畠山雄三
畠山 雄三(はたけやま ゆうぞう、1851年4月13日(嘉永4年3月12日[1][注釈 1])- 1932年(昭和7年)1月24日[1][2][3])は、明治から昭和初期の農業指導者、政治家。衆議院議員、秋田県会議長。旧姓・長岐。
経歴
[編集]出羽国秋田郡七日市村[1](秋田県[3]北秋田郡七日市村[4]、鷹巣町[2]を経て現北秋田市七日市)で、素封家・長岐家の三男として生まれた[1]。1869年(明治2年)山本郡仁鮒村[1](響村[1]、二ツ井町[1][2]を経て現能代市)の地主・畠山藤左衛門の婿養子となる[1]。1873年1月(明治5年12月)養父の死去に伴い家督を相続した[1]。
1870年(明治3年)久保田藩御山守となる[1]。仁鮒村副戸長、同戸長、第三大区書記役[1][3]、秋田県勧業諮問会議員などを歴任[1][3]。また自由民権運動に加わる[1]。1879年(明治12年)2月、秋田県会議員に選出され1898年(明治31年)まで在任し[1][2]、この間、同常置委員、同副議長(2期)、同議長(8期)を務めた[1][2][3][4]。その他、山本郡連合町村会議員、山本郡会議員、地方森林会議員などにも在任した[3][4]。
1898年3月、第5回衆議院議員総選挙(秋田県第2区、進歩党)で初当選し[1][5]、同年8月の第6回総選挙でも再選され[5]、衆議院議員に連続2期在任した[2][3][4]。
馬産の改良に尽力し、秋田県畜産協議会会頭、畜産組合長などを務めた[1][2]。林産振興にも尽力し、木材合資会社を設立して社長に就任した[1]。1882年(明治15年)大久保鉄作とともに『秋田日報』を創刊し、廃刊を経て1887年(明治20年)復刊し、『秋田魁新報』に改題後、1889年(明治22年)12月、社長に就任し1896年(明治29年)11月まで在任[1][2][3][4]。また、1889年[2]、有志と秋田馬車鉄道を設立して秋田から土崎で営業を行った[1][2]。
国政選挙歴
[編集]- 第1回衆議院議員総選挙(秋田県第2区、1890年7月、自由党)落選[6]
- 第5回衆議院議員総選挙(秋田県第2区、1898年3月、進歩党)当選[5]
- 第6回衆議院議員総選挙(秋田県第2区、1898年8月、憲政本党)当選[5]
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『秋田人名大事典(第二版)』460頁では3月13日。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 杉渕廣『秋田代議士物語:帝国議会を生きた人々』秋田魁新報社、1989年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『秋田人名大事典(第二版)』秋田魁新報社、2000年。