「グレゴリオ暦」の版間の差分
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'''グレゴリオ暦'''(グレゴリオれき、{{Lang-la-short|Calendarium Gregorianum}}、{{Lang-it-short|Calendario gregoriano}}、{{Lang-en-short|Gregorian calendar}})は、[[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]が[[ユリウス暦]]の改良を命じ、[[1582年]][[10月15日]][[金曜日]](グレゴリオ暦){{Efn|この日は、[[ユリウス通日]]では「{{val|2299160.5}}」に、ユリウス暦では「1582年10月5日」に相当する。}}から行用されている[[暦法]]である。 |
'''グレゴリオ暦'''(グレゴリオれき、{{Lang-la-short|Calendarium Gregorianum}}、{{Lang-it-short|Calendario gregoriano}}、{{Lang-en-short|Gregorian calendar}})は、[[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]が[[ユリウス暦]]の改良を命じ、[[1582年]][[10月15日]][[金曜日]](グレゴリオ暦){{Efn|この日は、[[ユリウス通日]]では「{{val|2299160.5}}」に、ユリウス暦では「1582年10月5日」に相当する。}}から行用されている[[暦法]]である。 |
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{{Today/旧暦/CE/AH}} |
{{Today/旧暦/CE/AH}} |
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[[日本]]では1872年(ほぼ[[明治5年]]に当たる{{Efn|(旧暦)明治5年[[1月1日_(旧暦)|1月1日]]から同年[[12月2日_(旧暦)|12月2日]]まで -(グレゴリオ暦)1872年[[2月9日]]から同年12月31日までという対応になっている。}})に採用され、明治5年12月2日(旧暦)の翌日を、明治6年1月1日(新暦)(グレゴリオ暦の[[1873年]][[1月1日]])とした。 |
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== 制定に至る背景 == |
== 制定に至る背景 == |
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キリスト教徒にとって[[復活祭]]は特に重要な祝祭日である。[[新約聖書]]において、[[イエス・キリスト]]の[[処刑]]と復活の記事は、[[太陰太陽暦]]である[[ユダヤ暦]]に基づいて記述されており、イエスの処刑日は[[ユダヤ教]]の[[過越し]]の日の前日すなわちニサン月14日([[ヨハネによる福音書]])または過越祭第一日目の同月15日([[共観福音書]])とある。このユダヤ暦ニサン月は[[春分]]の頃に来る太陰月であり、[[メソポタミア文明]]の暦においては伝統的に正月(新年)とされていたものである。 |
キリスト教徒にとって[[復活祭]]は特に重要な祝祭日である。[[新約聖書]]において、[[イエス・キリスト]]の[[処刑]]と復活の記事は、[[太陰太陽暦]]である[[ユダヤ暦]]に基づいて記述されており、イエスの処刑日は[[ユダヤ教]]の[[過越し]]の日の前日すなわちニサン月14日([[ヨハネによる福音書]])または過越祭第一日目の同月15日([[共観福音書]])とある。このユダヤ暦ニサン月は[[春分]]の頃に来る太陰月であり、[[メソポタミア文明]]の暦においては伝統的に正月(新年)とされていたものである。 |
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== 改暦委員会と改暦案の提案 == |
== 改暦委員会と改暦案の提案 == |
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ユリウス暦による春分日のずれを、[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]としても無視できなくなり<ref>{{Cite book|和書|author=デイヴィッド・E・ダンカン|authorlink=デイヴィッド・E・ダンカン|others=[[松浦俊輔]]訳|year=1998|month=12|title=暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか|publisher=河出書房新社|page=15|isbn=4-309-22335-4|ref=ダンカン1998}}</ref>、[[第5ラテラン公会議]](1512-1517)において改暦が検討された。このとき[[フォッソンブローネ]]司教のミデルブルフのパウル([[:en:Paul of Middelburg]])(1446-1534)は、[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]を含めてヨーロッパ中の学者に意見を求めた。しかし、コペルニクスは「太陽年の長さの精度は不十分であり、改暦は時期尚早である」と返答した<ref>[http://www.sites.hps.cam.ac.uk/starry/copercalen.html Copernicus and Calendar Reform] Starry Messenger,Department of History and Philosophy of Science, University of Cambridge, 1999. "Copernicus wrote in a response, which is now lost, but probably stated something along the position stated in the preface to his Revolutions, that reform of the calendar was premature because the precise length of the tropical year was not yet known with sufficient accuracy." |
ユリウス暦による春分日のずれを、[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]としても無視できなくなり<ref>{{Cite book|和書|author=デイヴィッド・E・ダンカン|authorlink=デイヴィッド・E・ダンカン|others=[[松浦俊輔]]訳|year=1998|month=12|title=暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか|publisher=河出書房新社|page=15|isbn=4-309-22335-4|ref=ダンカン1998}}</ref>、[[第5ラテラン公会議]](1512-1517)において改暦が検討された。このとき[[フォッソンブローネ]]司教のミデルブルフのパウル([[:en:Paul of Middelburg]])(1446-1534)は、[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]を含めてヨーロッパ中の学者に意見を求めた。しかし、コペルニクスは「太陽年の長さの精度は不十分であり、改暦は時期尚早である」と返答した<ref>[http://www.sites.hps.cam.ac.uk/starry/copercalen.html Copernicus and Calendar Reform] Starry Messenger,Department of History and Philosophy of Science, University of Cambridge, 1999. "Copernicus wrote in a response, which is now lost, but probably stated something along the position stated in the preface to his Revolutions, that reform of the calendar was premature because the precise length of the tropical year was not yet known with sufficient accuracy." |
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</ref><ref>青木信仰、「時と暦」、東京大学出版会、1982年9月20日、ISBN 4130020269、p.83 コペルニクスは遠慮深く、「今の天文学は不確かで、暦を改良するほど知識が揃っていない」として断っている。</ref>。コペルニクスは彼の主著「[[天球の回転について]]」の序文でこのことを明記している<ref>[http://www.webexhibits.org/calendars/year-text-Copernicus.html De Revolutionibus (On the Revolutions)天球の回転について] Nicholas Copernicus, 1543 C.E., 序文 TO HIS HOLINESS, POPE PAUL III,NICHOLAS COPERNICUS’ PREFACE TO HIS BOOKS ON THE REVOLUTIONS の最後のパラグラフの中程。「For not so long ago under Leo X the Lateran Council considered the problem of reforming the ecclesiastical calendar. The issue remained undecided then only because the lengths of the year and month and the motions of the sun and moon were regarded as not yet adequately measured.」 </ref>。 |
</ref><ref>青木信仰、「時と暦」、東京大学出版会、1982年9月20日、ISBN 4130020269、p.83 コペルニクスは遠慮深く、「今の天文学は不確かで、暦を改良するほど知識が揃っていない」として断っている。</ref>。コペルニクスは彼の主著「[[天球の回転について]]」の序文でこのことを明記している<ref>[http://www.webexhibits.org/calendars/year-text-Copernicus.html De Revolutionibus (On the Revolutions)天球の回転について] Nicholas Copernicus, 1543 C.E., 序文 TO HIS HOLINESS, POPE PAUL III,NICHOLAS COPERNICUS’ PREFACE TO HIS BOOKS ON THE REVOLUTIONS の最後のパラグラフの中程。「For not so long ago under Leo X the Lateran Council considered the problem of reforming the ecclesiastical calendar. The issue remained undecided then only because the lengths of the year and month and the motions of the sun and moon were regarded as not yet adequately measured.」 </ref>。 |
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== 各国・各地域における導入 == |
== 各国・各地域における導入 == |
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ユリウス暦と太陽年(実際の季節)とのずれは、[[13世紀]]の哲学者[[ロジャー・ベーコン]]が指摘してから300年もの間顧みられず、16世紀になって宗教上の問題が顕著になるまで放置された。このずれを修正し新たにグレゴリオ暦を制定した後も、それがローマ教皇による発令だったので、その導入時期は国・地域によってまちまちであった。[[カトリック教会|カトリック]]の国は比較的早く導入したが、一方でそうでない国では宗派上の対立もあって、導入までに少なくとも100年以上かかった。正教会の大半は現在も改暦せずユリウス暦を使用し続けている。非キリスト教国においては、[[1873年]]の[[日本]] |
ユリウス暦と太陽年(実際の季節)とのずれは、[[13世紀]]の哲学者[[ロジャー・ベーコン]]が指摘してから300年もの間顧みられず、16世紀になって宗教上の問題が顕著になるまで放置された。このずれを修正し新たにグレゴリオ暦を制定した後も、それがローマ教皇による発令だったので、その導入時期は国・地域によってまちまちであった。[[カトリック教会|カトリック]]の国は比較的早く導入したが、一方でそうでない国では宗派上の対立もあって、導入までに少なくとも100年以上かかった。正教会の大半は現在も改暦せずユリウス暦を使用し続けている。非キリスト教国においては、[[1873年]]の[[日本]]の[[明治改暦]]を皮切りに、徐々にグレゴリオ暦を導入する国家が増加していった。 |
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=== カトリック === |
=== カトリック === |
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[[アッシリア東方教会]]では[[1964年]]に当時のアッシリア総主教{{仮リンク|マル・エシャイ・シムン23世|en|Shimun XXIII Eshai}}が行った宗教的改革の一環としてグレゴリオ暦が採用されている。ただしこの改革はすべての信徒に受け入れられた訳ではなく、改革に反対する信徒の一部は{{仮リンク|古代東方教会|en|Ancient Church of the East}}として分離独立している。 |
[[アッシリア東方教会]]では[[1964年]]に当時のアッシリア総主教{{仮リンク|マル・エシャイ・シムン23世|en|Shimun XXIII Eshai}}が行った宗教的改革の一環としてグレゴリオ暦が採用されている。ただしこの改革はすべての信徒に受け入れられた訳ではなく、改革に反対する信徒の一部は{{仮リンク|古代東方教会|en|Ancient Church of the East}}として分離独立している。 |
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=== <span id="明治改暦"></span>日本におけるグレゴリオ暦導入 === |
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==== 改暦の公布 ==== |
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[[File:Kairekiben.png|thumb|right|[[福沢諭吉]]著『[[改暦弁]]』初版]] |
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[[ファイル:Japan China Peace Treaty 17 April 1895.jpg|thumb|西暦[[1895年]]に締結された[[下関条約]]の調印書。見開き右頁の最後に記された締結日は、既にグレゴリオ暦を導入していた日本の日付が「[[明治]]二十八年四月十七日」となっているのに対し、[[太陰太陽暦]]の[[時憲暦]]を使用していた[[清国]]の日付は「[[光緒]]二十一年三月二十三日」となっている。]] |
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日本では、ほぼ[[西暦]][[1872年]]に当たる[[明治]]5年、「'''[[s:太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス|太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス]]'''」とする'''[[太政官布告・太政官達#現行法令としての効力があると解されることがあるもの|改暦ノ布告]]'''(明治5年[[太政官布告]]第337号)を布告した。 |
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この布告では、明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって[[太陰太陽暦]]([[天保暦]])を廃止し、翌・明治6年(1873年)から太陽暦を採用すること、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、グレゴリオ暦[[1873年]]1月1日に当たる明治5年12月3日を改めて明治6年1月1日とすることなどを定めた。したがって、明治5年まで使用されていた[[天保暦]]は、明治6年以降は[[旧暦]]となった。これが'''明治改暦'''である。 |
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改暦ノ布告は年も押し迫った明治5年11月9日(グレゴリオ暦1872年12月9日)に公布され、社会的な混乱をきたした。暦の販売権をもつ弘暦者(明治5年には[[頒暦商社]]が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦によって従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害をこうむることになった。 |
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一方、[[福澤諭吉]]は、太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『[[改暦弁]]』を著して、改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時の[[1873年]](明治6年)1月1日付けで[[慶應義塾]]蔵版で刊行されたこの書は大いに売れて、内務官僚の[[松田道之]]に宛てた福澤の書簡([[1879年]](明治12年)3月4日付)には、この出来事を回想して「忽ち10万部が売れた」と記している<ref>{{Cite book |和書 |author=福澤諭吉 |authorlink=福澤諭吉 |year=2001-03-23 |title=福澤諭吉書簡集 |volume=第2巻 |publisher=岩波書店 |pages=173-175 |isbn=4-00-092422-2 |ref=福澤2001}}に収録。 |
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{{Quotation|其後改暦の令あり。此時も同様、唯一片の詔にて更に諭告文を見ず。余り難堪存候に付、生は私に改暦弁と申小冊子を出版して、一時に十万部計り国内に分布し、此出版にては聊か行政の便を助けたること、今日も私に自負の意あり。|[[福澤諭吉]]|[[松田道之]]宛て書簡([[1879年]](明治12年)3月4日付)}}</ref><ref>福澤は『[[福澤全集緒言]]』の中で、「『[[改暦弁]]』は風邪で寝込んでいるときに6時間で書き上げたもので、発売後ベストセラーになり、2・3箇月で売上額が700円に達した」、「その後の2・3箇月も同じように売れ続けたので、売上額は合計1000~1500円に達したようだ」と記している。{{Quotation|以上の公文を見れば古来の太陰暦を廃し{{読み仮名|大|〔太〕}}陽暦に改むることにして{{読み仮名|甚|はなは}}だ妙なり。{{読み仮名|吾々|われわれ}}の本願は{{読み仮名|唯|ただ}}旧を{{読み仮名|棄|す}}てゝ新に{{読み仮名|就|つ}}かんとするの一事のみなれば、何は{{読み仮名|扨|さて}}置き{{読み仮名|先|ま}}ず大賛成を表したりと{{読み仮名|雖|いえど}}も、{{読み仮名|抑|そ}}も一国の暦日を変するが{{読み仮名|如|ごと}}きは無上の大事件にして、{{読み仮名|之|これ}}を断行するには国民一般にその理由を知らしめて丁寧反覆、新旧両暦の{{読み仮名|相異|あいこと}}なる由縁を説き、双方得失の在る所を示して心の底より{{読み仮名|合点|がてん}}せしむこそ大切なれ。{{読み仮名|欧羅巴|ヨーロツパ}}の{{読み仮名|耶蘇|ヤソ}}教陽暦国にて、露国の暦は他に{{読み仮名|異|こと}}なること{{読み仮名|僅|わず}}かに十二日なれども、古来の慣行にて今日{{読み仮名|尚|な}}お{{読み仮名|之|これ}}を改むるを得ず。{{読み仮名|然|しか}}るに日本に{{読み仮名|於|おい}}ては陰陽暦を一時に変化して{{読み仮名|凡|およ}}そ一箇月の劇変を断行しながら、政府の布告文を見れば簡単{{読み仮名|至極|しごく}}にしてその{{読み仮名|詳|つまびらか}}なるを知るに{{読み仮名|由|よし}}なし、{{読み仮名|畢竟|ひつきよう}}{{読み仮名|官辺|かんぺん}}にその注意なくして{{読み仮名|且|か}}つは筆{{読み仮名|執|と}}る人の乏しきが{{読み仮名|為|た}}めなりと推察せざるを得ず。{{読み仮名|左|さ}}れば民間の私に之を説明して{{読み仮名|余処|よそ}}ながら新政府の{{読み仮名|盛事|せいじ}}を助けんものをと{{読み仮名|思付|おもいつ}}き、{{読み仮名|匆々|そうそう}}{{読み仮名|書綴|かきつづ}}りたるは[[改暦弁]]なり。その起草は発令の月か翌十二月か、日は忘れたり、少々風邪に犯され{{読み仮名|床|とこ}}の上にて筆を{{読み仮名|執|と}}り、朝より午後に至るまで{{読み仮名|凡|およ}}そ六時間にて脱稿したり。{{読み仮名|固|もと}}より{{読み仮名|木葉|このは}}同様の小冊子にて何の苦労もなかりしが、{{読み仮名|扨|さて}}これを木版にして発売を試みたるに何千何万の際限あることなし。三版も五版も同時に彫刻して製本を{{読み仮名|書林|しよりん}}に渡しさえすれば{{読み仮名|直|ただち}}に売れ行くその{{読み仮名|有様|ありさま}}は之を見ても面白し。一冊何銭とて{{読み仮名|高|たか}}の知れたる定価なれども、{{読み仮名|塵|ちり}}も積れば山と{{読み仮名|為|な}}るの{{読み仮名|諺|ことわざ}}に{{読み仮名|洩|も}}れず、発売後二、三箇月にして何かの{{読み仮名|序|ついで}}に改暦弁より生じたる純益の金高を調べたるに七百円余に{{読み仮名|上|のぼ}}りたることあり。その時、著者は{{読み仮名|独|ひと}}り心に笑い、この書を綴りたるは{{読み仮名|僅|わずか}}に六時間の労なり、六時間の報酬に七百円とは実に驚き入る、学者の身に{{読み仮名|斯|かか}}る利益を{{読み仮名|収領|しゆうりよう}}しても{{読み仮名|宜|よろ}}しかるべきやと、{{読み仮名|恰|あたか}}も半信半疑に{{読み仮名|自|みず}}から感じたるは、旧藩士族根性の{{読み仮名|然|しか}}らしむる所にして{{読み仮名|今尚|な}}お{{読み仮名|之|これ}}を記憶す。二、三箇月の後も{{読み仮名|売捌|うりさばき}}は依然として{{読み仮名|止|や}}まず、利益の全額は千円も千五百円も得たることならん。{{読み仮名|畢竟|ひつきよう}}余が今日に至るまで何に一つの商売もせず、工業もせず、家富みて{{読み仮名|余|あまり}}あるには{{読み仮名|非|あら}}ざれども、大勢の家族と共に心配なく生活して{{読み仮名|静|しずか}}に老余を楽しむは、改暦弁のみならず他の著訳書より得たる利益の多かりしが故なり。|-|{{Cite book |和書 |author=福澤諭吉 |year=1897 |title=福澤全集緒言 |publisher=時事新報社 |pages=102-104 |url=http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=114&PAGE=108|ref={{Harvid|福澤|1897}} }}}}</ref>。 |
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==== 改暦の理由 ==== |
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これほど急な新暦導入が行われた理由として、明治政府の財政状況が逼迫していたことが挙げられる。 |
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当時[[参議]]であった[[大隈重信]]の回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、旧暦のままでは明治6年は[[閏月]]があるため、13か月となる。すると、当時支払いが月給制に移行したばかりの[[官吏]]への報酬を、1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり、12か月分の支給で済む{{Efn|太政官布告第359号では、旧暦の11月が29日までであったものを30日・31日を追加してそのまま新暦の明治6年1月1日としていたが、発表翌日に取り消された。太政官布告第372号で、2日しかない12月については月給を給付しない、とした。}}。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局月給の支給は11か月分で済ますことができる。 |
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当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに[[節句]]などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算であったが、新暦導入を機に[[週休制]]に改めることで、休業日を年間50日余りに減らすことができる<ref>{{Cite book|和書|author=円城寺清|authorlink=円城寺清|title=大隈伯昔日譚|publisher=立憲改進党々報局|year=1895|page=601|url={{NDLDC|781144/316}}}}</ref>。 |
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==== 置閏法の不備と修正 ==== |
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改暦ノ布告は、施行まで1か月に満たない期間の中で慌てて布告されたためか、置閏法に不備があった。それはグレゴリオ暦の肝心な要素である「西暦年数が100で割り切れるが400で割り切れない年(400年間に3回ある。)を、閏年としない」旨の規定が欠落していたことである。また、厳密に言えば、4年毎に閏年を置くとしても、どの年が閏年になるのかは、布告からは読み取れない。 |
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このままでは導入された「新しい太陽暦」はグレゴリオ暦ではなく、さりとて日付が12日ずれているためユリウス暦そのものでもなく、「ユリウス暦と同じ置閏法を採用した日本独自の暦」となってしまう。また、布告の前文にある文面もおかしく、グレゴリオ暦で実際に1日の誤差が蓄積されるのに要する年数は約3200年であるにもかかわらず、「七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス」としていた。これは、起草者が参考にした天文書『遠西観象図説』の誤りと考えられている。 |
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そこで、西暦[[1898年]](皇紀2558年・明治31年)[[5月11日]]に、改めて勅令「[[s:閏年ニ關スル件|閏年ニ關スル件]]」(明治31年[[勅令]]第90号)を出して、置閏法をグレゴリオ暦に合わせたものに改めた。 |
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: '''閏年ニ關スル件'''(明治31年勅令第90号) |
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: 神武天皇即位紀元年數ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス |
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: 但シ紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス |
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この勅令では、[[神武天皇即位紀元]](皇紀)年数を用いて閏年か平年かを判別している。ただし皇紀自体から660を引いた値、すなわち同年のキリスト紀元と全く同じ数を引数として計算するため、グレゴリオ暦と全く同じ置閏法を実現できる。この置閏法の誤りを修正する勅令が公布された時には、日本で太陽暦を導入してから初めての「紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年」である皇紀2560年、すなわち西暦1900年(明治33年)は1年半後に迫っていた。 |
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もっとも、以上の経過説明に対しては、布告に先立き明治5年11月5日付けで[[市川斎宮]]による建白書が政府に提出されているところ、その暦法の提案内容は、神武天皇即位紀元年数が100で割れる年を閏年とするが400で割りきれない年は平年とするものであった(この暦法では、グレゴリオ暦と異なり、西暦1900年は閏年になるのに対し、[[神武天皇即位紀元]]2600年である西暦1940年が平年となる。)ことから、政府はグレゴリオ暦の置閏法を正確に把握していなかったのではなく、特別の平年をいつにすべきかの議論を先延ばししたのではないかとの指摘がある<ref>{{Cite book|和書|author=[[青木信仰]]|year=1982|month=9|title=時と暦|publisher=東京大学出版会|page=p.30|isbn=4-13-002026-9|ref=青木1982}} </ref>。 |
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==== <span id="明治改暦経緯"></span>導入の経過 ==== |
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[[国立天文台]]暦計算室の暦Wikiの記事[https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FCCC0BCA3B0CAB9DFA4CECAD4CEF1.html 「明治以降の編暦」]も参照のこと。 |
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* 明治5年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]](1872年11月1日):例年どおり、弘暦者([[頒暦商社]])により翌年の暦(旧暦)が全国で発売される。 |
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** 11月初旬(12月初旬):太政官権大外史[[塚本明毅]]により建議される<ref>{{Cite web |author=内閣記録局 |title=法規分類大全. 〔第2〕 |publisher=内閣記録局 |date=1889—1891 |url={{NDLDC|994174/131}} |accessdate=2019-02-14}}</ref>。 |
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** [[11月9日 (旧暦)|11月9日]](12月9日):「'''[[s:太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス|太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス]]'''」(明治5年[[太政官布告]]第337号、'''[[太政官布告・太政官達#現行法令としての効力があると解されることがあるもの|改暦ノ布告]]''')を公布。突如として明治5年は12月2日で終了することが定められる。 |
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** [[11月23日 (旧暦)|11月23日]](12月23日):太政官布告第359号で「来ル十二月朔日二日ノ両日今十一月卅日卅一日ト被定候」(12月1日および2日を11月30日および31日と定めた)とする。翌[[11月24日 (旧暦)|24日]]付け太政官達書で取り消す。 |
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** [[11月27日 (旧暦)|11月27日]](12月27日):太政官布達第374号により、「当十二月ノ分ハ朔日二日別段月給ハ不賜」(この12月の分は、1日・2日の2日あるが、別段月給を支給しない。)と、12月分の月給不支給が各省に通告される<ref>{{Cite book|和書|year=1912|title=法令全書 明治5年|volume=第7冊|publisher=内閣官報局|page=358|id={{近代デジタルライブラリー|787952/236}}|ref=内閣官報局1912}}漢字は新字体にあらためた。</ref>。 |
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** [[12月2日 (旧暦)|12月2日]]:[[天保暦]]を廃止。 |
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* 1873年1月1日に当たる明治5年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]](旧暦)を明治6年[[1月1日]](新暦)とする太陽暦への改暦('''明治改暦''')。 |
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* 1873年(明治6年)[[1月12日]]:頒暦商社の損失補填のため、向こう3年間の暦販売権を認める。 |
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* 1875年(明治8年)[[1月12日]]:頒暦商社の暦販売権を、1882年(明治15年)まで延長する。 |
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* 1883年(明治16年):本暦と略本暦が[[伊勢神宮]]から頒布される。 |
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* 1898年(明治31年)[[5月11日]]:明治5年の改暦における[[置閏法]]の問題(明治33年(西暦1900年)がグレゴリオ暦と異なり閏年となってしまう)を修正した勅令「[[s:閏年ニ關スル件|閏年ニ關スル件]]」(明治31年勅令第90号)が公布される。 |
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* 1910年(明治43年):官暦の旧暦併記が消滅。 |
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<!-- * 2010年(平成22年):この年をもって、海上保安庁[[海洋情報部]]による非公式な新暦旧暦の対照表の公表が終了した<ref>海洋情報部による暦関連の業務は[[水路部 (日本海軍)|旧海軍水路部]]の明治以来のもので、[[天測航法|天測暦]]他の必要性によるものである。</ref>。--> |
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* 2033年:[[旧暦2033年問題]](2033年の秋から翌2034年の春にかけて、旧暦の月名および閏月の配置が、[[天保暦]]本来のルールでは決定できない問題) |
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ただし、国立天文台は、毎年2月に「暦要項」を[[官報]]に[[告示]]し、翌年の「二十四節気および雑節」、「朔弦望」を計算・提示しているため、[[旧暦]]の「30日の大月、29日の小月」の設定、置閏の基準である「[[中気]]」の提示に相当するものが「公的」に行われていることになる{{Efn|2015年(平成27年)の場合、2月2日(月)に発行された第6463号の25~26ページに「平成28年(2016)暦要項」が「告示」(掲載)されている。}}。 |
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* [[1912年]]([[中華民国暦|民国]]1年)1月1日 - [[中華民国]](建国とともに採用、同年[[2月12日]]の[[清朝]]滅亡とともに国内全域で正式な暦となる) |
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2023年6月16日 (金) 13:35時点における版
グレゴリオ暦(グレゴリオれき、羅: Calendarium Gregorianum、伊: Calendario gregoriano、英: Gregorian calendar)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日金曜日(グレゴリオ暦)[注釈 1]から行用されている暦法である。
グレゴリオ暦は、現行太陽暦として日本を含む[注釈 2]世界各国で用いられており、グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦(旧暦)に対比して新暦(ラテン語: Ornatus)と呼ばれる場合もある[注釈 3]。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。
グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を 365日 + (97/400)日 = 365.2425日(365日5時間49分12秒)とすることである。この平均日数365.2425日は、実際に観測で求められる平均太陽年(回帰年)の365.242189572日(2013年年央値)に比べて約26.821秒長いだけであり、ユリウス暦に比べると格段に精度が向上した[注釈 4]。
今日 日本標準時(UTC+9) |
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制定に至る背景
キリスト教徒にとって復活祭は特に重要な祝祭日である。新約聖書において、イエス・キリストの処刑と復活の記事は、太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づいて記述されており、イエスの処刑日はユダヤ教の過越しの日の前日すなわちニサン月14日(ヨハネによる福音書)または過越祭第一日目の同月15日(共観福音書)とある。このユダヤ暦ニサン月は春分の頃に来る太陰月であり、メソポタミア文明の暦においては伝統的に正月(新年)とされていたものである。
ローマ帝国領では紀元前45年にユリウス・カエサルによって制定された太陽暦であるユリウス暦が採用していたため、ローマ帝国領に住むキリスト教徒には復活祭をいつ祝うかが問題となった。初期の教会ではさまざまな方法が採用されており、ユダヤ暦に従ってニサン月15日に祝う教会や、曜日を重視してニサン月14日の直後の日曜日を復活日とする教会もあった。
他方で、エジプト暦の伝統を持つアレクサンドリアの教会では、ディオクレティアヌス紀元、コプト暦およびメトン周期を用いて季節(太陽年)と月齢(太陰月日)を独自に計算した。季節と月齢を合わせる基準日を設け、そこからメトン周期を用いて太陰年と太陽年の差を修正しながら各年の「ほぼ同じ季節に該当する太陰月日(同じ月齢の日)」を計算していけば、擬似的な太陰太陽暦を編纂するのと実質的に同じことができるのである。この方法をコンプトゥスという。ユダヤ暦ニサン月は春分の頃に訪れる太陰月であるから、春分日を基準とし、アレクサンドリア教会では春分後最初の太陰月14日のすぐ後の日曜日を復活日とした。
しかし、初期からユリウス暦と実際の太陽年のずれが問題になった。ユリウス歴は暦年の平均日数を365.25日するが、実際の太陽年は約365.24219日であるから、春分日が毎年ずれていくのである。実際、ローマ帝国ではユリウス暦施行間もない頃から3月25日を春分日とする慣習があったが[注釈 5]、4世紀の段階で天文学的な春分日は3月21日ごろとなっており、第一次ニケーア公会議では「ユリウス歴3月21日の後、最初の太陰月14日のすぐ後の日曜日を復活日」を復活祭期日とした。
このような経緯で復活祭日が定められたが、結局後年にはユリウス歴と太陽年のずれが問題視された。イングランドの教会博士であったベーダ・ヴェネラビリスは、725年にはユリウス暦にはずれがあり、それはすでに3日間以上になっていること、このずれは今後拡大すると指摘している[3]。
さらにメトン周期もわずかに朔望月(太陰月)とずれているため、310年ごとに1日の誤差が蓄積されていた。13世紀のロジャー・ベーコンは、ずれは7日間から8日間に及んでいると推定し、ダンテ・アリギエーリもユリウス暦の改定の必要性を説いている。
また、復活祭日が太陰月日(月齢)に準拠する方法で定められていると、ユリウス暦3月21日の月齢次第で、復活祭日の季節が1ヶ月前後してしまうという問題が生じた。
16世紀後半になると3月21日の春分日は実際の春分日から10日間弱ものずれが生じていた。ローマ・カトリック教会は改暦委員会に暦法改正を委託した。この改暦は対抗宗教改革の一環としてなされたものであって、改暦に関しては賛成・反対の立場から大きな論争となった。
ユリウス暦によるずれ
1582年10月4日まで用いられていたユリウス暦では、平年は1年を365日とし、4年ごとに置く閏年を366日とし、これによって平均年を365.25日としていた。
- ( 365 + 1/4 )日 = 365.25(日)……1年間の平均日数(平均年)= 365日6時間 = 正確に31557600秒
しかし、平均太陽年、つまり実際に地球が太陽の周りを1周する平均日数は、365日5時間48分45.179秒 = 31556925.179秒 = 約365.242189572日(2013年年央)[4]である。したがって、ユリウス暦の1年は、実際の1太陽年に比べて、365.25日 − 約365.2422日 = 約0.0078日(約11分15秒)長い。このずれは下記の計算のとおり、約128年で1日になる。
ユリウス暦は、その制定当時の天文観測水準を考えればかなりの精度だったが、千数百年も暦の運用が続くと、天文現象の発生日時と暦の上の日付の乖離は無視できないものとなり、16世紀末に10日ものずれが生じていた。
- 31557600秒/年 − 31556925.179秒/年 = 674.821秒/年 = 11分14.821秒/年 …… 1年ごとのずれ
- 86400秒/日(= 1日)÷ 674.821秒/年 = 128.03年 …… 1日のずれが生じる年数
なお、上記の計算は2013年時点でのものであり、グレゴリオ改暦が議論された16世紀半ばの計算とは差異がある。
改暦委員会と改暦案の提案
ユリウス暦による春分日のずれを、ローマ・カトリック教会としても無視できなくなり[5]、第5ラテラン公会議(1512-1517)において改暦が検討された。このときフォッソンブローネ司教のミデルブルフのパウル(en:Paul of Middelburg)(1446-1534)は、コペルニクスを含めてヨーロッパ中の学者に意見を求めた。しかし、コペルニクスは「太陽年の長さの精度は不十分であり、改暦は時期尚早である」と返答した[6][7]。コペルニクスは彼の主著「天球の回転について」の序文でこのことを明記している[8]。
次に、トリエント公会議(1545年 - 1563年)において、実際の春分日を第1ニカイア公会議の頃の3月21日(つまり修正すべきユリウス暦のずれの蓄積は公会議開催の325年からの約1240年間分にあたる約9.6日間で、これを10日のずれと見做した)に戻すため、教皇庁に暦法改正を委託した。時の教皇グレゴリウス13世は、これを受けて1579年にシルレト枢機卿を中心とする改暦委員会を発足させ、暦法の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、最初の改暦案を考案した天文学者のアロイシウス・リリウスの弟であるアントニウス・リリウス(Antonio Lilio)や数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれていた。
暦改正の新しい原理の大要
アロイシウス・リリウスの提出した原稿そのものは残されていない。委員会は1577年にCompendium novae rationis restituendi kalendarium(Compendium of the New Plan for Restoring the Calendar: 暦改正の新しい原理の大要)という24ページの冊子を刊行した。この冊子も長い間、失われたと考えられていた。しかし、1981年10月に歴史家のゴードン・モイアー (Gordon Moyer) が発見した。モイアーは最初、Biblioteca Nazionale Centrale di Firenze(フィレンツェ国立中央図書館)で発見し、その後、バチカン図書館、シエーナのイントロナティ市立図書館(Biblioteca Comunale degli Intronati de Siena)でも発見した。さらに、Polytechnic Institute of New YorkのThomas B. Settle も1975年に フィレンツェのBiblioteca Marucelliana とフィレンツェ国立中央図書館で同じ冊子を発見していたことが分かり、少なくとも7冊が現存していることが明らかになった[9]
この冊子によると、アロイシウスは1252年に書かれたアルフォンソ天文表における365日5時間49分16秒 = 365.242 5463日を採用し[10]、改暦案を考案した。しかし、アロイシウスは1576年に死亡しており、その年に実際に案を委員会に提出したのは弟のアントニウス・リリウス(Antonio Lilio)である[11][12][13]。
ずれ修正の二つの提案
ユリウス暦の約1240年間の運用により蓄積された約10日間のずれをどのように修正するかについては、次の2案が委員会に提出された。
- 第1案:1584年以降の40年間にわたって、閏日を設けない。
- 40年 ÷ 4年 = 10 であるから、これによって、10日間だけ暦を進めることができる。
- 第2案:1582年の最も適当な月に10日間を省く。
結局、委員会は、第2案を採用したのである[14]。
どの月から10日間を省くか
10日間を省く月を1582年の10月にしたことについて、クラヴィウスは、「単に10月が宗教典礼日(religious observance)が最も少ない月であり、教会への影響が最小だからだ」と説明している[15]。
改暦の実施
改暦委員会の作業の末に完成した新しい暦は1582年2月24日にグレゴリウス13世の教皇勅書として発布された[16][17]。この勅書は、"Inter gravissimas"の語(「最も重要な関心事の中でも」の意)から始まるので、“en:Inter gravissimas”と称される[18]。
この勅書はユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を、曜日を連続させながら、グレゴリオ暦1582年10月15日金曜日とすることを定め、その通りに実施された。
適用の暦 | 年月日 | 曜日 | 0時(世界時)の ユリウス日 |
---|---|---|---|
ユリウス暦 | 1582年10月03日 | 水曜日 | 2299158.5 |
ユリウス暦 | 1582年10月04日 | 木曜日 | 2299159.5 |
グレゴリオ暦 | 1582年10月15日 | 金曜日 | 2299160.5 |
グレゴリオ暦 | 1582年10月16日 | 土曜日 | 2299161.5 |
1582年10月 | ||||||
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
1 | 2 | 3 | 4 | 15 | 16 | |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
31 | ||||||
ただし、上記の日付通りに改暦を実施したのは、イタリア、スペイン、ポルトガルなどごく少数の国に過ぎず[19]、その他のヨーロッパの国々での導入は遅れた。
暦法
グレゴリオ改暦が議論され始めていた1560年ごろには、平均太陽年は、約365.2422日であることが知られていた。(365.25日 − 365.2422日)× 400年 = 3.12日/400年 であるから、ユリウス暦における置閏法(400年間で100回の閏年)に比べて400年間に3回の閏年を省けば、かなりよい近似となることが分かる。このため、グレゴリオ暦では、400年間に、97回 (= 100 − 3) の閏年を置くこととして、1年の平均日数を365.2425日 = 365日5時間49分12秒 = 正確に31556952秒 とした。
- 365日 + 97/400 = 365.2425(日/年)…… グレゴリオ暦による1年の平均日数
なお、400年間の日数は、365.2425 × 400 = 146 097日であり、これは7で割り切れる(146097 ÷ 7 = 20871週)ので、グレゴリオ暦は、曜日も含めて400年周期の暦である。
暦法 | 閏年 | 平年 | 合計 |
---|---|---|---|
ユリウス暦 | 100回 | 300回 | 400回 |
グレゴリオ暦 | 97回 | 303回 | 400回 |
400年間に3回の閏年を省くには様々な方法があり得るが、3回の平年がなるべく均等に分布すること、わかりやすく記憶しやすいことを考慮して、「西暦紀元(西暦)の年数が、100で割り切れるが400では割り切れない年は、平年とする。これ以外の年では、西暦年数が4で割り切れる年は閏年とする。」というルールが採用された。
100で割り切れる年は400年間に4回あるが、400で割り切れる年は400年間に1回だけである。以上のルールによって、ユリウス暦では閏年になる3回分の年を、グレゴリオ暦では平年とすることができるのである。
100で割り切れる年のうち、西暦1600年・2000年・2400年は400で割り切れるので、これらの年は閏年のままである。しかし、西暦1700年・1800年・1900年・2100年・2200年・2300年・2500年・2600年・2700年は400で割り切れないので、これらの年は平年となる。
西暦年 | 平閏の区分 | 備考 |
---|---|---|
1600年・2000年・2400年 | 閏年 | 400で割り切れる年 |
1700年・2100年・2500年 | 平年 | |
1800年・2200年・2600年 | 平年 | |
1900年・2300年・2700年 | 平年 |
平年および閏年のそれぞれにおける各月の日数は、グレゴリオ暦でもユリウス暦と同じである。すなわち、1月・3月・5月・7月・8月・10月・12月は31日、4月・6月・9月・11月は30日、2月は平年が28日、閏年は29日である。
先発グレゴリオ暦とユリウス暦
上記の暦法(グレゴリオ暦)を1582年以前に遡って適用すると、200年3月1日から300年2月28日までは、ユリウス暦と同じ日付となる(ユリウス通日も参照)。これは以下の経緯による。
- 「制定に至る背景」の節にあるように、第1ニカイア公会議にて、春分日たるユリウス暦3月21日直後の太陰月14日の直後の日曜日を、復活祭とすることが決定された。
- しかし、ユリウス暦1582年には、ユリウス暦の精度があまり良くなかったことによって、春分日とユリウス暦3月21日の間に約10日の差が生じており、ユリウス暦の使用を続ければ、西暦1583年に含まれる春分日もまた、3月21日ではなくなってしまう。
- 西暦1582年10月15日(グレゴリオ暦)に上記の暦法が導入されたことで、西暦1583年からは3月21日と春分日とが基本的に一致するようになり[注釈 6]、第1ニカイア公会議での決定と矛盾しなくなった。
- その結果として、ユリウス暦と1582年以前に遡って適用されたグレゴリオ暦(先発グレゴリオ暦)の日付が、200年3月1日から300年2月28日にかけて、たまたま一致する。
精度
下記のようにグレゴリオ暦での平均の1年(365.2425日)は、実際に観測される平均太陽年(2013年年央)に比べて約26.821秒(= 約0.000310428日)だけ長い。このずれは約3221年かけて1日に達する。
- 365 .2425日/年 × 86400秒/日 = 31556952秒/年
- 31556952秒/年 − 31556925.179秒/年[4] = 26.821秒/年 …… 1年ごとのずれ
- 86400秒/日(= 1日)÷ 26.821秒/年 = 3221.36(年)…… 1日のずれが生じる年数
以上のように、ユリウス暦では1日のずれが生じるまでに約128年しかかからなかったのに対して、グレゴリオ暦では同じく1日のずれが生じるまでに約3221年を要するまでに精度が高まった。
デイヴィッド・E・ダンカンによると、1997年時点では、1582年以来の誤差が累積して、すでに約2時間59分12秒だけ進んでいる[20]。
なお、上記の計算は平均太陽年が不変であるとした場合のものである。実際には平均太陽年は100年(正確には1ユリウス世紀)ごとに0.532秒ずつ短くなっている(太陽年の項を参照)。このため、3221年後には、約17秒ほど平均太陽年が短くなっていることを考慮すると、グレゴリオ暦との1日のずれはもっと早い時点で起こることになる(太陽年#太陽年の変化、平均太陽年の計算式(英語版))。
また、春分日時の間隔に着目した誤差は歳差などの影響により上記の計算とは異なり、西暦2000年時点で7700年に1日[21]、日本で明治改暦が行われた1873年の時点で7200年に1日[22]となる。
キリスト紀元とグレゴリオ暦の新年
月日を導く暦法そのものと年数を数える紀元(紀年法)は別の概念であるが、上述のように、グレゴリオ暦はその置閏法をキリスト紀元の年数に基づいて定めるものとして制定されているので、キリスト紀元と不可分一体の関係にある。ところで、キリスト紀元の正式名称は、グレゴリオ暦改暦勅書(Inter Gravissimas)末尾の日付にもある通り、"anno incarnationis dominicae" すなわち「主(イエス・キリスト)の受肉(受胎)から数えた年数」である。この点からすれば、キリスト紀元年を1つ繰り上げるべき日すなわち新年は、イエスが受胎した日すなわち受胎告知日の3月25日が正当となるはずである。実際、改暦直前のローマ教皇庁自身が、3月25日を年初とするユリウス暦を使用していた。しかしグレゴリオ暦は、ユリウス・カエサルがユリウス暦を制定した当時の新年すなわち1月1日をその年初とする方法を採用した[注釈 7]。したがってグレゴリオ暦では常に1月1日にキリスト紀元年数が1つ増える。なお、グレゴリオ暦月日の年数として記されていても、ローマ教皇庁の公文書に記されていた教皇在位年数や、イギリスおよび英連邦王国諸国の公文書で近年まで使われていた国王在位年数(regnal year)などは、日本の元号と異なり即位日をもって年数が一つ増加する。
各国・各地域における導入
ユリウス暦と太陽年(実際の季節)とのずれは、13世紀の哲学者ロジャー・ベーコンが指摘してから300年もの間顧みられず、16世紀になって宗教上の問題が顕著になるまで放置された。このずれを修正し新たにグレゴリオ暦を制定した後も、それがローマ教皇による発令だったので、その導入時期は国・地域によってまちまちであった。カトリックの国は比較的早く導入したが、一方でそうでない国では宗派上の対立もあって、導入までに少なくとも100年以上かかった。正教会の大半は現在も改暦せずユリウス暦を使用し続けている。非キリスト教国においては、1873年の日本の明治改暦を皮切りに、徐々にグレゴリオ暦を導入する国家が増加していった。
カトリック
グレゴリオ暦の制定後、実施日である1582年10月15日に即座にこの暦を導入したのは、カトリックを奉じるイタリア諸国、スペイン、スペインに併合されていたポルトガル、ポーランドである。フランスは2か月ほど遅れたものの、1582年中に導入を果たした。1583年には神聖ローマ帝国のカトリック諸邦で、1584年にはスイスのカトリック諸州で導入され、カトリック諸国の改暦は数年を経ずして完了した。
プロテスタント
プロテスタント諸国は、グレゴリオ暦への改暦に消極的だった。その理由の一つとして、復活祭の日付の決定がある。自らの祭事の日付をカトリックが定めた暦によって決められることを嫌ったのである。しかし、ユリウス暦の日付がずれており、ずれた日付を基に祭日を決めることに問題があることは、プロテスタントの宗教家も認識はしていた。したがって、グレゴリオ暦はプロテスタントにも徐々に浸透した。
最も早くグレゴリオ暦を導入したのは、ドイツのプロテスタント諸国であった。1699年のレーゲンスブルク帝国議会において、日付の決定のみグレゴリオ暦を使用するが、復活祭の日付の計算にはプロテスタントのドイツ人天文学者ヨハネス・ケプラーが作成したルドルフ星表を使うということで妥協した。この暦は改良帝国暦と呼ばれた。しかし、ケプラーはグレゴリオ暦の方が優れていることを知っていたので、日付計算はすべてグレゴリオ暦で行っていた。このため、実質的には改良暦はグレゴリオ暦で計算するのとほぼ同じだった。この妥協はうまくいき、1700年に実施された際には隣国デンマークもこれに倣い、周辺のプロテスタント諸国も徐々にこれに追随していった。
1752年にはイギリスが帝国全域においてグレゴリオ暦を導入、1753年にはスウェーデンが独自暦だったスウェーデン暦を廃止してグレゴリオ暦に完全移行し、全てのプロテスタント諸国がグレゴリオ暦を導入することになった。
正教会
正教会が優勢な東欧では、導入までにより長い時間がかかった。16世紀に、コンスタンディヌーポリ全地総主教イェレミアス2世はグレゴリオ暦を否認し、他の正教会でもグレゴリオ暦を承認する教会はなかった。このことはブレスト合同が不完全なものに終わる結果にも影響があった。
グレゴリオ暦を使用するフィンランド正教会を除き、エルサレム総主教庁、グルジア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、日本正教会を含む正教会は、現在でもユリウス暦を使用している。
ロシアで最も強い影響力をもつロシア正教会は正教会に属しており、現在でもユリウス暦を使用している。同国で1917年グレゴリオ暦3月に起きた革命を「2月革命」、同11月に起きた革命を「10月革命」と呼称するのは、ロシア革命が起きた1918年までユリウス暦を使用していたからである。 ロシア革命後のコンスタンディヌーポリ教会が1923年に採用した暦は修正ユリウス暦(通称:ロシア暦/英語: Revised Julian calendar)と呼ばれるものであり、厳密にはグレゴリオ暦ではないが、グレゴリオ暦とユリウス暦の月日の修正が行われ、2800年までは二つの暦の間にずれが出ないようになっている。なお、2800年以降は再びずれが生じる。 現在ロシア国内では、正教会を除きグレゴリオ暦を使用している。したがって、ユリウス暦12月25日の降誕祭は、ロシアのカレンダーでは「1月7日」と表示されている。
他方、復活大祭の算出にはすべての正教会がユリウス暦を使用するので、復活祭およびそれに伴う祭日・斎日はフィンランド正教会以外の正教会が一致して祝っている。ただし、これはユダヤ教の祭日が決まった後でキリスト教の祭日を決定するという、初期のキリスト教の祭日決定法に従っているからであり、グレゴリオ暦を導入していないことによるものではない。ユダヤ教では1年の長さがユリウス暦とほぼ同じユダヤ暦を基準にして祭日を決定するので、正教会では完全にグレゴリオ暦に移行できないだけである。
東方諸教会
アルメニア使徒教会では、1923年以来グレゴリオ暦が採用されている[要出典]。ただし、エルサレムのアルメニア総主教区に関しては例外的にユリウス暦を使用している[23]。
シリア正教会においては地域により、あるいは各信徒内での伝統の差異により、ユリウス暦とグレゴリオ暦が併用されている[要出典]。
コプト正教においてはグレゴリオ暦は採用されておらず、独自のコプト暦が用いられている。
アッシリア東方教会では1964年に当時のアッシリア総主教マル・エシャイ・シムン23世が行った宗教的改革の一環としてグレゴリオ暦が採用されている。ただしこの改革はすべての信徒に受け入れられた訳ではなく、改革に反対する信徒の一部は古代東方教会として分離独立している。
各国のグレゴリオ暦導入年月日
詳細なリストは、en:List of adoption dates of the Gregorian calendar by countryを参照。
- 1582年10月15日 - イタリア、スペイン(ポルトガルを含む)、サヴォイ公国、ポーランド・リトアニア共和国
- 1582年12月20日 - フランス王国 後に中断(フランス共和暦)
- 1583年1月1日 - ベルギー、オランダのカトリック諸邦
- 1583〜1587年 - ドイツ、スイス、ハンガリーのカトリック諸都市
- 1700年3月1日 - ドイツのプロテスタント諸都市、デンマーク
- 1752年9月14日 - イギリス帝国(後のアメリカ合衆国など当時の植民地すべて)
- 1753年3月1日 - スウェーデン(フィンランドを含む)
- 1867年10月18日 - アラスカ
- 日付変更線がアラスカの東側から西側に移動されたため、金曜日が2回連続して繰り返された。
- 1873年(明治6年)1月1日 - 日本(明治改暦)
- 1896年(建陽元年)1月1日 - 大韓帝国
- 1912年(民国1年)1月1日 - 中華民国(建国とともに採用、同年2月12日の清朝滅亡とともに国内全域で正式な暦となる)
- 1918年2月14日 - ソビエト・ロシア(1929年10月1日にソビエト連邦暦に移行した)
- 1923年3月1日 - ギリシャ
- 1940年6月27日 - ソビエト連邦(1929年10月1日より採用されていたソビエト連邦暦から復帰した)
- 1941年 (2485タイ太陽暦年)- タイ王国
- 2016年春 - サウジアラビア[25]
問題点と改暦運動
グレゴリオ暦は、ユリウス暦に比べはるかに精度が高くなっているが、それでも上記の通り誤差は完全に解消されたわけではない。そもそも地球の自転周期と公転周期の比は整数の比になっていない以上、この誤差は必然的に生ずるものである。
また年初の日付が、天文学的な現象とは関係がない日付であること[注釈 8]や、各月の日数が不規則であること、1年の日数が週の倍数になっていないため、暦日と曜日が一致しないことなどの問題点が指摘され[26]、しばしば改暦運動が盛り上がった。こうした改暦運動で実施されたものは、1793年にフランスで施行されたフランス革命暦のみであるが、合理性に徹するあまりそれまでの週や七曜の廃止を行うなどして大混乱を招き、1806年にはグレゴリオ暦に復帰した。しかしその後も、世界暦への改暦提案などがしばしばなされている。
脚注
注釈
- ^ この日は、ユリウス通日では「2299160.5」に、ユリウス暦では「1582年10月5日」に相当する。
- ^ 日本の公文書に和暦の記載を義務付ける法令はない[1]。
- ^ 日本は1873年(明治6年)からグレゴリオ暦に移行し、それまでの天保暦を旧暦、導入したグレゴリオ暦を新暦と呼ぶ。
- ^ ユリウス暦での1年は、平均太陽年より約675秒長い。
- ^ この日は後にキリスト教に取り入れられ、聖母マリアがイエスを身ごもった日「受胎告知日」として、太陽暦で祝われるイエスの誕生日12月25日すなわちクリスマスと対をなす祝祭日となり、更に中世のユリウス暦においては広く新年として扱われるようになっていく。
- ^ ただし、下記のように、将来、再びズレを生じることになる。「基本的に」が意味するのは、それまでの当面の間ということである。
- ^ この1月1日年初は、グレゴリオ改暦前にすでにヨーロッパ各地に広まりつつあった。
- ^ この暦法の制定は3月21日を春分とするキリスト教の教義上の都合に由来し、そこから年初である1月1日が定まる。
出典
- ^ “公文書の西暦表記、義務づけ見送り 政府方針”. 日本経済新聞. (2018年8月20日) 2021年12月27日閲覧。
- ^ “Seasons calculator”. 2018年9月3日閲覧。
- ^ 例えば1550年のローマのユリウス暦では、春分点が現地時間で3月11日午前6時51分になる[2]
- ^ a b 天文年鑑2013年版、p190(このページの執筆者:井上圭典)ISBN 9784416212851
- ^ デイヴィッド・E・ダンカン『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、15頁。ISBN 4-309-22335-4。
- ^ Copernicus and Calendar Reform Starry Messenger,Department of History and Philosophy of Science, University of Cambridge, 1999. "Copernicus wrote in a response, which is now lost, but probably stated something along the position stated in the preface to his Revolutions, that reform of the calendar was premature because the precise length of the tropical year was not yet known with sufficient accuracy."
- ^ 青木信仰、「時と暦」、東京大学出版会、1982年9月20日、ISBN 4130020269、p.83 コペルニクスは遠慮深く、「今の天文学は不確かで、暦を改良するほど知識が揃っていない」として断っている。
- ^ De Revolutionibus (On the Revolutions)天球の回転について Nicholas Copernicus, 1543 C.E., 序文 TO HIS HOLINESS, POPE PAUL III,NICHOLAS COPERNICUS’ PREFACE TO HIS BOOKS ON THE REVOLUTIONS の最後のパラグラフの中程。「For not so long ago under Leo X the Lateran Council considered the problem of reforming the ecclesiastical calendar. The issue remained undecided then only because the lengths of the year and month and the motions of the sun and moon were regarded as not yet adequately measured.」
- ^ G Moyer (1983),"Aloisius Lilius and the 'Compendium novae rationis restituendi kalendarium'", pp.173-174, in G.V. Coyne (ed.), The Gregorian Reform of the Calendar: Proceedings of the Vatican conference to commemorate its 400th anniversary (Vatican City: Specola Vaticana), 1983. SAO/NASA Astrophysics Data System (ADS)
- ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 p.182
- ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 p.172
- ^ "Aloisius Lilius and the 'Compendium novae rationis restituendi kalendarium'" p.172, "a book was brought to us by our beloved son Antonio Lilio, doctor of arts and medicine, which his brother Aloysius had formerly written...", Gordon Moyer (1983),The Gregorian Reform of the Calendar: Proceedings of the Vatican conference to commemorate its 400th anniversary (Vatican City: Specola Vaticana), 1983.
- ^ デイヴィッド・E・ダンカン『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、266, 277頁。ISBN 4-309-22335-4。
- ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 pp.182-183
- ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 p.183 クラヴィウスからMichael Maestlin への返書による。
- ^ Inter Gravissimas Issued by Pope Gregory XIII, February 24, 1582、グレゴリウス13世が発布した教皇勅書の全文、ラテン語・フランス語・英語の3言語版、英語版はBill Spencer( November 1999, revised March 2002)によるフランス語とラテン語からの重訳
- ^ 英語版のみ、Inter Gravissimas Home Page for Calendar Reform, Bill Spencer, November 24-28, AD 1999
- ^ 表現としての時刻――江戸期まで― 多ヶ谷 有子、p.86, 脚注29、関東学院大学文学部 紀要 第131号(2014)
- ^ デイヴィッド・E・ダンカン『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、pp.298-299頁。ISBN 4-309-22335-4。
- ^ デイヴィッド・E・ダンカン『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、p.333頁。ISBN 4-309-22335-4。 ダンカンは1年につき約25.96秒の誤差があるとし、1582年10月から1997年年初までの累積時間を計算している。
- ^ Meeus, J. & Savoie, D. (1992) “The history of the tropical year” Journal of the British Astronomical Association, 102(1) p. 42による。
- ^ Meeus, J. “Astronomical Algorithms” (1991) p.166 および 須賀隆 “「七千年ノ後僅ニ一日」の謎” 日本暦学会 第21号 (2014) p.5 表2 による。
- ^ Tajerian, Ardem A.. “When Is Easter This Year?”. ChurchArmenia.com. 2012年3月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年10月13日閲覧。
- ^ デイヴィッド・E・ダンカン『暦をつくった人々 : 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、p.299頁。ISBN 4-309-22335-4。
- ^ Saudi Arabia adopts the Gregorian calendar, The Economist, 2016-12-15.
- ^ 「暦の大事典」朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷
関連項目
外部リンク
- 万年カレンダー
- 明治五年太政官布告第三百三十七号(改暦ノ布告) - e-Gov法令検索
- 明治三十一年勅令第九十号(閏年ニ関スル件) - e-Gov法令検索
- 『グレゴリオ暦』 - コトバンク
紀元前→後漢 | 古六暦 ?-? |
顓頊暦 ?-BC105 |
太初暦 BC104-4 |
三統暦 5-84 |
後漢→魏 | 四分暦 85-236 |
景初暦 237-444 |
魏→南朝 | 元嘉暦 445-509 |
大明暦 510-589 |
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呉 | 四分暦 222 |
乾象暦 223-280 |
北朝 | 景初暦 398-451 |
玄始暦 412-522 |
正光暦 523-565 |
興和暦 540-550 |
天保暦 551-577 |
天和暦 566-578 | ||||||||||
蜀 | 四分暦 221-263 | ||||||||||||||||||
北朝→隋 | 大象暦 579-583 |
開皇暦 584-596 |
大業暦 597-618 |
唐 | 戊寅元暦 619-664 |
麟徳暦 665-728 |
大衍暦 729-761 |
五紀暦 762-783 |
正元暦 784-806 |
観象暦 807-821 |
宣明暦 822-892 | ||||||||
唐→後周 | 崇玄暦 893-955 |
後周、北宋、南宋 | 欽天暦 956-963 |
応天暦 963-981 |
乾元暦 981-1001 |
儀天暦 1001-1023 |
崇天暦 1024-1065 |
明天暦 1065-1068 |
崇天暦 1068-1075 |
奉元暦 1075-1093 |
観天暦 1094-1102 |
占天暦 1103-1105 |
紀元暦 1106-1135 | ||||||
後晋、遼 | 調元暦 893-943? 961-993 |
大明暦 994-1125 | |||||||||||||||||
南宋 | 統元暦 1136-1167 |
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統天暦 1199-1207 |
開禧暦 1208-1251 |
淳祐暦 1252 |
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元以降 | 重修大明暦 1182-1280 |
授時暦 1281-1644 |
時憲暦 1645-1911 |
グレゴリオ暦 1912- | |||||
金 | 大明暦 1137-1181 |