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* [[スミュルナのコイントス|クイントゥス]]『ギリシア戦記』[[松田治]]訳、[[講談社学術文庫]](2000年) |
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* 『ディクテュスとダーレスのトロイア戦争物語 トロイア叢書1』[[岡三郎]]訳、[[国文社]](2001年) |
* 『ディクテュスとダーレスのトロイア戦争物語 トロイア叢書1』[[岡三郎]]訳、[[国文社]](2001年) |
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* [[パウサニアス]]『ギリシア記』飯尾都人訳、龍溪書舎(1991年) |
* [[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]]『ギリシア記』飯尾都人訳、龍溪書舎(1991年) |
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* [[ヒュギーヌス]]『ギリシャ神話集』松田治・青山照男訳、講談社学術文庫(2005年) |
* [[ヒュギーヌス]]『ギリシャ神話集』松田治・青山照男訳、講談社学術文庫(2005年) |
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* [[ホメロス]]『[[イリアス]](上・下)』[[松平千秋]]訳、岩波文庫(1992年) |
* [[ホメロス]]『[[イリアス]](上・下)』[[松平千秋]]訳、岩波文庫(1992年) |
2021年11月15日 (月) 11:14時点における版
メーリオネース(古希: Μηριόνης, Mērionēs)は、ギリシア神話の人物である。長母音を表さずにメリオネスとも表記される。クレータ島の王族モロスと[1][2]メルピスの子[1]。ヘレネー求婚者の1人であり[3]、トロイア戦争で戦ったギリシア軍の武将の1人、木馬作戦に参加した武将の1人[4]。ホメーロスの叙事詩『イーリアス』ではしばしば「武人殺しのエニューアリオスにも劣らぬメーリオネース」と呼ばれ[5][6]、クレータ王イードメネウスの従者でありながら、士気の高さと指揮官としての能力によりアガメムノーンから高く評価されていた[7][8]。プリュギアのダレスは赤褐色の髪で中背、たくましく敏捷な戦士であったと述べている[9]。
神話
出身
一般的にメーリオネースはクレータ島を支配したミーノースの一族に属するとされる。父親の名前はホメーロス以来モロスとされ[10]、アポロドーロスはこの人物についてミーノースの子デウカリオーンの庶子で、イードメネウスの異母兄弟としているが[11]、息子であるメーリオネースについては著書全体を通じて言及していない。一方、シケリアのディオドロスはモロスをミーノースの息子で、デウカリオーンの兄弟としている。この説によるとメーリオネースはイードメネウスの従兄弟にあたる[12]。
トロイア戦争
ホメーロスなどいくつかの文献は、メーリオネースがイードメネウスとともにクレータ島の軍勢80隻を率いたと述べている[13][14][15]。ヒュギーヌスはもう少し詳しく、イードメネウスとメーリオネースは80隻の軍勢のうちそれぞれ40隻を率いたと述べている[1]。アポロドーロスはイードメネウスのみを挙げて40隻の軍勢を率いたとしている[16]。これに対してシケリアのディオドロスはイードメネウスとメーリオネースは90隻の軍勢を率いたと述べている[12]。
トロイア戦争では、女神アテーナーがディオメーデースに力を与えたとき、メーリオネースはトロイアの武将ペレクロスを討った。これが『イーリアス』におけるメーリオネースの最初の武功である[18]。ヘクトールがギリシア軍に一騎討ちを挑んだ際は、他の武将とともに対戦の名乗りを上げた[19]。ホメーロスがメーリオネースを最初に大きく取り上げたのは『イーリアス』2日目の夜である。この夜、アガメムノーンから信頼を得ていたメーリオネースはトラシュメーデースとともに夜警の指揮を命じられていた[8]。そのためアガメムノーンが軍議を開くと、有力な武将とともにメーリオネースも軍議に加わった。そしてネストールがトロイア軍の偵察を提案すると、メーリオネースも参加を希望した。ディオメーデースとオデュッセウスが偵察に出ることが決まると、メーリオネースはオデュッセウスに自身の弓矢を貸し与え、またイノシシの牙を細工に用いた兜をオデュッセウスの頭にかぶせて送り出した。この兜はかつてアウトリュコスがアミュントールの館から盗み取ったのち、父モロスの手に渡り、モロスからメーリオネースに与えられたものであった[17]。
トロイア勢とリュキア勢がギリシア軍の防壁を破って侵入したさいは海神ポセイドーンに励まされて奮起し[20]、大楯を構えて前進するデーイポボスに対して槍を投じたが討ち取ることは出来なかった。大将首を逃したメーリオネースは腹を立てながら代わりの槍を取りにクレータ勢の陣営に戻った[21]。そして傷の手当てを受けていたイードメネウスとともに前線に戻ったが、その姿は敵を遁走させるポボスが軍神アレースにつき従うかのようであったと語られている。メーリオネースは戦況を見て左翼が最も手薄であることを素早く判断し、イードメネウスを先導して左翼に向かった[22]。そしてイードメネウスがアルカトオスを討つと、アルカトオスの遺体をめぐってイードメネウス、アスカラポス、アパレウス、デーイピュロス、アンティロコスらとともに、デーイポボス、アイネイアース、パリス、アゲーノールらと激しく戦い、デーイポボスの上腕を槍で突いて戦場から退却させた[23]。さらにアンティロコスから逃れようとするアダマースを槍で討ち[24]、パプラゴニアの王子ハルパリオーンを矢で討ち倒した[25]。
その後もモリュスとヒッポティオーンを討ち[26]、パトロクロスがアキレウスの武具をまとって戦った際は、イーデー山のゼウスの神官オネートールの子ラーオゴノスを討った。さらに楯を構えて前進するメーリオネースに対して、アイネイアースは槍を投じたが、メーリオネースは楯で受け止めずに躱したため、腹立ちまぎれにメーリオネースの身軽さを「踊りの名人」と皮肉った[27]。パトロクロスの遺体をめぐる激戦では御者コイラノスを討たれたイードメネウスに退却を進言しつつも、大アイアース、小アイアース、メネラーオス、アンティロコスとともに最後まで遺体を守って戦い抜いた。そしてアンティロコスがパトロクロスの戦死をアキレウスに伝えるべく退却したのち、両アイアースがヘクトールの攻撃を防いでいる間に、メネラーオスとともにパトロクロスの遺体を運び出した[28]。
その後、パトロクロスの火葬に必要な木材の切り出しを指揮した[29]。葬礼競技では苦手な戦車競走で5人中4位[30]、弓競技では名手テウクロスと競って勝利し、続く槍投げではアガメムノーンと競ったが、アキレウスはアガメムノーンが卓越した戦士であることは周知の事実であるとして戦わずしてアガメムノーンを勝者とした[31]。
メーリオネースはその後もアマゾーンの女王ペンテシレイアの部下エウアンドレーとテルモードーサをはじめとして[32]、ラーオポオーン[33]、クロモス[34]、ピューロダマース[35]、リュコーンを討ち[36]、木馬作戦にも参加した[4]。
一説によるとメーリオネースはパトロクロスの遺体をヘクトールから奪おうとして殺された[37]。
戦後
戦後は帰国の航海の途上でシケリア島に立ち寄り、戦争で十分に広い支配地を得た[38]。クノッソスにはイードメネウスの墓の近くにメーリオネースの墓もあった[12]。イードメネウスの死後に王権を継承したともいわれる[39]。
系図
脚注
- ^ a b c ヒュギーヌス、97話。
- ^ クレータのディクテュス、1巻1。
- ^ ヒュギーヌス、81話。
- ^ a b スミュルナのクイントゥス、12巻320行。
- ^ 『イーリアス』2巻651行。
- ^ 『イーリアス』7巻166行。
- ^ 『イーリアス』4巻254行。
- ^ a b 『イーリアス』10巻59行。
- ^ プリュギアのダレス、13。
- ^ 『イーリアス』10巻269行。
- ^ アポロドーロス、3巻3・1。
- ^ a b c シケリアのディオドロス、5巻79・4。
- ^ 『イーリアス』2巻645行-652行。
- ^ クレータのディクテュス、1巻17。
- ^ プリュギアのダレス、14。
- ^ アポロドーロス、E(摘要)3・13。
- ^ a b 『イーリアス』10巻196行-271行。
- ^ 『イーリアス』5巻59行-68行。
- ^ 『イーリアス』161行-199行。
- ^ 『イーリアス』13巻81行-135行。
- ^ 『イーリアス』13巻155行-168行。
- ^ 『イーリアス』13巻239行以下。
- ^ 『イーリアス』13巻424行以下。
- ^ 『イーリアス』13巻560行-575行。
- ^ 『イーリアス』13巻640行-659行。
- ^ 『イーリアス』14巻514行。
- ^ 『イーリアス』16巻604行-618行。
- ^ 『イーリアス』17巻。
- ^ 『イーリアス』23巻108行-126行。
- ^ 『イーリアス』23巻349行以下。
- ^ 『イーリアス』23巻850行-897行。
- ^ スミュルナのクイントゥス、1巻254行–258行。
- ^ スミュルナのクイントゥス、6巻549行–555行。
- ^ スミュルナのクイントゥス、8巻101行。
- ^ スミュルナのクイントゥス、8巻402行。
- ^ スミュルナのクイントゥス、11巻91行。
- ^ プリュギアのダレス、19。
- ^ シケリアのディオドロス、4巻79・6。
- ^ クレータのディクテュス、6巻6。