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[[島根県]]出身<ref name="boy411">{{Cite web |url=http://www.boy.co.jp/boy/list/pdf/411.pdf |title=役員の人事異動について |publisher=横浜銀行 |format=PDF|date=2011-04-27 |accessdate=2019-06-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111114180127/http://www.boy.co.jp/boy/list/pdf/411.pdf |archiveservice=Internet Archive |archivedate=2011-11-14 |deadlinkdate=2019-06-06 }}</ref>。[[鳥取県立鳥取西高等学校]]を経て<ref>[https://cmsweb2.torikyo.ed.jp/toriw-h/?action=common_download_main&upload_id=250 「Untitled」] 鳥城会会報</ref>、[[1971年]]6月、[[東京大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]]第1類([[私法]]コース)卒業<ref name="Tōdai Jinmeiroku 1986">『東大人名録 第1部』1986年発行、51頁</ref><ref name="boy411"/>。同年7月に[[大蔵省]]入省([[銀行局#銀行課|銀行局銀行課]]配属<ref name="Okurasho Meikan">『大蔵省名鑑 1994年版』時評社、1994年1月発行、55頁</ref>)<ref name="boy411" />。[[1972年]]8月、[[大阪国税局]]調査部<ref name="Okurasho Meikan"/>。[[1974年]]7月、[[財務省大臣官房|大臣官房]]付(外務研修)<ref name="Okurasho Meikan"/>。[[1975年]]5月、[[外務省]]在アルゼンチン大使館[[外交官#職位|三等書記官]]。同年7月、外務省在アルゼンチン大使館[[外交官#職位|二等書記官]]。[[1978年]]7月、[[銀行局#中小金融課|銀行局中小金融課長]]補佐(信用金庫・信用補完)<ref name="Shokuinroku(P493)">『職員録 第1部』大蔵省印刷局、1979年発行、493頁</ref><ref name="Okurasho Meikan"/>。[[1980年]]7月、[[主計局]]法規課長補佐(第六)<ref name="Shokuinroku S56Y">『職員録 第1部』大蔵省印刷局、1981年発行</ref><ref name="Okurasho Meikan"/>。[[1982年]]6月、主計局[[主計官#主計官補佐|主計官補佐]](農林水産第三係[[主査#国|主査]])<ref name="Okurasho Meikan"/>。[[1984年]]6月、主計局主計官補佐(農林水産第一係主査)<ref name="Okurasho Meikan"/>。[[1986年]]6月、[[竹下登|竹下]][[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]][[秘書官]]事務取扱。同年7月、[[宮澤喜一|宮澤]]大蔵大臣秘書官事務取扱。[[1988年]][[12月9日]]、竹下大蔵大臣(首相による兼任)秘書官事務取扱。同[[12月24日|24日]]、[[村山達雄|村山]]大蔵大臣秘書官事務取扱。[[1989年]]6月、主計局主計企画官(財政計画担当)<ref name="日本の官庁 その人と組織:大藏省,経済企画庁(P47)">『日本の官庁 その人と組織:大藏省』政策時報社、1993年発行、47頁</ref><ref name="Okurasho Meikan"/>。[[1990年]]7月、主計局[[主計官]] 兼 法規課<ref name="Okurasho Meikan"/>。[[1992年]]6月、主計局主計官(農林水産担当)<ref name="Okurasho Meikan"/>。 |
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[[1994年]]7月、[[理財局]]資金第一課長。[[財務事務次官|大蔵次官]]・[[斎藤次郎]]の「ギラつきすぎたり、切れすぎたりするのは良くない」という評定により、主計局から異動となった<ref name="Kenryokunohimitsu">[[歳川隆雄]]『大蔵省「権力の秘密」:誰が日本の本当の支配者か』[[小学館]]、1995年3月発行、77・78頁</ref>。この人事は[[1993年]][[6月25日]]に[[理財局#歴代理財局次長|理財局次長]]から[[防衛省|防衛庁]]へ出向した[[佐藤謙]]のように理財局総務課長から同局担当の[[審議官#大臣(長官)官房審議官|審議官]](あるいは局次長)を務めたのち、防衛庁へ出向し、将来的に[[防衛事務次官]]となることを想定したものであった<ref name="Kenryokunohimitsu"/>。[[1995年]][[5月26日]]、理財局総務課長。[[1996年]][[7月12日]]から1年間[[名古屋国税局#歴代名古屋国税局長|名古屋国税局長]]を務めた<ref name="ck">[https://www.chukei-news.co.jp/news/2020/03/06/OK0002003060701_11/ 「東京丸八会 横浜銀行・特別顧問 寺澤辰麿(てらざわ・たつまろ)氏 製造業の強さを実感」] 中部経済新聞2020年3月6日の記事</ref>。 |
2023年1月7日 (土) 06:32時点における版
寺澤 辰麿(てらざわ たつまろ、1947年2月25日[1] - )は、日本の財務官僚。血液型はO型[2]。国税庁長官を経て横浜銀行頭取、コンコルディア・フィナンシャルグループ社長等を歴任した。
経歴
島根県出身[1]。鳥取県立鳥取西高等学校を経て[3]、1971年6月、東京大学法学部第1類(私法コース)卒業[4][1]。同年7月に大蔵省入省(銀行局銀行課配属[5])[1]。1972年8月、大阪国税局調査部[5]。1974年7月、大臣官房付(外務研修)[5]。1975年5月、外務省在アルゼンチン大使館三等書記官。同年7月、外務省在アルゼンチン大使館二等書記官。1978年7月、銀行局中小金融課長補佐(信用金庫・信用補完)[6][5]。1980年7月、主計局法規課長補佐(第六)[7][5]。1982年6月、主計局主計官補佐(農林水産第三係主査)[5]。1984年6月、主計局主計官補佐(農林水産第一係主査)[5]。1986年6月、竹下大蔵大臣秘書官事務取扱。同年7月、宮澤大蔵大臣秘書官事務取扱。1988年12月9日、竹下大蔵大臣(首相による兼任)秘書官事務取扱。同24日、村山大蔵大臣秘書官事務取扱。1989年6月、主計局主計企画官(財政計画担当)[8][5]。1990年7月、主計局主計官 兼 法規課[5]。1992年6月、主計局主計官(農林水産担当)[5]。
1994年7月、理財局資金第一課長。大蔵次官・斎藤次郎の「ギラつきすぎたり、切れすぎたりするのは良くない」という評定により、主計局から異動となった[9]。この人事は1993年6月25日に理財局次長から防衛庁へ出向した佐藤謙のように理財局総務課長から同局担当の審議官(あるいは局次長)を務めたのち、防衛庁へ出向し、将来的に防衛事務次官となることを想定したものであった[9]。1995年5月26日、理財局総務課長。1996年7月12日から1年間名古屋国税局長を務めた[10]。
1997年7月、主計局次長(次席)。田谷廣明、杉井孝らの退任という突発のあおりもあり、主計局に復帰した[11]。1999年7月 主計局次長(筆頭)[12]。2000年6月 関税局長[1]。主計局次長(筆頭)時代に効率的な予算配分を重視した「メリハリ予算」を編み出す中心的役割を果たした。緊縮財政路線への転換を密かに進めようとしたことにより、自民党からは「景気回復を遅らせた犯人の一人」とされ、大蔵省中枢の主計局の次長から関税局長に左遷されたが[13]、寺澤自身は「関税局長になったのは左遷でなく、セーフガード問題があったから起用されたまで」と周囲に語っていた[14]。2001年7月 理財局長[1]。寺澤の理財局長への就任は金融庁で次期長官確実とみられていた乾文男金融庁総務企画局長が退任し、理財局長だった原口恒和が金融庁総務企画局長への転出に応じたため実現したものである[14][15]。2003年7月 国税庁長官[1]。
2004年7月 財務省を退職し、独立行政法人都市再生機構理事長代理に就任する[1]。2007年7月 在コロンビア日本国大使館特命全権大使[1]。2010年10月 外務省を退職[1]。
2015年6月、地銀協会長[17]。 2016年4月、コンコルディア・フィナンシャルグループ社長[18]。
2016年6月、横浜銀行頭取、地銀協会長を退任し、コンコルディア・フィナンシャルグループの社長専任となる。2018年には自身のグループの会長兼取締役会議長への昇格と大蔵省出身の石井道遠副社長の続投案を金融庁と折衝したが、最終的には取締役会の全会一致で退任及び生え抜きの川村健一と大矢恭好の、それぞれグループ社長と横浜銀行頭取への昇格が内定し、天下りからの脱却となった[19][20][21][22]。横浜銀行特別顧問[10]、日本関税協会横浜支部長[23]、日本テニス協会理事[24]。
同期
- 藤井秀人(日本政策投資銀行副社長、財務事務次官)
- 福田進(内閣官房副長官補(内政担当)、国税庁長官)
- 高木祥吉(ゆうちょ銀行初代代表執行役社長、金融庁長官)
- 吉田和男(京都産業大学教授、京都大学大学院教授)
- 坂井隆憲(自民党衆議院議員、大蔵省大臣官房企画官)
- 志賀櫻(弁護士)
- 村井博美(財務省印刷局長)
- 吉永國光(東和銀行会長、同行頭取、国際協力事業団理事)
- 橋本孝伸(国税不服審判所次長)
- 窪野鎮治(国土交通省政策統括官、財務省印刷局長)
- 田村義雄(クロアチア大使、環境事務次官)
著書
- 『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い” (アジアを見る眼)』アジア経済研究所、2011年。ISBN 978-4258051137
- 『コロンビアの素顔』かまくら春秋社、2016年。ISBN 4774006793
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k “役員の人事異動について” (PDF). 横浜銀行 (2011年4月27日). 2011年11月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月6日閲覧。
- ^ 『日本の官庁 その人と組織:大蔵省,経済企画庁』政策時報社、1991年発行、115頁
- ^ 「Untitled」 鳥城会会報
- ^ 『東大人名録 第1部』1986年発行、51頁
- ^ a b c d e f g h i j 『大蔵省名鑑 1994年版』時評社、1994年1月発行、55頁
- ^ 『職員録 第1部』大蔵省印刷局、1979年発行、493頁
- ^ 『職員録 第1部』大蔵省印刷局、1981年発行
- ^ 『日本の官庁 その人と組織:大藏省』政策時報社、1993年発行、47頁
- ^ a b 歳川隆雄『大蔵省「権力の秘密」:誰が日本の本当の支配者か』小学館、1995年3月発行、77・78頁
- ^ a b 「東京丸八会 横浜銀行・特別顧問 寺澤辰麿(てらざわ・たつまろ)氏 製造業の強さを実感」 中部経済新聞2020年3月6日の記事
- ^ 『官界 第9~12号』行政問題研究所、1999年発行
- ^ 『財界 第48巻、第22~24号』2000年発行、134頁
- ^ 『財界 第49巻、第11~14号』2001年発行、76頁
- ^ a b 『財界 第49巻、第18号』2001年8月発行、102頁
- ^ 『月刊政治と経済 第27巻』政治と経済社、2001年発行、20頁
- ^ “横浜銀頭取に寺沢氏 元国税庁長官”. 共同通信. (2011年4月27日) 2013年10月10日閲覧。
- ^ “地銀協、次期会長に横浜銀・寺沢氏を正式発表”. 日本経済新聞. (2014年12月17日) 2015年6月16日閲覧。
- ^ コンコルディア・フィナンシャルグループ会社概要
- ^ “地銀協次期会長に静岡銀の中西氏 正式発表”. 日本経済新聞. (2015年12月16日) 2016年4月22日閲覧。
- ^ “横浜銀行頭取に川村氏 寺沢氏は持ち株会社社長に”. 産経ニュース. (2016年3月16日) 2016年4月22日閲覧。
- ^ 70年越しの脱・大蔵省、コンコルディアFG、全トップに生え抜き、プロパー反抗、金融庁が後ろ盾(真相深層)
- ^ 「横浜銀行頭取に川村氏 初の生え抜き」 日本経済新聞2016/3/16
- ^ 当支部役員 日本関税協会横浜支部
- ^ 公益財団法人日本テニス協会役
- ^ 『官報』号外第230号、令和2年11月4日
官職 | ||
---|---|---|
先代 渡辺裕泰 |
国税庁長官 2003年 - 2004年 |
次代 大武健一郎 |
先代 原口恒和 |
財務省理財局長 2001年 - 2003年 |
次代 牧野治郎 |
先代 渡辺裕泰 |
大蔵・財務省関税局長 2000年 - 2001年 |
次代 田村義雄 |
先代 坂篤郎 |
大蔵省主計局次長(筆頭) 1999年 - 2000年 |
次代 藤井秀人 |
先代 溝口善兵衛 |
大蔵省主計局次長(次席) 1997年 - 1999年 |
次代 藤井秀人 |
先代 原口恒和 |
名古屋国税局長 1996年 - 1997年 |
次代 森田好則 |
先代 乾文男 |
大蔵省理財局総務課長 1995年 - 1996年 |
次代 金井照久 |
ビジネス | ||
先代 小川是 |
横浜銀行頭取 第13代:2011年 - 2016年 |
次代 川村健一 |
先代 (新設) |
コンコルディア・フィナンシャルグループ社長 初代:2016年 - 2018年 |
次代 川村健一 |
先代 寺門一義 |
全国地方銀行協会会長 第20代:2015年 - 2016年 |
次代 中西勝則 |