「安珍・清姫伝説」の版間の差分
安珍/鎮→『安鎮清姫略物語』に訂正→釣鐘の顛末: ニッポニカは"鐘を焼き溶かし"とし、石燕も鐘は"とけて湯と"なったとする. →安珍・清姫の名の嚆矢: 安珍は山伏か→テキストにはないが絵巻でも山伏姿に描かれている |
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2021年12月29日 (水) 00:01時点における版
安珍・清姫伝説(あんちんきよひめでんせつ)とは、紀州道成寺にまつわる伝説のこと。思いを寄せた僧の安珍に裏切られた清姫が蛇に変化して日高川を渡って追跡し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すことを内容としている[1]。
そしてこの男女は因縁のまま輪廻転生するが、道成寺の住持の読経の供養により成仏するという仏教説話である。
概説
安珍・清姫伝説は、主人公らの悲恋と情念をテーマとした、紀伊国(和歌山県)道成寺ゆかりの伝説である[3]。
原型とされる平安時代の『大日本国法華験記』(『法華験記』)・『今昔物語集』所収の説話には[4][5]、熊野参詣の僧と、宿の寡婦とだけ記され、名は言及されていない[6][7]。安珍の僧名は『元亨釈書』(1322年)が初出で[8]、清姫の名は1742年初演の浄瑠璃に初めて見える[9]。よって安珍清姫の名を冠した作品や絵巻物等の稿本は、おおむね江戸時代以降ということになる。
室町時代の『道成寺縁起』(上下巻、絵巻、重文)でも、主人公らは無名である[注 1][10][11]。
能(謡曲『道成寺』)、歌舞伎(『娘道成寺』、総じて「道成寺物」という作品群)、浄瑠璃(『日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)』『道成寺現在蛇鱗(げんざいうろこ)』)など、後世にさまざまな題材にされてきた[3][12]。
道成寺では、絵巻物(後期の写本・摸本類)を見せながら絵解き説法をおこなっているが[注 2][13]。昭和の時代に文言を多少アレンジして作成された「千年祭本」および、書写は新しいが古形にちかい「道成寺縁起絵とき手文」が台本としてあるものの[15][16]、実践においては台本通りでない(例えば清姫が年齢13歳であるというこの両本にある記述は口にされない)[17]。
「略縁起」と名のつく稿本も複数存在する[18][注 3]。また、絵解きの影響で、江戸時代にはこの伝説が「略縁起」の形で刊行され、数多く頒布されてきた[18]。
あらすじ
伝説のあらましは[3][12][22]、おおむね次のようなものである。
奥州白河(現福島県白河市)より安珍という僧(山伏)が熊野に参詣に来た[注 4]。この僧は大変な美形であった。紀伊国牟婁郡(現在の和歌山県田辺市中辺路、熊野街道沿い)真砂(まなご、まさご)の庄司清治/清次の娘、清姫、宿を借りた安珍を見て一目惚れし、女だてらに夜這いをかけて迫る。安珍は僧の身ゆえに当惑し、必ず帰りには立ち寄ると口約束だけをしてそのまま去っていった[3]。
欺かれたと知った清姫は怒って追跡をはじめるが[3][12]、安珍は神仏(熊野権現・観音)を念じて逃げのびる[22][注 5]。安珍は日高川を渡るが、清姫も河川に身を投じて追いかける大場面となる[23][注 6]。蛇体となりかわり日高川を泳ぎ渡った清姫は、日高郡の[12]道成寺に逃げ込んだ安珍に迫る[3]。梵鐘を下ろしてもらいその中に逃げ込む安珍。しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。因果応報、哀れ安珍は鐘の中で焼き殺されてしまうのであった[3]。安珍を滅ぼした後、本望を遂げた清姫はもとの方へ帰っていき、道成寺と八幡山の間の入江のあるあたりで入水自殺したといわれる[22][24][注 7]。
畜生道に落ち蛇に転生した二人はその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。住持の唱える法華経の功徳により二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れた。実はこの二人はそれぞれ熊野権現と観世音菩薩の化身であったのである[22]、と法華経)の有り難さを讃えて終わる[27][注 8]。
以上のあらましは、大筋では室町時代の『道成寺縁起』の粗筋[29][10]と合致するが、ただし『縁起』には安珍・清姫の名が登場しない[29][10]。道成寺で行われる絵解きの台本『道成寺縁起絵とき手文』(仮綴。原本は江戸時代末)[注 9]が[30]、『縁起』絵巻に沿った構造で、原文も盛り込み、かつ安珍・清姫の物語となっている[31]。
同寺の絵解きでは、ビジュアル的には『道成寺縁起』の摸本を使うものの[32]、語りの台詞の資料としては安珍・清姫の名のある(古めかしい言葉遣いの)台本を使いつつ[33]、全く台本通りではなく現代語に直しながら語られる[34]。より詳しい内容等は後述する。
伝承の経緯
原型
上述したように、その原型には『大日本国法華験記』(巻下第百二十九「紀伊国牟婁郡悪女」)の説話があり、これが『今昔物語集』巻第十四第三「紀伊ノ国道成寺ノ僧写法華救蛇語」に伝承されている[6][4]。原文をくらべると前者は漢文で[11][35][36]、後者は読み下してあるが[37][38]、ほぼ同文である[39][4]。
『法華験記』本のあらましでは[7][40]、庄司の娘の代わりに、牟婁郡の寡婦(必ずしも未亡人とは限らない[41][36])が熊野参詣の旅中の僧らに宿を提供する。また、宿泊するのは老若二人の僧である(懸想されるのは「其形端正」な若い僧)。言い寄られた若い僧は(流布説話と同様に)参詣を終えた後にまた立ち寄ると口約束して旅立つが、いっこうに戻ってこない。逃げられたと怒った寡婦は部屋に籠り、体長五尋の毒蛇に変化、僧を追って(熊野参詣道をたどり[42])、道成寺で鐘に隠れた僧を焼き殺す[7][43]。そして(流布する伝説と同様)、道成寺の高僧の夢枕に、その若い僧が蛇の姿で現れ、自分は蛇の女の夫になりこの姿になってしまったと嘆き、法華経「如来寿量品」を写経して納め供養をしてほしいと懇願する。老僧が所望の供養のための法会をおこなったのち、ふたたび夢に現れ男は兜率天、女は忉利天となり往生したと満悦そうに報告する[7][11]。
渡辺保は『大日本法華経験記』に記される話について、不自然な点があると指摘している。例えば女がなぜ部屋にこもると大蛇に変じたのか、また道成寺では大蛇に変じた女から逃げる若い僧を、なぜ鐘の中に隠したのかなどである。そうした点が見られるのは、「古い日本の伝承を無理に仏教の霊験譚にこじつけた結果」だと述べている。女が部屋にこもって蛇になったのは、「仏教渡来以前の日本人の古代の死生観」によるもので、そして「もとになった説話が、道成寺という寺の縁起にまつわるものでも、法華経の功徳にまつわるものでもなく、鐘の縁起にまつわるもの」であり、「この物語が本来鐘にまつわる説話だった」とする[44]。
道成寺縁起
原型(平安時代の説話)から、やがて道成寺の縁起物(室町時代から江戸時代)に発展した[45]。江戸期の写本や摸本を数多く道成寺では所蔵する[46]。
なかでもとりわけ有名な稿本は、道成寺蔵『道成寺縁起』(絵巻、2巻2軸、重文)であるが[注 10][47]、これは寺伝では応永十年(1403年) 後小松天皇の宸筆により書きしたためられたもので絵は伝・土佐光重筆だが、現代の検証では16世紀前半ないし15世紀後半の成立と推察される[20][2]。
時代設定は、醍醐天皇の御代、延長6年(928年)夏の頃とある[50][12][51]。
『道成寺縁起』では、主人公の女は
その相手は奥州出身の美男子な僧(「見目能僧」)と記される[60][61][62][63][57]。女は僧に「かくて渡らせたまえ」(しばらくいらしてください)と迫るが、これは夫になってくれとの口説きだと解釈される。後日、再会を約束したはずの僧はとうに通り過ぎて行った知って出立した女房は、切目王子の社を過ぎた上野という場所[注 13]で追いつき呼びかけたが、僧は頭巾、負厨子、念珠などをかなぐり捨てて逃げたので、女は上体蛇と化し火を吹いて追いかけた。僧は塩屋を過ぎ、日高川を船で渡って逃げたが、女は衣を脱ぎ捨て全身蛇体となって泳ぎわたる[65]。以上の部分も、残りの部分も[注 14]、上述の安珍清姫伝説と比べて大きな違いえは無い。僧は道成寺に駆け込んでかくまわれ、鐘の中に隠されるが、女房の大蛇は尾で堂の戸を壊し、鐘の
賢学草紙・日高川草紙
異本である酒井家旧蔵『賢学草子絵巻』(伝・土佐広周筆[69][70][注 15])では、「姫君」と「
「道成寺縁起」の異本にはまた根津美術館蔵の『賢学草子』(または「日高川草紙」と称す)があり、遠江国橋本宿の長者の娘「花ひめ(花姫)」と、三井寺の若き僧「けんかく(賢学)」となっている[62][75]。賢学は花姫と結ばれる運命だという天啓を夢に見、修行の妨げとなることを恐れて、遠州にいる幼い花姫の胸を刺して逃げる。その後賢学は一目惚れした娘と結ばれるが彼女の胸の傷から成長した花姫その人であると気付き彼女を捨てて熊野へ向かう。花姫は彼を追い、ついに蛇となって日高川を越えて追いすがる。とある寺に逃げこんだ賢学は鐘の中に匿われるが、蛇と化した花姫は鐘にとぐろを巻いてそれを湯のごとく溶かし、賢学を掴みだしたのち、川底へと消えていった。その後弟子たちが二人を供養したという[76][75][77]。
『賢学草子』(別名『日高川草紙』)の諸本(酒井家旧蔵本系統・根津美術館本系統のいずれも含む)は、『道成寺縁起』に比べると"宗教色が希薄で「御伽草子」的要素が強い"話筋である[73]。刃傷沙汰による殺人未遂の段こそ欠けるが、酒井家旧蔵本系統の『賢学草子』も、破戒僧であることにかわりはない[78]。ここでは賢学が清水寺に籠っているときに姫を見初め[79]、恋文をやりとりし契りを交わすが[80][注 17]。賢学は悔恨して、熊野詣に出、滝に打たれる修行に打ち込むが(異本では那智滝)が姫に見つかり邪魔をされ、道成寺へと逃げ込む展開となる[79][82]。
安珍・清姫の名の嚆矢
これらのいずれにおいても安珍・清姫の名はまだ見られず、安珍の名の初出は『元亨釈書』(1322年)である。ただし鞍馬寺に居たことになっており[8][4][84][85]、後の奥州白川の僧という設定と異なっている。また、出身はみちのくであるが(現・宮城県角田市藤尾の東光院の山伏・住持)、京都の鞍馬寺で修行したと辻褄を合わせている民話が角田市界隈に伝わる[86]。
安珍を山伏とみるべきか、そうでなしかとみるべきか考察があるが[87]、能楽の『道成寺』で「山伏」と設定されている[8][88][注 18]。草紙では『道成寺縁起』絵巻[10]や『賢学草子』の詞に[89]「山伏」としていないが、挿絵は山伏姿に描かれている[90][91][92]。
清姫の名の初出は並木宗輔作の浄瑠璃『道成寺現在蛇鱗』(寛保2/1742年初演)とされる[9]。浄瑠璃『道成寺現在蛇鱗』(宝暦9/1759年)にも清姫の名はみえる[93]。なお、清姫の名は、その父親の名とされる庄司の清次からとられていると目される[94][59][注 19]。
清姫の年齢は文献に拠って13歳, 16歳など様々である。"現行の絵解きでは清姫の年齢には触れないが、二種の絵解き台本には「此の姫十三の時、又僧の参られまして」(『道成寺縁起絵とき手文』)、「清治と申す人の姫で、時に年拾三歳で御座いました」 (千年祭本『道成寺縁起絵とき』)"とみえる[17]。『安鎮清姫略物語』(文政年間の刊行)でも「わらはもはや今年十三歳に及べり」[98][99]。また、酒井家旧蔵本『賢学草子』等では「姫君十六になり侍るに」とあり[100]、その写本である『道成寺絵詞』でも当然16歳である[59]。"常磐津"だと清姫は「十六七な、白歯の振袖の女の娘」[101]。
草紙では系統に関わらず蛇は"本の所に去"りゆくだけなのに、台本系統では道成寺と八幡山の入江の橋の下に沈んで果てることになっている[25] 。そしてその入江はのちに陸地となり、"田の中にありまする蛇塚(へびつか[102]/じゃつか[103])"がその標榜だと伝える[25]。
伝承内容の相違
平安時代の古い文献などが伝える伝承と、後の伝説では相違点もうかがえる。
『大日本国法華験記』本は、道成寺で僧を焼き殺す点は一致しているが、蛇道に堕ちた二人を成仏させた僧にも前世からの因縁があったとしている[35][104]。
また『法華験記』では女が寝屋に籠って蛇となるが、「道成寺縁起」では途上で徐々に蛇に変化していく様子が描かれる[105]。
『今昔物語集』では、あえて「若き」寡婦とされ、また部屋に籠って死んだ後に「五尋ばかりの大蛇」に変身している[11]。
ゆかりの地名の記述
『道成寺縁起』絵巻や、絵解きでは現地の地名がことこまかに説明されることが知られる[106][107]。
以下、縁起や絵解きで説明される、僧/安珍と蛇姫/清姫の道成寺までの道のりのゆかりの地名を絵巻や台本に沿って説明する。
切目川より
- (切目王子~上野~塩屋)[注 20]
当寺では地元の地名をいくつもからめてこの道中が伝えられる。姫は切目川を渡り[108]、切目五体王子の神社の先(北西)の上野という場所で追いつき[注 21]、あのときの御房(僧)でないかと声をかける。しかし記憶にない、人違いだと否認したため、姫は激昂して火煙(火炎[19])を吹きはじめ[110][注 22]、安珍は恐怖をなして念仏(「南無金剛童子」、次いで「南無観世音」[111]等)を唱える[112]。その甲斐あって(塩屋に[19][113])逃れるが[22]、見失ったことに怒りをつのらせた清姫が、ここで(首から上が[19])蛇と化する[114][注 23]。
日高川
安珍は日高川で渡し船に頼みこみ渡ってしまうが[115]、現代の絵解き(千年祭本)だとここで熊野権現への祈り[注 24]が通じて、清姫がいわば不動金縛りになった隙に逃げ出す、という脚色があるかわりに[118][119]、脱衣するという表現をさけて「かような姿になった」と絵を指し示す演出になっているが[120]、もとは清姫が衣服を川辺に脱ぎ捨てて全身もろとも毒蛇となり、日高川を渡る場面となっている[121][注 25]。
釣鐘の顛末
解説によっては、隠れ場所につかった道成寺の鐘は、清姫の炎によって融解してしまったと説くが[3]、『道成寺縁起』の文章では、上述したように何時間は燃えていたが水で消火して鐘を除けたことになっているので[48]、鐘が残存したものととれる。
ところが能楽の『道成寺』では、"鐘は即ち湯となつて、終に山伏を取りお終んぬ"という描写になっている[88][123][88]。鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』にも「道成寺鐘」と題して伝説の絵図があり、安珍の隠れた鐘は、蛇と化した庄司の娘がまきついて、「鐘とけて湯となるといふ」としている[124][125]、にもかかわらず、件の鐘は、石燕の時代には妙満寺に納められているという事も併せ述べられている[126]。
後日談
安珍と共に鐘を焼かれた道成寺であるが、四百年ほど経った正平14年(1359年)の春、鐘を再興することにし、逸見万壽丸が寄進した[126][127]。二度目の鐘が完成した後、女人禁制の鐘供養をしたところ、一人の白拍子(実は清姫の怨霊)が現れて鐘供養を妨害した。白拍子は一瞬にして蛇へ姿を変えて鐘を引きずり降ろし、その中へと消えたのである。清姫の怨霊を恐れた僧たちが一心に祈念したところ、ようやく鐘は鐘楼に上がった。しかし清姫の怨念のためか、新しくできたこの鐘は音が良くない上、付近に災害や疫病が続いたため、山の中へと捨てられた[126][128]。
さらに二百年ほど後の天正年間。豊臣秀吉による根来攻め(紀州征伐)が行われた際、秀吉の家臣仙石秀久が山中でこの鐘を見つけ、合戦の合図にこの鐘の音を用い、そのまま京都へ鐘を持ち帰り、清姫の怨念を解くため、顕本法華宗の総本山である妙満寺に鐘を納めた[128]。
伝統芸能でも前記「後日談」の部分が用いられることが多く、そのため安珍を直接舞台に出すことなく女性の怨念の物語として世界を展開することができた[要出典]。
江戸期の伝統芸能
芸能を主に、様々な作品の題材として広く採りあげられた。
- 能 : 『鐘巻』(廃曲だが復元が試みられている)。これを大幅に省略した謡曲『道成寺』のみが逸失せず伝わる[129]。『鐘巻』については、従来は観阿弥(1384年没)、世阿弥(1443年没)の作とされてきたが、観世小次郎信光(1516年没)(横道萬里雄説)も有力視されており[97]、これだと成立年代もだいぶ下ることになる。
- 長唄 : 『紀州道成寺』
- 常磐津:『道成寺伝授ノ睦言』
- 荻江節 : 『鐘の岬』
- 義太夫節 : 『日高川』 ※このページの冒頭に表示されている画像は、このお芝居の一場面である。
- 人形浄瑠璃 : 『日高川入相花王』(ひだかがわいりあいざくら)[注 26]
- 歌舞伎 : 『京鹿子娘道成寺』、『奴道成寺』、『二人道成寺』、『男女道成寺』
- 組踊 : 『執心鐘入』
地域の口承文学
また、真砂の里では別の伝説が行われている[131]。大きな相違点を挙げると以下のようになる。
- 清姫の母親は実は、男やもめであった父が助けた白蛇の精であった。
- 初め安珍は幼い清姫に「将来結婚してあげる」と言っていたが、清姫の蛇身を見て恐れるようになった。
- 安珍に逃げられた清姫は絶望し富田川に入水、その怨念が蛇の形をとった。
- 蛇にならず、従って安珍も殺さず、清姫が入水して終わる話もある。
さらに異説としては、清姫は当時鉱山経営者になっており、安珍が清姫から鉱床秘図を借りたまま返さないので、怒った清姫やその鉱山労働者が安珍を追い詰めたという話がある(「清姫は語る」津名道代〈中辺路出身〉)[132]。
わらべ歌 に 『道成寺』(道成寺のてまり唄。和歌山県。作者不詳)がある:
トントンお寺の道成寺
釣鐘下(お)ろいて 身を隠し
安珍清姫 蛇(じゃ)に化けて
七重(ななよ)に巻かれて 一廻(まわ)り 一廻り
史跡
伝説の舞台となる道成寺には安珍塚がある。
「上野というところ」の北西、旧・名田村大字
また、清姫が入水して果てたのは道成寺と八幡山のあいだの入江であるという地元伝承があり絵解きなどで伝えているが、その入江のあった陸地にある清姫の「
ほか、清姫渕、衣掛松、清姫のぞき橋、鏡岩など、伝説にまつわる史跡が数多く残されている[136]。
熊野古道潮見峠越えにある田辺市指定天然記念物の大木・捻木ノ杉は、清姫が安珍の逃走を見て口惜しんで身をよじった際、一緒にねじれてしまい、そのまま大木に成長したものといわれる[137][138]。
妙満寺に納められた道成寺の鐘は、現在でも同寺に安置されており、寺の大僧正の供養により清姫の怨念が解けて美しい音色を放つようになったとされ[139]、霊宝として同寺に伝えられている。毎年春には清姫の霊を慰めるため、鐘供養が行われている。道成寺関連の作品を演じる芸能関係者が舞台安全の祈願に訪れていた時代もあり、芸道精進を祈願して寺を訪ねる芸能関係者も多い[126][128]。
地域の祭りなど
- 中辺路では毎年7月頃、安珍・清姫伝説をテーマとした「清姫まつり」が、清姫が入水したとされる富田川の河川敷で開催されており、蛇身となった清姫が火を吐く様子などが再現されている[135][140]。
- 和歌山県みなべ町の常福寺の盆踊りに「安珍・清姫伝説」を題材にした盆踊りが行われている。
- 安珍の生地とされる白河市根田では、安珍の命日とされる3月27日に、墓(後年、村人が供養のために建てたもの)の前で安珍念仏踊り(福島県無形民俗文化財)が奉納されている。
比較文学論・類話
『古事記』の本牟智和気王説話に出雲の肥河における蛇女との婚礼の話に類似性があり[要出典]、誉津別命が参詣の旅の途中、宿泊先で女を娶ったとときその姿を覗き見て正体が蛇であることに気付き畏れて逃げ出すが、大蛇に海を越えて追いかけられ大和へと逃げ延びるという内容である。
また、『賢学草紙』では、賢学が清水寺で姫を見初める展開になっているが、『清玄桜姫』において恋愛に没落する清玄も清水寺の僧なので関連性が指摘されている[81]。
上田秋成原作『雨月物語』の中に『道成寺』を元にしたと思われる『蛇性の婬』と言う話が載っている[注 28]。
吹田に伝わる民話に、太左衛門という男が新田で草刈り中に誤って大蛇の首を落としてしまった後、首だけの大蛇に祟られて最期は鐘に隠れたところを焼き殺されるという、道成寺伝説によく似た結末の民話がある[141]。
派生作品
- 日本画家の小林古径がこの伝説を題材にとった絵画『清姫』(8枚の連作)を制作している。山種美術館所蔵。
- 映画『安珍と清姫』(1960年)監督:島耕二 出演:市川雷蔵 若尾文子 製作:大映
- 人形アニメーション『道成寺』(1976年) 制作 演出:川本喜八郎
- 日高川(漫画) - 星野之宣の『妖女伝説』シリーズ中の短編。1980年週刊ヤングジャンプ13号掲載。『日高川入相花王』の清姫役を与えられた文楽座の若き人形遣いを主人公とし、安珍・清姫伝説をモチーフとしている。
- 西口克己作の小説『道成寺』(1988年)[142]
- 平岩弓枝作御宿かわせみ22『清姫おりょう』(1996年)所収「清姫おりょう」- 江戸で清姫伝説の人気にあやかり道成寺の鐘(ただし天保年間の銘入り)などが展示されたとしている。
- 『清姫曼陀羅』-岡本芳一(百鬼どんどろ)による、等身大人形を用いた舞台劇。世界各国で上演された。
- 絵本『安珍と清姫の物語 道成寺』(2004年) 文:松谷みよ子 絵:司修 (ポプラ社)
- 室内オペラ《清姫-水の鱗》~二人の独唱者、混声合唱とピアノのための~(2011年) 作曲:西村朗 台本:佐々木幹郎
注釈
- ^ 奥州の無名僧と清次の娵(女房)とあるのみ。
- ^ 古くから行われた絵解きは室町時代絵巻も使ったとする論旨もあるが[13]、これには懐疑的な意見も呈される[14]。
- ^ 例えば「紀州日高郡道成寺御建立畧縁起(りゃくえんぎ)」[19]や異本としては「安鎭清姫畧物語」が伝説を記したものである[18]。なかでも豪俔(1654年没)「道成寺御建立略縁起』」は、「創建縁起」の最古の例とされる[20](室町絵巻の上下本には、道成寺の創建のいきさつが解かれるわけではない)。創建伝承は例えば「紀伊國日髙郡吉田村 鐘巻道成寺縁起」にも見える[21]。
- ^ 千年祭本では"見目うるはしき山伏の安珍"(林 (1981), p. 44)
- ^ 実際は、どの場面でどの神仏に祈るかは稿本によってさまざまである。
- ^ 「日高河」の場面は、月岡芳年、村上華岳等により画題にされている。
- ^ 『道成寺縁起』では蛇となった姫が「本の方へ帰りぬ」としか記さないが[10]、絵解き台本では"本望をとげましたによつて当山と八幡山との橋の下へ入て果てました"[24]、"西の入江のあの橋の上より海中深く沈んで"等とする[25]。『佛教布教大系』や『日本百科大辭典』にも記載があるがただし、"..蛇は本望を遂げたる故にもとの方へ帰り当山と八幡山との間に身を隠した"という文言になっている[22][26]。
- ^ 現代の絵解きでは、執念にとらわれることの戒めのたとえと諭して終えている[28]
- ^ 『道成寺縁起絵とき手文』と題する昭和51年付の写本が、じっさいの研究では対象となる。
- ^ 解説者によって様々に呼ばれているので名称にぶれがあるが、国の重要文化財としての登録題名は「紙本著色道成寺縁起」二巻である[47]。
- ^ 「娵」の正しい読みは、「よめ」であるが、道成寺では「むすめ」と訓じて来た経歴がある[56]。原文にはその家の女房(仕える女)ともみえる[57]。
- ^ 三田村鳶魚の、これは『紀伊国名所図会』[58]にある梗概についての考察であるが、清次の「嫁」について、息子の妻としているのはあきらかで、おそらく亭主のいない寡婦なのだろうと説く[59]。
- ^ 旧・名田村大字上野(現今の御坊市名田町上野)[64]。
- ^ 絵巻の上巻・下巻のそれぞれ内容
- ^ 「道成寺絵詞」(天保12年)はその写本[70][47]。
- ^ ただし酒井家旧蔵本(やその多くの写本)は前欠(冒頭分が欠損する)である。
- ^ 清水寺が舞台ということで『清玄桜姫』の破戒僧、清玄との共通点があると指摘される[81]。
- ^ 三田村は『道成寺』を観阿弥(秦清次)作とする説をとるので、『道成寺縁起』絵巻より古いとしている。
- ^ 父親の名が清次だという根拠は不詳だが、一説では道成寺の能の原作者とも目される観阿弥(秦清次)と符合する、との三田村鳶魚の考察がある[59]。(観阿弥(1384年没)について、三田村は、結城治部秦清次の死没を応永十三年(1406年)五月十五日との記載を是とし、道成寺の能の原作者と断定する[95]。よって「まなごの庄司」という名を登場させたのは秦清次が初めてである[96](すなわち「道成寺縁起」絵巻より前)と説いている。ただ、観阿弥ではなく後の世代(世阿弥、観世小次郎信光)の作であると諸説あるので[97]、そうなると時代がずれて三田村の考察も狂ってくる。
- ^ 千野 (1981): "切目川、上野、塩屋、と南から少しずつ北上し、道成寺のある小松原に下り、そして日高川に行きあたる、という構成をとっていたと思われる"。
- ^ "野田村上野と申す所にてたづね求むる/安珍に追付きまし"と昭和の千年祭本にみえるが林 (1981), p. 46、すでに室町期の絵巻にも"こゝは上野といふ所"と書き添えられている[10]。じっさいに該当する地名は「野田村」でなく旧・名田村大字上野(現今の御坊市名田町上野)[64]。絵解き台本には"当寺より道二里程下上野と云う處"と語るものもある[109]
- ^ この上野の場面:千年祭本では清姫"遂に口より火煙を吹"いたゆえだが[111]、室町時代絵巻では女房は単に恐ろしい形相になっているゆえに[10]、安珍/無名僧は神仏(金剛童子と観世音)を唱える[10]。
- ^ 塩屋の場面:蛇を目にしたと安珍/無名僧が言いつつ大悲権現(これも観音菩薩の異称)への念仏を、"蛇となれるを見つつ、声も惜しまず"わめく、と絵解き(千年祭本)にも室町絵巻本にもある[114][10]
- ^ 室町絵巻ではここでで熊野権現を念じていないが[10]、三所権現(熊野権現)に助けを乞う記述は酒井家旧蔵本「賢学草子絵巻(日高川草紙絵巻)」にみえる[116][117]。
- ^ 日高川渡りの場面は、平安時代の説話には無く、室町期の「道成寺縁起」絵巻に盛り込まれたと考察されている。この絵巻では最初追いついたとき頭と上半身が蛇となり、日高川を渡ろうと全身蛇と化した、と解釈される[122]。
- ^ 坂東玉三郎がこれを歌舞伎舞踊化して上演している[130]。
- ^ この場所には別の伝説も結びついており、『鐘巻道成寺縁起』(文政6年/1823年印行)によれば、道成寺と八幡宮の間の入江のほとりに九人の海士(あま)が住んでおり、海中から像を回収し、願いをかなえてもらったという[134]。すなわち九海士王子の海士の伝説を伝えている[22]。
- ^ また、その話を題材にした映画(蛇性の婬)もある。
出典
- 脚注
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関連項目
- 白蛇伝
- まんが日本昔ばなし - 『安珍清姫』のタイトルで紹介
- 月華の剣士 - 一条あかりの必殺技「劾鬼・清姫」を発動させると鐘にまきつく清姫[1]が出現する。
- 舞-HiME - 蛇をモチーフにしたチャイルド(モンスター)「清姫」が登場する。クライマックスでは安珍の最期を引用したような場面も展開される。
- 陰陽座(ロックバンド) - 2008年9月に発表したアルバム「魑魅魍魎」にこの話を基に清姫側からの視点で独自解釈した楽曲「道成寺蛇ノ獄」が収録されている。
- ストーカー
- Fate/Grand Order - TYPE-MOONによるスマートフォン専用ゲーム。サーヴァントとして「清姫」が登場する。清姫の口から安珍についても言及される他、同作の主人公を「安珍の生まれ変わり」と信じている。
外部リンク
- 紀伊国牟婁郡悪女 - 大日本国法華経験記の関連部分がある。
- 道成寺攷 参考資料一覧 - 今昔物語、道成寺絵巻、金巻の資料がある。
- 道成寺之絵 伝土佐広周画 早稲田大学蔵書
- 百鬼図譜より道成寺の鐘 - 石燕
- 安珍と清姫の物語
- 安珍清姫伝説の検証 - ウェイバックマシン(2009年6月17日アーカイブ分)