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[[松任谷由実]]は著書『ルージュの伝言』(1984年、[[角川書店]])の中で「ニューミュージックって言葉は嫌いなんだけど、まあこういう音楽は私がはじめたわけでしょう。私、ゼロからはじめたんだもの。だから過去のものとは較べようがない」などと述べている<ref name="rouge" >[[#ルージュ]]9-10頁</ref>。また、この後続く松任谷の話は「"[[四畳半フォーク]]"、"有閑階級サウンド"、"中産階級サウンド"も私の命名。それを[[富澤一誠]]とかが使い出して、そのうち浸透した。[[坂本龍一]]にそういったら[[テクノポップ]]って言葉はぼくがつくったんだと言ってた。インパクトのある言葉なら、すぐに浸透する。吉田拓郎は名前しか知らなかった、だんだん騒がれ出して(自身が) "女拓郎" とかいわれるようになったから聴いたが、私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにないまったく新しいもの」などと述べている<ref name="rouge" />。 |
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松任谷は『月刊平凡』1976年5月号のインタビューで「音楽は[[趣味]]でやってます。[[ブルジョア]]だから悪いってことない。私の音楽は[[イージーリスニング]]。[[ |
松任谷は『月刊平凡』1976年5月号のインタビューで「音楽は[[趣味]]でやってます。[[ブルジョア]]だから悪いってことない。私の音楽は[[イージーリスニング]]。[[背景音楽|BGM]]みたいなもの。朝起きたとき、夜寝る前に、ふっとかけてみたくなるような音楽がつくれたら」と話している<ref name="heibon8204" >{{cite journal |和書 |author = |journal = 月刊平凡 |issue = 1976年5月号 |title = フォーク紳士録 【荒井由実】 『ユーミンはあわてん坊』 |publisher = [[マガジンハウス|平凡出版]] |pages = 150-151 }}</ref>。 |
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=== どこからどこまでがニューミュージックか? === |
=== どこからどこまでがニューミュージックか? === |
2021年11月23日 (火) 08:31時点における版
ニューミュージック(new music) は、1970年代から1980年代にかけて流行した、日本のポピュラー音楽のジャンルの一つ。作曲面ではフォークソングにロックなどの要素を加え、作詞面ではそれまでのフォークソングの特徴であった政治性や生活感を排した、新しい音楽であった[1]。ただし文献により、定義などにずれがある[2][3][4][5]。
定義
『広辞苑』では、1983年の第三版までは「ニューミュージック」の記載はなく、1991年の第四版から「ニューミュージック」という言葉が記載された[6]。ここには「わが国で、1970年代から盛んになった、シンガーソングライターによる新しいポピュラー音楽の総称。欧米のフォーク-ソングやロック・ポップスの影響下に成立」と書かれており[6]、その後の1998年第五版以降、2014年現在の最新版第六版(2008年発行)まで同じ記述がされている。
1970年代に唯一の"ニューミュージック評論家"と称していた富沢一誠は、単純に「ニューミュージックは日本のフォークとロックの総称」と論じている[7]。富沢は自身が「ニューミュージック」という言葉の名付け親と主張している[8]。
詳しく説明した物では「ニューミュージックという言葉が使われ始めた頃、この言葉にはふたつの意味があった。ひとつは荒井由実、ティン・パン・アレーなど新しいタイプのアーティストが出現したことで、それまでのフォーク、ロックという言葉ではくくりきれなくなったので、それらに対して"新しい音楽"ということで"ニューミュージック"という言葉が使われ始めたこと。そしてもうひとつは吉田拓郎、井上陽水のフォークから、新しく出現した荒井由実、ティン・パン・アレーまでの全部をひっくるめて便宜的に言う"ニューミュージック"。(中略)日本のフォークとロック(ロックの一部を除く)を総称して"ニューミュージック"と呼ぶ後者の意味での使い方をしたのはぼくが最初」などと述べている[9][10]。
「NHK紅白歌合戦」の出場歌手選定に携わった岡田康司は「ロック、ニューミュージックの系統は、フォークの延長線上にあるもの」と論じている[11]。
「ニューミュージック」という言葉をタイトルの使用した書籍では、1977年の『ニューミュージック白書 日本のフォーク&ロック20年のあゆみ』(エイプリル・ミュージック)の中で「ニューミュージック試論オリジナリティー創出の旅」という節があり、ここで吉田拓郎、井上陽水、南こうせつ、風、泉谷しげるの5組が紹介され、「彼らがライブ・ステージの比重を重くして、その試みの中から、2つの重要な落し子が生み出された。ひとつは、フォークにリズムを強調して行く上で作り出された、フォークにもロックにも、またポップスにも属し得ない微妙なサウンド。またもうひとつは、フォークにハードな音を重ねた結果、その対極点から突如現れた、従来の歌謡フォークとは趣を異にしたポップ・バラードとも言うべき美しいサウンドである。この2つの落し子こそ、今あえてニュー・ミュージックと呼ぶのに相応しいものである」と論じている[12]。
小川博司は「ニュー・ミュージック」を歌謡曲でも、プロテストソングでも、私生活フォークでもない日本製のポピュラー音楽のこと。歌謡曲のように企業ベースで作られる音楽でもなく、かといってプロテストソングのように反商業主義に立つ音楽でもなく、プロテストソングのように社会問題についてのメッセージを持つ音楽でもなく、私生活フォークのように過去をじめじめと追憶する音楽でもないような音楽を指す名称」と論じている[13]。
『音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)』(音楽出版社、2007年)には、「"洋楽的なアプローチでファッショナブルに時代に浸透" シンガーソングライターによる60~70年代フォークは、生活感を漂わせるものか、政治色の強いメッセージソングであった。70年代半ばに生まれたニューミュージックは、それらの対極にある新しい音楽ジャンル。例としては、かぐや姫の一員だった伊勢正三が結成した"風"が挙げられる。"風"の音楽はウエストコーストサウンドの影響下にあるもので、そんな洋楽志向アーティストたちのラヴソングがチャートを賑わすことになる。75年に『あの日にかえりたい』のヒットを放った荒井由実はその象徴的な存在で、洗練されたサウンドとディテールに凝った歌詞はファッショナブル。まさにニューミュージックと呼ぶにふさわしいものだった」と論じている[14]。
『新譜ジャーナル』(自由国民社)1979年11月号には「(1970年代後半)ニューミュージックとは、女性ミュージシャンがファッショナブルな衣装とステージで、ボサノバかレゲエのリズムで唄う都会ふうの歌というイメージが、ジャーナリズムではできてきた頃、若い女性たちの目は、さだまさし、アリス、松山千春といったアコースティック・ギターを中心にした男性に注がれていた」と紹介されている[15]。
「ニューミュージック」を論じた初期の文献に伊藤強の1976年「科学と思想」での評論があり[16]、伊藤は「いまの若者をとらえて離さないのは、いわゆるニュー・ミュージックと呼ばれるたぐいの音楽である。このニュー・ミュージックなる言葉はまことにあいまいであり、どの音楽タイプの音楽がそうで、どれがそうでないと区別がつきにくい。大まかに言うならフォークソングと呼ばれるもの(これにしても概念規定がきちんとしているわけではないが)と、ロック音楽を含めての総称ということになろうか。型式的にはそのようなタイプであり、歌のなり立ちという点で考えるなら、いわゆる既成の作詞、作曲家でない人間が作品を作り、それを自らうたうか、仲間にうたわせるかのどちらかのやり方で出来上がるものがいわゆるニュー・ミュージックには多いといういい方も出来る。このニュー・ミュージックなるもの、源流はやはりフォークである。高石友也、岡林信康らが作り、うたった「受験生ブルース」や「山谷ブルース」などが最初の作品であり、これらはそれまでの流行歌にない、ある種の新鮮さを持っていた。これらの歌は作った人たちの生活実態に根ざしており、それだけの説得力も持っていたわけである。これらの歌は多くのタイプの歌の中で、まだほんの一部の人たちに支持されるにとどまっていた。こうしたフォークはアメリカの反戦歌や、少し政治的色彩の薄いキングストン・トリオやPPMといったグループのコピーをすることによって成立したといっていい。いわゆる演歌は別にして、あらゆる分野の音楽が、外国の音楽のコピーから始まったのと同じように、フォークもまた例外ではなかった。こうしていくうちに、エレキ・ギターのブームが到来する。音楽好きの若者はたちまちそれに飛びついた。ギターを弾くということでは、フォーク志向の中で訓練済みであったし、自分たちで歌を作るというムーブメントは、第一期のフォーク・ブームのときに少しはあったし、第一、エレキ・ギターのブームはつまるところ楽器のブームであり、サウンドのブームだったから、コピーすべき"うた"が少ない。なにせ日本にそのブームをもたらしたのはベンチャーズであり、彼らは楽器演奏のグループだったのである。グループ・サウンズ(GS)というものがこうして発生する。このGSのブームは比較的短期間に終わる。それは、彼らの作り出した歌がその発想の貧しさから、いわば全く個人的な日記に似たものになってしまい、従って多数の人たちの共鳴を得られるものにならなかったためである。生活感のない歌は、結局のところ誰をも感動させ得ないし、共鳴させることも出来ないものなのである。こういった音量で勝負するようなGSブームをよそに、いわゆるフォークが根強く若者たちをとらえていた。GSブームがスターとファンという図式で広まり、ついに最後までそのパターンを抜けきれなかったのに比べ、京都、あるいは広島あたりのフォークは、作品を作り、うたう人間と、それを聞く人間との間に、ある種の同志的連帯感が存在していた。音楽的にも、エレキ・ギターのように、電気的に増幅された音ではなく、アコースティック・サウンドで、いわばマン・ツー・マンの語りかけというパターンをとった。歌を聞く方は、そのような一対一(に似ている)の関係の中で、当然のことながら参加の意識を持つ。これらの歌は自分のものだという確信を持つ。言ってみれば組織や電気的な媒体を通して、大量に伝達されていく音楽へのアンチ・テーゼとして、これらの音楽は生まれ、若者の間に定着していったのである」などと論じ、レコード会社の製作外から生まれた「帰って来たヨッパライ」の大ヒットを見た各レコード会社はこれを見逃さず、吉田拓郎など売れそうなフォークを取り込んで売り出し、シェアを拡大させた、これがニュー・ミュージックと説明している[16]。
日本のポピュラー音楽史に於いては1975年の「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」が、フォークからニューミュージック、J-POP時代の分岐点とする論調もある[17]。
この他、"ニューミュージック"とは「フォークソングはロックやポップミュージックなど様々なジャンルと結びつき、1970年代半ばになると、もはやフォークソングという呼び方ではおさまりきれなくなり、こうした音楽を総称してニューミュージックと呼ぶようになった」[18]、「従来の歌謡曲になかった非歌謡曲的な要素の全てに対してつけられたもの」[19]、「フォークにリズム・パターンとしてロックを導入し、歌詞に演歌風のものを取り入れて歌わせることによってヒットソングを作ってゆく。曰く吉田拓郎の『旅の宿』、森進一の『襟裳岬』などがその例である。そしてこれらの作品に対しての批判をおそれてニューフォークソングに代わる新しい日本語ネーミング、すなわち『ニューミュージック』という不思議な言葉が生まれた」[20]などの論調がある。
範囲
どこからが始まりか?
言葉の発祥がいつからかはっきりしないため[1]、本来どの曲を最初にするのかは不明なのだが、実際は文献にどこからかは色々書かれている。その始まりは1972年の吉田拓郎『結婚しようよ』を、始まりとすることが多い[21][22][23][24]。1980年立風書房発行『ニューミュージック′80 すばらしき仲間たち』では「ニューミュージックの原点を支えるアーティスト12」という節で冒頭に吉田拓郎を紹介している[25]。1980年学習研究社発行『NEW MUSIC'81 ニューミュージック事典』では「今日のニューミュージックに関するすべての状況は『結婚しようよ』のヒットから始まった」[26]。1993年シンコーミュージック発行『日本のフォーク&ロック・ヒストリーー② ニューミュージックの時代』では「1972年1月の吉田拓郎『結婚しようよ』のヒット」からニューミュージック年表が始まっている[27]。相倉久人は「ニューミュージックというのがプログラムに上がり始めたのが『結婚しようよ』あたりからでした」と述べている[28]。2007年青弓社発行『テレビだョ!全員集合』では「"ニューミュージック"という呼称がどこからきたものかは諸説あって判然としないが、その前提にフォークソングの浸透があったことは確かである。1972年の吉田拓郎の『結婚しようよ』のヒットは、フォークを世間に認知させるきっかけになると同時に、メッセージ性を柱とするフォークを支持するそれまでの立場からは批判の的になった。だがさらに翌年のかぐや姫『神田川』のヒットによって、その流れはいっそうはっきりしたものになる。そして同時期に活躍を始める井上陽水や荒井由実とともにこれらのミュージシャンの音楽が"ニューミュージック"と呼ばれるようになっていくのである」と論じている[2]。『日経エンタテインメント!』は、2000年2月号の特集「J-POPの歴史をつくった100人」の中で、"ニューミュージック"どころか、"J-POP"の起源を吉田拓郎と井上陽水に決めて"J-POP"の歴史を論じている[29]。
矢沢保は「音楽の世界」1977年6月号の「歌はどこへいくのか?ニューミュージックをめぐって」という評論で「ニューミュージックというのは70年代になって発生してきたものであり、特に70年代前半の大きな大衆音楽の特徴だった。それは72年に吉田拓郎の連続ヒットによって幕が切って落されたとみてよいだろう。『結婚しようよ』『旅の宿』がそれに当たる。広島フォーク村出身の拓郎は、高石・岡林なきあとの空白期に若さとエネルギッシュな歌で若者の人気を集めた後、CBSソニーというメージャー・レコードに引き抜かれて、完全にポップス化した『結婚しようよ』、歌謡フォークのはしりともいうべき四畳半的日本趣味の『旅の宿』と大きく変身して、広範な層にアピールし、その人気を不動のものにした。それが拓郎の亜流をゴマンと生み、井上陽水、小椋佳と続いていく。『襟裳岬』のヒットした75年はついに日本の歌謡界は膨大なフォーク勢に席巻され顔色なしであった。『襟裳岬』ほど、いろんな意味で象徴的だった歌はないが、これを作ったのは『旅の宿』の岡本おさみ・吉田拓郎のコンビだった。『襟裳岬』以降、歌謡曲は大きく変貌を遂げ、内容もスタイルもニューミュージックの手法を取り入れるようになった」などと論じている[30]。
『週刊平凡』編集部は、1978年5月4日号の「ニューミュージック徹底研究 2つのクロスオーバーがはじまった! 歌謡曲との違いは、どこにあるのか...」という記事で「ニューミュージックの発端は、吉田拓郎にはじまる。彼は広島から彗星のごとくに登場、『結婚しようよ』の大ヒットを飛ばし、レコード業界にセンセーションを巻き起こした。吉田拓郎が敷いたレールの上を、井上陽水、南こうせつ、小椋佳、松任谷由実、さだまさし、アリスといった現在のニューミュージックを支える人たちが走りはじめたといえるだろう。過去、歌謡界の人たちはニューミュージックの人たちをマイナー、自分たちをメイジャー、ニューミュージックの人たちは自分たちをアーチスト、歌謡界の歌手たちをタレントと、お互いの優越感に裏付けされた呼び名で呼んで、一線を画してきた。若い世代の支持を受けてはっきりと音楽の世界に定着しはじめたニューミュージックが転機を迎えたのは、昭和49年、『襟裳岬』のレコード大賞受賞であった。吉田拓郎の作曲によるこの歌をヒットさせたのは演歌歌手・森進一であった。つづいて、翌年、小椋佳作詞作曲、布施明が歌った『シクラメンのかほり』がレコード大賞を受賞。これらの出来事は、既成の歌謡界がニューミュージックの持つ新鮮なさまざまな要素を自分の中に取り入れざるをえなかったことを示している。ニューミュージックは、ここではじめてマイナーからメイジャーへ、たんなる音楽から芸能へと参加することになる。このとき既成の歌謡界は、阿久悠などの一部の作家を除いては若い世代の感覚をその詞の世界でも表現しきれなくなっていた。また、ニューミュージックの世界でも、自分たちが芸能界に作り上げた砦であるレコード・レーベル(フォーライフなど)やプロダクションを維持するための金が必要になってきたのである。彼らは互いに自分たちの必要から、次第に妥協しはじめる。そしてニューミュージックのアーチストたちが持っていた旧来の芸能界に見られなかったさまざまな側面も変化してゆく。テレビにも出演するようになる。それなりの衣装を着て歌う者も現れる。マスコミの取材にも快く応じる。その代わりに、彼らの作った歌は、本来の自分でうたうという姿勢から離れ、歌謡界の歌手たちによって争ってうたわれる状況になってくる。この二つの世界は、いまや完全にクロスオーバーしているといっても過言ではない。今年に入って登場した原田真二は、シンガー・ソングライターでありながらアイドル歌手でもある、といった完全なニューミュージックと歌謡界の混血児(原文まま)の形をとっている」などと論じている[31]。
同じ『週刊平凡』編集部は、二年後の1980年1月3日/1月10日合併号「'80年代ニューミュージックの歌手で生き残るのはこの人! 松山千春や原田真二は? 中島みゆきは?」という記事で「7年ほど前、吉田拓郎などによって巻き起こされたニューミュージックの旋風は、'79年も音楽界にさまざまな話題を投げかけた。いまや彼らは、歌謡界の動向を支配するほどまでになったといっていい。'78年~'79年にかけて、ニューミュージック系の歌が、レコード売り上げベスト10の1位から10位まで独占するという週もめずらしくなかった。なぜ、ニューミュージックが若者たちの間に、これほどまで大きな支持を得るようになったかを振り返ってみると、まず彼らが出現するまでは歌手というと、きらびやかな舞台衣装、あるいは男ならタキシード、女ならロングドレスなどでステージに上がるものと決まっていた。それをニューミュージックの人たちは、街の若者のスタイルそのままのジーパン姿で若者の心を歌うという型破りのステージを作った。またテレビに出演することを第一の目標としている芸能人が多いなかで、そのテレビ出演を拒否したことも、若者たちから支持された最初の契機だった。世におもねないその姿勢が"かっこよかった"のである。もちろん、その姿勢ばかりでなく、彼らがうたう詞も曲も、いままでの日本音楽にない新しさがあり、洋楽のセンスを取り入れたサウンド作りが、現代の若者にぴったりだということもあった」などと論じている[32]。
松任谷由実は著書『ルージュの伝言』(1984年、角川書店)の中で「ニューミュージックって言葉は嫌いなんだけど、まあこういう音楽は私がはじめたわけでしょう。私、ゼロからはじめたんだもの。だから過去のものとは較べようがない」などと述べている[33]。また、この後続く松任谷の話は「"四畳半フォーク"、"有閑階級サウンド"、"中産階級サウンド"も私の命名。それを富澤一誠とかが使い出して、そのうち浸透した。坂本龍一にそういったらテクノポップって言葉はぼくがつくったんだと言ってた。インパクトのある言葉なら、すぐに浸透する。吉田拓郎は名前しか知らなかった、だんだん騒がれ出して(自身が) "女拓郎" とかいわれるようになったから聴いたが、私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにないまったく新しいもの」などと述べている[33]。
松任谷は『月刊平凡』1976年5月号のインタビューで「音楽は趣味でやってます。ブルジョアだから悪いってことない。私の音楽はイージーリスニング。BGMみたいなもの。朝起きたとき、夜寝る前に、ふっとかけてみたくなるような音楽がつくれたら」と話している[34]。
どこからどこまでがニューミュージックか?
1978年の国民的番組『NHK紅白歌合戦』では「ニューミュージック・コーナー」というあたかも隔離された一つのコーナーがあり、庄野真代・ツイスト・サーカス・さとう宗幸・渡辺真知子・原田真二の6組が続けて歌唱した後、ステージの上で一列に整列し、審査員の講評を受けるという前例のない非常に混沌としたステージをやった[1][35]。この中で、庄野真代はシンガーソングライターではあるが、歌唱曲『飛んでイスタンブール』は、職業作家による提供曲であり、サーカスはソングライティングをしないコーラス・グループであるため、当時のニューミュージックの解釈は、かなり広く、歌謡曲ぽくない楽曲全てと見られていたといえるかもしれない[36]。1977年刊行の『ニューミュージック白書 日本のフォーク&ロック20年のあゆみ』の中に「最近ではロックのミュージシャンを含めてニューミュージックという呼び名さえ使われるようになってきた」[37]、「GSからシティ・ミュージックまで、ニューミュージック界はこの10年余の間に、多くのディスクを生み出してきた」という言及が見られる[38]。
「ニューミュージック〇〇」とタイトルの付く書籍では『NEW MUSIC'81 ニューミュージック事典』(学習研究社、1980年)の86-127頁に「ニュー・ミュージック・アーティスト名鑑」が載っており、この中にはこれまで名前の出たフォーク系、ロック系のシンガーソングライター、女性シンガーソングライター以外にも、あのねのね、YMO、石黒ケイ、上田正樹、内田裕也、太田裕美、大橋純子、岡林信康、上条恒彦、加藤登紀子、加山雄三、北山修、キャロル、クールス、サーカス、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、チェリッシュ、近田春夫、ティン・パン・アレー、トワ・エ・モア、なぎらけんいち、豊島たづみ、ハイ・ファイ・セット、BOWWOW、萩原健一、はっぴいえんど、はちみつぱい、パンタ、ばんばひろふみ、ヒカシュー、 フォーク・クルセダーズ、ファニー・カンパニー、フラワー・トラベリン・バンド、細野晴臣、マイク真木、町田義人、松原みき、紫、柳ジョージ&レイニーウッド、山内テツ、憂歌団らも記載されている。
『ホットドッグ・プレス』(講談社)1980年2月号の「決定!79ニュー・ミュージック・ベスト・シングル100」という企画[4]では、以下のような言及がある。「ニュー・ミュージックという言葉が、マスコミにおいて定着し始めたのは1970年代中期のことである。その時点においての定義は、歌謡曲に対して"ニュー"な音楽ということだった。もっとも1977年末の集計でニュー・ミュージックと歌謡曲の売り上げ比がほぼ半々になるまでは、ニュー・ミュージックの定義は、さほど問題にはされなかった。しかし10万枚を越すニュー・ミュージックのヒット・レコードが次から次に登場し、歌謡曲の内部で演歌の人気が下降し始めた1977年の時点で、ニュー・ミュージックの定義見直しの声は起こっていたのである。明らかに歌謡曲らしい演歌がヒット・チャートから消失しはじめた時、歌謡曲っぽいニュー・ミュージック、ニュー・ミュージックっぽい歌謡曲があふれ始めた。森進一が歌いレコード大賞曲となった『襟裳岬』は吉田拓郎の曲だった。これを機に、歌謡曲側が、曲作りをニュー・ミュージックに依頼するパターンも定着した。このこともニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因のひとつだろう。筒美京平のように従来は歌謡曲側の作者が、桑名正博のようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなった。『ホットドッグ・プレス』は、この「ニュー・ミュージック・ベスト・シングル」を選定するにあたり、次の様に、このあいまいなニュー・ミュージックを再規定することにした。①作詞・作曲が歌唱している本人の場合。②シングルにおいて作詞・作曲が本人でなくとも、アルバムの中で本人の作詞・作曲の多いもの。③あくまで歌手(バンド)を本業とするもの。そして、この3点においても区別しかねるものは、発売レコード会社の制作及び宣伝セクションが、ニュー・ミュージック・セクションであるかどうか、あるいは、プロデューサーがニュー・ミュージックの制作者であるかどうかを基準、とした。本来なら、このチャートのベスト3に入るはずだった水谷豊の『カリフォルニア・コネクション』は、③の理由で除外した。また、桑江知子も問題になったが、レコード会社の宣伝・制作態勢が、ニュー・ミュージック・セクションによって行なわれ、本人も近々、アルバムに自作曲を入れたいとのことなので、今回はニュー・ミュージックとして取り扱った」[4]。
2008年5月10日に『SmaSTATION!!』で「80年代の邦楽・ニューミュージックベスト 20」なる特集があり[5]、この日の特集では、BOØWYやTHE BLUE HEARTS、プリンセス プリンセス、DREAMS COME TRUEなどもニューミュージックとして紹介した[5]。この日紹介された楽曲なら、2010年代の今日では、特集のタイトルは「80年代の邦楽・J-POPベスト 20」になると見られる。
歴史
この言葉の由来は明確ではないが、ミュージカル・ステーションの当時の社長・金子洋明による命名であるとか[3]、あるレコード会社が使用を始めたとする説、猫のアルバムの帯に記載されたとする説、音楽評論家・富澤一誠が使用を始めたとする説[8][39][36]、ユーミンが使い始めたという説[39]などがある。
「ニューミュージック」という言葉がどういう経緯で出来たかといえば、1968年頃からグループ・サウンズよりも、本格的なブルース・ロックを志向するバンドに対して、日本の音楽誌が「ニュー・ロック」と名付けたり[40]、1969年に『ニューミュージック・マガジン』が創刊されたり、1970年頃から、反体制色の薄い長谷川きよしや吉田拓郎らを「ニュー・フォーク」と音楽誌が呼んだり[41][42]、映画界でも1970年前後に「ニューシネマ」が日本でも流行したこともあって、当時「ニュー〇〇」という言い方が流行っていたということがあるかもしれない。「ニューミュージックは吉田拓郎を突破口にした、このニュー・フォークの流れをくむもの」[43]、「ニューミュージックという言葉は、もともとはニュー・フォークからきている」[44]と書かれた文献もある。菊池清麿は「ニューミュージックは、ニュー・フォークから始まった。それは吉田拓郎が、アングラに対してメジャー系に浮上したことをきっかけにしていた」「J-POPの発祥を遡及すれば、ビートルズの影響を受けた日本のフォークがポップス化し、これに8ビートのロック・リズムが融合されたことにたどり着く。1970年代のロック、フォークから連綿と流れるポップスの総称として成立した。ニューミュージックの中でも日本を感じさせない楽曲がJ-POPに発展したという見方もできる」などと論じている[45]。
昭和40年代前半のポップス・歌謡曲(1960年代・日本のフォークロック)
Forever (雑誌)などに寄稿する洞下也寸志が編集人を兼任する同人誌GS&POPS No.7(1984年)に自身の書き下ろし記事「フォーク・ロック入門」にて、グループ・サウンズの範囲からボブ・ディラン(1965年)以降の日本のフォークロック起源について自身の考察から簡単な説明と将来の判断を仰ぐ議論提起の一節を添えている。
荒井由実は1972年シングル「返事はいらない」を発表しレコードデビュー、その後の松任谷由実の自著書『ルージュの伝言』(1984年)中の発言について、松任谷由実は作詞家としては大きな功績を持つが、「ニューミュージック」の起源とされる推定期間が長く(2016年時点からの考察と視点)、作曲やアレンジ(編曲)について省略されたこの記述内容には注意を要し(結婚前ミュージシャン松任谷正隆の実績など)、疑念を抱かざるを得ない。松任谷以前の国内ポップス楽曲の傾向については、デビューしたレーベルアルファレコード(以下「アルファ」と略)の社歴と動向から一部の流れを読み解くことが出来る。(アルファレコードの初期時代の参考サンプル・編集盤に「ソフトロックドライヴィン・栄光の朝アルファ編』アルファミュージック ALCA5089(1996年発売)[46]などがある。)。
1969年11月村井邦彦が日本コロムビアとの契約から発足、村井は先行して1967年作曲家業を開始、作詞家山上路夫、安井かずみなどと共作し、様々なバンドやミュージシャンのプロデュースとアレンジャーを務めている。アルファ初期には赤い鳥、ガロなどが在籍、他社東芝音工に村井と山上が楽曲提供したトワ・エ・モワなど カレッジフォーク系[47]とも呼ぶミュージシャンたちと制作作業を行った。
カレッジフォーク系とされるミュージシャンにはほかにPPMフォロワーズ(小室等が結成、再編で蠢動期間のヴィレッジ・シンガーズから山岩爽子が移籍している。)、森山良子、トワ・エ・モワ、五つの赤い風船、マイク眞木、ザ・リガニーズ、バンド時代のチェリッシュ、モダン・フォーク・フェローズ(景山民夫が一時在籍)などがいた。
グループ・サウンズではアメリカ系フォークロックを反映したザ・ダウンビーツ、郷田哲也とサン・フラワーズなどがいた。1960年代に日本のフォークロックという視点から、残されている録音発表された作品について触れるとザ・サベージ、ヴィレッジ・シンガーズなどがその特徴を揃え、ジャズインストロメンタルから転じジャズ/ボサノヴァ・ギター奏者伊勢昌之作曲の楽曲・風船のミッキー・カーチスとザ・サムライズ、それにカヴァーのおもなものでは、ピーター・ポール&マリーの500マイルをカヴァーしたザ・スパイダース、 同じくベリー・ラスト・デイはカレッジフォークのトワ・エ・モワ、ママス&パパスの夢のカリフォルニアをモダン・フォーク・フェローズが取上げている。英米のロックとポップスが次々と進化発展を遂げて、日本のミュージシャンたち、楽曲作者や制作側を刺激し、活動範囲や出演場所からフォークやロックグループ(グループサウンズ)と分けられることがあったがこのアメリカのバーズ、ラビンスプーンフルなどを経てカヴァー・コピーから吸収し日本の古典邦楽・雅楽をとりれた寺内タケシとバニーズアウト・キャストなどの様々バンドやフォークグループが独自・オリジナルのフォークロックを試し、マイク眞木の1966年、バラが咲いたは作詞・作曲を浜口庫之助が務め、村井にいずみたくなどが新しい日本のポップス(歌謡曲)・ロック音楽を模索していた。
誰が言い始めたか?
ミュージカル・ステーションの創業者・金子洋明は、1991年のインタビューで「中野サンプラザがスタートする時(1973年6月1日)、1週間のオープン記念のイベントを頼まれて、森山良子とまだ荒井由実だったユーミンを出演させて『ニューミュージック・シーン』っていうのをやったんだけど、それからマスコミが『ニューミュージック』って言葉を使うようになりましたね」と述べている[48]。金子は1994年に『プロデューサー感覚』という著書を出しているが、この本文の中にはニューミュージックに関する言及がない。巻末の著者略歴に「現在のニューミュージックというカテゴリーの基盤をつくる」と紹介されている[49]。この文面からは1994年にはまだ「ニューミュージック」という言葉が使われ、「J-POP」という言葉はまだ一般的ではなかったものと考えられる。
2013年4月から5月にかけて『デイリースポーツ』で「ニューミュージックを創った男 〜伝説のプロデューサー三浦光紀氏が語る裏話〜」と題する連載があった。この第1回で「1970年代初頭、日本の音楽界で『ニューミュージック』という言葉が使われ始めた。音楽プロデューサー・三浦光紀は『ニューミュージック』を日本で初めて使った人物といわれ、現在のJ-POPの源流を作った」と紹介し、三浦自身、ニューミュージックの説明を「後にJ-POPと呼ばれる日本特有のジャンル名で、1970年代の日本のシンガーソングライターたちが、自作の『うた』を英米のロックを取り入れる手法で、表現した新しいポップスの呼称でした」と説明している[39]。 三浦光紀は1972年春にメジャーレーベル・キングレコードの中に、フォーク系のレーベル「ベルウッド」を立ち上げた人物であるが、デイリースポーツが三浦光紀を「ニューミュージック」を日本で初めて使った人物とする根拠について、音楽評論家の山田順一は「ベルウッド発足時に配布された『ベルウッドレコード発売記念 特別ダイジェスト』というプロモーションレコードに、三浦は『ニューミュージックの宝庫 Bellwoodの出発(たびたち)』と題した文章を寄せている。日本でニューミュージックという言葉が初めて出たのはここである」と述べています。さらにキングレコードの上司だった長田暁二(音楽文化研究家)も、雑誌「kamzine」の中でこう書いています。「ある日、ポップス担当の某ディレクターが町尻量光社長に直訴、『フォークやロックはオレの守備範囲、教養課で制作するのは越権行為だから止めてほしい』とクレームをつけた。このとき三浦は『いや我々がやっているのはニューミュージックだよ』といって、社長室に呼ばれた関係者全員を煙にまいた。これが日本で"ニューミュージック"という言葉が使われた最初である」などと書いている[39]。この連載の第2回で三浦は、1971年大瀧詠一のソロアルバムの準備に入っていたころ、キングレコードのマーケティング担当者から「君の制作している作品のレコード店仕切り板を作りたいから、ジャンル名を決めてくれ」と言われ、僕が集めようとしていたアーティストの音楽は、それまでの日本のフォーク、ロックとは明らかに違っていたので、適当な言葉が浮かばず苦労して、たまたま愛読書だった『ニューミュージック・マガジン』が会社の机の上に置いてあったので、軽い気持ちで"ニューミュージック"とマーケティング担当の方に言ってしまいました。『ニューミュージック・マガジン』から勝手に借用したこともあって、公には使わず"新しい歌"とか"ニューポップミュージック"とあいまいな言い方をしていました。そうした中、1973年ごろ、CBSソニーでフォークを担当していた早大グリークラブで一年後輩だった前田仁から連絡があり、『ニューミュージック』をキングで商標登録してないんだったら、CBSソニーで使用させてくれという話だったので、快諾し、一緒に『ニューミュージック』を盛り上げようということになりました。彼は吉田拓郎、山本コウタロー、バンバンなどを次々とヒットさせ、CBSソニーの強力な影響力もあり、わたしが対抗文化的な意味合いで使った『ニューミュージック』が1970年代の音楽シーンの中核になってしまいました。もちろん、ユーミンの存在も大きかったと思います。『ニューミュージック・マガジン』はその後『ミュージック・マガジン』にタイトルを変えたこともあって、創刊者である中村とうようさんには謝罪しました。彼は「三浦くんがやったんだから仕方ないよ」と笑いながら許してくれました」などと述べている[50]。三浦が1972年春ベルウッドを設立した時、「ニューミュージック」という言葉も生まれたとする見方も多い[51][52]。
三浦の話に出てきた前田仁は、CBSソニーのプロデューサーで、2010年1月に亡くなったが[53]、それまで『jinz bar - 前田仁の「歌たちよ、どうもありがとう」』というブログを配信していた。現在はもう見ることはできないが、この第1回に「僕の机がなくなって?『ニューミュージック』という音楽カテゴリーが生まれた」というタイトルで「ニューミュージック」に関する言及がありそれは以下のような内容であった。1973年に会社のN部長から「アメリカで面白いムーブメントが起こっているんだ..音楽シーンでね。ビルボードの記事にあったんだけど、それを『ニューミュージック』と呼んでいるらしいんだ。お前がやろうとしている音楽、アーティストを日本じゃフォークってカテゴリィーでくくっているだろう?ちょっとチガウと思うんだよ。カレッジ・フォーク?キャンパス・ポップ?、どれもチガウと思うんだ。だから、今後お前が作る音楽、アーティストを『ニューミュージック』って呼ぼうと考えているんだ。」と言われ、その日を境に、自分の机を部長の側に移し、N部長直轄の新しい試み、プロジェクトを始めた、全社的にコンセンサスを取り付け、営業のセールスの人達がお店に届ける注文書にも『ニューミュージック』というカテゴリーを設け、レコード店の方々にも意図を説明し、ご理解をいただくことになったのです」「セールスマンの皆さんとの会議で、N部長がフォークもロックも違うジャンルの音楽なのに、日本ではフォークと言うカテゴリーに押し込めているんだ、おかしいだろ? だから、これからの日本の新しい音楽のウェーブを、前田の作る音楽、アーティストを『ニューミュージック』と呼ぶんだよと言った。まさしく『ニューミュージック』と言う、新しい音楽ジャンル、カテゴリーの誕生の瞬間でした」などと書いていた。このN部長のいうビルボードの記事『ニューミュージック』というのが本当なのかは分からないが[54]、この前田の言及では「ニューミュージック」という言葉を最初に使ったのは、CBSソニーの当時の前田の上司・N部長ということになる。前田はさらに「1972年5月21日発売の『The Best Of "Folk-Jack"』と言うオムニバス・レコードが手元にあるのですが、この時の発売企画書には、「我がCBS・SONYは今や新しい音楽の宝庫的存在になって居ります..」と僕の字で書き残されている。しかし、1973年6月27日付けで書かれた友部正人君の移籍に際しての発売企画書には、「今度当社より発売が決定した事は、当社のNEW MUSICに非常に大きな財産が増えた事になります。」とも記述があり、ちょうどこの頃からCBSソニーの、否、その後延々と多くの音楽ファンを虜にしてきた『ニュー・ミュージック』と呼ばれるカテゴリーが産声を上げたのでした」などと書いていた。つまり、先の三浦光紀の話とは完全に食い違っている。
デイリースポーツの三浦の連載や前田のブログの説明で出された文献なりが、発売企画書や販促品などで、市販された書籍などでないため、1972年に「ニュー・ミュージック」と書かれた現物を確認することが出来ない。現在でも確認できる市販された書籍では、ブロンズ社という出版社が1973年1月に『ニッポン若者紳士録』という本を出しているが、この189頁の広告に『爆発するロック』という本の紹介があり、ここに「ブロンズ社のニューミュージック選書」と書かれている。つまりこの頃、ブロンズ社が同社のロック関係の書籍を既に"ニューミュージック"というカテゴリーに入れていたということになり興味深い。この本が1973年1月の発売なので「ニュー・ミュージック」という言葉は遅くとも1972年末までには使われ始めていたということになるが、市販された書籍文献で1972年に「ニュー・ミュージック」と書かれた物を探すのは難しい。
猫のアルバムの帯に「ニューミュージック」「NEW MUSIC」と記載されたのがニュー・ミュージックの語源という説があるが、いつ発売された猫のレコードの帯なのかが重要になる。1972年なのか、1973年以降なのか、1972年であれば、或いは確認出来る文献等では最初になるかもしれない。1973年以降なら前述したようにブロンズ社の書籍の方が早く猫が一番にはならない。それはおそらくCBSソニーにニュー・ミュージックのセクションが出来たという1973年以降の猫のアルバムについてと推測する。
荒井由実のファーストアルバム『ひこうき雲』が1973年11月に発売される際にアルファミュージック社長・村井邦彦が[55]、当時の新人売り出しの慣例だったキャッチフレーズを付けるため、アルファ社内10数人で知恵を絞り、富澤一誠にも相談し、決定したキャッチフレーズが「魔女か!スーパーレディーか!新感覚派・荒井由実 登場」であった[56]。"新感覚派"だけでは訴求力は弱かったといわれるが、『ひこうき雲』のレコーディングは1973年初秋であるため[56]、1973年秋の時点では「ニューミュージック」という表現は、まだ音楽業界に浸透していなかったものと考えられる[56]。村井は、担当者から『ひこうき雲』は、フォークか、ロックか、アイドルか、どんなジャンルなのか聞かれ、これが決まらないと、レコード店の売り場コーナーの見通しがつかないと言われた、荒井由実の音楽を簡単に説明をすることは出来ず、いずれにも置きたくなく即答しなかったと述べている[56]。それではどこに置いたのかは『アルファの伝説 音楽家 村井邦彦の時代』には書かれていない。
庄野真代は「昔の事なので、鮮明には覚えてませんけど」とした上で、1976年6月に自身のデビューアルバム「あとりえ」が発売されて、レコード屋さんに行ったら、当時はジャンル分けでいくと、フォーク・ロックというところにそれが入れられていて、そのうちに1年ぐらい経ってから「ニュー・ミュージック」という言葉が出てきて、それからは「ニュー・ミュージック」のところに入れられるようになった、と話している[57]。
全盛期
「ニューミュージック」という言葉が一気に広まったのは1975年、小室等・吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげるの4人のアーティストが集まってフォーライフ・レコードを設立してからである[36]。若者を主導とした音楽市場の拡大を実感させる事件であり、業界全体売上が184億円だったこの年のフォーライフ・レコードの売上高は31億円に達した[58]。フォーライフは1970年前後に出来たエレックレコード、URCレコード、ベルウッド・レコードといったフォークレーベルが持っていた既存勢力の対抗文化というフォーク精神を維持しながら、商品性も持ち合わせており[59]、フォークがアンダーグラウンドでも対抗文化でもなく、ニューミュージックと呼ばれる商品としての音楽へ変容する際にフォーライフは、その牽引的な役割を果たしたといわれる[59]。
また、ニューミュージックが影響力を増した要因として1970年代半ばからの企業のイメ・ソン(CMソング)にニューミュージック系歌手の楽曲が盛んに採用されたことが挙げられる[60][61][62]。その後もニューミュージックは巨大化の一途を辿り、1978年には全レコード市場の半数を超えるまでになった[36]。
ニューミュージックが台頭した1970年代の日本の音楽産業の特色として挙げられるのが、既成の歌謡曲生産の体制(外)から、多くのヒット曲が生まれるようになったこと、レコード会社専属の作詞家・作曲家・歌手の分業体制から、シンガーソングライターへの移行、レコード売上げの主力がEP(シングル)からLP(アルバム)へと移行したこと、ニューミュージック系歌手の多くがテレビ出演を拒否したことなどがある[63][64]。
J-POPとの関係
"ニューミュージックがJ-POPに発展した"という論調が多いが[39][45][17][65][66]、1980年前後に「ニューミュージック」の主流が、ポップ・ロック方向にシフトしたことで「ニューミュージック」という言葉が段々使われなくなったという見方がある[67]。1990年代に「J-POP」という言葉に飛びついたのが輸入レコード店やCDショップだった[29]。それまでのレコードショップ、CDショップには「ニューミュージック」という分類があり[1]、「歌謡曲」「フォーク/ニューミュージック」などと分類していたが、1980年代のロック系アーティストの台頭、さらにバンドブームと、どうもニューミュージックの棚には似合わないアーティストが増えてきた。そこにうまくはまったのが「J-POP」だった。ロックもフォークもポップスも全部まとめて「J-POP」。歌謡曲だって、演歌を切り離して「J-POP」。とにかく売れるものは全部「J-POP」。これで店員さんも頭を悩ませることがなくなった[29]。タワーレコードは「1990年の大阪心斎橋店オープンに際し、本格的に邦楽の取り扱いを開始しましたが、その際、邦楽をなんと呼ぶかと議論し、J-POPという言葉を使い始めました。当時は日本レコード協会に属するレコードメーカーから発売される商品を対象にJ-POPと呼び、それ以外をJ-Indiesと表記していました」と話している[66][68]。「ニューミュージック」が「J-POP」に取って変わられたのは1993年~1995年頃[1][29][69]。ニューミュージックやフォーク、ロック等々の細かいジャンルはすべてJ-POPとして吸収され、それ以降の日本の大衆音楽は、大まかにJ-POPと演歌に分けられるようになった[69]。
現状
網羅的なニューミュージックのアーティストガイド・ディスクガイドは、2014年現在出版されていないが、タイトルに「ニューミュージック」を付けた書籍は現在までコンスタントに刊行されている[70][71][72]。特に1970年代の後半から1990年代にかけてはタイトルに「ニューミュージック」を付けた書が多数刊行されていた。『ニューミュージック白書 日本のフォーク&ロック20年のあゆみ』(エイプリル・ミュージック、1977年)、富澤一誠『ニューミュージックの衝撃』(共同通信社、1979年)、『すばらしき仲間たち ニューミュージック′80』(立風書房、1980年)、『NEW MUSIC'81 ニューミュージック事典』(学習研究社、1980年)、富沢一誠『ぼくらの祭りは終わったのかーニューミュージックの栄光と崩壊ー』(飛鳥新社、1984年)、竹田青嗣『ニューミュージックの美神たち』(飛鳥新社、1989年)、『日本のフォーク&ロック・ヒストリーー② ニューミュージックの時代』(シンコーミュージック、1993年)など[73]。
また、以前ほどは「ニューミュージック」という言葉も使われることは減っているが、2018年現在も使われることはある[8][74][75][76][77]。
脚注
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- ^ フォーク&ニューミュージック大全集300 楽譜(曲集) |シンコーミュージック・エンタテイメント
- ^ ニューミュージックに見る恋愛風景
- ^ 校歌:ポップに!増殖中 ニューミュージック歌手に依頼も - 毎日新聞 - 毎日jp(Internet Archive)
- ^ テン年代の“ニューミュージック”を奏でる稀代の女性シンガーソングライター!南壽あさ子のインストアライブを生配信決定!
- ^ 内田裕也 | OGな人びとVol.15 - OCN TODAY - OCNジャーナル-p2
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