城主を次々と破り、傘下に収めていく。

日向国内に武威を示すと次に守護職を求めたが、土持氏の反発によって実現しなかった。そのため康正2年(1456年)に開戦に踏み切り、財部土持金綱を滅ぼして平野部から土持氏の勢力を駆逐する。こうして北は門川、南は紫波洲崎までを支配するようになり、国内外に伊東氏の存在感を強めた。

寛正2年(1461年)には再び京に使者を送り、室町幕府8代将軍足利義政から「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、渋谷はこれを除く」という内容の御教書を得ている。ただし、これは伊東氏によって創作された偽文書である可能性が高いとされる[1]

島津氏とは友好的な関係にあり、寛正5年(1464年)には島津立久と鵜戸山で会見し和議を調えている。ところが文明2年(1480年)に島津氏が紫波洲崎城を攻めたことで、両家は再び敵対することになった。

文明17年(1485年)、島津氏の内紛に介入し、島津忠昌と対立した伊作家の島津久逸の求めに応じて飫肥城新納忠続を攻撃するため子の祐国と共に出陣中に清武城で死去。享年77。

祐国、祐邑など男女合わせて25人の子に恵まれた。

脚注

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  1. ^ 宮地輝和「中世日向伊東氏関係文書の基礎的研究」『九州史学』164号、2012年。

外部リンク

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