「ヘンリー・ハワード (第13代ノーフォーク公)」の版間の差分
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2022年2月14日 (月) 00:27時点における版
第13代ノーフォーク公爵 ヘンリー・フィッツアラン=ハワード Henry Fitzalan-Howard 13th Duke of Norfolk | |
---|---|
生年月日 | 1791年8月12日 |
出生地 | グレートブリテン王国 イングランド・メイフェア・ハノーヴァー・スクウェア・ジョージ・ストリート |
没年月日 | 1856年2月18日(64歳没) |
死没地 | イギリス イングランド・サセックス・アランデル・アランデル城 |
所属政党 | ホイッグ党 |
称号 | 第13代ノーフォーク公爵、、第31代アランデル伯爵、第14代サリー伯爵、第11代ノーフォーク伯爵、第11代フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵、第21代マルトレイヴァース男爵、ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC) |
配偶者 | シャーロッテ |
親族 |
第12代ノーフォーク公爵(父) 第14代ノーフォーク公爵(長男) 初代グロソップのハワード男爵(次男) |
内閣 | 第二次メルバーン子爵内閣 |
在任期間 | 1837年7月 - 1841年6月 |
内閣 | 第二次メルバーン子爵内閣 |
在任期間 | 1841年7月 - 1841年9月 |
在任期間 | 1842年3月16日 - 1856年2月18日 |
内閣 | 第一次ジョン・ラッセル卿内閣 |
在任期間 | 1846年7月 - 1852年2月 |
内閣 | アバディーン伯爵内閣 |
在任期間 | 1853年1月 - 1854年1月 |
その他の職歴 | |
庶民院議員 (1829年5月4日 - 1832年12月11日[1]、1832年 - 1841年) | |
貴族院議員 (1841年8月 - 1856年2月18日) |
第13代ノーフォーク公爵ヘンリー・チャールズ・ハワード(英: Henry Charles Howard, 13th Duke of Norfolk, KG, PC、1791年8月12日 - 1856年2月18日)は、イギリスの貴族、政治家。
父が爵位を継承した1815年から自身が爵位を継承する1842年までアランデル・サリー伯爵の儀礼称号を使用した。
経歴
1791年8月12日、後に第12代ノーフォーク公爵を継承するバーナード・ハワードとその妻エリザベス(第2代フォーコンバーグ伯爵ヘンリー・ベラシズの娘)としてハノーヴァー・スクウェアのジョージ・ストリートに生まれる[2]。彼の両親は1794年に離婚した[2]。
1829年から1832年にかけてホーシャム選挙区から選出されて庶民院議員になる。ついで1832年から1841年にかけてウェスト・サセックス選挙区から選出される。忠実なホイッグ党議員であった[2]。
1837年7月から1841年6月にかけて第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム内閣の王室家計長官を務めた[2]。また枢密顧問官に列した[2]。
1841年8月には繰上勅書で第21代マルトレイヴァース男爵として貴族院入りした,[3][2]。同年7月から9月にかけて女王警護ヨーマン隊長(貴族院与党院内副幹事長)を務めた[2]。
1842年3月16日に父の死去により第13代ノーフォーク公爵を継承した[2]。
1846年7月から1852年2月まで第一次ジョン・ラッセル卿内閣の主馬頭を務めた[2]。1851年にホイッグ党首相ジョン・ラッセル卿の主導で制定された反カトリック的な聖職者称号法を支持したことで、カトリック教会と敵対することになり、彼がカトリックであるのはほとんど名目上のこととなった。しかし死の直前にカトリック教会と和解したという[2]。
1853年1月から1854年1月にかけては第4代アバディーン伯爵ジョージ・ハミルトン=ゴードン内閣で王室家政長官を務めた[2]。
1856年2月18日にアランデル城において死去した[2]。ノーフォーク公爵位は長男ヘンリーが継承した。また次男エドワードは後にグロソップのハワード男爵に叙された。
栄典
爵位
1841年8月16日の繰上勅書により父の保有爵位のうち以下の爵位を継承[4][5]。
- 第21代マルトレイヴァース男爵 (21st Baron Maltravers)
1842年3月16日に父バーナード・ハワードの死去により以下の爵位を継承[4][5]。
- 第13代ノーフォーク公爵 (13th Duke of Norfolk)
- 第31代アランデル伯爵 (31st Earl of Arundel)
- (1138年頃創設のイングランド貴族爵位)
- 第14代サリー伯爵 (14th Earl of Surrey)
- (1483年6月28日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
- 第11代ノーフォーク伯爵 (11th Earl of Norfolk)
- 第11代フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵 (11th Baron FitzAlan, Clun and Oswaldestre)
- (1627年の議会法によるイングランド貴族爵位)
勲章
名誉職その他
家族
1814年、シャーロット・ルーソン=ゴア(初代サザーランド公爵ジョージ・ルーソン=ゴアの娘)と結婚し、彼女との間に以下の5子を儲けた[4]。
- 第1子(長女)アデライザ・マチルダ嬢(-1904)ジョージ・マナーズ卿と結婚。
- 第2子(長男)第14代ノーフォーク公爵ヘンリー・グレンヴィル(1815-1860)
- 第3子(次男)初代グロソップのハワード男爵エドワード・ジョージ(1818-1883)
- 第4子(次女)メアリー・シャーロット嬢(1822-1897)第4代フォーリー男爵トマス・フォーリーと結婚。
- 第5子(三男)バーナード・トマス卿(1825-1846)
脚注
注釈
出典
- ^ UK Parliament. “Mr Henry Fitzalan-Howard” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年11月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m DNB
- ^ "No. 20007". The London Gazette (英語). 13 August 1841. p. 2072.
- ^ a b c Lundy, Darryl. “Henry Charles Howard, 13th Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2014年11月18日閲覧。
- ^ a b Heraldic Media Limited. “Norfolk, Duke of (E, 1483)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2011年8月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年7月1日閲覧。
- ^ "No. 20853". The London Gazette (英語). 5 May 1848. p. 1745.
- ^ "No. 19524". The London Gazette (英語). 21 July 1837. p. 1874.
参考文献
- Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900. .
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Henry Howard
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
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先代 ロバート・ハースト ニコラス・リドリー=コルバーン |
ホーシャム選挙区選出庶民院議員 1829年 - 1832年 同一選挙区同時当選者 ニコラス・リドリー=コルバーン |
次代 ロバート・ヘンリー・ハースト |
新設 | ウェスト・サセックス選挙区 1832年 - 1841年 同一選挙区同時当選者 ジョン・レノックス卿 |
次代 チャールズ・ウィンダム マーチ伯爵 |
公職 | ||
先代 サー・ウィリアム・フレマントル |
王室家計長官 1837年 - 1841年 |
次代 ジョージ・ビング閣下 |
先代 第3代イルチェスター伯爵 |
女王警護ヨーマン隊長 (貴族院与党院内副幹事長) 1841年 |
次代 第7代ロジアン侯爵 |
先代 第12代ノーフォーク公爵 |
軍務伯 1842年 – 1856年 |
次代 第14代ノーフォーク公爵 |
先代 第5代ジャージー伯爵 |
主馬頭 1846年 - 1852年 |
次代 第5代ジャージー伯爵 |
先代 第4代モントローズ公爵 |
王室家政長官 1853年 - 1854年 |
次代 第4代スペンサー伯爵 |
イングランドの爵位 | ||
先代 バーナード・ハワード |
第13代ノーフォーク公爵 1842年 - 1856年 |
次代 ヘンリー・フィッツアラン=ハワード |
第21代マルトレイヴァース男爵 (繰上勅書により父存命中に襲爵) 1841年 - 1856年 |