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2023年1月7日 (土) 06:13時点における版
第1次近衛内閣 | |
---|---|
記念撮影に臨む閣僚 | |
内閣総理大臣 | 第34代 近衛文麿 |
成立年月日 | 1937年(昭和12年)6月4日 |
終了年月日 | 1939年(昭和14年)1月5日 |
与党・支持基盤 | 挙国一致内閣 |
内閣閣僚名簿(首相官邸) |
第1次近衛内閣(だいいちじ このえないかく)は、貴族院議長の近衛文麿が第34代内閣総理大臣に任命され、1937年(昭和12年)6月4日から1939年(昭和14年)1月5日まで続いた日本の内閣。
第1次近衛内閣
国務大臣
1937年(昭和12年)6月4日任命[1]。在職日数357日。
職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
内閣総理大臣 | 34 | 近衛文麿 | 貴族院 無所属 (無会派[注釈 1]) 公爵 |
初入閣 | ||
外務大臣 | 49 | 広田弘毅 | 貴族院 無所属 (無会派) |
留任 | ||
内務大臣 | 49 | 馬場鍈一 | 貴族院 無所属 (研究会) |
1937年12月14日免[注釈 2][2] | ||
50 | 末次信正 | 海軍大将 (海大甲種7期) |
1937年12月14日任[2] | |||
大蔵大臣 | 37 | 賀屋興宣 | 大蔵省 | 初入閣 | ||
陸軍大臣 | 26 | 杉山元 | 陸軍大将 (陸大22期) |
対満事務局総裁兼任 | 留任 | |
海軍大臣 | 19 | 米内光政 | 海軍大将 (海大甲種12期) |
留任 | ||
司法大臣 | 38 | 塩野季彦 | 司法省 | 留任 | ||
文部大臣 | 47 | 安井英二 | 内務省 | 初入閣 1937年10月22日免[注釈 3][3] | ||
48 | 木戸幸一 | 貴族院 無所属 (火曜会) 侯爵 |
厚生大臣兼任 | 初入閣 1937年10月22日任[3] | ||
農林大臣 | 12 | 有馬頼寧 | 貴族院 無所属 (研究会) 伯爵 |
初入閣 | ||
商工大臣 | 15 | 吉野信次 | 商工省 | 初入閣 | ||
逓信大臣 | 42 | 永井柳太郎 | 衆議院 立憲民政党 |
|||
鉄道大臣 | 15 | 中島知久平 | 衆議院 立憲政友会 予備役海軍機関大尉 (海大機関科) |
初入閣 | ||
拓務大臣 | 11 | 大谷尊由 | 貴族院 無所属 (研究会) |
初入閣 | ||
厚生大臣 | (厚生省未設置) | 1938年1月11日設置 | ||||
1 | 木戸幸一 | 貴族院 無所属 (火曜会) 侯爵 |
文部大臣兼任 | 1938年1月11日任[4] | ||
|
内閣書記官長・法制局長官
1937年(昭和12年)6月4日任命[1]。
職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
内閣書記官長 | 39 | 風見章 | 衆議院 無所属 |
|||
法制局長官 | 36 | 瀧正雄 | 衆議院 無所属 |
1937年10月25日免[注釈 4][5] | ||
37 | 船田中 | 衆議院 立憲政友会 |
1937年10月25日任[5] | |||
|
政務次官
1937年(昭和12年)6月24日任命[6]。
職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
---|---|---|---|
外務政務次官 | 松本忠雄 | 衆議院/立憲民政党 | |
内務政務次官 | 勝田永吉 | 衆議院/立憲民政党 | |
大蔵政務次官 | 太田正孝 | 衆議院/立憲政友会 | |
陸軍政務次官 | 加藤久米四郎 | 衆議院/立憲政友会 | |
海軍政務次官 | 一宮房治郎 | 衆議院/立憲民政党 | |
司法政務次官 | 久山知之 | 衆議院/立憲政友会 | |
文部政務次官 | 内ヶ崎作三郎 | 衆議院/立憲民政党 | |
農林政務次官 | 高橋守平 | 衆議院/立憲民政党 | |
商工政務次官 | 木暮武太夫 | 衆議院/立憲政友会 | |
逓信政務次官 | 田島勝太郎 | 衆議院/立憲民政党 | |
鉄道政務次官 | 田尻生五 | 衆議院/立憲政友会 | |
拓務政務次官 | 八角三郎 | 衆議院/立憲政友会 | |
厚生政務次官 | (厚生省未設置) | 1938年1月11日設置 | |
(欠員) | 1938年1月18日まで | ||
工藤鉄男 | 衆議院/立憲民政党 | 1938年1月18日任[7] |
参与官
1937年(昭和12年)6月24日任命[6]。
職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
---|---|---|---|
外務参与官 | 船田中 | 衆議院/立憲政友会 | 1937年10月25日免[注釈 5] |
(欠員) | 1937年12月15日まで | ||
春名成章 | 衆議院/旧昭和会 | 1937年12月15日任[8] | |
内務参与官 | 木村正義 | 衆議院/立憲民政党 | |
大蔵参与官 | 中村三之丞 | 衆議院/立憲民政党 | |
陸軍参与官 | 比佐昌平 | 衆議院/立憲民政党 | |
海軍参与官 | 岸田正記 | 衆議院/旧昭和会 | |
司法参与官 | 藤田若水 | 衆議院/立憲民政党 | |
文部参与官 | 赤木桁平 | 衆議院/立憲民政党 | |
農林参与官 | 助川啓四郎 | 衆議院/立憲政友会 | |
商工参与官 | 佐藤謙之輔 | 衆議院/立憲民政党 | |
逓信参与官 | 犬養健 | 衆議院/立憲政友会 | |
鉄道参与官 | 金井正夫 | 衆議院/旧昭和会 | |
拓務参与官 | 伊礼肇 | 衆議院/国民同盟 | |
厚生参与官 | (厚生省未設置) | 1938年1月11日設置 | |
(欠員) | 1938年1月18日まで | ||
山本芳治 | 衆議院/立憲政友会 | 1938年1月18日任[7] |
第1次近衛改造内閣
国務大臣
1938年(昭和13年)5月26日任命[9]。在職日数225日(通算581日)。
職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
内閣総理大臣 | 34 | 近衛文麿 | 貴族院 無所属 (無会派) 公爵 |
外務、拓務大臣兼任 | 留任 | |
外務大臣 | 50 | 宇垣一成 | 陸軍大将 (陸大14期) |
留任 1938年9月30日免[10] | ||
51 | 近衛文麿 | 貴族院 無所属 (無会派) 公爵 |
内閣総理大臣、 拓務大臣兼任 |
1938年9月30日任[10] 1938年10月29日免[11] | ||
52 | 有田八郎 | 貴族院 無所属 (無会派) |
1938年10月29日任[11] | |||
内務大臣 | 50 | 末次信正 | 海軍大将 (海大甲種7期) |
留任 | ||
大蔵大臣 | 38 | 池田成彬 | 民間 | 商工大臣兼任 | 初入閣 | |
陸軍大臣 | 26 | 杉山元 | 陸軍大将 (陸大22期) |
対満事務局総裁兼任 | 留任 1938年6月3日免[12] | |
27 | 板垣征四郎 | 陸軍中将 (陸大28期) |
対満事務局総裁兼任 | 初入閣 1938年6月3日任[12] | ||
海軍大臣 | 19 | 米内光政 | 海軍中将 (海大甲種12期) |
留任 | ||
司法大臣 | 38 | 塩野季彦 | 司法省 | 留任 | ||
文部大臣 | 49 | 荒木貞夫 | 予備役陸軍大将 男爵 |
|||
農林大臣 | 12 | 有馬頼寧 | 貴族院 無所属 (研究会) 伯爵 |
留任 | ||
商工大臣 | 16 | 池田成彬 | 民間 | 大蔵大臣兼任 | ||
逓信大臣 | 42 | 永井柳太郎 | 衆議院 立憲民政党 |
留任 | ||
鉄道大臣 | 15 | 中島知久平 | 衆議院 立憲政友会 予備役海軍機関大尉 (海大機関科) |
留任 | ||
拓務大臣 | 11 | 大谷尊由 | 貴族院 無所属 (研究会) |
留任 1938年6月25日免[注釈 6][13] | ||
12 | 宇垣一成 | 陸軍大将 (陸大14期) |
外務大臣兼任 | 1938年6月25日任[13] 1938年9月30日免[10] | ||
13 | 近衛文麿 | 貴族院 無所属 (無会派) 公爵 |
内閣総理大臣、 外務大臣兼任 |
1938年9月30日任[10] 1938年10月29日免[11] | ||
14 | 八田嘉明 | 貴族院 無所属 (研究会) |
初入閣 1938年10月29日任[11] | |||
厚生大臣 | 1 | 木戸幸一 | 貴族院 無所属 (火曜会) 侯爵 |
留任[注釈 7] | ||
|
内閣書記官長・法制局長官
1938年(昭和13年)5月26日留任。
職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
内閣書記官長 | 39 | 風見章 | 衆議院 無所属 |
留任 | ||
法制局長官 | 37 | 船田中 | 衆議院 立憲政友会 |
留任 | ||
|
政務次官
1938年(昭和13年)5月26日留任。
職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
---|---|---|---|
外務政務次官 | 松本忠雄 | 衆議院/立憲民政党 | 留任 |
内務政務次官 | 勝田永吉 | 衆議院/立憲民政党 | 留任 |
大蔵政務次官 | 太田正孝 | 衆議院/立憲政友会 | 留任 |
陸軍政務次官 | 加藤久米四郎 | 衆議院/立憲政友会 | 留任 |
海軍政務次官 | 一宮房治郎 | 衆議院/立憲民政党 | 留任 |
司法政務次官 | 久山知之 | 衆議院/立憲政友会 | 留任 |
文部政務次官 | 内ヶ崎作三郎 | 衆議院/立憲民政党 | 留任 |
農林政務次官 | 高橋守平 | 衆議院/立憲民政党 | 留任 |
商工政務次官 | 木暮武太夫 | 衆議院/立憲政友会 | 留任 |
逓信政務次官 | 田島勝太郎 | 衆議院/立憲民政党 | 留任 |
鉄道政務次官 | 田尻生五 | 衆議院/立憲政友会 | 留任 |
拓務政務次官 | 八角三郎 | 衆議院/立憲政友会 | 留任 |
厚生政務次官 | 工藤鉄男 | 衆議院/立憲民政党 | 留任 |
参与官
1938年(昭和13年)5月26日留任。
職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
---|---|---|---|
外務参与官 | 春名成章 | 衆議院/旧昭和会 | 留任 |
内務参与官 | 木村正義 | 衆議院/立憲民政党 | 留任 |
大蔵参与官 | 中村三之丞 | 衆議院/立憲民政党 | 留任 |
陸軍参与官 | 比佐昌平 | 衆議院/立憲民政党 | 留任 |
海軍参与官 | 岸田正記 | 衆議院/旧昭和会 | 留任 |
司法参与官 | 藤田若水 | 衆議院/立憲民政党 | 留任 |
文部参与官 | 赤木桁平 | 衆議院/立憲民政党 | 留任 |
農林参与官 | 助川啓四郎 | 衆議院/立憲政友会 | 留任 |
商工参与官 | 佐藤謙之輔 | 衆議院/立憲民政党 | 留任 |
逓信参与官 | 犬養健 | 衆議院/立憲政友会 | 留任 |
鉄道参与官 | 金井正夫 | 衆議院/旧昭和会 | 留任 |
拓務参与官 | 伊礼肇 | 衆議院/国民同盟 | 留任 |
厚生参与官 | 山本芳治 | 衆議院/立憲政友会 | 留任 |
勢力早見表
内閣発足当初
※ 前内閣の事務引継は除く。
出身 | 国務大臣 | 政務次官 | 参与官 | その他 |
---|---|---|---|---|
立憲政友会 | 1 | 6 | 3 | |
立憲民政党 | 1 | 6 | 6 | |
昭和会 | 0 | 0 | 2 | |
国民同盟 | 0 | 0 | 1 | |
研究会 | 3 | 0 | 0 | |
無所属 | 2 | 0 | 0 | 内閣書記官長、法制局長官 |
軍部 | 2 | 0 | 0 | |
官僚 | 4 | 0 | 0 | |
民間 | 0 | 0 | 0 | |
13 | 12 | 12 |
内閣改造後
※ 改造前の事務引継は除く。
出身 | 国務大臣 | 政務次官 | 参与官 | その他 |
---|---|---|---|---|
立憲政友会 | 1 | 6 | 3 | |
立憲民政党 | 1 | 7 | 6 | |
昭和会 | 0 | 0 | 3 | |
国民同盟 | 0 | 0 | 1 | |
研究会 | 2 | 0 | 0 | |
火曜会 | 1 | 0 | 0 | |
無所属 | 1 | 0 | 0 | 内閣書記官長、法制局長官 |
軍部 | 5 | 0 | 0 | |
官僚 | 1 | 0 | 0 | |
民間 | 1 | 0 | 0 | 国務大臣のべ2 |
13 | 13 | 13 | 国務大臣のべ14 |
内閣の動き
第1次近衛内閣は、元老・西園寺公望の奏薦を受けて貴族院議長の近衛文麿に大命が降下し、組閣した実質的挙国一致内閣である。林銑十郎が総理になると、少数閣僚内閣による実力内閣を標榜した林はこうした政務官への批判を絶好の機会と捉え、政務官の弊害を過剰に問題視してその任用を一切とりやめてしまった。政務官という議会との連絡役を自ら断ち切ってしまった林内閣は、その当然の帰結として衆議院で民政党と政友会の二大政党からそっぽを向かれることになり、これが4か月後の林内閣瓦解につながった。その林のあとに総理となった近衛は迷わずこれらの政務官を復活させたばかりか、国民の代表を積極的に国政に関与させるという名分のもとに、田中義一内閣以来10年ぶりにすべての政務官を衆議院議員から任用した。ただしその顔ぶれはというと、近衛の私的政策研究団体である昭和研究会に所属する者や、近衛と個人的にも近かった親軍的な中島知久平鉄相が率いる政友会中島派の面々が大多数を占め、逆にそれまで長年政友会の中心にあった自由主義的な鳩山一郎率いる政友会鳩山派がほとんど排斥されたかたちとなっており、そこにはすでに政友会の分断と解党に向けて張られた伏線を見て取ることができる[14]。
第1次近衛内閣発足の1か月後に勃発した盧溝橋事件については、当初、拡大方針を見送っており、現地軍も停戦交渉を行っていたが、その後の閣議で北支居留民保護のために派兵を決定し、国内世論統一のために新聞・通信関係者代表らに協力を依頼した。援兵の派兵によって中国側は交渉態度を硬化させ、さらに第二次上海事変で交渉は決裂、これらによって日中戦争(支那事変)が拡大していった。さらに、同年11月から行われたドイツによる対中和平工作(トラウトマン工作)も最終的に打ち切られることとなり、翌1938年(昭和13年)1月には「爾後国民政府を対手とせず」という、いわゆる「近衛声明」(第一次近衛声明)を発表し、対中講和の道が閉ざされた。その後、同年4月には国家総動員法を制定して戦時体制を整え、同年11月に「東亜新秩序建設」を戦争目的と規定する声明(東亜新秩序声明、第二次近衛声明)を発表し、同年12月には親日派の汪兆銘の重慶脱出を受けて「近衛三原則」(善隣友好、共同防共、経済提携)を日中和平の基本方針として呼びかける声明(第三次近衛声明)を発表した。また、新体制運動を唱え大日本党の結党を試みるものの、この新党問題が拡大し1939年(昭和14年)1月に内閣総辞職した。
脚注
注釈
出典
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和12年6月4日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和12年12月14日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和12年10月22日
- ^ 『官報』号外「叙任」、昭和13年1月11日
- ^ a b 『官報』第3246号「叙任及辞令」、昭和12年10月26日
- ^ a b 『官報』第3142号「叙任及辞令」、昭和12年6月25日
- ^ a b 『官報』第3311号「叙任及辞令」、昭和13年1月19日
- ^ 『官報』第3288号「叙任及辞令」、昭和12年12月16日
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和13年5月26日
- ^ a b c d 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和13年9月30日
- ^ a b c d 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和13年10月29日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和13年6月3日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和13年6月25日
- ^ 古屋哲夫『帝国議会誌』第38巻「第七十五帝国議会 衆議院解説」