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2023年1月7日 (土) 06:23時点における版
齋藤内閣 | |
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親任式後の閣僚 | |
内閣総理大臣 | 第30代 斎藤実 |
成立年月日 | 1932年(昭和7年)5月26日 |
終了年月日 | 1934年(昭和9年)7月8日 |
与党・支持基盤 | 立憲民政党、立憲政友会 |
内閣閣僚名簿(首相官邸) |
齋藤内閣(さいとうないかく)は、枢密顧問官、退役海軍大将の斎藤実が第30代内閣総理大臣に任命され、1932年(昭和7年)5月26日から1934年(昭和9年)7月8日まで続いた日本の内閣。
内閣成立までの経緯
1932年(昭和7年)5月、内閣総理大臣の犬養毅が武装した海軍青年将校らに殺害されたあと(五・一五事件)、元老の西園寺公望は、犬養内閣の陸軍大臣であった荒木貞夫から政党内閣の拒絶の意を伝えられ、また対米英協調派の昭和天皇の意向を受けて、次期首相の推薦についての調整を行った。その結果、シーメンス汚職事件で引責辞任した元海軍大臣で、朝鮮総督在任の時期に子爵の爵位を授与されていた穏健派の斎藤実が首相として推薦されることとなった。
犬養毅総裁及び首相を失った立憲政友会はこのとき、テロによる内閣総辞職の後の首班には同じ政党の党首を推薦するという元老の慣例を考慮し[注釈 1]、元老と天皇による次期党首の次期首相指名という大命降下を期待していた。
ここで、右派の森恪らは次期総裁・首相として、右翼とつながりを有しナチズムやファシズム、共産主義など外来思想を危険視していた司法官僚で枢密院副議長の平沼騏一郎を押していたが、立憲政友会は5月17日、鳩山一郎の義兄である鈴木喜三郎を選出していた。
元老西園寺公望も当初は政党内閣継続の為、鈴木を次期首相に推薦する意向であり、陸相の荒木貞夫も19日に鈴木と会見し「鈴木内閣発足に反対しない」と発言したと報じられた[1]。だが翌20日、陸軍の少壮将校がこれに反発し、政友会単独内閣成立に強く反対していることが報じられ[2]、不穏な情勢となった。21日、西園寺は重臣[注釈 2]や元帥[注釈 3]の意見を聞いた上で、鈴木ではなく海軍穏健派の長老である斎藤実を推薦する事にした[注釈 4][注釈 5]。斎藤は「英語に堪能で、条約派に属する国際派の海軍軍人であり、粘り強い性格、強靭な体力、本音を明かさぬ慎重さが評価されていた」という。
同26日、第30代内閣総理大臣に就任(同年7月6日まで外務大臣兼任)。
齋藤内閣は立憲政友会と立憲民政党の双方から大臣を迎えた挙国一致内閣(連立内閣)であった。
(詳細は、「五・一五事件#後継首相の選定」を参照。)
概要
斉藤内閣は1932年(昭和7年)9月、それまで帝国政府が断固として承認しなかった満洲国を承認する日満議定書を、また、1933年(昭和8年)5月には日本軍と中国軍との間の停戦協定である塘沽協定を締結した(この当時の外務大臣は、内田康哉)。
国際連盟の脱退
国際連盟は満洲事変について、1932年(昭和7年)にリットン調査団を派遣し、その結果10月にリットン報告書が提出され[3]、リットン報告書を基礎に起草された勧告案[4]は1933年(昭和8年)2月24日のジュネーブ特別総会で採択された。
同報告書の内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかったが、同報告書が満州国を独立国と認めず国際管理下に置くことを勧告したことから、国内では受諾反対の世論が沸騰。斎藤および内田もこれに呼応し、日本全権首席の松岡洋右はやむなく議場を退席。
3月27日に日本は国際連盟を脱退した(「国際連盟脱退」)。この斎藤内閣の選択を期に、日本は国際社会において孤立への道を歩み始める。
帝人事件
1934年(昭和9年)1月、時事新報(武藤山治社長)が、繊維会社の帝人と財界人グループ「番町会」や鳩山一郎とのあいだの贈収賄疑惑を報じたことから帝人事件の調査が開始され、帝人社長、帝人の株式を担保していた台湾銀行の頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら16人が起訴された。
政財界だけでなく高橋蔵相の息子まで疑惑が広がり、政権批判の世論が収まることはなく、齊藤内閣は7月8日、内閣総辞職した。
なお、その後、帝人事件の担当裁判官の石田和外らは1937年、被告ら全員に事件そのものが事実無根として無罪判決を言い渡した(司法大臣は小山松吉)。
その他の主な出来事
閣僚の顔ぶれ・人事
国務大臣
1932年(昭和7年)5月26日任命[5]。在職日数774日。
職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
内閣総理大臣 | 30 | 斎藤実 | 退役海軍大将 (海兵6期) 子爵 |
外務、文部大臣兼任 | ||
外務大臣 | 43 | 斎藤実 | 退役海軍大将 (海兵6期) 子爵 |
内閣総理大臣、 文部大臣兼任 |
1932年7月6日免兼[6] | |
44 | 内田康哉 | 貴族院 無所属 (無会派) 伯爵 |
1932年7月6日任[6] 1933年9月14日免[7] | |||
45 | 広田弘毅 | 外務省 | 初入閣 1933年9月14日任[7] | |||
内務大臣 | 45 | 山本達雄 | 貴族院 立憲民政党 (交友倶楽部) 男爵 |
|||
大蔵大臣 | 31 | 高橋是清 | 民間 立憲政友会 |
留任 | ||
陸軍大臣 | 21 | 荒木貞夫 | 陸軍中将 (陸大19期) |
留任 1934年1月23日免[8] | ||
22 | 林銑十郎 | 陸軍大将 (陸大17期) |
初入閣 1934年1月23日任[8] | |||
海軍大臣 | 16 | 岡田啓介 | 海軍大将 (海大将校科甲種2期) |
1933年1月9日免[9] | ||
17 | 大角岑生 | 海軍大将 (海兵24期) |
1933年1月9日任[9] | |||
司法大臣 | 35 | 小山松吉 | (司法省→) 貴族院[注釈 6] |
初入閣 | ||
文部大臣 | 40 | 鳩山一郎 | 衆議院 立憲政友会 |
留任 1934年3月3日免[注釈 7][10] | ||
41 | 斎藤実 | 退役海軍大将 (海兵6期) 子爵 |
内閣総理大臣、 外務大臣兼任 |
1934年3月3日兼[10] | ||
農林大臣 | 8 | 後藤文夫 | 貴族院 無所属 (無会派) |
初入閣 | ||
商工大臣 | 9 | 中島久万吉 | 貴族院 無所属 (公正会) 男爵 |
初入閣 1934年2月9日免[注釈 8][11] | ||
10 | 松本烝治 | 貴族院 無所属 (無会派) |
初入閣 1934年2月9日任[11] | |||
逓信大臣 | 35 | 南弘 | 貴族院 無所属 (交友倶楽部) |
初入閣 | ||
鉄道大臣 | 11 | 三土忠造 | 衆議院 立憲政友会 |
|||
拓務大臣 | 6 | 永井柳太郎 | 衆議院 立憲民政党 |
初入閣 | ||
|
内閣書記官長・法制局長官
1932年(昭和7年)5月26日任命[5]。
職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
内閣書記官長 | 32 | 柴田善三郎 | 内務省 | 1933年3月13日免[注釈 9][12] | ||
33 | 堀切善次郎 | (内務省→) 貴族院[注釈 10] 無所属 (研究会) |
1933年3月13日任[12] | |||
法制局長官 | 30 | 堀切善次郎 | 内務省 | 1933年3月13日免[注釈 11][12] | ||
31 | 黒崎定三 | 法制局 | 1933年3月13日任[12] | |||
|
政務次官
1932年(昭和7年)6月1日任命[13]。
職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
---|---|---|---|
外務政務次官 | 瀧正雄 | 衆議院/無所属 | |
内務政務次官 | 斎藤隆夫 | 衆議院/立憲民政党 | |
大蔵政務次官 | 堀切善兵衛 | 衆議院/立憲政友会 | 留任 |
陸軍政務次官 | 土岐章 | 貴族院/無所属(研究会)/子爵 | |
海軍政務次官 | 堀田正恒 | 貴族院/無所属(研究会)/伯爵 | 留任 |
司法政務次官 | 八並武治 | 衆議院/立憲民政党 | |
文部政務次官 | 東郷実 | 衆議院/立憲政友会 | |
農林政務次官 | 有馬頼寧 | 貴族院/無所属(研究会)/伯爵 | 1933年4月21日免[14] |
織田信恒 | 貴族院/無所属(研究会)/子爵 | 1933年4月21日任[14] | |
商工政務次官 | 岩切重雄 | 衆議院/立憲民政党 | |
逓信政務次官 | 志賀和多利 | 衆議院/立憲政友会 | 1932年8月11日免[15] |
牧野良三 | 衆議院/立憲政友会 | 1932年8月11日任[15] | |
鉄道政務次官 | 名川侃市 | 衆議院/立憲政友会 | |
拓務政務次官 | 堤康次郎 | 衆議院/立憲民政党 |
参与官
1932年(昭和7年)6月1日任命[13]。
職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
---|---|---|---|
外務参与官 | 沢本与一 | 衆議院/立憲民政党 | 1933年6月21日免[16] |
西脇晋 | 衆議院/立憲民政党 | 1933年6月23日任[17] 1933年12月19日卒去[18] | |
松本忠雄 | 衆議院/立憲民政党 | 1933年12月22日任[19] | |
内務参与官 | 勝田永吉 | 衆議院/立憲民政党 | |
大蔵参与官 | 上塚司 | 衆議院/立憲政友会 | |
陸軍参与官 | 石井三郎 | 衆議院/無所属 | |
海軍参与官 | 川島正次郎 | 衆議院/立憲政友会 | |
司法参与官 | 岩本武助 | 衆議院/立憲政友会 | |
文部参与官 | 石坂豊一 | 衆議院/立憲政友会 | |
農林参与官 | 松村謙三 | 衆議院/立憲民政党 | |
商工参与官 | 松村光三 | 衆議院/立憲政友会 | |
逓信参与官 | 立花種忠 | 貴族院/無所属(研究会)/子爵 | |
鉄道参与官 | 板谷順助 | 衆議院/立憲政友会 | |
拓務参与官 | 木村小左衛門 | 衆議院/立憲民政党 |
勢力早見表
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
出身 | 国務大臣 | 政務次官 | 参与官 | その他 |
---|---|---|---|---|
立憲政友会 | 3 | 4 | 6 | |
立憲民政党 | 1 | 4 | 4 | |
交友倶楽部 | 2 | 0 | 0 | |
公正会 | 1 | 0 | 0 | |
研究会 | 0 | 3 | 1 | |
軍部 | 3 | 0 | 0 | 国務大臣のべ4 |
官僚 | 1 | 0 | 0 | 内閣書記官長、法制局長官 |
無所属 | 1 | 1 | 1 | |
12 | 12 | 12 | 国務大臣のべ13 |
出版物
- 『刑事事件集(附)刑事事件起案小手引』、1932年8月
- 『ソビエト法の理論』、1932年10月
- 『1931年ドイツ新民事訴訟法草案並びに説明書』、1932年9月 、1933年10月
- 『捜査事務について』、1933年11月
- 『ドイツ刑法第一読会終了(1930年)』、1934年1月
- 『犯罪生物学原論』、1934年2月 [注釈 12]
- 『ナチスの刑法(プロシア邦司法大臣の覚書)』、1934年5月
- 『プロシアにおける司法官教育関係法令彙纂』、1934年7月
脚注
- 注釈
- ^ 濱口内閣の後継の第2次若槻内閣。また、憲政常道の確立以前ではあるが、原内閣の後継の高橋内閣。
- ^ 倉富勇三郎枢密院議長、牧野伸顕内大臣、近衛文麿貴族院副議長、若槻礼次郎元首相、清浦奎吾元首相、山本権兵衛元首相
- ^ 上原勇作、東郷平八郎。この当時生存していた元帥はこの二人と閑院宮載仁親王のみ。
- ^ 西園寺はこれを一時的な措置とし、いずれ政党政治に戻す事を企図していたとされるが、時局が進むにつれそれが実現することはなかった。
- ^ 鈴木に対しては、犬養内閣の内務大臣であったことから「治安の責任者たる内務大臣が首相暗殺によって引責どころか首相就任というのはどうなのか」という問題や、昭和天皇が西園寺に述べた「ファッショに近い者は不可」という意向に国本社理事で平沼と近い鈴木が抵触するという問題もあった。多田井喜生「決断した男 木戸幸一の昭和」P97~98、文藝春秋、2000年。
- ^ 1934年(昭和9年)7月3日、貴族院勅選議員勅任。
- ^ 帝人事件関与疑惑で引責辞任。
- ^ 足利尊氏論の批判により辞任。
- ^ 病気療養のため辞任。
- ^ 1933年(昭和8年)12月5日、貴族院勅選議員勅任。
- ^ 内閣書記官長に就任するため。
- ^ 優生学の研究書。
- 出典
- ^ 『東京日日新聞』1932年(昭和7年)5月19日
- ^ 『東京日日新聞』1932年(昭和7年)5月20日
- ^ 加藤陽子『満州事変から日中戦争まで』岩波新書2007年 137頁
- ^ 加藤陽子『満州事変から日中戦争まで』岩波新書2007年 133-135頁、161-162頁
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和7年5月26日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和7年7月6日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和8年9月14日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和9年1月23日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和8年1月9日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和9年3月3日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和9年2月9日
- ^ a b c d 『官報』第1859号「叙任及辞令」、昭和8年3月13日
- ^ a b 『官報』第1625号「叙任及辞令」、昭和7年6月2日
- ^ a b 『官報』第1891号「叙任及辞令」、昭和8年4月22日
- ^ a b 『官報』第1686号「叙任及辞令」、昭和7年8月12日
- ^ 『官報』第1941号「叙任及辞令」昭和8年6月22日。
- ^ 『官報』第1943号「叙任及辞令」、昭和8年6月24日
- ^ 『官報』第2094号「彙報 官庁事項 官吏卒去」昭和8年12月22日。
- ^ 『官報』第2095号「叙任及辞令」、昭和8年12月23日
参考文献
- 秦郁彦 編『日本官僚制総合事典:1868–2000』 東京大学出版会、2001年
- 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』 第2版、東京大学出版会、2005年
- 加藤陽子『満州事変から日中戦争まで』岩波新書、2007年6月