アランデル伯爵
アランデル伯爵 Earl of Arundel | |
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アランデル伯爵オービニー家の紋章。 | |
創設時期 | 1138年ごろ |
創設者 | スティーヴン王 |
貴族 | イングランド貴族 |
初代 | 初代伯ウィリアム・ド・オービニー |
現所有者 | 36代伯エドワード・フィッツアラン=ハワード |
付随称号 | マルトレイヴァース男爵 フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵 |
現況 | 存続 |
邸宅 | アランデル城ほか |
1660年以降、ノーフォーク公爵位の従属爵位。 |
アランデル伯爵(英語: Earl of Arundel [ˈærəndəl])は、イギリスの伯爵位。イングランド貴族。
1138年頃にウィリアム・ド・オービニーが叙されたのに始まる。2度の女系継承を経てフィッツアラン家、ハワード家へと移り、1660年にハワード家がノーフォーク公爵位に復権したことで以降ノーフォーク公爵位の従属爵位となる(ノーフォーク公爵家の法定推定相続人はこの爵位とサリー伯爵位を儀礼称号として名乗る)。2016年現在のアランデル伯爵位保有者は第18代ノーフォーク公爵エドワード・フィッツアラン=ハワードである。断絶による再創設が無く連綿と続く爵位としては、英国最長・最古の爵位である。
歴史
[編集]イングランド王ヘンリー1世(1068年 - 1135年)の2番目の王妃アデライザ・オブ・ルーヴァン(1103年 - 1151年)の再婚相手であるウィリアム・ド・オービニー(? - 1176年)が1138年頃に叙されたのに始まる[2][3]。
その曽孫である5代アランデル伯爵ヒュー・ド・オービニー(? - 1243年)が男子なく死去したことで最初の女系継承が発生し、ヒューの妹イザベルと第3代オスウェストリー卿ジョン・フィッツアラン(1200年 - 1240年)の間の長男であるジョン・フィッツアラン(1223年 - 1267年)が第6代アランデル伯爵位を継承することになった[2][4]。
その孫である8代アランデル伯リチャード・フィッツアラン(1267年 - 1302年)は1289年にアランデル伯として議会招集令状が出されており、これ以前のアランデル伯爵と別に新たなアランデル伯爵位をもう一つ与えられたとみられる[5][6]。
その息子である9代(2代)アランデル伯エドムンド・フィッツアラン(1285年 - 1326年)はサリー伯爵(ワーレン伯爵)ワーレン家の女子相続人アリス(1287年 – 1338年)と結婚したため、夫妻の長男である10代(3代)アランデル伯爵リチャード・フィッツアラン(1313-1376)はサリー伯爵(ワーレン伯爵)位も継承した[2][7]。
その子である11代(4代)アランデル伯リチャード・フィッツアラン(1346年 - 1397年)は、リチャード2世とその側近に対抗した訴追派貴族の一人だったが、1397年にリチャード2世によって大逆罪で処刑され、爵位も剥奪されている[8][9]。しかしリチャード2世がランカスター家のヘンリー4世(訴追派貴族の一人だった)のクーデタによって王位を追われたため、1400年10月にはアランデル伯の私権剥奪は解除され、息子のトマス・フィッツアランが12代(5代)アランデル伯に復帰した[5][10]。12代伯には子供がなく、その死後には、10代伯に遡っての分流であるジョン・フィッツアラン(1385年 – 1421年)が13代(6代)アランデル伯爵位を継承した[5][11]。ただしサリー伯爵位は12代アランデル伯の死去とともに保持者不在となった[12]。
13代伯の死後、その長男ジョン・フィッツアラン(1408–1435)が14代(7代)伯、次いでその長男ハンフリー・フィッツアラン(1429年 – 1438年)が15代(8代)伯を継承したが、15代伯が幼くして死去したことで、13代伯の次男ウィリアム・フィッツアラン(1417–1487)が16代(9代)伯を継承した[5]。
その曽孫である19代(12代)伯ヘンリー・フィッツアラン(1512年 - 1580年)は、女子相続人であるメアリー(1540年 - 1557年)を第4代ノーフォーク公爵トマス・ハワード(1536年 - 1572年)に嫁がせており、19代伯が生存している男子なく死去した際に2度目の女系継承が発生して、4代ノーフォーク公爵とメアリーの長男であるフィリップ・ハワード(1557年 – 1595年)が20代(13代)アランデル伯爵となった(4代ノーフォーク公は処刑・爵位剥奪されていたのでフィリップは母方の爵位のみ継承した)[13][14]。
この20代伯はカトリック信仰を貫いて大逆罪に問われ、1589年にアランデル伯爵位を剥奪されているが、その息子トマス・ハワード(1585年 – 1646年)は1604年に第21代(14代)アランデル伯爵位に復権した。また1627年の議会の決議でマルトレイヴァース男爵とフィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵がアランデル伯爵と一体の爵位とされた[5]。
その孫の第23代(16代)アランデル伯爵トマス・ハワード(1627年 – 1677年)は1660年に第5代ノーフォーク公爵位に復権した[15]。この際にアランデル伯爵位はノーフォーク公爵位と一体のものとして21代アランデル伯の男系男子に継承される爵位であることが確認された[5]。以降、アランデル伯爵位はノーフォーク公爵位とともに継承される従属爵位の一つとなり、ノーフォーク公爵家の法定推定相続人に儀礼称号として使用されるようになる。
第14代ノーフォーク公爵・第32代(25代)アランデル伯爵ヘンリー・ハワード(1815年 – 1860年)は勅許を得て、家名にルーツのひとつであるフィッツアランを加えて「フィッツアラン=ハワード」と改姓している[16][17]。2016年現在、第18代ノーフォーク公爵エドワード・フィッツアラン=ハワード(1956–)が第36代(29代)アランデル伯爵位を保有している。
歴代当主一覧
[編集]アランデル伯 第1期 (1138年頃)
[編集]- 初代アランデル伯ウィリアム・ド・オービニー (? - 1176年)
- 2代アランデル伯ウィリアム・ド・オービニー (? - 1193年)
- 3代アランデル伯ウィリアム・ド・オービニー (? - 1221年)
- 4代アランデル伯ウィリアム・ド・オービニー (? - 1224年)
- 5代アランデル伯ヒュー・ド・オービニー (? - 1243年)
- 6代アランデル伯ジョン・フィッツアラン (1223年 – 1267年)
- 7代アランデル伯ジョン・フィッツアラン (1246年 – 1272年)
- 8代アランデル伯リチャード・フィッツアラン (1267年 - 1302年)
アランデル伯 第2期 (1289年)
[編集]- 初代or8代アランデル伯リチャード・フィッツアラン (1267年–1302年)
- 2代or9代アランデル伯エドムンド・フィッツアラン (1285年–1326年) (1326年剥奪)
- 3代or10代アランデル伯リチャード・フィッツアラン (1313年–1376年) (1331年復権)
- 4代or11代アランデル伯リチャード・フィッツアラン (1346年–1397年) (1397年剥奪)
- 5代or12代アランデル伯トマス・フィッツアラン (1381年–1415年) (1400年復権)
- 6代or13代アランデル伯ジョン・フィッツアラン (1385年–1421年)
- 7代or14代アランデル伯ジョン・フィッツアラン (1408年–1435年)
- 8代or15代アランデル伯ハンフリー・フィッツアラン (1429年–1438年)
- 9代or16代アランデル伯ウィリアム・フィッツアラン (1417年–1487年)
- 10代or17代アランデル伯ウィリアム・フィッツアラン (1450年–1524年)
- 11代or18代アランデル伯ウィリアム・フィッツアラン (1476年–1544年)
- 12代or19代アランデル伯ヘンリー・フィッツアラン (1512年–1580年)
- 13代or20代アランデル伯フィリップ・ハワード (1557年–1595年) (1589年剥奪)
- 14代or21代アランデル伯トマス・ハワード (1585年–1646年) (1604年復権)
- 15代or22代アランデル伯ヘンリー・ハワード (1608年–1652年)
- 16代or23代アランデル伯、5代ノーフォーク公トマス・ハワード (1627年–1677年) (1660年に第5代ノーフォーク公爵位に復権)
- 17代or24代アランデル伯、6代ノーフォーク公ヘンリー・ハワード (1628–1684)
- 18代or25代アランデル伯、7代ノーフォーク公ヘンリー・ハワード (1655–1701)
- 19代or26代アランデル伯、8代ノーフォーク公トマス・ハワード (1683–1732)
- 20代or27代アランデル伯、9代ノーフォーク公エドワード・ハワード (1685–1777)
- 21or28代アランデル伯、10代ノーフォーク公チャールズ・ハワード (1720–1786)
- 22or29代アランデル伯、11代ノーフォーク公チャールズ・ハワード (1746–1815)
- 23or30代アランデル伯、12代ノーフォーク公バーナード・ハワード (1765–1842)
- 24or31代アランデル伯、13代ノーフォーク公ヘンリー・ハワード (1791–1856)
- 25or32代アランデル伯、14代ノーフォーク公ヘンリー・フィッツアラン=ハワード (1815–1860)
- 26or33代アランデル伯、15代ノーフォーク公ヘンリー・フィッツアラン=ハワード (1847–1917)
- 27or34代アランデル伯、16代ノーフォーク公バーナード・フィッツアラン=ハワード (1908–1975)
- 28or35代アランデル伯、17代ノーフォーク公マイルス・フィッツアラン=ハワード (1915–2002)
- 29or36代アランデル伯、18代ノーフォーク公エドワード・フィッツアラン=ハワード (1956-)
系図
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 森(1987) p.35-36
- ^ a b c 森(1987) p.35
- ^ Lundy, Darryl. “William d'Aubigny, 1st Earl of Arundel” (英語). thepeerage.com. 2014年11月23日閲覧。
- ^ Lundy, Darryl. “John FitzAlan” (英語). thepeerage.com. 2014年11月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g Heraldic Media Limited. “Arundel, Earl of (E, c.1139)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年8月8日閲覧。
- ^ Lundy, Darryl. “Richard Fitzalan, 1st/8th Earl of Arundel” (英語). thepeerage.com. 2014年11月23日閲覧。
- ^ Lundy, Darryl. “Richard FitzAlan, 10th Earl of Arundel” (英語). thepeerage.com. 2014年11月23日閲覧。
- ^ キング 2006, p. 313.
- ^ Lundy, Darryl. “Richard FitzAlan, 4th/11th Earl of Arundel” (英語). thepeerage.com. 2014年11月23日閲覧。
- ^ Lundy, Darryl. “Richard FitzAlan, 4th/11th Earl of Arundel” (英語). thepeerage.com. 2014年11月23日閲覧。
- ^ Lundy, Darryl. “John d'Arundel, 6th/13th Earl of Arundel” (英語). thepeerage.com. 2014年11月23日閲覧。
- ^ Stephen, Leslie, ed. (1889). . Dictionary of National Biography (英語). Vol. 19. London: Smith, Elder & Co.
- ^ 森(1987) p.35/40
- ^ Lundy, Darryl. “Philip Howard, 20th Earl of Arundel” (英語). thepeerage.com. 2014年11月23日閲覧。
- ^ 森(1987) p.40
- ^ 海保(1999) p.210
- ^ 森(1987) p.49
参考文献
[編集]- 海保眞夫『イギリスの大貴族』平凡社〈平凡社新書020〉、1999年。ISBN 978-4582850208。
- 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979。
- キング, エドマンド『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会、2006年。ISBN 978-4766413236。