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{{政治家
'''磯貝 浩'''(いそがい ひろし、[[1864年]]9月26日([[元治]]元年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]<ref>衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1915年、12頁。</ref><ref name="dainihon1913">[{{NDLDC|933863/76}} 『大日本人物誌 一名・現代人名辞書』]71頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年11月6日閲覧。</ref>{{R|現代}}<ref name="jinji4">[{{NDLDC|1703995/92}} 『人事興信録 第4版』]い96頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年11月4日閲覧。</ref>)- [[1951年]]([[昭和]]26年)8月22日<ref name=議衆>『議会制度百年史 – 衆議院議員名鑑』67頁。</ref><ref name=貴参>『議会制度百年史 – 貴族院・参議院議員名鑑』187頁。</ref>)は、[[明治]]から昭和前期の[[実業家]]、[[商人]]([[生魚]]問屋<ref name="jinji4"/>、魚類商<ref name="jinji7">[{{NDLDC|1704004/124}} 『人事興信録 第7版』]い119頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年11月6日閲覧。</ref>)、[[政治家]]。[[衆議院|衆議院議員]](愛知県第一区選出)<ref name="syugiin1940">[{{NDLDC|1278238/31}} 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』]48頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年11月6日閲覧。</ref>、[[貴族院 (日本)#勅任議員|貴族院多額納税者議員]]。愛知県農工銀行頭取<ref name="jinji14">[{{NDLDC|1704391/223}} 『人事興信録 第14版 上』]イ185頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年11月5日閲覧。</ref>。
|人名 = 磯貝 浩
|各国語表記 = いそがい ひろし
|画像 = Isogai Hiroshi.jpg
|画像サイズ = 200px
|画像説明 = 肖像写真
|国略称 = {{JPN1889}}
|生年月日 = [[元治]]元年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]<br />(新暦:[[1864年]][[9月26日]])
|出生地 = [[三河国]][[碧海郡]][[大浜町 (愛知県)|大浜村]]<br />(現・[[愛知県]][[碧南市]])
|没年月日 = [[1951年]]([[昭和]]26年)[[8月22日]]
|死没地 = [[名古屋市]][[昭和区]][[桜井町 (名古屋市)|桜井町]]
|出身校 = [[大学予備門]]
|前職 = [[愛知県議会|愛知県会]]・[[名古屋市会]]議員
|所属政党 = [[立憲同志会]]→[[憲政会]]
|称号・勲章 = [[正五位]]勲三等
|国旗 = JPN
|職名 = [[衆議院|衆議院議員]]
|選挙区 = 愛知県市部→愛知県第1区
|当選回数 = 3回
|就任日 = [[1915年]][[3月25日]]
|退任日 = [[1924年]][[1月31日]]
|国旗2 = JPN
|職名2 = [[貴族院 (日本)|貴族院多額納税者議員]]
|当選回数2 = 4回
|就任日2 = [[1925年]][[9月29日]]
|退任日2 = [[1933年]][[3月29日]]
|就任日3 = [[1937年]][[11月13日]]
|退任日3 = [[1947年]][[5月2日]]
}}
'''磯貝 浩'''(いそがい ひろし、[[1864年]][[9月26日]]〈[[元治]]元年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]〉 - [[1951年]]〈[[昭和]]26年〉[[8月22日]])は、[[明治]]後期から昭和にかけて活動した[[日本]]の[[政治家]]・[[実業家]]である。

[[名古屋市]][[熱田区]](旧[[熱田町]])の人物で、熱田町会議員を起点に[[愛知県議会|愛知県会]]議員・[[名古屋市会]]議員を務め、さらに国政にも進んで[[衆議院]]議員や[[貴族院 (日本)|貴族院]]多額納税者議員を歴任した。家業として熱田で魚問屋を営み、実業界では[[御園座]]社長や[[東陽倉庫]]社長、[[愛知県農工銀行]]頭取などの会社役員も兼ねた。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 魚問屋を継ぐ ===
[[三河国]][[碧海郡]]大浜村<ref name="dainihon1913"/><ref name=現代>『現代日本の政治家』同志会11-12頁。</ref><ref name="syugiin1940"/><ref name=東名>『東京名古屋現代人物誌』196-198頁。</ref>([[愛知県]]{{R|議衆}}{{R|貴参}}碧海郡[[大浜町 (愛知県)|大浜町]]を経て現[[碧南市]])で、磯貝安左衛門の二男として生れる<ref name="dainihon1913"/><ref name="jinji4"/>。[[大学予備門]]で学んだが中退した{{R|現代}}{{R|東名}}。[[1872年]]([[明治]]5年)、[[分家]]して一家を創立した<ref name="jinji7"/>。
磯貝浩は、[[元治]]元年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]](新暦:[[1864年]][[9月26日]])、磯貝安左衛門の次男として生まれた<ref name="koshin4">[[#koshin4|『人事興信録』第4版]]い96頁。{{NDLJP|1703995/92}}</ref>。出身地は[[三河国]][[碧海郡]][[大浜町 (愛知県)|大浜村]]<ref name="kume">[[#kume|『三河知名人士録』]]10頁</ref>(現・[[愛知県]][[碧南市]])。幼名は英之助といった<ref name="kume"/>。生家は大浜の旧家であるが、父が[[尾張国]]の[[半田市|半田]]で[[酒造業]]を営んだため半田で育つ<ref name="kume"/>。[[1872年]]([[明治]]5年)に[[分家]]<ref name="koshin4"/>。[[漢学]]を修めたのち[[東京]]に出て[[大学予備門]]へ進んだが中退した<ref name="nagae">[[#nagae|長江銈太郎『東京名古屋現代人物誌』]]196-198頁</ref>。


磯貝家の親戚には[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]][[熱田町]](現・[[名古屋市]][[熱田区]])で魚問屋を営む大森又三郎家という家があった<ref name="fudoki">[[#fudoki|『熱田風土記』第四巻]]148-151頁</ref>。磯貝はこの大森家の[[番頭]]に懇望され、大森家を継ぐこととなった<ref name="fudoki"/>。ただし本人には魚問屋業に関する意欲はなく、東京で活動するための足場と考えていたようで、店は番頭に任せて外出しがちであったという<ref name="fudoki"/>。その後[[藪原宿]]本陣の代官の娘・とみが嫁いできて家中の一切を切り回すようになると家業は一層の繁盛をみせた<ref name="fudoki"/>。
経営難となった[[熱田区|熱田]]の親族・大森家経営の老舗・魚[[問屋]]を継承して再建した{{R|東名}}。熱田実業協会理事、名古屋商品取引所理事、大阪火災海上運送保険取締役、鉄道車両製造所監査役、名古屋商業会議所議員、愛知県[[農工銀行]]頭取、相続税審査委員、揖斐川電力監査役、名古屋劇場監査役、[[御園座]]取締役会長、東洋倉庫取締役会長などを務めた<ref name="dainihon1913"/>{{R|現代}}<ref name="jinji4"/>{{R|議衆}}{{R|貴参}}<ref name=名百>『名古屋百人物評論』252-253頁。</ref>{{R|楊城}}。その他、名古屋織物同業組合名誉顧問、阿由地[[耕地整理]]組合長にも在任した{{R|楊城}}。


=== 熱田町会から衆議院へ ===
[[1889年]](明治22年)、[[熱田町]]会議員に就任<ref name=楊城>『楊城縉紳集』216-217頁。</ref>。[[1892年]](明治25年)、愛知県会議員に選出され、同参事会員も務め、[[名古屋市会]]議員にも選ばれ、同参事会員にも就任した{{R|現代}}<ref name="jinji4"/><ref name="syugiin1940"/>{{R|東名}}{{R|楊城}}。
[[自由民権運動]]に心酔していた過去があった磯貝は早くから政界を志向しており、[[1889年]](明治22年)にまず熱田町会議員に当選して政界入りを果たした<ref name="hayakawa">[[#hayakawa|早川北汀『中京現代人物評伝』]]4-8頁</ref>。次いで[[1892年]](明治25年)10月、[[愛知県議会|愛知県会]]議員選挙に愛知郡選挙区より立候補し、県会議員に当選した<ref name="kenkai4-300">[[#kenkai4|『愛知県議会史』第四巻]]300頁</ref>。県会議員はその後[[1896年]](明治29年)10月、[[1899年]](明治32年)9月、[[1903年]](明治36年)9月と連続当選している<ref name="kenkai4-300"/>。1899年の選挙は[[憲政党]]、1903年の選挙では[[立憲政友会]]に属した<ref name="kenkai4-300"/>。


[[1907年]](明治40年)6月、愛知郡熱田町は名古屋市に編入された。このため同年9月の愛知県会議員選挙では名古屋市選挙区に移って当選している<ref name="kenkai4-300"/>。県会では同年10月互選により県参事会の構成員たる名誉職参事会員にも選ばれた<ref>[[#kenkai3|『愛知県議会史』第三巻]]854頁</ref>。さらに10・11月実施の第7回[[名古屋市会]]議員選挙にも出馬して当選し、県会議員と市会議員を兼ねた<ref>[[#shikai1|『名古屋市会史』第一巻]]345頁</ref>。[[1911年]](明治44年)9月、県会議員選挙で6度目の当選を果たす<ref name="kenkai4-300"/>。[[1913年]](大正2年)10月には市会においても再選された<ref name="shikai1">[[#shikai1|『名古屋市会史』第一巻]]460頁</ref>。なお市会でも1911年10月から1913年11月にかけて市参事会の構成員たる名誉職参事会員にも選ばれている<ref>[[#shikai1|『名古屋市会史』第一巻]]566頁</ref>。
[[1915年]](大正4年)3月、[[第12回衆議院議員総選挙]]に愛知県名古屋市から[[立憲同志会]]所属で出馬して初当選{{R|現代}}{{R|東名}}<ref>『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』55頁。</ref>。その後、[[1917年]](大正5年)4月、[[第13回衆議院議員総選挙|第13回総選挙]](愛知県名古屋市、[[憲政会]]所属)<ref>『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』88頁。</ref>、[[1920年]](大正9年)5月の[[第14回衆議院議員総選挙|第14回総選挙]](愛知県第1区、憲政会公認)でも再選され<ref>『衆議院議員総選挙一覧 第14回』12頁。</ref>、衆議院議員に連続3期在任した{{R|議衆}}{{R|貴参}}<ref name="syugiin1940"/>。


[[1914年]](大正3年)12月に[[衆議院解散|衆議院が解散]]されると、磯貝は[[1915年]](大正4年)3月25日投開票の[[第12回衆議院議員総選挙]]に[[立憲同志会]]の候補者として出馬することとなった<ref name="kenkai4-327">[[#kenkai4|『愛知県議会史』第四巻]]327-334頁</ref>。選挙区は愛知県市部選挙区(定員2名)である<ref name="kenkai4-327"/>。投開票の結果、[[小山松寿]]に次ぐ2513票を得て[[衆議院]]議員に初当選した<ref name="kenkai4-327"/>。一方、衆議院議員当選に伴い<ref>[[#kenkai4|『愛知県議会史』第四巻]]678-679頁</ref>、1915年3月に愛知県会議員を辞職した<ref name="kenkai4-300"/>(市会議員は続投<ref name="shikai1"/>)。県会議員在職は22年6か月に及んだ<ref name="kenkai4-300"/>。
また、[[1925年]](大正14年)愛知県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、35頁。</ref>、同年9月29日<ref>『官報』第3931号、大正14年9月30日。</ref>に就任し、[[1932年]](昭和7年)9月29日に再任されたが<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、42頁。</ref><ref>『官報』第1727号、昭和7年9月30日。</ref>、[[1933年]](昭和8年)3月29日に辞職した<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁。</ref><ref>『官報』第1872号、昭和8年3月30日。</ref>。[[補欠選挙]]で互選され<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、45頁。</ref>、[[1937年]](昭和12年)11月13日に貴族院多額納税者議員に再任し<ref>『官報』第3262号、昭和12年11月15日。</ref>、[[同成会]]に所属して活動し、[[1947年]](昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した{{R|貴参}}。


[[1916年]](大正5年)10月、立憲同志会に代わって新党[[憲政会]]が立ち上げられると同党へ移る<ref>[[#toseki|『衆議院議員党籍録 自第1回議会至第48回議会』]]175頁。{{NDLJP|1337224/91}}</ref>。翌[[1917年]](大正6年)4月20日投開票の[[第13回衆議院議員総選挙|第13回総選挙]]では憲政会の候補者として同じく愛知県市部選挙区から出馬し、小山松寿に次ぐ1930票を得て再選<ref>[[#kenkai4|『愛知県議会史』第四巻]]335-339頁</ref>。選挙区割りが変更された[[1920年]](大正9年)5月10日投開票の[[第14回衆議院議員総選挙|第14回総選挙]]では愛知県第1区(名古屋市・定員3名)から憲政会の候補者として立候補し、[[加藤重三郎]]・小山松寿に次ぐ2884票を得て三選を果たした<ref>[[#kenkai4|『愛知県議会史』第四巻]]342-351頁</ref>。この間、名古屋市会議員も続けており、1917年10月と[[1921年]](大正10年)5月の市会議員選挙にてそれぞれ再選されている<ref name="shikai1"/>。
== 人物 ==

[[貴族院多額納税者議員]]選挙の[[互選]]資格を有する<ref>[{{NDLDC|922789/166}} 『貴族院多額納税者名鑑』]251頁([[国立国会図書館デジタルコレクション]])。2021年11月4日閲覧。</ref>。族籍は愛知県[[平民]]である<ref name="jinji4"/>。住所は愛知県名古屋市南区[[木之免町|熱田木之免町]]<ref name="dainihon1913"/><ref name="jinji4"/><ref name="jinji7"/>、東京品川区[[五反田]]<ref name="jinji14"/>。
=== 実業界での活動 ===
[[ファイル:Misono-za Nagoya 1897.jpg|thumb|名古屋劇場株式会社が建設した[[御園座]](初代)]]

磯貝は議員活動の傍ら多数の会社役員を兼ねた。名古屋市内では、[[1895年]](明治28年)、[[長谷川太兵衛]]らにより劇場(「[[御園座]]」と命名)を建設すべく名古屋劇場株式会社が企画された際に発起人に加わり、会社創立委員の一人となる<ref name="misono-3">[[#misonoza|『御園座七十年史』]]3-4頁</ref>。翌1896年3月に会社が発足すると[[取締役]]に選ばれ<ref name="misono-3"/>、1907年3月には長谷川の後任として第2代社長に就任した<ref>[[#misonoza|『御園座七十年史』]]61頁</ref>。また[[滝兵右衛門]]ら[[名古屋銀行 (東海銀行の前身)|名古屋銀行]]系実業家によって1906年12月に東海倉庫が設立されると同社[[監査役]]に就任<ref>[[#toyosoko|『東陽倉庫50年史』]]46-50頁</ref>。電力会社の[[名古屋電灯]]にも関係して[[1910年]](明治43年)1月から[[1912年]](大正元年)12月にかけて監査役を務めた<ref name="meiden">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]237頁</ref>。名古屋電灯監査役には[[1918年]](大正7年)12月に再任され<ref name="meiden"/>、合併で関西電気に再編されたのち[[1921年]](大正10年)12月まで務めている(同社は翌年[[東邦電力]]に改称)<ref name="toho">[[#toho|『東邦電力史』]]82-90頁</ref>。

名古屋市外では、1910年2月知多瓦斯(社長[[奥田正香]])の設立とともに同社取締役に就いた<ref>「知多瓦斯重役決定」『[[新愛知]]』1910年2月18日朝刊2頁</ref>。同社は[[知多郡]]半田町のガス会社で、後に電気事業を兼営するようになり[[知多電気]]と改称<ref>[[#chita|『知多半島に明り灯りて70年』]]27-30頁</ref>。電気事業再編により1921年12月上記の関西電気へと合併された<ref name="toho"/>。また大阪火災海上運送保険にて[[1908年]](明治41年)4月から1912年12月にかけて取締役を務めた<ref>「[{{NDLDC|2950811/15}} 商業登記 大阪火災海上運送保険株式会社変更]」『[[官報]]』第7464号、1908年5月16日<br />「[{{NDLDC|2952224/15}} 商業登記 大阪火災海上運送保険株式会社]」『官報』第126号附録、1912年12月29日</ref>。同社は[[大阪市]]にあった[[保険会社]]だが、当時亀崎銀行(知多郡[[亀崎町]])の頭取[[天埜伊左衛門]]らに買収されていた<ref name="hoken">[[#hoken|村本実蔵『回想三十五年 通俗保険発達史』]]367-369頁</ref>。会社は後の大阪海上火災保険で、[[住友海上火災保険]]の前身の一つにあたる<ref name="hoken"/>。

1914年6月、名古屋市[[門前町 (名古屋市)|門前町]]にあった尾張銀行が経営悪化と[[取り付け騒ぎ]]の影響で臨時休業に追い込まれた<ref>「[{{NDLDC|1586962/79}} 尾張及尾張貯蓄両銀行の臨時休業]」『銀行通信録』第58巻第345号、東京銀行集会所、1914年7月</ref>。磯貝は義侠心から尾張銀行の整理委員を引き受けて再開に向け奔走<ref name="nagae"/>、整理が完了し1915年12月より再開に漕ぎつけたのち<ref>「[{{NDLDC|1586980/76}} 尾張銀行の開業]」『銀行通信録』第61巻第363号、東京銀行集会所、1916年1月</ref>、翌1916年1月から1921年5月にかけて尾張銀行取締役を務めた<ref>「[{{NDLDC|2953169/13}} 商業登記 株式会社尾張銀行変更]」『官報』第1059号附録、1916年2月15日<br />「[{{NDLDC|2954814/20}} 商業登記 株式会社尾張銀行変更]」『官報』第2699号附録、1921年7月29日</ref>。

[[1919年]](大正8年)10月、磯貝が監査役を務める東海倉庫は海運部門(主として[[名古屋港]]・[[四日市港]]での[[艀]]回漕業)を持つべく傍系会社の大正海運を設立した<ref name="toyo-62">[[#toyosoko|『東陽倉庫50年史』]]62-63頁</ref>。磯貝は同社設立とともに取締役に就任し<ref>「[{{NDLDC|2954321/15}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第2208号附録、1919年12月12日</ref>、1921年1月からは取締役社長を務めている<ref name="toyo-62"/>。

=== 貴族院議員となる ===
[[1924年]](大正13年)1月31日、衆議院が解散され、5月に[[第15回衆議院議員総選挙]]が行われたが、磯貝は立候補せず(愛知県第1区の憲政会候補者は小山松寿と[[田中善立]])<ref>[[#kenkai4|『愛知県議会史』第四巻]]345-364頁</ref>、衆議院議員から退任した。

解散半年後の1924年8月18日、尾三農工銀行の臨時[[株主総会]]で神谷八郎とともに取締役に選出され、[[内藤伝禄]]に代わって新[[頭取]]に就任した(神谷は副頭取)<ref>「尾三農工総会紛擾 頭取は磯貝氏と決定」『新愛知』1924年8月19日朝刊6頁</ref>。尾三農工銀行は愛知県を営業範囲とする[[農工銀行]]で、このころ系列の尾三銀行(旧・尾三貯蓄銀行)が取り付け騒ぎにより1923年7月から休業に追い込まれた影響で多額の不良債権を抱え経営が悪化していた<ref name="kenshi7">[[#kenshi7|『愛知県史』通史編7]] 697-700頁</ref>。尾三農工銀行・尾三銀行の頭取を兼ねる内藤伝禄は打開策として尾三農工銀行を[[日本勧業銀行]]に合併すべく働きかけたが、合併に向けた調査で尾三農工銀行が有する不良債権の大半は尾三銀行を通じて融資している内藤の関連会社に関するものであると判明した<ref name="kenshi7"/>。このため勧業銀行との合併は1924年3月に破談となり<ref name="kenshi7"/>、その上[[大蔵省]]から内藤に対し引責辞任勧告が出された<ref name="bank192409">「[{{NDLDC|1587082/80}} 尾三農工銀行の整理]」『銀行通信録』第78巻第464号、東京銀行集会所、1924年9月</ref>。その後内藤が勧告を受け入れて辞職したことから、整理にあたる適任者として[[濱口雄幸]]大蔵大臣より後任頭取に推薦されたのが磯貝であった<ref name="bank192409"/>。磯貝が頭取となった尾三農工銀行は[[1925年]](大正14年)2月尾三銀行との関係を断つべく[[愛知県農工銀行]]に社名を改め再出発した<ref name="kenshi7"/>。

1925年、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員のうち多額納税者の互選で選出される[[貴族院 (日本)#多額納税者議員|貴族院多額納税者議員]]の規定が改められ、有権者が各府県15名から各府県100名ないし200名に増員された<ref>[[#kiinmeikan|『貴族院多額納税者名鑑』]]序1-2頁</ref>。同年6月時点では磯貝は愛知県下の多額納税者議員互選資格者(計200名)のうちの一人であり<ref>[[#kiinmeikan|『貴族院多額納税者名鑑』]]251頁。{{NDLJP|922789/166}}</ref>、9月10日に行われた多額納税者議員選挙において75票を獲得し[[森本善七]]とともに初当選した<ref>「ふたを開けた多額選挙 開票の結果」『[[東京朝日新聞]]』1925年9月11日朝刊2頁</ref>。貴族院議員任命は9月29日付である<ref>「[{{NDLDC|2956080/15}} 帝国議会 貴族院議員勅任]」『官報』第3931号、1925年9月30日</ref>。貴族院では[[同成会]]に属した<ref name="gikai100">[[#gikai100|『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』]]187頁</ref>。なお貴族院議員就任後も名古屋市会議員を兼ねており、1925年10月の改選で再選され、さらに[[1929年]](昭和4年)10月の改選でも再選されて在職は6期目に入った<ref name="shikai1"/>。この頃には市政の重鎮として扱われるようになっており、[[1927年]](昭和2年)に[[大岩勇夫]]が名古屋市長に就任した際には大岩の求めに応じてその後援者となった<ref name="hayakawa"/>。

ところが[[1930年]](昭和5年)4月<ref>「貴院議員磯貝氏起訴」『東京朝日新聞』1930年4月26日朝刊3頁</ref>、[[第17回衆議院議員総選挙]]に際し[[石川久兵衛]](愛知県第1区・[[立憲民政党]])に関する投票買収を行ったとの容疑で起訴された<ref name="news19330329">「磯貝多議失格」『東京朝日新聞』1933年3月29日夕刊2頁</ref>。[[1932年]](昭和7年)9月10日に行われた貴族院多額納税者議員の改選では[[下出民義]]とともに無投票で当選し<ref>「けふ決定の無競争多額議員当選者」『東京朝日新聞』1932年9月11日朝刊1頁</ref>、同年9月29日付で貴族院議員に再任されたが<ref>「[{{NDLDC|2958198/7}} 帝国議会 貴族院議員勅任]」『官報』第1727号、1932年9月30日</ref>、半年後の[[1933年]](昭和8年)3月28日、投票買収事件の上告審が棄却され[[禁錮]]4か月・[[執行猶予]]3年の刑が確定して貴族院議員失格となり<ref name="news19330329"/>、翌29日付で辞職した<ref>「[{{NDLDC|2958344/16}} 帝国議会 貴族院議員辞任]」『官報』第1872号、1933年3月30日</ref>。また名古屋市会議員についても28日付で失格となっている<ref name="shikai1"/>。市会議員在職期間は25年5か月であった<ref name="shikai1"/>。

実業界では[[1926年]](大正15年)3月、東海倉庫と名古屋倉庫の合併で[[東陽倉庫]]が発足すると東海倉庫監査役から東陽倉庫監査役へと移った<ref>[[#toyosoko|『東陽倉庫50年史』]]81-82頁</ref>。東陽倉庫では[[1934年]](昭和9年)12月、初代社長瀧定助の死去をうけて第2代取締役社長に就いている<ref name="toyo-352">[[#toyosoko|『東陽倉庫50年史』]]352-353頁</ref>。他方、先立って社長に就いていた傍系会社の大正海運は東陽倉庫発足以降次第に資本関係が薄れており<ref>[[#toyosoko|『東陽倉庫50年史』]]133頁</ref>、磯貝や[[高橋彦次郎]]ら旧東海倉庫役員は[[1931年]](昭和6年)4月に取締役から退いた<ref>「[{{NDLDC|2957840/14}} 商業登記 大正海運株式会社変更]」『官報』第1372号、1931年7月27日</ref>。これらとは別に、[[1933年]](昭和8年)12月に揖斐川電気(現・[[イビデン]])の監査役にも選ばれた<ref name="ibiden">[[#ibiden|『イビデン70年史』]]313頁</ref>。同社は[[岐阜県]]内に[[水力発電|水力発電所]]と工場を持つ電力会社兼[[炭化カルシウム|カーバイド]]メーカーで、当時は東邦電力の傘下にあった<ref>[[#ibiden|『イビデン70年史』]]51-52頁他</ref>。

=== 晩年 ===
[[1937年]](昭和12年)10月26日に行われた愛知県下の貴族院多額納税者議員[[補欠選挙]]で磯貝は154票を得て当選し<ref>「愛知県多額納税議員磯貝氏当選」『新愛知』1937年10月27日朝刊2頁</ref>、同年11月13日付で貴族院議員に再任された<ref>「[{{NDLDC|2959748/9}} 帝国議会 貴族院議員勅任]」『官報』第3262号、1937年11月15日</ref>。さらに2年後、[[1939年]](昭和14年)9月10日実施の多額納税者議員改選では下出民義とともに無投票で再選され<ref>「無競争当選は廿七名 あす多額議員選挙施行」『東京朝日新聞』1939年9月9日朝刊2頁</ref>、29日付で再任されている<ref>「[{{NDLDC|2960317/18}} 帝国議会 貴族院議員勅任]」『官報』第3823号、1939年9月30日</ref>。以後、[[太平洋戦争]]を挟んで[[1947年]](昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで同議員に在任した<ref name="gikai100"/>。この間、家業の魚問屋は戦災で店が全焼<ref name="fudoki"/>。さらに戦後に熱田魚市場が廃止されたことから熱田からも出て[[鶴舞公園]]近くへと移住した<ref name="fudoki"/>。

実業界では前述の通り愛知県農工銀行頭取と名古屋劇場・東陽倉庫社長を務めていたが、このうち愛知県農工銀行は最後まで残っていた農工銀行の一つであったが大蔵省の勧告により他の4社とともに戦時下の[[1944年]](昭和19年)9月日本勧業銀行へと合併された<ref>[[#kangin|『日本勧業銀行史 特殊銀行時代』]]716-718頁</ref>。戦後の[[1949年]](昭和24年)3月、東陽倉庫では副社長の白石勝彦に社長職を譲って取締役会長に退く<ref name="toyo-352"/>。翌[[1950年]](昭和25年)2月には御園座株式会社(1947年名古屋劇場から社名変更)でも専務の猪飼正一に社長職を譲って同じく取締役会長となった<ref>[[#misonoza|『御園座七十年史』]]460頁</ref>。また揖斐川電気工業(旧・揖斐川電気)の監査役は戦後[[1946年]](昭和21年)12月に退いた<ref name="ibiden"/>。

[[1951年]](昭和26年)[[8月22日]]、[[尿毒症]]のため名古屋市[[昭和区]][[桜井町 (名古屋市)|桜井町]]の自宅で死去した<ref>「磯貝浩氏死去」『[[朝日新聞]]』1951年8月23日東京版朝刊3頁</ref>。86歳没。御園座取締役会長および東陽倉庫取締役会長在職中の死であったため、25日御園座にて両社合同の社葬が行われた<ref name="toyo-352"/><ref>[[#misonoza|『御園座七十年史』]]467-468頁</ref>。

== 主な役職 ==
'''議員'''
* [[愛知県議会|愛知県会]]議員 : 1892年10月 - 1915年3月(当選6回)
* [[名古屋市会]]議員 : 1907年10月 - 1933年3月(当選6回)
* [[衆議院]]議員 : 1915年3月 - 1924年1月(当選3回)
* [[貴族院 (日本)|貴族院]]多額納税者議員 : 1925年9月 - 1933年3月・1937年11月 - 1947年5月

'''会社役員'''
* [[御園座]](旧・名古屋劇場)取締役社長 : 1907年3月 - 1950年2月
** 1896年の会社設立から取締役。社長退任後は1951年8月まで取締役会長。
* [[愛知県農工銀行]]頭取 : 1924年8月 - 1944年9月
* [[東陽倉庫]]取締役社長 : 1934年12月 - 1949年3月
** 社長退任後は1951年8月まで取締役会長。

== 栄典 ==
* 1915年(大正4年)11月7日 - [[勲四等瑞宝章]]受章(衆議院議員として[[第一次世界大戦|大正三四年事件]]の功による)<ref>「[{{NDLDC|2953328/8}} 叙任及辞令]」『官報』第1218号、1916年8月21日</ref>
* 1926年(大正15年)9月 - [[勲三等瑞宝章]]受章<ref>「[https://www.digital.archives.go.jp/img/3307619 磯貝浩貴族院令第一条第六号ニ依リ貴族院議員ニ任スルノ件]」、1937年11月13日(国立公文書館デジタルアーカイブ)</ref>
* 1951年(昭和26年)8月22日 - [[正五位]]に叙される<ref>「[{{NDLDC|2963951/7}} 叙任及び辞令]」『官報』第7400号、1951年9月7日</ref>。


== 家族 ==
== 家族 ==
妻とみ(1866年生・本多栄之助の三女)との間に男子が2人いた<ref name="koshin4"/>。長男の磯貝栄三(1910年生<ref name="koshin4"/>)は[[慶應義塾大学]]卒で1948年に御園座取締役となるが、1951年2月に死去した<ref>[[#misonoza|『御園座七十年史』]]437・472頁</ref>。次男の磯貝元三(1912年生<ref name="koshin4"/>)も慶應義塾大学卒で、[[日東紡績]]に勤務したのち強化プラスチック協会理事長や御園座監査役を務めた<ref>[[#koshin24|『人事興信録』第24版上]]い261頁</ref>。
; 磯貝家
* 妻・'''とみ'''([[1866年]] - ?、東京、本多栄之助の三女)<ref name="jinji4"/><ref name="jinji7"/>
* 子<ref name="jinji4"/><ref name="jinji7"/>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 議会史料
* 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
** {{Cite book|和書|editor=愛知県議会史編纂委員会 |title=愛知県議会史 |issue=第三巻明治篇下 |publisher=[[愛知県議会]]事務局 |year=1959 |id={{NDLJP|3030808}} |ref=kenkai3 }}
* 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
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* 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
* 企業史
* 『楊城縉紳集:昭和甲戌』珊珊社、1934年。
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* 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
** {{Cite book|和書|editor=日本勧業銀行調査部 |title=日本勧業銀行史 特殊銀行時代 |publisher=日本勧業銀行調査部 |year=1953 |id={{NDLJP|9524163}} |ref=kangin }}
** {{Cite book|和書|author=藤野義雄 |title=御園座七十年史 |publisher=御園座 |year=1966 |id={{NDLJP|2511959}} |ref=misonoza }}
* その他書籍
** {{Cite book|和書|editor=愛知県史編さん委員会 |title=愛知県史 |issue=通史編7 近代2 |publisher=[[愛知県]] |year=2007 |ref=kenshi7 }}
** {{Cite book|和書|editor=池田長三郎 |title=熱田風土記 |issue=第四巻・人物篇 |publisher=久知会 |year=1963 |id={{NDLJP|2984351}} |ref=fudoki }}
** {{Cite book|和書|editor=久米康裕 |title=三河知名人士録 |publisher=尾三郷土史料調査会 |year=1939 |id={{NDLJP|1687776}} |ref=kume }}
** {{Cite book|和書|editor=人事興信所 |title=人事興信録 |issue=第4版 |publisher=人事興信所 |year=1915 |id={{NDLJP|1703995}} |ref=koshin4 }}
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** {{Cite book|和書|author=長江銈太郎 |title=東京名古屋現代人物誌 |publisher=柳城書院 |year=1916 |id={{NDLJP|955846}} |ref=nagae }}
** {{Cite book|和書|author=早川北汀 |title=中京現代人物評伝 |publisher=早川文書事務所 |year=1932 |id={{NDLJP|1034667}} |ref=hayakawa }}
** {{Cite book|和書|author=村本実蔵 |title=回想三十五年 通俗保険発達史 |publisher=保険朝日新聞社出版部 |year=1962 |id={{NDLJP|3452288}} |ref=hoken }}


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磯貝 浩
いそがい ひろし
肖像写真
生年月日 元治元年8月26日
(新暦:1864年9月26日
出生地 三河国碧海郡大浜村
(現・愛知県碧南市
没年月日 1951年昭和26年)8月22日
死没地 名古屋市昭和区桜井町
出身校 大学予備門
前職 愛知県会名古屋市会議員
所属政党 立憲同志会憲政会
称号 正五位勲三等

選挙区 愛知県市部→愛知県第1区
当選回数 3回
在任期間 1915年3月25日 - 1924年1月31日

当選回数 4回
在任期間 1925年9月29日 - 1933年3月29日
在任期間 1937年11月13日 - 1947年5月2日
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磯貝 浩(いそがい ひろし、1864年9月26日元治元年8月26日〉 - 1951年昭和26年〉8月22日)は、明治後期から昭和にかけて活動した日本政治家実業家である。

名古屋市熱田区(旧熱田町)の人物で、熱田町会議員を起点に愛知県会議員・名古屋市会議員を務め、さらに国政にも進んで衆議院議員や貴族院多額納税者議員を歴任した。家業として熱田で魚問屋を営み、実業界では御園座社長や東陽倉庫社長、愛知県農工銀行頭取などの会社役員も兼ねた。

経歴

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魚問屋を継ぐ

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磯貝浩は、元治元年8月26日(新暦:1864年9月26日)、磯貝安左衛門の次男として生まれた[1]。出身地は三河国碧海郡大浜村[2](現・愛知県碧南市)。幼名は英之助といった[2]。生家は大浜の旧家であるが、父が尾張国半田酒造業を営んだため半田で育つ[2]1872年明治5年)に分家[1]漢学を修めたのち東京に出て大学予備門へ進んだが中退した[3]

磯貝家の親戚には愛知郡熱田町(現・名古屋市熱田区)で魚問屋を営む大森又三郎家という家があった[4]。磯貝はこの大森家の番頭に懇望され、大森家を継ぐこととなった[4]。ただし本人には魚問屋業に関する意欲はなく、東京で活動するための足場と考えていたようで、店は番頭に任せて外出しがちであったという[4]。その後藪原宿本陣の代官の娘・とみが嫁いできて家中の一切を切り回すようになると家業は一層の繁盛をみせた[4]

熱田町会から衆議院へ

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自由民権運動に心酔していた過去があった磯貝は早くから政界を志向しており、1889年(明治22年)にまず熱田町会議員に当選して政界入りを果たした[5]。次いで1892年(明治25年)10月、愛知県会議員選挙に愛知郡選挙区より立候補し、県会議員に当選した[6]。県会議員はその後1896年(明治29年)10月、1899年(明治32年)9月、1903年(明治36年)9月と連続当選している[6]。1899年の選挙は憲政党、1903年の選挙では立憲政友会に属した[6]

1907年(明治40年)6月、愛知郡熱田町は名古屋市に編入された。このため同年9月の愛知県会議員選挙では名古屋市選挙区に移って当選している[6]。県会では同年10月互選により県参事会の構成員たる名誉職参事会員にも選ばれた[7]。さらに10・11月実施の第7回名古屋市会議員選挙にも出馬して当選し、県会議員と市会議員を兼ねた[8]1911年(明治44年)9月、県会議員選挙で6度目の当選を果たす[6]1913年(大正2年)10月には市会においても再選された[9]。なお市会でも1911年10月から1913年11月にかけて市参事会の構成員たる名誉職参事会員にも選ばれている[10]

1914年(大正3年)12月に衆議院が解散されると、磯貝は1915年(大正4年)3月25日投開票の第12回衆議院議員総選挙立憲同志会の候補者として出馬することとなった[11]。選挙区は愛知県市部選挙区(定員2名)である[11]。投開票の結果、小山松寿に次ぐ2513票を得て衆議院議員に初当選した[11]。一方、衆議院議員当選に伴い[12]、1915年3月に愛知県会議員を辞職した[6](市会議員は続投[9])。県会議員在職は22年6か月に及んだ[6]

1916年(大正5年)10月、立憲同志会に代わって新党憲政会が立ち上げられると同党へ移る[13]。翌1917年(大正6年)4月20日投開票の第13回総選挙では憲政会の候補者として同じく愛知県市部選挙区から出馬し、小山松寿に次ぐ1930票を得て再選[14]。選挙区割りが変更された1920年(大正9年)5月10日投開票の第14回総選挙では愛知県第1区(名古屋市・定員3名)から憲政会の候補者として立候補し、加藤重三郎・小山松寿に次ぐ2884票を得て三選を果たした[15]。この間、名古屋市会議員も続けており、1917年10月と1921年(大正10年)5月の市会議員選挙にてそれぞれ再選されている[9]

実業界での活動

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名古屋劇場株式会社が建設した御園座(初代)

磯貝は議員活動の傍ら多数の会社役員を兼ねた。名古屋市内では、1895年(明治28年)、長谷川太兵衛らにより劇場(「御園座」と命名)を建設すべく名古屋劇場株式会社が企画された際に発起人に加わり、会社創立委員の一人となる[16]。翌1896年3月に会社が発足すると取締役に選ばれ[16]、1907年3月には長谷川の後任として第2代社長に就任した[17]。また滝兵右衛門名古屋銀行系実業家によって1906年12月に東海倉庫が設立されると同社監査役に就任[18]。電力会社の名古屋電灯にも関係して1910年(明治43年)1月から1912年(大正元年)12月にかけて監査役を務めた[19]。名古屋電灯監査役には1918年(大正7年)12月に再任され[19]、合併で関西電気に再編されたのち1921年(大正10年)12月まで務めている(同社は翌年東邦電力に改称)[20]

名古屋市外では、1910年2月知多瓦斯(社長奥田正香)の設立とともに同社取締役に就いた[21]。同社は知多郡半田町のガス会社で、後に電気事業を兼営するようになり知多電気と改称[22]。電気事業再編により1921年12月上記の関西電気へと合併された[20]。また大阪火災海上運送保険にて1908年(明治41年)4月から1912年12月にかけて取締役を務めた[23]。同社は大阪市にあった保険会社だが、当時亀崎銀行(知多郡亀崎町)の頭取天埜伊左衛門らに買収されていた[24]。会社は後の大阪海上火災保険で、住友海上火災保険の前身の一つにあたる[24]

1914年6月、名古屋市門前町にあった尾張銀行が経営悪化と取り付け騒ぎの影響で臨時休業に追い込まれた[25]。磯貝は義侠心から尾張銀行の整理委員を引き受けて再開に向け奔走[3]、整理が完了し1915年12月より再開に漕ぎつけたのち[26]、翌1916年1月から1921年5月にかけて尾張銀行取締役を務めた[27]

1919年(大正8年)10月、磯貝が監査役を務める東海倉庫は海運部門(主として名古屋港四日市港での回漕業)を持つべく傍系会社の大正海運を設立した[28]。磯貝は同社設立とともに取締役に就任し[29]、1921年1月からは取締役社長を務めている[28]

貴族院議員となる

[編集]

1924年(大正13年)1月31日、衆議院が解散され、5月に第15回衆議院議員総選挙が行われたが、磯貝は立候補せず(愛知県第1区の憲政会候補者は小山松寿と田中善立[30]、衆議院議員から退任した。

解散半年後の1924年8月18日、尾三農工銀行の臨時株主総会で神谷八郎とともに取締役に選出され、内藤伝禄に代わって新頭取に就任した(神谷は副頭取)[31]。尾三農工銀行は愛知県を営業範囲とする農工銀行で、このころ系列の尾三銀行(旧・尾三貯蓄銀行)が取り付け騒ぎにより1923年7月から休業に追い込まれた影響で多額の不良債権を抱え経営が悪化していた[32]。尾三農工銀行・尾三銀行の頭取を兼ねる内藤伝禄は打開策として尾三農工銀行を日本勧業銀行に合併すべく働きかけたが、合併に向けた調査で尾三農工銀行が有する不良債権の大半は尾三銀行を通じて融資している内藤の関連会社に関するものであると判明した[32]。このため勧業銀行との合併は1924年3月に破談となり[32]、その上大蔵省から内藤に対し引責辞任勧告が出された[33]。その後内藤が勧告を受け入れて辞職したことから、整理にあたる適任者として濱口雄幸大蔵大臣より後任頭取に推薦されたのが磯貝であった[33]。磯貝が頭取となった尾三農工銀行は1925年(大正14年)2月尾三銀行との関係を断つべく愛知県農工銀行に社名を改め再出発した[32]

1925年、貴族院議員のうち多額納税者の互選で選出される貴族院多額納税者議員の規定が改められ、有権者が各府県15名から各府県100名ないし200名に増員された[34]。同年6月時点では磯貝は愛知県下の多額納税者議員互選資格者(計200名)のうちの一人であり[35]、9月10日に行われた多額納税者議員選挙において75票を獲得し森本善七とともに初当選した[36]。貴族院議員任命は9月29日付である[37]。貴族院では同成会に属した[38]。なお貴族院議員就任後も名古屋市会議員を兼ねており、1925年10月の改選で再選され、さらに1929年(昭和4年)10月の改選でも再選されて在職は6期目に入った[9]。この頃には市政の重鎮として扱われるようになっており、1927年(昭和2年)に大岩勇夫が名古屋市長に就任した際には大岩の求めに応じてその後援者となった[5]

ところが1930年(昭和5年)4月[39]第17回衆議院議員総選挙に際し石川久兵衛(愛知県第1区・立憲民政党)に関する投票買収を行ったとの容疑で起訴された[40]1932年(昭和7年)9月10日に行われた貴族院多額納税者議員の改選では下出民義とともに無投票で当選し[41]、同年9月29日付で貴族院議員に再任されたが[42]、半年後の1933年(昭和8年)3月28日、投票買収事件の上告審が棄却され禁錮4か月・執行猶予3年の刑が確定して貴族院議員失格となり[40]、翌29日付で辞職した[43]。また名古屋市会議員についても28日付で失格となっている[9]。市会議員在職期間は25年5か月であった[9]

実業界では1926年(大正15年)3月、東海倉庫と名古屋倉庫の合併で東陽倉庫が発足すると東海倉庫監査役から東陽倉庫監査役へと移った[44]。東陽倉庫では1934年(昭和9年)12月、初代社長瀧定助の死去をうけて第2代取締役社長に就いている[45]。他方、先立って社長に就いていた傍系会社の大正海運は東陽倉庫発足以降次第に資本関係が薄れており[46]、磯貝や高橋彦次郎ら旧東海倉庫役員は1931年(昭和6年)4月に取締役から退いた[47]。これらとは別に、1933年(昭和8年)12月に揖斐川電気(現・イビデン)の監査役にも選ばれた[48]。同社は岐阜県内に水力発電所と工場を持つ電力会社兼カーバイドメーカーで、当時は東邦電力の傘下にあった[49]

晩年

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1937年(昭和12年)10月26日に行われた愛知県下の貴族院多額納税者議員補欠選挙で磯貝は154票を得て当選し[50]、同年11月13日付で貴族院議員に再任された[51]。さらに2年後、1939年(昭和14年)9月10日実施の多額納税者議員改選では下出民義とともに無投票で再選され[52]、29日付で再任されている[53]。以後、太平洋戦争を挟んで1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで同議員に在任した[38]。この間、家業の魚問屋は戦災で店が全焼[4]。さらに戦後に熱田魚市場が廃止されたことから熱田からも出て鶴舞公園近くへと移住した[4]

実業界では前述の通り愛知県農工銀行頭取と名古屋劇場・東陽倉庫社長を務めていたが、このうち愛知県農工銀行は最後まで残っていた農工銀行の一つであったが大蔵省の勧告により他の4社とともに戦時下の1944年(昭和19年)9月日本勧業銀行へと合併された[54]。戦後の1949年(昭和24年)3月、東陽倉庫では副社長の白石勝彦に社長職を譲って取締役会長に退く[45]。翌1950年(昭和25年)2月には御園座株式会社(1947年名古屋劇場から社名変更)でも専務の猪飼正一に社長職を譲って同じく取締役会長となった[55]。また揖斐川電気工業(旧・揖斐川電気)の監査役は戦後1946年(昭和21年)12月に退いた[48]

1951年(昭和26年)8月22日尿毒症のため名古屋市昭和区桜井町の自宅で死去した[56]。86歳没。御園座取締役会長および東陽倉庫取締役会長在職中の死であったため、25日御園座にて両社合同の社葬が行われた[45][57]

主な役職

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議員

  • 愛知県会議員 : 1892年10月 - 1915年3月(当選6回)
  • 名古屋市会議員 : 1907年10月 - 1933年3月(当選6回)
  • 衆議院議員 : 1915年3月 - 1924年1月(当選3回)
  • 貴族院多額納税者議員 : 1925年9月 - 1933年3月・1937年11月 - 1947年5月

会社役員

  • 御園座(旧・名古屋劇場)取締役社長 : 1907年3月 - 1950年2月
    • 1896年の会社設立から取締役。社長退任後は1951年8月まで取締役会長。
  • 愛知県農工銀行頭取 : 1924年8月 - 1944年9月
  • 東陽倉庫取締役社長 : 1934年12月 - 1949年3月
    • 社長退任後は1951年8月まで取締役会長。

栄典

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家族

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妻とみ(1866年生・本多栄之助の三女)との間に男子が2人いた[1]。長男の磯貝栄三(1910年生[1])は慶應義塾大学卒で1948年に御園座取締役となるが、1951年2月に死去した[61]。次男の磯貝元三(1912年生[1])も慶應義塾大学卒で、日東紡績に勤務したのち強化プラスチック協会理事長や御園座監査役を務めた[62]

脚注

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  1. ^ a b c d e 『人事興信録』第4版い96頁。NDLJP:1703995/92
  2. ^ a b c 『三河知名人士録』10頁
  3. ^ a b 長江銈太郎『東京名古屋現代人物誌』196-198頁
  4. ^ a b c d e f 『熱田風土記』第四巻148-151頁
  5. ^ a b 早川北汀『中京現代人物評伝』4-8頁
  6. ^ a b c d e f g 『愛知県議会史』第四巻300頁
  7. ^ 『愛知県議会史』第三巻854頁
  8. ^ 『名古屋市会史』第一巻345頁
  9. ^ a b c d e f 『名古屋市会史』第一巻460頁
  10. ^ 『名古屋市会史』第一巻566頁
  11. ^ a b c 『愛知県議会史』第四巻327-334頁
  12. ^ 『愛知県議会史』第四巻678-679頁
  13. ^ 『衆議院議員党籍録 自第1回議会至第48回議会』175頁。NDLJP:1337224/91
  14. ^ 『愛知県議会史』第四巻335-339頁
  15. ^ 『愛知県議会史』第四巻342-351頁
  16. ^ a b 『御園座七十年史』3-4頁
  17. ^ 『御園座七十年史』61頁
  18. ^ 『東陽倉庫50年史』46-50頁
  19. ^ a b 『名古屋電燈株式會社史』237頁
  20. ^ a b 『東邦電力史』82-90頁
  21. ^ 「知多瓦斯重役決定」『新愛知』1910年2月18日朝刊2頁
  22. ^ 『知多半島に明り灯りて70年』27-30頁
  23. ^ 商業登記 大阪火災海上運送保険株式会社変更」『官報』第7464号、1908年5月16日
    商業登記 大阪火災海上運送保険株式会社」『官報』第126号附録、1912年12月29日
  24. ^ a b 村本実蔵『回想三十五年 通俗保険発達史』367-369頁
  25. ^ 尾張及尾張貯蓄両銀行の臨時休業」『銀行通信録』第58巻第345号、東京銀行集会所、1914年7月
  26. ^ 尾張銀行の開業」『銀行通信録』第61巻第363号、東京銀行集会所、1916年1月
  27. ^ 商業登記 株式会社尾張銀行変更」『官報』第1059号附録、1916年2月15日
    商業登記 株式会社尾張銀行変更」『官報』第2699号附録、1921年7月29日
  28. ^ a b 『東陽倉庫50年史』62-63頁
  29. ^ 商業登記 株式会社設立」『官報』第2208号附録、1919年12月12日
  30. ^ 『愛知県議会史』第四巻345-364頁
  31. ^ 「尾三農工総会紛擾 頭取は磯貝氏と決定」『新愛知』1924年8月19日朝刊6頁
  32. ^ a b c d 『愛知県史』通史編7 697-700頁
  33. ^ a b 尾三農工銀行の整理」『銀行通信録』第78巻第464号、東京銀行集会所、1924年9月
  34. ^ 『貴族院多額納税者名鑑』序1-2頁
  35. ^ 『貴族院多額納税者名鑑』251頁。NDLJP:922789/166
  36. ^ 「ふたを開けた多額選挙 開票の結果」『東京朝日新聞』1925年9月11日朝刊2頁
  37. ^ 帝国議会 貴族院議員勅任」『官報』第3931号、1925年9月30日
  38. ^ a b 『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』187頁
  39. ^ 「貴院議員磯貝氏起訴」『東京朝日新聞』1930年4月26日朝刊3頁
  40. ^ a b 「磯貝多議失格」『東京朝日新聞』1933年3月29日夕刊2頁
  41. ^ 「けふ決定の無競争多額議員当選者」『東京朝日新聞』1932年9月11日朝刊1頁
  42. ^ 帝国議会 貴族院議員勅任」『官報』第1727号、1932年9月30日
  43. ^ 帝国議会 貴族院議員辞任」『官報』第1872号、1933年3月30日
  44. ^ 『東陽倉庫50年史』81-82頁
  45. ^ a b c 『東陽倉庫50年史』352-353頁
  46. ^ 『東陽倉庫50年史』133頁
  47. ^ 商業登記 大正海運株式会社変更」『官報』第1372号、1931年7月27日
  48. ^ a b 『イビデン70年史』313頁
  49. ^ 『イビデン70年史』51-52頁他
  50. ^ 「愛知県多額納税議員磯貝氏当選」『新愛知』1937年10月27日朝刊2頁
  51. ^ 帝国議会 貴族院議員勅任」『官報』第3262号、1937年11月15日
  52. ^ 「無競争当選は廿七名 あす多額議員選挙施行」『東京朝日新聞』1939年9月9日朝刊2頁
  53. ^ 帝国議会 貴族院議員勅任」『官報』第3823号、1939年9月30日
  54. ^ 『日本勧業銀行史 特殊銀行時代』716-718頁
  55. ^ 『御園座七十年史』460頁
  56. ^ 「磯貝浩氏死去」『朝日新聞』1951年8月23日東京版朝刊3頁
  57. ^ 『御園座七十年史』467-468頁
  58. ^ 叙任及辞令」『官報』第1218号、1916年8月21日
  59. ^ 磯貝浩貴族院令第一条第六号ニ依リ貴族院議員ニ任スルノ件」、1937年11月13日(国立公文書館デジタルアーカイブ)
  60. ^ 叙任及び辞令」『官報』第7400号、1951年9月7日
  61. ^ 『御園座七十年史』437・472頁
  62. ^ 『人事興信録』第24版上い261頁

参考文献

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  • 議会史料
    • 愛知県議会史編纂委員会 編『愛知県議会史』第三巻明治篇下、愛知県議会事務局、1959年。NDLJP:3030808 
    • 愛知県議会史編纂委員会 編『愛知県議会史』第四巻大正篇上、愛知県議会事務局、1962年。NDLJP:3026728 
    • 織田正誠 編『貴族院多額納税者名鑑』太洋堂出版部、1926年。NDLJP:922789 
    • 衆議院・参議院 編『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』衆議院・参議院、1990年。NDLJP:9673684 
    • 名古屋市会事務局 編『名古屋市会史』第一巻、名古屋市会事務局、1939年。 
    • 『衆議院議員党籍録 自第1回議会至第48回議会』衆議院事務局、1924年。NDLJP:1337224 
  • 企業史
    • イビデン社史編集室 編『イビデン70年史』イビデン、1982年。 
    • 中部電力半田営業所『知多半島に明り灯りて70年』中部電力半田営業所、1982年。 
    • 東邦電力史編纂委員会 編『東邦電力史』東邦電力史刊行会、1962年。NDLJP:2500729 
    • 東邦電力名古屋電灯株式会社史編纂員 編『名古屋電燈株式會社史』中部電力能力開発センター、1989年(原著1927年)。 
    • 東陽倉庫 編『東陽倉庫50年史』東陽倉庫、1975年。NDLJP:11954840 
    • 日本勧業銀行調査部 編『日本勧業銀行史 特殊銀行時代』日本勧業銀行調査部、1953年。NDLJP:9524163 
    • 藤野義雄『御園座七十年史』御園座、1966年。NDLJP:2511959 
  • その他書籍
    • 愛知県史編さん委員会 編『愛知県史』通史編7 近代2、愛知県、2007年。 
    • 池田長三郎 編『熱田風土記』第四巻・人物篇、久知会、1963年。NDLJP:2984351 
    • 久米康裕 編『三河知名人士録』尾三郷土史料調査会、1939年。NDLJP:1687776 
    • 人事興信所 編『人事興信録』第4版、人事興信所、1915年。NDLJP:1703995 
    • 人事興信所 編『人事興信録』第24版上、人事興信所、1968年。NDLJP:3044857 
    • 長江銈太郎『東京名古屋現代人物誌』柳城書院、1916年。NDLJP:955846 
    • 早川北汀『中京現代人物評伝』早川文書事務所、1932年。NDLJP:1034667 
    • 村本実蔵『回想三十五年 通俗保険発達史』保険朝日新聞社出版部、1962年。NDLJP:3452288