「成田空港予定地の代執行」の版間の差分
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'''成田空港予定地の代執行'''(なりたくうこうよていちのだいしっこう)は、[[1971年]]に新東京国際空港(現・[[成田国際空港]])建設予定地で実施された未買収地への[[行政代執行]]である。 |
'''成田空港予定地の代執行'''(なりたくうこうよていちのだいしっこう)は、[[1971年]]に新東京国際空港(現・[[成田国際空港]])建設予定地で実施された、未買収地への[[公共用地の取得に関する特別措置法]]・[[土地収用法]]・[[行政代執行法]]に基づく[[行政代執行]]である。 |
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[[2月22日]]から[[3月6日]]まで実施された'''第一次代執行'''と[[9月16日]]から[[9月20日]]にかけて実施された'''第二次代執行'''がある。いずれも[[機動隊]]や[[新東京国際空港公団]]が雇った作業員らによって[[団結小屋]]等の排除が行われたが、空港建設反対派の地元住民や支援に来た[[日本の新左翼|新左翼]]セクトが激しく抵抗し |
[[2月22日]]から[[3月6日]]まで実施された'''第一次代執行'''と[[9月16日]]から[[9月20日]]にかけて実施された'''第二次代執行'''がある。いずれにおいても[[機動隊]]や[[新東京国際空港公団]]が雇った作業員らによって[[団結小屋]]等の排除が行われたが、空港建設反対派の地元住民や支援に来た[[日本の新左翼|新左翼]]セクトが激しく抵抗して双方に多くの負傷者を出し、特に第二次代執行では実施中に[[東峰十字路事件]]が発生し[[日本の警察官|警察官]]3人が集団暴行により[[殉職]]した。また、地元農民が居住する民家1軒の強制収用も行われた。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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=== 代執行に至るまでの経緯 === |
=== 代執行に至るまでの経緯 === |
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{{main|成田空港問題|三里塚闘争}} |
{{main|成田空港問題|三里塚闘争}} |
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新東京国際空港建設は、[[日本国政府]]側の説明・根回し不足により、地元住民 |
新東京国際空港建設は、[[日本国政府]]側の説明・根回し不足により、地元住民らの猛反発を招いた。更に[[機動隊]]の投入等の強硬措置が取られたことで、地元住民らが当初[[革新政党]]指導のもとで結成した[[三里塚芝山連合空港反対同盟]](以下、反対同盟)は、実力闘争を行って台頭していた当時の[[学生]]を中心とする新左翼を頼り、事態はより一層複雑化した{{sfn|公安調査庁|1993|pp=3-18}}。 |
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空港の設置を行う[[新東京国際空港公団]](以下、空港公団)は、空港予定地内民有地の約9割を取得し、計画の半分の施設を1期工事で建設して開港にこぎつけようとした。しかし、未買収地は依然残されており、その中には空港に絶対不可欠な[[滑走路]]予定地も含まれていた。 |
空港の設置を行う[[新東京国際空港公団]](以下、空港公団)は、空港予定地内民有地の約9割を取得し、計画の半分の施設を1期工事で建設して開港にこぎつけようとした。しかし、未買収地は依然残されており、その中には空港に絶対不可欠な[[滑走路]]予定地も含まれていた。空港公団は1期工事区域内の土地所有者9人との用地買収交渉を重ねたが、成果は上がらなかった{{sfn|公安調査庁|1993|p=19}}。 |
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一方[[東京国際空港]](羽田空港)では、発着回数がその処理能力を超えたために、[[着陸]]時の上空待機・[[離陸]]時の[[遅延・欠航便|遅延]]などの現象が現れ減便調整を余儀なくされており、一刻も早い国際線の移管が求められていた<ref name="giji"> |
一方[[東京国際空港]](羽田空港)では、発着回数がその処理能力を超えたために、[[着陸]]時の上空待機・[[離陸]]時の[[遅延・欠航便|遅延]]などの現象が現れ減便調整を余儀なくされており、一刻も早い国際線の移管が求められていた<ref name="giji">{{国会会議録検索システム|106504024X01019710226|name=第65回国会 衆議院 議院運営委員会 第10号 昭和46年2月26日|accessdate=2021-11-03}}</ref>。用地交渉の担当者からは任意の売買による用地取得を続けるべきとの声もあったが{{efn|交渉を担当していた元空港公団職員は、一般大衆が反対運動に加担したのはマスコミによる成田美化キャンペーンの影響によるものとしながらも、民家への強制収用が行われた(後述)小泉よねの土地は道路に使用されており、その道路を迂回させれば[[土地収用|強制収用]]は空港建設の上で必ずしも必要なものでなかったとしている<ref name=":11">{{harvnb|前田|2005|pp=112-113}}</ref>。当時の千葉県知事であった[[友納武人]]も、農家の収用を懸念し空港公団側と議論したが、過激派学生が地下壕を掘って拠点としておりどうしても交渉ができない、空港ターミナルビルの入り口に当たるとされ、対象地から外せなかったとしている{{sfn|友納|1981|p=213}}。また別の公団OBは、強制収用について「開港のため、どうしても必要な措置だった」としながらも、「強硬手段を用いた結果、過激派に暴力で抵抗する大義名分を与えてしまった」と述べている<ref>{{Cite web|title=成田空港管制塔占拠 /上 43年後の証言「申し訳ないが…」|url=https://mainichi.jp/articles/20210702/k00/00m/040/401000c|website=毎日新聞|accessdate=2021-07-03|date=2021-07-04}}{{Subscription required}}</ref>。}}{{sfn|大和田|鹿野|2010|p=94}}、新空港の早期開港を目指す政府に急き立てられるようにして、空港公団は[[公権力]]による用地取得、即ち[[土地収用]]を実施するため手続きを進めていった{{sfn|公安調査庁|1993|p=19}}{{sfn|前田|2005|p=107-110}}。 |
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[[1969年]][[12月16日]]、新東京国際空港建設事業は、 |
[[1969年]][[12月16日]]、新東京国際空港建設事業は、[[建設大臣]]からの事業認定を受けた<ref group="根拠法令">土地収用法第20条</ref>{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。これにより空港建設は[[公共事業]]として扱われ、地権者の[[効果意思|意思]]にかかわらず、千葉県[[収用委員会]]の採決を条件として、[[都道府県知事|千葉県知事]]の権限で[[行政代執行法]]の手続きのもと必要な土地を収用することが可能になった<ref group="根拠法令">土地収用法第102条の2第2項</ref><ref group="根拠法令">行政代執行法第2条</ref>。収用の規模としては、「蜂の巣城紛争」で知られる[[下筌ダム]]を凌ぐ、[[戦後]]最大のものとなった{{sfn|大坪|1978|pp=102-105}}。 |
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翌年から空港公団は、収用委員会への申請に必要な土地調書及び物件調書を作成するため、 |
翌年から空港公団は、県収用委員会への申請に必要な土地調書及び物件調書を作成するため、未買収地への立入調査を実施した<ref group="根拠法令">土地収用法第35条</ref>。これに対し反対派は、子供を含む家族総出で抵抗した。[[1970年]][[9月30日]]から[[10月2日]]に実施され『三日間戦争』と俗称される第三次立入調査では、反対同盟は「糞尿弾」「黄金爆弾」と称して[[人糞]]を詰めた[[ポリ袋]]を空港公団の測量班や機動隊に投げつけるなどして抵抗し、空港公団や機動隊との激しい攻防が行われ、[[逮捕 (日本法)|逮捕]]者が59人にも及んだ<ref>[http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/093/touh/t093003.htm 第93回国会(臨時会) 答弁書第三号]別表四、1971年1月16日</ref>{{sfn|原口|2000|pp=201-202}}。 |
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1970年[[3月3日]]、空港公団は滑走路予定地の北端にあり大規模な埋め立てが必要となる[[谷津田]]の6件6[[筆界|筆]]{{Efn|成田市駒井野字広田、字張ヶ沢などの原野及び山林であり、第1~6地点と呼称された。}}の[[一坪共有地]]{{Val|1,486|u=m2}}について、 |
1970年[[3月3日]]、空港公団は滑走路予定地の北端にあり大規模な埋め立てが必要となる[[谷津田]]の6件6[[筆界|筆]]{{Efn|成田市駒井野字広田、字張ヶ沢などの原野及び山林であり、第1~6地点と呼称された{{sfn|シンポジウム記録集編集委員会|1995|loc=資料編|page=31}}。}}の[[一坪共有地]]{{Val|1,486|u=m2}}について、県収用委員会に権利取得と明渡しを求めて申請を行い、収用委員会は[[12月26日]]に収用採決を行った{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}{{sfn|空港公団|1987|pp=58-59}}{{sfn|千葉県警|1989|p=484}}。 |
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更に[[1970年]][[12月28日]]には、1期工事が |
更に[[1970年]][[12月28日]]には、1期工事が[[建設大臣]]からの特定公共事業認定を受け<ref group="根拠法令">公共用地の取得に関する特別措置法第2条</ref>{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}、損失補償に関して審理を尽していないものがある場合においても明渡裁決が可能となった(緊急裁決)<ref group="根拠法令" name=":0">公共用地の取得に関する特別措置法第20条</ref>。 |
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=== 第一次代執行 === |
=== 第一次代執行 === |
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前年に収用委員会が採決した対象地6件について、空港公団は[[1971年]][[1月14日]]から裁定に基づく損失補償金総額190万円の支払いを開始したが、地権者は[[現金書留]]のうけとりを拒否し、期限である[[1月31日]]を迎えても明け渡されていなかったことから、[[友納武人]]知事は[[2月 |
前年に県収用委員会が採決した対象地6件について、空港公団は[[1971年]][[1月14日]]から裁定に基づく損失補償金<ref group="根拠法令">土地収用法第95条</ref>総額190万円の支払いを開始したが、地権者は[[現金書留]]のうけとりを拒否し、期限である[[1月31日]]を迎えても明け渡されていなかったことから、[[友納武人]]千葉県知事は[[2月2日]]に[[2月12日]]までの明け渡しを定めるとともに、それまでに明け渡しがない場合は代執行を行う旨の戒告書を送った<ref name=":1" group="根拠法令">行政代執行法第3条</ref>{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}{{sfn|空港公団|1987|pp=58-59}}{{sfn|大坪|1978|p=115}}。ここでも明け渡しがされなかったことから[[2月22日]]から[[3月14日]]までに代執行を行う旨の代執行令書が送付された<ref name=":1" group="根拠法令" />{{efn|友納は「これらはほとんどがけのような無価値な土地で、農作物が一本たりとも生えていない。しかも六カ所の土地が合計で四五〇坪しかない。それを六カ所に分けて、代議士だとかいろいろな人が所有している。こういったものは、農地だとか農家だとかと違いますし、話し合いで解決できないだろうという意味で、私は代執行しました」と当時の考えを述べている{{sfn|航空政策研究会|1973|pp=13-14}}。}}{{sfn|空港公団|1987|pp=58-59}}。 |
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2月22日から代執行が始まると、反対同盟は[[立ち木]]や[[バリケード]]に体を縛り付けて撤去を阻み、予め青年行動隊らが掘り進めていた穴ぐらに決死隊が立て籠もることで代執行を阻害しようとした。また、[[茨城県]]の農民運動家である[[山口武秀]]の提案により、反対同盟はこれまで反対運動に加わらなかったために敵意を向けていた周辺地域に対しても[[ビラ]]や宣伝カーを使って代執行の現場を見に来るよう呼びかけていたことで、多くの[[野次馬]]が集結した。団結小屋に立て籠もる同盟員には、陣中見舞いを持った親戚や友人だけでなく、既に自分の土地を売り渡した条件派も激励に訪れた |
2月22日から代執行が始まると、反対同盟は[[立ち木]]や[[バリケード]]に体を縛り付けて撤去を阻み、予め青年行動隊らが掘り進めていた穴ぐらに決死隊が立て籠もることで代執行を阻害しようとした。また、[[茨城県]]の農民運動家である[[山口武秀]]の提案により、反対同盟はこれまで反対運動に加わらなかったために敵意を向けていた周辺地域に対しても[[ビラ]]や宣伝カーを使って代執行の現場を見に来るよう呼びかけていたことで、多くの[[野次馬]]が集結した。団結小屋に立て籠もる同盟員には、陣中見舞いを持った親戚や友人だけでなく、既に自分の土地を売り渡した条件派も激励に訪れた{{sfn|福田|2001|pp=166-168・174}}。 |
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代執行初日の22日と翌23日 |
代執行初日の22日は、[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]や[[反帝学評]]などの過激派約2,350人が反対同盟とともにデモ行進・アジ演説・突撃訓練などの示威行為を代執行予定地で繰り返し、代執行は早々に中止された{{sfn|公安調査庁|1993|pp=19-22}}。翌23日も機動隊は投入されず、空港公団は団結小屋に手を出せずに大きな動きがないままに終わった。24日に少年行動隊が代執行実施班に体当たりして押し返し、これに対して[[警備員|ガードマン]]が[[警棒]]を用いたことで小学4年生の男児と中学3年生の女生徒が負傷して入院した{{sfn|飯高|1976|p=169}}。このような事態と群衆の中に紛れていた支援学生らの[[扇動]]を受けて、義憤に駆られた野次馬が[[投石]]などの妨害を行うようになり、代執行側の旗色が悪くなった。25日から機動隊が投入されたが野次馬の投石などにより代執行は引き続き進展せず、26日に友納知事が翌27日から3月1日までの代執行の停止を表明したことで仕切り直しとなった<ref name=":0">{{Harvnb|大坪|1978|pp=118-119}}</ref>。 |
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代執行が再開された[[3月2日]]も野次馬の妨害{{Efn|投石を行った野次馬の中には、当初の空港建設予定地であった富里村から駆け付けた法被姿の消防団や空港建設工事に従事する出稼ぎ労働者がいた<ref>郡山吉江『三里塚野戦病院日記』柘植書房、1980年、89頁</ref>。}}等により代執行の成果は上がらなかったが、翌3日に約3,000人に増強された機動隊が現地に投入され、代執行現場に通じる道での[[検問]]を実施して野次馬を阻んだことで形勢が逆転した。大雨が降り[[関東ローム]]が溶けて泥濘む中 |
代執行が再開された[[3月2日]]も野次馬の妨害{{Efn|投石を行った野次馬の中には、当初の空港建設予定地であった富里村から駆け付けた法被姿の消防団や空港建設工事に従事する出稼ぎ労働者がいた<ref>郡山吉江『三里塚野戦病院日記』柘植書房、1980年、89頁</ref>。}}等により代執行の成果は上がらなかったが、翌3日に約3,000人に増強された機動隊が現地に投入され、代執行現場に通じる道での[[検問]]を実施して野次馬を阻んだことで形勢が逆転した。大雨が降り[[関東ローム]]が溶けて泥濘む中{{sfn|大坪|1978|pp=117-119}}、屈強な公団臨時職員{{Efn|[[小川紳介]]監督 の『三里塚 第二砦の人々』では、日当2万円で全国から雇われたとしている{{sfn|シンポジウム記録集編集委員会|1995|page=282}}。}}ら(反対同盟から「毀し屋」と呼ばれた<ref name=":10">{{harvnb|伊藤|2017|pp=57-67}}</ref>)が代執行部隊の先頭に立ち、鎖で身体を括りつけた農民ごと立ち木を切り倒すなど、非情に徹して次々と立ち木や砦を撤去していった。「毀し屋」は木の上の農民を振り落とす際に網を張ったが、網にかからず地面に叩きつけられて[[骨折]]する者が続出した。「壊し屋」は構わずになおも作業を続け、その場にいた機動隊員が思わず同情したり止めに入るほどであった{{efn|ただし、公団や機動隊側は櫓を引き倒すときに一気に倒れないようにする措置等は必ず施していたという<ref>{{Cite web|title=死傷者が多数に…なぜ成田空港の反対派は過激に進んだのか|url=https://www.fnn.jp/articles/-/6469|website=ホウドウキョク|accessdate=2019-02-01|publisher=フジテレビ|date=2017-07-29|quote=この際、反対派が乗っているヤグラをチェーンソーで切るシーンがよく映像で見られるが、公団関係者によると、必ず公団や機動隊側がヤグラの途中まで上りロープを結びつけ、更にそのロープをクレーン車に結びつけて一気に倒れないようにした上で、切る作業を続けていたという。}}</ref>。}}{{sfn|福田|2001|pp=166-168・174}}{{sfn|隅谷|1996|p=42}}。 |
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4日に代執行が一時停止され、前日の事態を受けた反対派はこの間に[[火炎瓶]]を準備して翌日に備えた。5日及び6日には代執行側が重機を投入し、反対派が投げつけた火炎瓶を受けて火だるまとなった重機のオペレーターが転げ回るなどの壮絶な攻防が行われた |
4日に代執行が一時停止され、前日の事態を受けた反対派はこの間に[[火炎瓶]]を準備して翌日に備えた。5日及び6日には代執行側が重機を投入し、反対派が投げつけた火炎瓶を受けて火だるまとなった重機のオペレーターが転げ回るなどの壮絶な攻防が行われた。バリケードに開かれた突破口からの機動隊突入により団結小屋は陥落し、代執行の終了宣言が出された<ref name=":0" />{{sfn|福田|2001|pp=176}}。 |
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13日間の激突での延べ動員数は反対派約2万人、機動隊約3万人。機動隊・空港公団職員・県職員・作業員のあわせて1,071人が反対派の[[竹槍]]・投石・火炎瓶等の攻撃で負傷した |
13日間の激突での延べ動員数は反対派約2万人、機動隊約3万人。機動隊・空港公団職員・県職員・作業員のあわせて1,071人が反対派の[[竹槍]]・投石・火炎瓶等の攻撃で負傷した{{sfn|大坪|1978|p=119}}。中には火炎瓶をまともに食らうなどして重傷を負い、退職を余儀なくされた者もいた{{sfn|前田|2005|p=107-110}}。反対同盟によれば逮捕者は461人{{efn|468人とも{{sfn|大坪|1978|p=119}}。}}で反対派の負傷者は606人{{sfn|隅谷|1996|p=43}}。 |
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反対派が作った穴ぐらは代執行では撤去されずに残された。一時空港公団と反対同盟の間にその取扱を巡って協定が結ばれる局面もあったが、青年行動隊らがなおも掘削・補強を続けたことを違反であるとして空港公団は協定を破棄、作業を再開し、穴ぐらは25日に撤去された |
反対派が作った穴ぐらは代執行では撤去されずに残された。一時空港公団と反対同盟の間にその取扱を巡って協定が結ばれる局面もあったが、青年行動隊らがなおも掘削・補強を続けたことを違反であるとして空港公団は協定を破棄、作業を再開し、穴ぐらは25日に撤去された{{sfn|大坪|1978|pp=120-121}}。このときは[[日本の警察|警察]]が代執行同様に野次馬対策の検問を行っただけでなく、代執行での"敗北"が既に世間に印象づけられたことや「地下壕」撤去が団結小屋の攻防ほどテレビ映えするものでなかったため、反対同盟は代執行の際のように[[マスコミュニケーション|マスコミ]]や野次馬の支援を得られなかった{{sfn|福田|2001|p=177}}。 |
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=== 第二次代執行 === |
=== 第二次代執行 === |
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空港公団は代執行関連作業と並行して15件33筆に対して1971年2月3日に県収用委員会に対して緊急裁決の申立を行った。県収用委員会は、これを反対同盟系グループ・[[三里塚平和塔|平和の塔]]グループ・その他個人に分類して審理し、1971年6月12日に空港公団からの取り下げがあった1件3筆{{Efn|任意取得のため。これにより、7月26日から30日にかけて「農民放送塔」が妨害物除去仮処分で撤去された{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。}}を除く14件30筆について緊急裁決をした<ref name=":0" group="根拠法令" />。明け渡し期日は8月12日とされた{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}<ref name="document127131"/>{{sfn|空港公団|1987|pp=58-60}}。 |
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千葉県収用委員会は、1971年6月12日に新たに5件6筆{{Val|5,080|u=m2}}に対する緊急裁決を行った<ref name="document127131"/>。 |
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空港公団は8月13日、期限内に明け渡しが履行されず将来とも履行される見込みがないとされた10件25筆について、県知事に対し代執行請求をおこなった{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。その後明け渡しがなされたものを除いた以下の5件6筆{{Val|5,080|u=m2}}に対し、代執行令書が送付された<ref name=":1" group="根拠法令" />{{sfn|シンポジウム記録集編集委員会|1995|loc=資料編|page=31}}{{sfn|空港公団|1987|pp=58-60}}。代執行の時期は第7・第8・第9・第10地点は9月16日から29日までの間、第18地点は9月20日から10月3日までの間とされた{{sfn|空港公団|1987|pp=60-62}}。 |
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これに基づき同年9月16日から20日までの間、以下の5件6筆に対する代執行が行われた。 |
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* 第7地点:[[日本社会党|社会党]]一坪運動地。16日は[[加瀬完]][[衆議院議員]]・[[木原実 (政治家)|木原実]][[参議院議員]]・県議7人のほか、[[日本社会主義青年同盟|社青同]]系学生など350人が座り込みを行う。第二次代執行で収用された一坪運動地の登記簿には、[[成田知巳]][[日本社会党委員長|委員長]]以下国会議員55人が名を連ねていた{{Efn|[[勝間田清一]]、[[大出俊 (政治家)|大出俊]]、[[山口鶴男]]、[[阿部昭吾]]、[[加藤シヅエ]]など<ref>{{Cite web |date=2017-5-28 |url=http://www.sankei.com/premium/news/170528/prm1705280004-n1.html |title=成田空港反対闘争、煽って逃げた社会党 テロ集団を育てたといっても過言ではない 小川国彦氏の死去に思う |publisher=産経新聞 |accessdate=2017-06-24}}</ref>。[[立木トラスト]]に使われた成田知巳と[[佐々木更三]]の明認札が[[成田空港 空と大地の歴史館]]に展示されている。}}。 |
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|+ |
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* 第8地点:[[天浪]]団結小屋。16日は反対同盟(内田寛一行動隊長、谷川たけ婦人行動隊長)及び[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]ら100人が立て籠もる。 |
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! style="white-space:nowrap" | 収用事件番号 |
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* 第9地点:[[木の根]]団結小屋。16日は青年行動隊や芝山町議ら100人が立て籠もる。 |
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! style="white-space:nowrap" | 所在 |
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* 第18地点:小泉よね方家屋([[取香]])および敷地([[古込]])。 |
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! style="white-space:nowrap" | 地目 |
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* 第20地点:[[駒井野]]団結小屋。16日は[[戸村一作]]反対同盟代表、[[北原鉱治]]事務局長以下支援各セクト混成団150人が立て籠もる。 |
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中でも堅牢なバリケードと地下要塞を備えた駒井野団結小屋がある第20地点の反対派排除は困難を極めることが予想された。また、第18地点は100人余の支援学生らが[[テント]]を張るなどして寝泊まりしていたとはいえ<ref>朝日新聞成田支局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年、49頁</ref>反対派農家が生活する民家であり、一坪共有地や団結小屋とは性格が異なることから代執行が行われることには議論があり、友納知事自身も「生活のために反対している土地」の取得には消極的であった<ref>[[#隅谷三喜男|隅谷三喜男(1996年)]]48頁</ref>。 |
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|第7地点 |
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|[[駒井野]]字天並野{{efn|現在の日航貨物ビル前駐機スポット付近{{sfn|原口|2002|pp=48-55}}。}} |
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|原野 |
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|[[日本社会党|社会党]]一坪運動地{{Efn|一坪運動地の登記簿には、[[成田知巳]][[日本社会党委員長|委員長]]以下、[[勝間田清一]]・[[大出俊 (政治家)|大出俊]]・[[山口鶴男]]・[[阿部昭吾]]・[[加藤シヅエ]]など、国会議員55人が名を連ねていた<ref>{{国会会議録検索システム|106515261X00719710304|name=第65回国会 参議院 予算委員会 第7号 昭和46年3月4日|accessdate=2021-11-12}}</ref><ref>{{Cite web |date=2017-5-28 |url=http://www.sankei.com/premium/news/170528/prm1705280004-n1.html |title=成田空港反対闘争、煽って逃げた社会党 テロ集団を育てたといっても過言ではない 小川国彦氏の死去に思う |publisher=産経新聞 |accessdate=2017-06-24}}</ref>。[[成田空港 空と大地の歴史館]]では、[[立木トラスト]]に使われた成田知巳と[[佐々木更三]]の明認札が展示されている。}}。16日は[[加瀬完]][[衆議院議員]]・[[木原実 (政治家)|木原実]][[参議院議員]]・県議7人<ref name="document127131" />のほか、[[日本社会主義青年同盟|社青同]]・[[国鉄労働組合|国労]]千葉県共闘など約100人が座り込みを行う{{sfn|公安調査庁|1993|pp=22-24}}。 |
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|第8地点 |
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|[[天浪]]字大里{{efn|現在のA4離脱誘導路付近滑走路脇{{sfn|原口|2002|pp=48-55}}。}} |
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|畑 |
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|天浪団結小屋。16日は反対同盟(内田寛一行動隊長、谷川たけ婦人行動隊長、少年行動隊)並びに第4インター・中核派ら約100人が立て籠もる{{sfn|公安調査庁|1993|pp=22-24}}<ref name="document127131" />。 |
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|- |
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|第9地点 |
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|[[木の根]]字横峰{{efn|現在のP-1駐車場内{{sfn|原口|2002|pp=48-55}}。}} |
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|畑 |
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|木の根団結小屋。16日は青年行動隊・少年行動隊並びに芝山町議ら約100人が立て籠もる{{sfn|公安調査庁|1993|pp=22-24}}<ref name="document127131" />。 |
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|- |
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|第10地点 |
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|駒井野字張ヶ沢{{efn|現在の滑走路北端部{{sfn|原口|2002|pp=48-55}}。}} |
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|山林 |
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|[[駒井野]]団結小屋。16日は[[戸村一作]]反対同盟代表、[[北原鉱治]]事務局長以下支援各セクト混成団約150人が立て籠もる<ref name="document127131" />。 |
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|第18地点 |
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|[[取香]]字馬洗{{efn|現在の空港西通り出口付近{{sfn|原口|2002|pp=48-55}}。}} |
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|山林 |
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|小泉よね方家屋([[取香]])および敷地([[古込]])。 |
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中でも堅牢なバリケードと地下要塞を備えた駒井野団結小屋がある第20地点の反対派排除は困難を極めることが予想された。また、第18地点は100人余の支援学生らが[[テント]]を張るなどして寝泊まりしていたとはいえ{{sfn|朝日新聞|1998|p=49}}反対派農家が生活する民家であり、一坪共有地や団結小屋とは性格が異なることから代執行が行われることには議論があり、友納知事自身も「生活のために反対している土地」の取得には消極的であった<ref name="document136137" />{{sfn|隅谷|1996|p=48}}。 |
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第一次代執行での教訓から野次馬排除のための後方支援が必要とされたことに加えて対象の地点が分散していることから警察側では代執行にあたり大量の人員で警備を行う必要があり、[[千葉県警察|千葉県警]]や[[警視庁]]だけでなく[[埼玉県警察|埼玉県警]]や[[神奈川県警察|神奈川県警]]からも応援部隊が動員された。さらに代執行の直前に[[在日米軍]]の[[相模総合補給廠]]から[[火薬]]等が盗まれたことにより、代執行中の[[爆弾]][[テロリズム|テロ]]発生が警戒された。また警察側の事情として、[[昭和天皇]]の訪欧を同月27日に控えておりその警備の関係から25日までには代執行警備を終わらせる必要があったことから、地下構造物を後回しにしてでも地上構造物を最優先して撤去し拠点を潰す方針を採った<ref name="document127131"> |
第一次代執行での教訓から野次馬排除のための後方支援が必要とされたことに加えて対象の地点が分散していることから警察側では代執行にあたり大量の人員で警備を行う必要があり、[[千葉県警察|千葉県警]]や[[警視庁]]だけでなく[[埼玉県警察|埼玉県警]]や[[神奈川県警察|神奈川県警]]からも応援部隊が動員された。さらに代執行の直前に[[在日米軍]]の[[相模総合補給廠]]から[[火薬]]等が盗まれたことにより、代執行中の[[爆弾]][[テロリズム|テロ]]発生が警戒された。また警察側の事情として、[[昭和天皇]]の訪欧を同月27日に控えておりその警備の関係から25日までには代執行警備を終わらせる必要があったことから、地下構造物を後回しにしてでも地上構造物を最優先して撤去し拠点を潰す方針を採った<ref name="document127131">{{Harvnb|大坪|1978|pp=127-131}}</ref>。{{see also|東峰十字路事件#反対派と警察の作戦計画}} |
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一方、[[大学の運営に関する臨時措置法|大学臨時措置法]]が制定され[[大学紛争]]もほぼ終息する中、新左翼セクトは巻き返しを図って |
一方、[[大学の運営に関する臨時措置法|大学臨時措置法]]が制定され[[大学紛争]]もほぼ終息する中、新左翼セクトは巻き返しを図って代執行予定地に集結した{{sfn|隅谷|1996|p=47}}{{sfn|朝日新聞|1998|p=46}}。 |
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初日の16日には、 |
代執行初日の9月16日には、第18地点を除く4地点を巡り総勢約1万人が激突した<ref name="document127131"/>{{sfn|原口|2000|p=191}}。 |
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代執行の開始早々に、東峰地区で後方支援をしていた神奈川県警特別機動隊がゲリラ部隊の襲撃を受けて潰走した([[東峰十字路事件]])。この中で3人の警察官が殺害され、現地総指揮官である[[川上紀一]]副県知事は代執行中止を検討するが、千葉県警察[[本部長]]の進言を受けて続行した<ref name=":9"> |
代執行の開始早々に、東峰地区で後方支援をしていた神奈川県警特別機動隊がゲリラ部隊の襲撃を受けて潰走した([[東峰十字路事件]])。この中で3人の警察官が殺害され、現地総指揮官である[[川上紀一]]副県知事は代執行中止を検討するが、千葉県警察[[本部長]]の進言を受けて続行した<ref name=":9">{{harvnb|佐藤|1978|pp=100-123}}</ref>。 |
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警察の主力とされた警視庁機動隊は駒井野団結小屋を、社会党一坪運動地{{Efn|社会党は、団結小屋も作らず簡単な天幕で済ませており、積極的守備体制が見られなかった |
警察の主力とされた警視庁機動隊は駒井野団結小屋を、社会党一坪運動地{{Efn|社会党は、団結小屋も作らず簡単な天幕で済ませており、積極的守備体制が見られなかった{{sfn|飯高|1976|p=169}}。}}と木の根の制圧を済ませた埼玉県警機動隊・千葉県警機動隊は合同で天浪団結小屋を、それぞれ攻めることとなった。排除行動を開始した頃に、警察官死亡の報が[[警察無線]]等で伝わり、激昂した機動隊による攻勢は熾烈を極めた<ref name="document134136">{{Harvnb|大坪|1978|pp=134-136}}</ref>。 |
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天浪では[[移動式クレーン|クレーン車]]の防石・火炎瓶対策に使っていた[[漁網]]{{Efn|[[九十九里浜]]の[[網元]]から入手した揚繰網 |
天浪では[[移動式クレーン|クレーン車]]の防石・火炎瓶対策に使っていた[[漁網]]{{Efn|[[九十九里浜]]の[[網元]]から入手した揚繰網{{sfn|飯高|1976|p=180}}。}}が学生らによって切断され、バリケードの[[丸太]]を倒そうとしたときにワイヤロープも切れてしまった。そこでクレーン車のアームをバリケードの[[土嚢]]にぶつけ、さらにそこへ放水することで突破口を開き{{sfn|飯高|1976|pp=178-185}}、正午過ぎに制圧した<ref name="document134136"/>。 |
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駒井野では激しい火炎瓶攻撃が続き放水車の水も使い果たされたが、[[煙幕]]を張って学生らの視界を遮ったうえで[[ショベルカー]]でバリケードを破壊し、午後0時半過ぎに機動隊が団結小屋内に突入した。高さ10メートルの鉄塔からはなおも学生らによる火炎瓶投擲が続けられていたが団結小屋の撤去作業が開始された。鉄塔が大人数が上に乗って動き回れるほどの強度を持たないことが判明し{{Efn|反対派は、強度不足はやぐらに使う予定だった鉄材を団結小屋への家宅[[捜査]]で差し押さえられたためだったとしている |
駒井野では激しい火炎瓶攻撃が続き放水車の水も使い果たされたが、[[煙幕]]を張って学生らの視界を遮ったうえで[[ショベルカー]]でバリケードを破壊し、午後0時半過ぎに機動隊が団結小屋内に突入した。高さ10メートルの鉄塔からはなおも学生らによる火炎瓶投擲が続けられていたが団結小屋の撤去作業が開始された。鉄塔が大人数が上に乗って動き回れるほどの強度を持たないことが判明し{{Efn|反対派は、強度不足はやぐらに使う予定だった鉄材を団結小屋への家宅[[捜査]]で差し押さえられたためだったとしている{{sfn|隅谷|1996|pp=172-173}}{{sfn|シンポジウム記録集編集委員会|1995|page=296}}。}}急遽クレーンで支えようとしたが、午後3時15分に上にいた学生もろとも鉄塔が倒壊。この時火炎瓶の燃料が引火し学生らは火だるまとなった。火炎を吸った学生1人が一時意識不明の重体となったが、友納知事の要請を受けた[[千葉大学]]の[[香月秀雄]]らが[[成田赤十字病院]]で治療に当たり、一命はとりとめた。また、このとき鉄塔の下にいた撤去作業員も巻き込まれて骨折する大怪我を負った{{sfn|原口|2002|pp=48-55}}<ref name="document134136"/><ref name="chihou610923">{{国会会議録検索システム|106604720X00419710923|name=第66回国会 衆議院 地方行政委員会 第4号 昭和46年9月23日|accessdate=2021-11-03}}</ref>{{sfn|原口|2000|p=191}}{{sfn|友納|1981|p=213}}。 |
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この他に[[京成成田駅]]で改札口にいる機動隊を目掛けて火炎瓶5本が投げられたり、学生集団が自動車を倒して三里塚十字路の四方にバリケードを築き「三里塚解放区」を宣言するなどの動きがあった。[[セメント]]を{{Val|150|u=t}}以上もつぎ込んだと言われる駒井野団結小屋の地下要塞の撤去作業はその後2日かけられたが、結局全てを撤去しきれず、そのままA滑走路の下に埋められている。なお、代執行前に[[昭和46年台風第25号|台風第25号]]による浸水があったため、反対派は結局この地下要塞を代執行阻止に活かすことができなかった。堅固な地下要塞を見た代執行関係者らは「この中に立て篭もられたら大変だった」と安堵した。一方、これは偶然の産物ではなく、警察側は毎日の監視で反対派の掘削作業で出される土量を把握し、地下壕がどの方向へどのくらい掘り進んでいるかを分析したうえで、夜間などに"地下に穴があるはずの地表"をパワーショベルで「から掘り」して雨水が流れ込むように予め仕込んでいたことによるともいわれる<ref name=": |
この他に[[京成成田駅]]で改札口にいる機動隊を目掛けて火炎瓶5本が投げられたり、学生集団が自動車を倒して三里塚十字路の四方にバリケードを築き「三里塚解放区」を宣言するなどの動きがあった。[[セメント]]を{{Val|150|u=t}}以上もつぎ込んだと言われる駒井野団結小屋の地下要塞の撤去作業はその後2日かけられたが、岩盤機4台がかりでも結局全てを撤去しきれず<ref>{{Cite journal|和書|date=1971-09-18|title=傷跡深いトリデは消えたが…|journal=朝日新聞|page=3}}</ref>、そのままA滑走路の下に埋められている。なお、代執行前に[[昭和46年台風第25号|台風第25号]]による浸水があったため、反対派は結局この地下要塞を代執行阻止に活かすことができなかった。堅固な地下要塞を見た代執行関係者らは「この中に立て篭もられたら大変だった」と安堵した。一方、これは偶然の産物ではなく、警察側は毎日の監視で反対派の掘削作業で出される土量を把握し、地下壕がどの方向へどのくらい掘り進んでいるかを分析したうえで、夜間などに"地下に穴があるはずの地表"をパワーショベルで「から掘り」して雨水が流れ込むように予め仕込んでいたことによるともいわれる<ref name=":10" /><ref name=":9" /><ref name="document134136"/>。 |
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[[ファイル:Honoring monument(NRT).jpg|サムネイル|成田空港内にある空港用地提供者顕彰碑。プレートには、小泉よねの通称である「大木よね」の名が刻まれている{{Efn|よねは、事実上の夫の大木姓を死別後も名乗り続けていたが、法律上の姓名は「小泉よね」である{{sfn| |
[[ファイル:Honoring monument(NRT).jpg|サムネイル|成田空港内にある空港用地提供者顕彰碑。プレートには、小泉よねの通称である「大木よね」の名が刻まれている{{Efn|よねは、事実上の夫の大木姓を死別後も名乗り続けていたが、法律上の姓名は「小泉よね」である{{sfn|シンポジウム記録集編集委員会|1995|page=298}}。}}。]][[9月19日]]に友納知事が代執行を延期し翌日の代執行は行わないと発表したが、翌20日に突如機動隊と作業員らが現れ、[[稲]]の[[脱穀]]をしていた小泉よねを排除して住居を撤去した。第二次代執行は最初で最後となる[[成田空港問題]]における民家への代執行実施をもって終結した。代執行の結果、空港公団は93%の地を取得した<ref name="document136137">{{Harvnb|大坪|1978|pp=136-137}}</ref>{{sfn|伊藤|2017|p=144}}。 |
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形振り構わない行政の姿勢を目の当たりにした地権者の6,7割がこの後闘争を断念して移転に応じることとなったが、闘争を継続する者に対しては小泉よねへの代執行は逆に火に油を注ぐことになった |
形振り構わない行政の姿勢を目の当たりにした地権者の6,7割がこの後闘争を断念して移転に応じることとなったが、闘争を継続する者に対しては小泉よねへの代執行は逆に火に油を注ぐことになった{{sfn|隅谷|1996|p=48}}{{sfn|朝日新聞|1998|p=175}}。一方、[[塩川正十郎]]が地方行政委員会で東峰十字路事件が発生した第二次代執行初日と対比して「小泉よねさんの場合は、抜き打ち的にすぽっとやりましたので、これがたいした混乱もなくして目的を達して収用いたしておるのであります。」と述べる<ref name="chihou610923"/>等、政府側にはこれ以上犠牲者を出さないためには不意打ちもやむなしと見る者もいた{{Efn|事実、事件当日に反対同盟副委員長の石橋政次が記者会見で「今後人が居住している住居などについて代執行が行われれば、死者はもっと出るかもしれない。機動隊に対するうらみは農民の中にもたくさんある。いっさいの原因は、数少ない農民を虫ケラ同然に扱う政府のやり方にある。」と述べている<ref>1971年9月17日朝日新聞3面</ref>。}}。 |
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[[国会 (日本)|国会]]の地方行政委員会で第二次代執行の報告を行った[[後藤田正晴]][[警察庁長官]]は、「相手(反対派)方の動員は延べ12,600人、うち[[極左暴力集団|暴力集団]]が11,500人。警察官の動員数は延べで17,500人、検挙数は472名、うち女120名でございます。殉職者が3名、負傷者は224人でございますが、その内訳は、警察官が206人、うち入院いたしておる者が48名。学生は12名、うち入院5名でございます。ただし、学生はこれ以上に相当の負傷者がやはり出ておると思いますが、彼らはそれが判明しますと逮捕せられるといったようなことで、当方では全員を詳細に知るというわけにはまいっておりません。その他の者が6人でございます。」と述べた<ref name="chihou610923"/>。なお、この頃行われた[[記者会見]]で後藤田は怒りで体を震わせながら「警官3人が殺されたために、千葉県知事が工事を一時ストップしたいと言ってきたが、そんなことは反対派を喜ばすだけではないか、やると決めたらやるべきだ、と言ってやった。千葉県警本部長が辞表を持ってきたが、こんな紙切れ一枚が何になる、それより部下を殺した犯人をこの長官室まで連れてこいと言ってやった」と語っている<ref>保阪正康『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』文藝春秋、2009年</ref><ref>{{ |
[[国会 (日本)|国会]]の地方行政委員会で第二次代執行の報告を行った[[後藤田正晴]][[警察庁長官]]は、「相手(反対派)方の動員は延べ12,600人、うち[[極左暴力集団|暴力集団]]が11,500人。警察官の動員数は延べで17,500人、検挙数は472名、うち女120名でございます。殉職者が3名、負傷者は224人でございますが、その内訳は、警察官が206人、うち入院いたしておる者が48名。学生は12名、うち入院5名でございます{{Efn|{{harvnb|公安調査庁|1993|p=23}}では、警察官282人・代執行作業員7人が重軽傷を負い、反対派489人が凶器準備集合罪・公務執行妨害罪・放火罪等で逮捕されている。}}。ただし、学生はこれ以上に相当の負傷者がやはり出ておると思いますが、彼らはそれが判明しますと逮捕せられるといったようなことで、当方では全員を詳細に知るというわけにはまいっておりません。その他の者が6人でございます。」と述べた<ref name="chihou610923"/>。なお、この頃行われた[[記者会見]]で後藤田は怒りで体を震わせながら「警官3人が殺されたために、千葉県知事が工事を一時ストップしたいと言ってきたが、そんなことは反対派を喜ばすだけではないか、やると決めたらやるべきだ、と言ってやった{{Efn|日経新聞の取材に対しては「犠牲者が出ることを心配していた知事としては当然のことだろうが、私としては中止してやり直した場合、将来さらに犠牲者を重ねる恐れがあることと、警察官には冷静、慎重に職務を遂行させるから既定方針通り行うことが犠牲者を生かす<!-- ママ -->道ではないか」と友納に電話で伝えたと述べている{{sfn|飯高|1976|p=192}}。}}。千葉県警本部長が辞表を持ってきたが、こんな紙切れ一枚が何になる、それより部下を殺した犯人をこの長官室まで連れてこいと言ってやった」と語っている<ref>保阪正康『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』文藝春秋、2009年</ref><ref>{{Citation|和書|title=後藤田正晴・全人像|publisher=行政問題研究所|location=東京|isbn=4-905786-28-2|oclc=15398932|first=弘平|last=坂東|year=1983|pages=161-162}}</ref>。 |
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北原鉱治によれば、使用された火炎瓶は1万5千本で、後日未使用で発見された火炎瓶が更に3千本あったという<ref>北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年、80頁。</ref>。反対派の矛先は代執行班や警察だけでなく、空港建設工事に携わる作業員とその家族が寝泊まりする[[飯場]]にも向かい、600人以上の作業員が焼け出された。「いったい、オレたちになんの恨みがあるんだ。燃えたのは、オレたちの[[月賦]]で買ったテレビや子供たちへのおみやげじゃないか」と彼らはやり場のない怒りを報道陣にぶつけた<ref name=":9" />。 |
北原鉱治によれば、使用された火炎瓶は1万5千本で、後日未使用で発見された火炎瓶が更に3千本あったという<ref>北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年、80頁。</ref>。反対派の矛先は代執行班や警察だけでなく、空港建設工事に携わる作業員とその家族が寝泊まりする[[飯場]]にも向かい、600人以上の作業員が焼け出された。「いったい、オレたちになんの恨みがあるんだ。燃えたのは、オレたちの[[月賦]]で買ったテレビや子供たちへのおみやげじゃないか」と彼らはやり場のない怒りを報道陣にぶつけた<ref name=":9" />。 |
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== その後 == |
== その後 == |
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日本国政府は当初、開港目標を1971年(昭和46年)4月に掲げており、同年7月に就任した[[丹羽喬四郎]]運輸大臣も「開港は昭和47年(1972年)4月」としていた。早期開港を目指して行われた代執行であったが、反対派が対抗措置として[[岩山鉄塔]]を建てたことに加えて、航空燃料[[パイプライン]]工事も進展せず、実現は絶望的となった。結局、実際の開港は代執行から7年後の[[1978年]](昭和53年)[[5月20日]]にまでずれ込み、「伝家の宝刀」を抜いて緊急採決を行った |
日本国政府は当初、開港目標を1971年(昭和46年)4月に掲げており、同年7月に就任した[[丹羽喬四郎]]運輸大臣も「開港は昭和47年(1972年)4月」としていた。早期開港を目指して行われた代執行であったが、反対派が対抗措置として[[岩山鉄塔]]を建てたことに加えて、航空燃料[[パイプライン]]工事も進展せず、実現は絶望的となった。結局、実際の開港は代執行から7年後の[[1978年]](昭和53年)[[5月20日]]にまでずれ込み、「伝家の宝刀」を抜いて緊急採決を行った県収用委員会の委員や、殉職者を出した警察関係者は憤慨した{{efn|運輸省・空港公団は、開港予定期日を一番遅らせたのはパイプライン建設であったこと、当初の工事の見通しが楽観的であったことをシンポジウムにおいて認めている{{sfn|シンポジウム記録集編集委員会|1995|pp=314-318}}。}}{{sfn|大坪|1978|pp=152-153}}。 |
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[[1988年]]には、二期工事での強制収用再実施阻止を目論む中核派が |
[[1988年]]には、二期工事での強制収用再実施阻止を目論む中核派が[[千葉県収用委員会会長襲撃事件|小川彰県収用委員会会長を襲撃]]したほか、収用委員への強迫を繰り返した結果、県収用委員会は機能停止に追い込まれ、千葉県では空港のみならず[[インフラストラクチャー|インフラ]]整備全般に支障を来すことになった<ref>{{Cite web|title=【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(下) 公共事業のあり方一変|url=https://www.sankei.com/article/20150803-OF2KWIIKSJIWVL7U5YR2XV4PXY/|website=産経ニュース|date=2016-04-28|accessdate=2021-11-15}}</ref>。 |
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[[1990年代]]に開催された[[成田空港問題シンポジウム]]及び[[成田空港問題円卓会議]]において、反対同盟旧熱田派と日本国政府の間で対話がなされた。その結果、日本国政府は平行滑走路(B滑走路)のための用地の取得においてはいかなる状況のもとにおいても強制的手段を取らないことを確約し、土地収用法の収用申請を取り下げた。千葉県収用委員会は[[2004年]]に再建されたが、その後成田国際空港に関する強制収用裁可を2021年現在に至るまで行っていない。 |
[[1990年代]]に開催された[[成田空港問題シンポジウム]]及び[[成田空港問題円卓会議]]において、反対同盟旧熱田派と日本国政府の間で対話がなされた。その結果、日本国政府は平行滑走路(B滑走路)のための用地の取得においてはいかなる状況のもとにおいても強制的手段を取らないことを確約し、土地収用法の収用申請を取り下げた。千葉県収用委員会は[[2004年]]に再建されたが、その後成田国際空港に関する強制収用裁可を2021年現在に至るまで行っていない。 |
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代執行で自宅を収用された小泉よねは、空港公団が用意した仮住居{{sfn| |
代執行で自宅を収用された小泉よねは、空港公団が用意した仮住居{{sfn|空港公団|1987|pp=60-62}}への入居や仮補償の受取を拒否したまま、[[1973年]](昭和48年)に66歳で死去するが、[[2015年]]([[平成]]27年)に養子夫妻(三里塚闘争を支援していた活動家)が日本国政府・千葉県・[[成田国際空港 (企業)|成田国際空港株式会社]](空港公団の後身)からの全面的な謝罪を受けて、補償解決への話し合いについて合意した{{sfn|原口|2002|p=48-55}}<ref>{{cite news | author = | url = http://www.sankei.com/region/news/150204/rgn1502040001-n1.html | title = 成田空港建設で自宅強制収用の故小泉よねさん 補償解決へ話し合い合意 千葉 | newspaper = 産経新聞 | publisher = 産経新聞社 | date = 2015-02-04 | accessdate = 2018-01-11 }}</ref><ref>{{Cite web|title=43年前の代執行「解決」へ合意 千葉県が一定の結果責任を表明 成田空港建設|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/national/238754|website=www.chibanippo.co.jp|accessdate=2021-11-13|publisher=千葉日報|date=2015-02-04}}</ref>。 |
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この養子は熱田派に属していたが、[[ |
この養子は熱田派に属していたが、[[2021年]]現在も「への字誘導路」付近で農作業を継続する、北原派農家を支援する意向をその後表明している<ref>{{Cite web|url=https://www.facebook.com/permalink.php?id=100023775643502&story_fbid=180411926094661|title=陳述書を提出して( 3 )|accessdate=2018-04-11|date=2018-04-03|website=www.facebook.com|publisher=facebook|language=ja}}</ref>。 |
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== 経過 == |
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== 経過<ref>[[成田空港問題の年表]]を更新</ref> == |
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{{See also|成田空港問題の年表}} |
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=== 第一次代執行 === |
=== 第一次代執行 === |
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*[[1969年]] |
*[[1969年]] |
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**[[ |
**[[3月25日]]:空港公団分室に押し寄せた反対同盟員が、公団が発送した代替地配分申込書を焼き捨てて抗議{{sfn|大坪|1978|pp=102-105}}。 |
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**[[9月10日]]:今井栄文空港公団総裁が、友納武人千葉県知事に土地収用法に基づく事業認定について同意を求める{{sfn|大坪|1978|pp=102-105}}。 |
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**[[9月13日]]:空港公団が新東京国際空港建設事業の事業認定を申請<ref group="根拠法令">土地収用法第18条</ref>{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}{{sfn|大坪|1978|pp=102-105}}。 |
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**[[9月28日]]:事業認定粉砕全国集会開催。約13,000人が結集した。 |
**[[9月28日]]:事業認定粉砕全国集会開催。約13,000人が結集した。 |
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**[[12月16日]]:[[坪川信三]]建設大臣が[[土地収用法]]に基づく事業認定を承認し、告示される(建設省告示第3865号){{sfn| |
**[[12月16日]]:[[坪川信三]]建設大臣が[[土地収用法]]に基づく事業認定を承認し、告示される(建設省告示第3865号)<ref group="根拠法令">土地収用法第26条</ref>{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。 |
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*[[1970年]] |
*[[1970年]] |
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**[[1月15日]]:「強制測量粉砕・収用法粉砕全国総決起集会」が開催され、約7,000人が集結する。 |
**[[1月15日]]:「強制測量粉砕・収用法粉砕全国総決起集会」が開催され、約7,000人が集結する。 |
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**[[2月18日]]:「事業認定取消請求訴訟」(原告28人、千葉地裁。1973目7月25日に取り下げ){{sfn| |
**[[2月18日]]:「事業認定取消請求訴訟」(原告28人、千葉地裁。1973目7月25日に取り下げ){{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。 |
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**[[2月19日]]:土地収用法に基づく立入調査に対抗し、反対同盟が「第一次強制測量阻止闘争」に取り組む(翌日まで)。「少年行動隊」に属する反対派世帯の生徒らも同盟休校と称して学校を休んで参加し、以降家族ぐるみの阻止闘争が実施される。 |
**[[2月19日]]:土地収用法に基づく空港公団の第1次立入調査{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}に対抗し、反対同盟が「第一次強制測量阻止闘争」に取り組む(翌日まで)。「少年行動隊」に属する反対派世帯の生徒らも同盟休校と称して学校を休んで参加し、以降家族ぐるみの阻止闘争が実施される{{sfn|大坪|1978|pp=108-110}}{{sfn|佐藤|1978|pp=89-92}}。現地での測量は簡易に済ませ、航空測量による略式調査に切り替えられた{{sfn|大坪|1978|pp=105-108}}。 |
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**[[3月3日]]:空港公団が、千葉県収用委員会に対し第一次収用裁決を申請{{sfn| |
**[[3月3日]]:空港公団が、千葉県収用委員会に対し第一次収用裁決を申請{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。 |
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**[[3月13日]]:反対同盟が「事業認定取消請求訴訟」を起す(原告1,611人、東京地裁){{sfn| |
**[[3月13日]]:反対同盟が「事業認定取消請求訴訟」を起す(原告1,611人、東京地裁){{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。 |
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**[[5月14日]]:「第二次強制測量阻止闘争」 |
**[[5月14日]]:「第二次強制測量阻止闘争」。滑走路用地など6箇所{{Val|1.67|u=ha}}に対し空港公団の第2次立入調査が実施される{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}{{sfn|大坪|1978|pp=105-108}}。 |
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**[[6月12日]]:千葉県収用委員会が第一次収用裁決申請に係る公開審理を開始。この日開かれた第一回公開審理を地権者ら約1,000人が傍聴。少年行動隊も「同盟休校」で闘争に参加した。反対同盟の顧問[[弁護士]]が異議を申し立てたところ発言を禁止され、怒った反対派が空港公団の事業内容説明者からマイクを奪うなどして会場は混乱、1時間で閉会した。 |
**[[6月12日]]:千葉県収用委員会が第一次収用裁決申請に係る公開審理を開始{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。この日開かれた第一回公開審理を地権者ら約1,000人が傍聴。少年行動隊も「同盟休校」で闘争に参加した。反対同盟の顧問[[弁護士]]が異議を申し立てたところ発言を禁止され、怒った反対派が空港公団の事業内容説明者からマイクを奪うなどして会場は混乱、1時間で閉会した{{sfn|大坪|1978|pp=111-113}}。 |
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**[[8月26日]]:「第一次申請分」六筆の土地に収用委員会の現地調査が行われる。反対同盟が約1,000人で阻止闘争を展開。3人逮捕。1人が手錠をされたまま逃走する。 |
**[[8月26日]]:「第一次申請分」六筆の土地に収用委員会の現地調査が行われる{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。反対同盟が約1,000人で阻止闘争を展開。3人逮捕。1人が手錠をされたまま逃走する。 |
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**[[9月1日]]:千葉県収用委員会が第二回公開審理。混乱により開会も宣言できずに終わる。委員らが学生や青年行動隊から暴行を受け、1人が肋骨を折る怪我。 |
**[[9月1日]]:千葉県収用委員会が第二回公開審理{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。混乱により開会も宣言できずに終わる。委員らが学生や青年行動隊から暴行を受け、1人が肋骨を折る怪我{{sfn|大坪|1978|pp=111-113}}。 |
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**[[9月2日]]:千葉県収用委員会が第三回公開審理。警察の警護下で開会を宣言するが反対同盟が審議に応じず、審理をせずに終わる。 |
**[[9月2日]]:千葉県収用委員会が第三回公開審理{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。警察の警護下で開会を宣言するが反対同盟が審議に応じず、審理をせずに終わる{{sfn|大坪|1978|pp=111-113}}。 |
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**[[9月13日]]:警察庁において、関東管区各警察本部長レベルが出席して第二次代執行の警備実施計画について会議が開かれ、千葉県警が出してきた計9000人を動員する計画に警察庁が難色を示し、3分の2の6400人に動員規模を削減される |
**[[9月13日]]:警察庁において、関東管区各警察本部長レベルが出席して第二次代執行の警備実施計画について会議が開かれ、千葉県警が出してきた計9000人を動員する計画に警察庁が難色を示し、3分の2の6400人に動員規模を削減される{{sfn|佐藤|1978|pp=107-111}}。 |
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**[[9月30日]]:この日から[[10月2日]]まで「第三次強制測量阻止闘争」(のちに空港反対派は「三日戦争」と名づけた)。反対同盟は、落とし穴、「白兵戦」、「黄金爆弾(糞尿)」などを駆使して徹底抗戦する。3日間の攻防で |
**[[9月30日]]:この日から[[10月2日]]まで「第三次強制測量阻止闘争」(のちに空港反対派は「三日戦争」と名づけた)。反対同盟は、落とし穴、「白兵戦」、「黄金爆弾(糞尿)」などを駆使して徹底抗戦する。3日間の攻防で61人が逮捕される。測量で空港公団職員が竹槍による青年行動隊の襲撃を受けて重傷を負い、この日以降機動隊が最初から全面に出てくるようになる{{sfn|佐藤|1978|pp=89-92}}{{sfn|福田|2001|pp=160-166}}。 |
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**[[10月7日]]:空港公団、用地取得に「特別措置法を適用する」と発表。 |
**[[10月7日]]:空港公団、用地取得に「特別措置法を適用する」と発表。 |
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**[[10月22日]]:千葉県収用委員会が第四回公開審理。反対同盟は引き伸ばしを図って会場入りを遅らせたが、その間に空港公団が無人の席に向かって意見陳述を行う。午後4時頃に反対同盟が到着し審理が進んでいる事態に演壇に詰め寄ろうとしたが、閉会が宣言され委員らは退席した。 |
**[[10月22日]]:千葉県収用委員会が第四回公開審理{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。反対同盟は引き伸ばしを図って会場入りを遅らせたが、その間に空港公団が無人の席に向かって意見陳述を行う。午後4時頃に反対同盟が到着し審理が進んでいる事態に演壇に詰め寄ろうとしたが、閉会が宣言され委員らは退席した{{sfn|大坪|1978|pp=111-113}}。 |
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**[[10月24日]]:千葉県収用委員会が第五回公開審理。反対同盟はボイコットし、空港公団による意見陳述のみで公開審理は結審扱いとなる。 |
**[[10月24日]]:千葉県収用委員会が第五回公開審理{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。反対同盟はボイコットし、空港公団による意見陳述のみで公開審理は結審扱いとなる{{sfn|大坪|1978|pp=111-113}}。 |
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**[[11月4日]]:空港公団が1期工事について[[公共用地の取得に関する特別措置法]]に基づく特定公共事業の認定を建設大臣に申請。 |
**[[11月4日]]:空港公団が1期工事について[[公共用地の取得に関する特別措置法]]に基づく特定公共事業の認定を建設大臣に申請<ref group="根拠法令">公共用地の取得に関する特別措置法第4条</ref>{{sfn|佐藤|1978|pp=89-92}}。 |
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**[[12月26日]]:千葉県収用委員会が、第一次収用裁決申請分に対する収用裁決(権利取得の時期および明渡しの期限1971年1月31日)。 |
**[[12月26日]]:千葉県収用委員会が、第一次収用裁決申請分に対する収用裁決(権利取得の時期および明渡しの期限1971年1月31日){{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}{{sfn|佐藤|1978|pp=89-92}}。 |
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**[[12月28日]]:11月4日の申請を受け、1期工事の特定公共事業認定が[[告示]]される。 |
**[[12月28日]]:11月4日の申請を受け、1期工事の特定公共事業認定が[[告示]]される<ref group="根拠法令">公共用地の取得に関する特別措置法第10条</ref>{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。 |
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*[[1971年]] |
*[[1971年]] |
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**[[1月6日]]:反対同盟が代執行に備え強制収用対象地に「地下壕」(穴ぐら)を掘り始める。 |
**[[1月6日]]:反対同盟が代執行に備え強制収用対象地に「地下壕」(穴ぐら)を掘り始める{{sfn|原口|2000|p=9}}。 |
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**[[1月22日]]:佐藤栄作首相が「建設中の新東京国際空港は、(昭和)四十六年度中に供用を開始するとともに、[[関西国際空港|関西新国際空港]]についても、すみやかに着工するよう目下調査を進めております」と[[施政方針演説]]を行う<ref>{{ |
**[[1月22日]]:佐藤栄作首相が「建設中の新東京国際空港は、(昭和)四十六年度中に供用を開始するとともに、[[関西国際空港|関西新国際空港]]についても、すみやかに着工するよう目下調査を進めております」と[[施政方針演説]]を行う<ref>{{国会会議録検索システム|106505254X00219710122|name=第65回国会 衆議院 本会議 第2号 昭和46年1月22日|accessdate=2021-11-03}}</ref>。 |
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**[[1月23日]]:友納千葉県知事が初めて現地を訪れ戸村反対同盟代表と[[行政代執行|代執行]]問題について会談するが、論議 |
**[[1月23日]]:友納千葉県知事が初めて現地を訪れ戸村反対同盟代表と[[行政代執行|代執行]]問題について会談。反対同盟側の要求に応じて警備当局に一切の警察関係者を入れないよう申し入れたうえで御料牧場事務所に臨んだ友納知事は「(第一時代執行対象地は)農地でも宅地でもない。崖とか荒地のところで、しかもこんな土地を110人もの社会党・共産党の国会議員などが、工事を妨害するためだけに所有している。まったく農民の方々には関わり合いのないことである。妨害をしないでほしい」と呼びかけるが、論議は平行線のまま終わる。農民からは「なぜ、早く来なかった」との声が上がる{{sfn|友納|1984|pp=276-284}}{{sfn|友納|1981|pp=210-211}}<ref>{{Cite news|title=政治に忘れられた成田の農民|newspaper=朝日新聞|date=1971-02-25|page=2}}</ref>{{sfn|原口|2000|p=20}}。 |
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**[[2月2日]]:空港公団の代執行請求に基づく県知事による戒告書が送付される<ref name=":1" group="根拠法令" />{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。 |
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**[[2月15日]]:友納千葉県知事が行政代執行の3週間以内の実施を発表。 |
**[[2月15日]]:友納千葉県知事が行政代執行の3週間以内の実施を発表。 |
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**[[2月16日]]:友納千葉県知事が代執行対象地の関係者に代執行令書を送付<ref>{{ |
**[[2月16日]]:友納千葉県知事が代執行対象地の関係者に代執行令書を送付<ref name=":1" group="根拠法令" />{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}<ref>{{Citation|author=成田市立図書館|title=成田市年表|date=|year=1991|accessdate=|publisher=成田市}}</ref>。 |
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**[[2月20日]]:県教育委員会教育長が戸村反対同盟代表と面会して「同盟休校の形で学童を拘束せず、子どもたちを危険な場所に入れることだけはさけてほしい」と申し入れ<ref name=":2">{{Cite news|title=初日はにらみ合いで幕 成田空港代執行|newspaper=朝日新聞(夕刊)|date=1971-02-22|page=9}}</ref>。 |
**[[2月20日]]:県教育委員会教育長が戸村反対同盟代表と面会して「同盟休校の形で学童を拘束せず、子どもたちを危険な場所に入れることだけはさけてほしい」と申し入れ<ref name=":2">{{Cite news|title=初日はにらみ合いで幕 成田空港代執行|newspaper=朝日新聞(夕刊)|date=1971-02-22|page=9}}</ref>。 |
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**[[2月22日]]:6件6筆の建設予定地に対して'''第一次代執行が開始される'''。午後1時からガードマンや県・空港公団職員らからなる約400人の代執行班が対象用地に向かうが、学生らに阻まれて約1時間半で引き揚げ。反対同盟子弟の半数にあたる少年行動隊142人は「同盟休校」で闘争に参加(反対同盟からの休校宣言は無し)。第5地点付近で情報収集をしていた私服巡査を学生らが竹槍を突きつけてつるし上げる。現地で取材中のNHK記者が空港公団分室近くで散弾を発見して警察に届け出、学生側は「官憲側の謀略」と主張<ref name=":2" />。[[千葉地方裁判所]]は、反対同盟の代執行停止処分申し立てを却下する。 |
**[[2月22日]]:6件6筆の建設予定地(いずれも一坪共有地)に対して'''第一次代執行が開始される{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}'''。午後1時からガードマンや県・空港公団職員らからなる約400人の代執行班が対象用地に向かうが、学生らに阻まれて約1時間半で引き揚げ。反対同盟子弟の半数にあたる少年行動隊142人は「同盟休校」で闘争に参加(反対同盟からの休校宣言は無し)。第5地点付近で情報収集をしていた私服巡査を学生らが竹槍を突きつけてつるし上げる。現地で取材中のNHK記者が空港公団分室近くで散弾を発見して警察に届け出、学生側は「官憲側の謀略」と主張<ref name=":2" />。[[千葉地方裁判所]]は、反対同盟の代執行停止処分申し立てを却下する。 |
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**[[2月23日]]:午前11時59分に執行官が「行政代執行法と土地収用法により代執行を行う」と宣言し作業が開始されるが、学生らから投石が行われて作業員2人が負傷し、4分で中断される<ref name=":3">{{Cite news|title=第一地点の代執行完了 成田空港|newspaper=朝日新聞(夕刊)|date=1971-02-23|page=1}}</ref><ref>{{Cite news|title=もみ合い泥まみれ 成田空港一段と険悪な雰囲気|newspaper=朝日新聞(夕刊)|date=1971-02-23|page=9}}</ref>。千葉県現地本部が「第1地点については、午後1時17分、代執行を完了した」と発表したが、実際には代執行打班がバリケード付近の立木を伐採して持ち帰っただけだった<ref name=":3" /><ref>{{Cite news|title=あれは公団用地 反対派不審顔|newspaper=朝日新聞|date=1971-02-24|page=3}}</ref>。 |
**[[2月23日]]:午前11時59分に執行官が「行政代執行法と土地収用法により代執行を行う」と宣言し作業が開始されるが、学生らから投石が行われて作業員2人が負傷し、4分で中断される<ref name=":3">{{Cite news|title=第一地点の代執行完了 成田空港|newspaper=朝日新聞(夕刊)|date=1971-02-23|page=1}}</ref><ref>{{Cite news|title=もみ合い泥まみれ 成田空港一段と険悪な雰囲気|newspaper=朝日新聞(夕刊)|date=1971-02-23|page=9}}</ref>。千葉県現地本部が「第1地点については、午後1時17分、代執行を完了した」と発表したが、実際には代執行打班がバリケード付近の立木を伐採して持ち帰っただけだった<ref name=":3" /><ref>{{Cite news|title=あれは公団用地 反対派不審顔|newspaper=朝日新聞|date=1971-02-24|page=3}}</ref>。 |
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**[[2月24日]]:第6地点に対して代執行が実施される。移動する代執行班の前に、少年行動隊の小中学生約50人が前列に出てくる。子供らは「公団帰れ」と[[シュプレヒコール]]をあげ、反対同盟は宣伝カーから「お前たちはこの少年たちを殺すつもりか」とマイクで叫ぶ。少年行動隊とのもみ合いで、代執行班は約100メートル後退させられる。更にその後ろには学生らのデモ隊が[[竹竿]]を突出して気勢を上げており、弱った代執行班は一旦引き上げ<ref name=":4">{{Cite news|title=少年行動隊が最前列に 成田空港の代執行|newspaper=朝日新聞|date=1971-02-24|page=1}}</ref>。午後2時過ぎに代執行班が再び現地に向かうが、少年行動隊約30人及び約70人の支援学生らに阻まれ、もみ合いとなる。この中で、ガードマンに押し返された少年行動隊約15人が深さ約1.5メートルの溝に落下して、負傷者が出る。この日の代執行で少年行動隊7人(うち2人入院)が負傷し、ガードマン3人が学生に殴られて軽傷を負う<ref name=":4" /><ref>{{Cite news|title=成田空港「少年」のけが、7人に|newspaper=朝日新聞|date=1971-02-25|page=3}}</ref>。事態に激怒した野次馬を含む群衆が「代執行開始宣言」の横断幕を引きちぎり、公団分室に投石を行った。混乱の最中、社会党議員団による空港公団への面会に社会党の木原実衆議院議員と三ッ松県会議員が遅参し、背後に[[黒ヘル|黒ヘルメット]]をかぶった学生集団がいたために公団分室のガードマンらが反対派と誤認してこれを排除。両議員は顔などを負傷する<ref name="giji" /><ref name=":5">{{Cite news|title=成田の紛争、2日間休戦|newspaper=朝日新聞(夕刊)| |
**[[2月24日]]:第6地点に対して代執行が実施される。移動する代執行班の前に、少年行動隊の小中学生約50人が前列に出てくる。子供らは「公団帰れ」と[[シュプレヒコール]]をあげ、反対同盟は宣伝カーから「お前たちはこの少年たちを殺すつもりか」とマイクで叫ぶ。少年行動隊とのもみ合いで、代執行班は約100メートル後退させられる。更にその後ろには学生らのデモ隊が[[竹竿]]を突出して気勢を上げており、弱った代執行班は一旦引き上げ<ref name=":4">{{Cite news|title=少年行動隊が最前列に 成田空港の代執行|newspaper=朝日新聞|date=1971-02-24|page=1}}</ref>。午後2時過ぎに代執行班が再び現地に向かうが、少年行動隊約30人及び約70人の支援学生らに阻まれ、もみ合いとなる。この中で、ガードマンに押し返された少年行動隊約15人が深さ約1.5メートルの溝に落下して、負傷者が出る。この日の代執行で少年行動隊7人(うち2人入院)が負傷し、ガードマン3人が学生に殴られて軽傷を負う<ref name=":4" /><ref>{{Cite news|title=成田空港「少年」のけが、7人に|newspaper=朝日新聞|date=1971-02-25|page=3}}</ref>。事態に激怒した野次馬を含む群衆が「代執行開始宣言」の横断幕を引きちぎり、公団分室に投石を行った。混乱の最中、社会党議員団による空港公団への面会に社会党の木原実衆議院議員と三ッ松県会議員が遅参し、背後に[[黒ヘル|黒ヘルメット]]をかぶった学生集団がいたために公団分室のガードマンらが反対派と誤認してこれを排除。両議員は顔などを負傷する<ref name="giji" /><ref name=":5">{{Cite news|title=成田の紛争、2日間休戦|newspaper=朝日新聞(夕刊)|date=1971-02-26|page=1}}</ref>。 |
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**[[2月25日]]:この日は |
**[[2月25日]]:この日は過激派が角材・竹槍・石塊・空瓶を大量に用意していることなどを理由に機動隊が早朝から前面に出て、積極的に反対派を実力排除する。正午過ぎに「地下壕」が落盤し、農民1人が負傷。この日の逮捕者141人。警察発表による負傷者は、機動隊員27人・ガードマン1人・報道関係者1人。反対同盟発表による反対派の負傷者は戸村代表を含む153人で、うち7人が重傷{{sfn|公安調査庁|1993|pp=19-22}}<ref>{{Cite news|title=逮捕者141人に 成田空港午後も衝突|newspaper=朝日新聞|date=1971-02-26|page=1}}</ref><ref>{{Cite news|title=危険…それが武器 成田の地下壕|newspaper=朝日新聞|date=1971-02-26|page=22}}</ref>。 |
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**[[2月26日]]:午前3時ごろ、空港公団の[[モータープール]]に角材などで武装した学生風の男5人が乱入し、ブルドーザーに火炎瓶を投げつける。男らはさらにガードマン4人に襲い掛かり1人を負傷させ、ガードマンの車両のフロントガラスを破り[[タンクローリー]]からガソリンを抜いて逃亡<ref name=":6">{{Cite news|title=ホッっとした中に警戒も|newspaper=朝日新聞(夕刊)| |
**[[2月26日]]:午前3時ごろ、空港公団の[[モータープール]]に角材などで武装した学生風の男5人が乱入し、ブルドーザーに火炎瓶を投げつける。男らはさらにガードマン4人に襲い掛かり1人を負傷させ、ガードマンの車両のフロントガラスを破り[[タンクローリー]]からガソリンを抜いて逃亡<ref name=":6">{{Cite news|title=ホッっとした中に警戒も|newspaper=朝日新聞(夕刊)|date=1971-02-26|page=11}}</ref>。友納千葉県知事が、27日から3月1日までの代執行の停止を表明する<ref name=":5" />。少年行動隊の生徒らが通う小中学校の校長らが砦を訪れて説得を試みるが、生徒らは闘争現場から離れることを拒絶。北原事務局長に面会を打ち切られ退去した校長らは、空港公団理事と県警警務部長に生徒の安全確保を申し入れる。少年行動隊が公団分室に向かい、そこにいた県教育長や公団理事と口論するが話は平行線のままで、少年たちは口々に公団を罵りながら退出<ref name=":0" /><ref name=":6" />。なお、少年行動隊が公団分室に訪れると職員が茶を出すなど、牧歌的なやり取りもあった<ref>{{Cite news|title=もう一つの三里塚|newspaper=朝日新聞|date=1971-02-27|page=23}}</ref>。 |
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**[[2月27日]] - [[3月1日]]:代執行が一時中止される。少年行動隊も登校を再開する<ref>{{Cite news|title=少年行動隊も登校|newspaper=朝日新聞(夕刊)| |
**[[2月27日]] - [[3月1日]]:代執行が一時中止される。少年行動隊も登校を再開する<ref>{{Cite news|title=少年行動隊も登校|newspaper=朝日新聞(夕刊)|date=1971-02-27|page=9}}</ref>。その間に反対派と空港公団の双方で砦や金網の補修・補強が行われる<ref>{{Cite news|title=激突は中断したが… 成田空港代執行|newspaper=朝日新聞|date=1971-03-01|page=9}}</ref>。 |
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**[[3月2日]]:代執行が再開され、全地点に執行宣言<ref>{{Cite news|title=成田、トリデの撤去開始 代執行宣言|newspaper=読売新聞(夕刊)| |
**[[3月2日]]:代執行が再開され、全地点に執行宣言<ref>{{Cite news|title=成田、トリデの撤去開始 代執行宣言|newspaper=読売新聞(夕刊)|date=1971-03-02|page=1}}</ref>。機動隊が2,300人に増強される。これに対し反対同盟と新左翼党派が対峙。事前に反対同盟が行っていた呼びかけに応じて「野次馬」約3,000人が現地に"ショー"の見物に現れ、約1800台のマイカーやバスで周辺の空き地は埋め尽くされ、野次馬相手のカー・レストラン、牛乳屋、コーラ屋が盛況という有様であった。中に紛れ込んだ支援学生らのアジテーションを受けた野次馬は、妨害をやめるよう求める機動隊の呼びかけを無視して、投石を行ったり阻止線を作るなどして、終始反対同盟側を支援した(逆に私服警官と誤認されて学生に追い掛け回される者もいた){{sfn|公安調査庁|1993|pp=19-22}}<ref>{{Cite news|title=きょう群衆も規制 成田代執行抵抗激しく難航|newspaper=朝日新聞|date=1971-03-03|page=1}}</ref><ref name=":7">{{Cite news|title=成田にヤジ馬3000人|newspaper=朝日新聞|date=1971-03-03|page=3}}</ref><ref name=":8">{{Cite news|title=成田 野次馬で混乱|newspaper=読売新聞|date=1971-03-03|page=15}}</ref>。更にテレビ局が中継車を反対同盟の砦に横付けしたため、機動隊と空港公団はほぼ手を出せぬまま撤収する。投石した学生を逮捕しようとした警視庁特務係の私服警官1人が逆に学生集団に拉致されて暴行される。警官は反対同盟の救護班に助け出され、反対同盟の野戦病院で手当てを受けてから成田赤十字病院へ搬送される。その後、救助に駆け付けた機動隊が野戦病院を包囲するが、既に当人がいないことが判明して引き揚げる<ref name=":7" />。同日、故小川明治副委員長の四十九日の慰霊祭が砦内でとり行われる。この日の逮捕者は高校生を含む13人。反対派の負傷者20人、成田日赤病院への緊急搬送3人。警察発表では警官ら46人が負傷<ref name=":8" />。 |
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**[[3月3日]]:機動隊が3,000人に増強され、現場周辺の道路で「野次馬」を閉め出す検問を開始。土砂降りの雨の中の衝突となる。逮捕者19人。反対同盟発表の反対派の負傷者101人。警察官91人・ガードマン10人・公団職員4人・報道関係者5人が負傷<ref>{{Cite news|title=「成田」代執行混とん|newspaper=読売新聞|date=1971-03-04|publication-date=1971-03-04|page=1}}</ref>。双方にかなりの負傷者が出たことや雨によって地下壕の地盤が弱くなっていることを踏まえ、友納千葉県知事が翌日の代執行中止を発表<ref>{{Cite news|title=成田代執行 双方200余人けが|newspaper=朝日新聞| |
**[[3月3日]]:機動隊が3,000人に増強され、現場周辺の道路で「野次馬」を閉め出す検問を開始。土砂降りの雨の中の衝突となる。逮捕者19人。反対同盟発表の反対派の負傷者101人。警察官91人・ガードマン10人・公団職員4人・報道関係者5人が負傷<ref>{{Cite news|title=「成田」代執行混とん|newspaper=読売新聞|date=1971-03-04|publication-date=1971-03-04|page=1}}</ref>。双方にかなりの負傷者が出たことや雨によって地下壕の地盤が弱くなっていることを踏まえ、友納千葉県知事が翌日の代執行中止を発表<ref>{{Cite news|title=成田代執行 双方200余人けが|newspaper=朝日新聞|date=1971-03-04|page=1}}</ref>。この日から反対同盟から「壊し屋」と呼ばれた屈強な工事作業員による撤去作業が行われる。 |
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**[[3月4日]]:代執行が一時中止。 |
**[[3月4日]]:代執行が一時中止。 |
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**[[3月5日]]:機動隊がさらに3,500人に増強される。重機を投入した代執行側に反対派は火炎瓶で対抗し、この日から翌日にかけて最大の攻防戦が行われる。千葉県警検挙隊員3人が拉致されて暴行される。逮捕者65人。反対派の負傷者259人(反対同盟発表)。代執行側の負傷者は121人(県発表)<ref>{{Cite news|title=第五トリデが中心か 成田、きょうも代執行|newspaper=朝日新聞| |
**[[3月5日]]:機動隊がさらに3,500人に増強される。重機を投入した代執行側に反対派は火炎瓶で対抗し、この日から翌日にかけて最大の攻防戦が行われる。千葉県警検挙隊員3人が拉致されて暴行される。逮捕者65人。反対派の負傷者259人(反対同盟発表)。代執行側の負傷者は121人(県発表)<ref>{{Cite news|title=第五トリデが中心か 成田、きょうも代執行|newspaper=朝日新聞|date=1971-03-06|page=1}}</ref>。ガードマンが投石や奪った竹槍で殴り返すなどの過剰警備を行い、機動隊に諫められる。ガードマンの中には元地権者もいたが、これらの「暴走」を行ったのは主に東京から来た者たちであったという<ref>{{Cite news|title=おじさんは知ってるの? 成田空港用地|newspaper=朝日新聞|date=1971-03-06|page=23}}</ref>。 |
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**[[3月6日]]:「地下壕」を除き、機動隊は砦などの第3・4・5地点の反対派拠点を高圧放水などで制圧。「[[故郷 (唱歌)|故郷]]」を歌う支援学生がしがみついている第5地点の松の木が、[[チェーンソー]]で切り倒される<ref name=":0" />。千葉県は「地下壕」は対象外であるとして、「'''(第一次)代執行終了'''」を宣言。13日間の代執行で反対派の竹槍・投石・火炎瓶等による攻撃で警官・職員・作業員ら1,171人が負傷し、反対派の逮捕者は |
**[[3月6日]]:「地下壕」を除き、機動隊は砦などの第3・4・5地点の反対派拠点を高圧放水などで制圧。「[[故郷 (唱歌)|故郷]]」を歌う支援学生がしがみついている第5地点の松の木が、[[チェーンソー]]で切り倒される<ref name=":0" />。千葉県は「地下壕」は対象外であるとして、「'''(第一次)代執行終了'''」を宣言。この日の逮捕者は186人{{sfn|公安調査庁|1993|pp=19-22}}。13日間の代執行で反対派の竹槍・投石・火炎瓶等による攻撃で警官・職員・作業員ら1,171人が負傷し、反対派の逮捕者は487人{{sfn|公安調査庁|1993|pp=19-22}}にのぼった。以降、反対派のゲリラ攻撃が活発化する。 |
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**[[3月7日]]:反対同盟が「緊急抗議集会」を約1,500人で開催。反対同盟は負傷者続出を理由として県知事・空港公団総裁・千葉県警本部長らの[[告訴・告発|告発]]を決定する。十日間の第一次代執行期間で逮捕者461人、負傷者841人うち重傷43人。[[橋本登美三郎]][[運輸大臣]]が「これで反対派の農民も、いくら抵抗してもだめだとわかったろう(中略)二、三日もすれば、農民も話し合いに乗ってくるだろう」と発言<ref> |
**[[3月7日]]:反対同盟が「緊急抗議集会」を約1,500人で開催。反対同盟は負傷者続出を理由として県知事・空港公団総裁・千葉県警本部長らの[[告訴・告発|告発]]を決定する。十日間の第一次代執行期間で逮捕者461人、負傷者841人うち重傷43人。[[橋本登美三郎]][[運輸大臣]]が「これで反対派の農民も、いくら抵抗してもだめだとわかったろう(中略)二、三日もすれば、農民も話し合いに乗ってくるだろう」と発言<ref>{{Cite journal|date=1971-03-07|title=農民はムダな抵抗|journal=朝日新聞|page=3}}</ref>。 |
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**[[3月8日]]:空港公団と機動隊が、現場判断でブルドーザーによる「地下壕」の一部埋め立てを実施。 |
**[[3月8日]]:空港公団と機動隊が、現場判断でブルドーザーによる「地下壕」の一部埋め立てを実施。 |
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**[[3月9日]]:反対同盟及び支援者は8日の撤去作業に法的根拠がないとして強く抗議。現場に駆けつけた[[山本力蔵]]空港公団副総裁<ref>{{ |
**[[3月9日]]:反対同盟及び支援者は8日の撤去作業に法的根拠がないとして強く抗議。現場に駆けつけた[[山本力蔵]]空港公団副総裁<ref>{{Citation|author=小川国彦|title=心は野にありて―回想録|date=|year=2004|accessdate=|publisher=朝日新聞社出版局|page=102|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>と反対同盟の間で交渉が持たれ、撤去作業の中断・休戦・反対同盟による地下壕で立て籠もるメンバーの説得を約した協定書が結ばれる。 |
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**[[3月24日]]:空港公団が、反対同盟が協定に反して「地下壕」の強化を行い、且つ再三の警告を無視したことを理由に、協定の破棄を戸村反対同盟代表に通知。 |
**[[3月24日]]:空港公団が、反対同盟が協定に反して「地下壕」の強化を行い、且つ再三の警告を無視したことを理由に、協定の破棄を戸村反対同盟代表に通知。 |
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**[[3月25日]]:機動隊4,000人が動員され、空港公団はブルドーザーや大型[[ユンボ]]を用いて8日に撤去しきれなかった頑丈な「地下壕」を撤去。 |
**[[3月25日]]:機動隊4,000人が動員され、空港公団はブルドーザーや大型[[ユンボ]]を用いて8日に撤去しきれなかった頑丈な「地下壕」を撤去。 |
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=== 第二次代執行 === |
=== 第二次代執行 === |
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*1971年 |
*1971年 |
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**[[ |
**[[2月3日]]:特定公共事業認定(1970年12月28日)に基づき、空港公団が5件33筆について千葉県収用委員会に対し緊急裁決の申立{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}{{sfn|空港公団|1987|pp=58-60}}。 |
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**[[3月20日]]:県収用委員会が緊急裁決の申立にかかる審理を開始{{Efn|平和の塔の審理:3月20日(第1回)・3月29日(第2回)・4月22日(第3回)・5月4日(第4回)<br />反対同盟系の審理:3月23日(第1回)・3月24日(第2回)・4月27日(第3回)・5月4日(第4回)<br />個人の審理:3月27日{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}}}{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。 |
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**[[9月6日]]:駒井野団結小屋に土地収用法違反(収用地内の形質の変更)容疑で千葉県警が家宅捜査<ref name=":9" />。 |
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**[[6月12日]]:千葉県[[収用委員会]]が、明け渡し期限を8月12日とする第二次収用の緊急裁決を下す<ref name=":0" group="根拠法令" />{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}{{sfn|千葉県警|1989|p=489}}。 |
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**[[8月13日]]:空港公団が、県知事に対し10件25筆について第二次代執行を請求{{sfn|千葉県警|1989|p=489}}。 |
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**[[8月18日]]:丹羽喬四郎運輸大臣が反対同盟に会談を申し入れる{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。 |
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**[[8月24日]]:反対同盟が運輸大臣との会談を拒否{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。 |
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**[[9月1日]]:県知事による土地明け渡しの戒告書が緊急採決地の土地所有者・関係者に対し発送される<ref name=":1" group="根拠法令" />{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}。 |
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**[[9月6日]]:駒井野団結小屋に土地収用法違反(収用地内の形質の変更)容疑で千葉県警が家宅捜査<ref name=":9" />。反対同盟が千葉地裁に対し戒告処分取消請求と代執行停止申立を行う{{sfn|千葉県警|1989|p=489}}。 |
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**[[9月7日]]:県内に甚大な被害をもたらした昭和46年台風第25号により、反対派の地下要塞が水浸しとなる。 |
**[[9月7日]]:県内に甚大な被害をもたらした昭和46年台風第25号により、反対派の地下要塞が水浸しとなる。 |
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**[[9月10日]]:天浪団結小屋に土地収用法違反容疑で千葉県警が家宅捜査<ref name=":9" />。 |
**[[9月10日]]:天浪団結小屋に土地収用法違反容疑で千葉県警が家宅捜査<ref name=":9" />。 |
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**[[9月11日]]:県知事による代執行令書が第二次代執行地4件5筆の関係者72人に対して発送される<ref name=":1" group="根拠法令" />'''{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}'''{{sfn|千葉県警|1989|p=489}}。 |
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**[[9月13日]]:警察庁において、関東管区各警察本部長レベルが出席して第二次代執行の警備実施計画について会議が開かれ、千葉県警が出してきた計9000人を動員する計画に警察庁が難色を示し、3分の2の6400人に動員規模を削減される<ref name=":9" />。 |
**[[9月13日]]:警察庁において、関東管区各警察本部長レベルが出席して第二次代執行の警備実施計画について会議が開かれ、千葉県警が出してきた計9000人を動員する計画に警察庁が難色を示し、3分の2の6400人に動員規模を削減される<ref name=":9" />。 |
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**[[9月15日]]:午後3時 |
**[[9月15日]]:午前2時10分頃、[[小松製作所]]に置いてあった4台のブルドーザーに火炎瓶が投げられ、配線などを焼く。午後3時頃、駒井野団結小屋を捜索中の機動隊員が、草むらの中から火炎瓶250本・[[ガソリン]]入りタンク5個・[[濃硫酸]]入り試験管50本・[[塩素酸カリウム]]をしみこませた濾過紙30枚等を発見<ref>{{Cite journal|date=1971-09-16|title=緊迫の夜、学生ら集結|journal=毎日新聞|page=23}}</ref>。中核派が初めて独自の記者会見を農民の同席なく三里塚で行い、第二次代執行での抵抗作戦の意味を全学連委員長が語る<ref name=":9" />。 |
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**[[9月16日]]:5件6筆の建設予定地に対し、'''第二次代執行が開始される'''。数百名の「ゲリラ部隊」が各所で後方警備の機動隊を襲撃。この日の逮捕者375名。 |
**[[9月16日]]:5件6筆{{Efn|ただし、小泉よねの土地への代執行は20日から。}}の建設予定地に対し、'''第二次代執行が開始される{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}'''。数百名の「ゲリラ部隊」が各所で後方警備の機動隊を襲撃。この日の逮捕者375名。小泉よねあての代執行令書が発送される'''{{sfn|空港公団|1987|pp=278-298}}'''。 |
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**午前5時:大清水付近で三里塚へ向かう警視庁部隊の車両に玉ねぎ型の爆弾4発、マジックインキの大瓶を転用した爆弾1発が投げられ、うちマジックインキ爆弾のみが破裂。警察部隊の1人が負傷。同じ頃、三里塚十字路の西約2キロの路上に太釘の出た板が多数置かれ、車両部隊の数台がパンク。福島小隊(堀田大隊所属)が三里塚に向けて神奈川署から出発<ref name=":9" />。 |
**午前5時:大清水付近で三里塚へ向かう警視庁部隊の車両に玉ねぎ型の爆弾4発、マジックインキの大瓶を転用した爆弾1発が投げられ、うちマジックインキ爆弾のみが破裂。警察部隊の1人が負傷。同じ頃、三里塚十字路の西約2キロの路上に太釘の出た板が多数置かれ、車両部隊の数台がパンク。福島小隊(堀田大隊所属)が三里塚に向けて神奈川署から出発<ref name=":9" />。 |
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**午前6時、大清水の県道を学生が木材などでバリケード封鎖<ref name=":9" />。 |
**午前6時、大清水の県道を学生が木材などでバリケード封鎖<ref name=":9" />。 |
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*:午前6時45分:天浪で作業開始宣言 |
*:午前6時45分:天浪で作業開始宣言{{sfn|千葉県警|1989|p=490}}。 |
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*:午前7時頃:東峰十字路近辺で神奈川県警から応援派遣されていた臨時編成の特別機動隊(堀田大隊)がゲリラ部隊の急襲を受けて潰走('''[[東峰十字路事件]]'''、逃げ遅れた福島小隊長を含む隊員3名が火炎瓶による全身火傷・鉄パイプ等での殴打により殉職、80名以上の隊員が重軽傷を負う)。 |
*:午前7時頃:東峰十字路近辺で神奈川県警から応援派遣されていた臨時編成の特別機動隊(堀田大隊)がゲリラ部隊の急襲を受けて潰走('''[[東峰十字路事件]]'''、逃げ遅れた福島小隊長を含む隊員3名が火炎瓶による全身火傷・鉄パイプ等での殴打により殉職、80名以上の隊員が重軽傷を負う){{sfn|公安調査庁|1993|pp=22-24}}。 |
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*:午前7時8分:本部無線に「現在地不明、多数のゲリラと交戦中」と連絡<ref name=":9" />。 |
*:午前7時8分:本部無線に「現在地不明、多数のゲリラと交戦中」と連絡<ref name=":9" />。 |
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*:午前7月13分:堀田大隊長からの報告により攻撃を受けている大隊の所在が確認され、朝日台三差路付近にいた管区機動隊関根大隊が応援出動<ref name=":9" />。 |
*:午前7月13分:堀田大隊長からの報告により攻撃を受けている大隊の所在が確認され、朝日台三差路付近にいた管区機動隊関根大隊が応援出動<ref name=":9" />。 |
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*:午前7時40分:駒井野団結小屋南西側の[[大清水 (成田市)|大清水]]地区を走っていた千葉県警察のパトカーが火炎瓶で放火され炎上。 |
*:午前7時40分:駒井野団結小屋南西側の[[大清水 (成田市)|大清水]]地区を走っていた千葉県警察のパトカーが火炎瓶で放火され炎上{{sfn|大坪|1978|pp=132-134}}。 |
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*:午前8時 |
*:午前8時すぎ:木の根団結小屋での排除作業が始まる{{sfn|千葉県警|1989|p=490}}。 |
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*:午前8時8分:警視庁機動隊が駒井野団結小屋の排除に出動<ref name="document127131" />。 |
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*:午前8時17分:成田赤十字病院に搬送中の福島小隊長が死亡<ref name=":9" />、「運び込まれた警察官4人のうち1人が死亡」との一報が入る。 |
*:午前8時17分:成田赤十字病院に搬送中の福島小隊長が死亡<ref name=":9" />、「運び込まれた警察官4人のうち1人が死亡」との一報が入る。 |
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*:午前8時35分頃:大清水三叉路で検問を行っていた警視庁第九機動隊と過激派の学生たちが衝突。[[過激派]]が投擲した爆発物により同隊の中隊長([[警部]])らが負傷。 |
*:午前8時35分頃:大清水三叉路で検問を行っていた警視庁第九機動隊と過激派の学生たちが衝突。[[過激派]]が投擲した爆発物により同隊の中隊長([[警部]])らが負傷。 |
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*:午前9時:川上千葉県副知事が「死亡事故が起きたので、作業中止を」と荒木貞一千葉県警警備本部長に申し入れるが、荒木本部長は「死亡した警官は、中止を喜ばないはずです。代執行を完全に終了することが、霊を慰める唯一の道です」と拒否<ref name=":9" />。 |
*:午前9時:川上千葉県副知事が「死亡事故が起きたので、作業中止を」と荒木貞一千葉県警警備本部長に申し入れるが、荒木本部長は「死亡した警官は、中止を喜ばないはずです。代執行を完全に終了することが、霊を慰める唯一の道です」と拒否<ref name=":9" />。 |
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*:午前9時すぎ:京成成田駅で急行電車から降りてきた赤ヘルの学生ら二十数人が旗竿を突出して警官隊と衝突。石や火炎瓶が投げつけられ、待合室が焼かれ一般客が逃げまどう。駅前の乗用車のガラスが割られ、土産物屋にも被害<ref name=":1">1971 |
*:午前9時すぎ:京成成田駅で急行電車から降りてきた赤ヘルの学生ら二十数人が旗竿を突出して警官隊と衝突。石や火炎瓶が投げつけられ、待合室が焼かれ一般客が逃げまどう。駅前の乗用車のガラスが割られ、土産物屋にも被害<ref name=":1">{{Cite journal|date=1971-09-16|title=成田決戦 ついに犠牲者|journal=朝日新聞(夕刊)|page=11}}</ref>。 |
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*:午前9時15分:埼玉県警・千葉県警連合機動隊が天浪団結小屋排除に出動。 |
*:午前9時15分:埼玉県警・千葉県警連合機動隊が天浪団結小屋排除に出動。 |
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*:午前9時35分:[[UPI通信社|UPI通信]]が「成田空港で警察殺さる」と全世界に打電<ref name=":9" />。 |
*:午前9時35分:[[UPI通信社|UPI通信]]が「成田空港で警察殺さる」と全世界に打電<ref name=":9" />。 |
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*:午前9時40分:柏村巡査部長が全身打撲によるショックで、成田市藤倉病院で死亡<ref name=":9" />。 |
*:午前9時40分:柏村巡査部長が全身打撲によるショックで、成田市藤倉病院で死亡<ref name=":9" />。 |
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*:午前10時5分:森井巡査が頭蓋骨骨折で空港公団分室救護室で死亡<ref name=":9" />。 |
*:午前10時5分:森井巡査が頭蓋骨骨折で空港公団分室救護室で死亡<ref name=":9" />。 |
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*:午前10時15分:空港南端の報道用ヘリポートに過激派学生が侵入して火炎瓶を投げつけ、TBSがチャーターした朝日ヘリコプター(現・[[朝日航洋]])の機体が炎上<ref>{{Cite journal|date=1971-09-16|title=だれのためか 農民不在のゲバ|journal=毎日新聞(夕刊)|page=10}}</ref>。 |
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*:午前11時前:社会党一坪運動地での立ち木切り倒し等の作業が完了する。白ヘルメットの反戦グループ十数人が三里塚駐在所になだれ込み、ガラスや木戸を破壊したうえ、勤務中だった巡査部長に「てめえデカか、殺すぞ」と火炎瓶で脅す<ref name=":1" />。駐在所員の妻が学生らに対し、「中には一歩も入れません」と立ち向かう<ref>{{Cite news|title=【羽成哲郎のぴーなっつ通信】警察官の心意気伝えたい|last=INC.|first=SANKEI DIGITAL|url=https://www.sankei.com/life/news/131102/lif1311020033-n1.html|accessdate=2018-09-06|language=ja-JP|work=産経ニュース}}</ref>。 |
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*:午前10時45分:社会党一坪運動地での排除が行われ、労組員・社青同系学生らが糞尿弾や投石を行うが千葉県警機動隊により数十分で排除される。11時15分に立ち木切り倒し等の代執行が完了する{{sfn|千葉県警|1989|p=491}}。 |
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*:正午過ぎ:埼玉県警機動隊が出動していた木の根で、地下壕にこもる反対派が説得に応じ収用が完了する。 |
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*:午前11時前:白ヘルメットの反戦グループ十数人が三里塚駐在所になだれ込み、ガラスや木戸を破壊したうえ、勤務中だった巡査部長に「てめえデカか、殺すぞ」と火炎瓶で脅す<ref name=":1" />。駐在所員の妻が学生らに対し、「中には一歩も入れません」と立ち向かう<ref>{{Cite news|title=【羽成哲郎のぴーなっつ通信】警察官の心意気伝えたい|url=https://www.sankei.com/life/news/131102/lif1311020033-n1.html|accessdate=2018-09-06|work=産経ニュース|date=2013-11-02}}</ref>。 |
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*:正午過ぎ:埼玉県警機動隊が出動していた木の根団結小屋で、地下壕にこもる反対派が説得に応じ全員外に出る。午後1時40分、代執行終了が宣言される{{sfn|公安調査庁|1993|pp=22-24}}{{sfn|千葉県警|1989|p=491}}。 |
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*:午後0時3分:天浪団結小屋が制圧される。 |
*:午後0時3分:天浪団結小屋が制圧される。 |
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*:午後0時30分:駒井野団結小屋に機動隊が突入する |
*:午後0時30分:駒井野団結小屋に機動隊が突入する |
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*:午後3時15分:駒井野団結小屋の鉄塔が倒れる。 |
*:午後3時15分:駒井野団結小屋の鉄塔が倒れる{{sfn|公安調査庁|1993|pp=22-24}}。 |
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*:午後3時35分:天浪団結小屋における代執行班による撤去と井戸の埋め立てが完了する{{sfn|飯高|1976|pp=178-185}}。 |
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*:この日、建設現場各所で作業小屋等35棟が放火される<ref>大和田武士 鹿野幹夫『「ナリタ」の物語』崙書房、2010年、35頁。</ref>。 |
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*:この日、建設現場各所で作業小屋等35棟が放火される{{sfn|大和田|鹿野|2010|p=35}}。 |
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**[[9月17日]]:千葉県警は、反対同盟戸村代表宅や各団結小屋などの反対派拠点、都内13ヶ所の党派事務所を「[[殺人罪 (日本)|殺人]]、殺人未遂、[[公務の執行を妨害する罪|公務執行妨害]]、[[凶器準備集合罪・凶器準備結集罪|凶器準備集合]]、[[爆発物取締罰則]]違反」の容疑で一斉に家宅[[捜索]]を行う。 |
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**[[9月17日]]:千葉県警が、反対同盟戸村代表宅・各団結小屋などの反対派拠点や都内の党派事務所13ヶ所を「[[殺人罪 (日本)|殺人]]・殺人未遂・[[公務の執行を妨害する罪|公務執行妨害]]・[[凶器準備集合罪・凶器準備結集罪|凶器準備集合]]・[[爆発物取締罰則]]違反」の容疑で一斉に家宅[[捜索]]を行う。 |
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**[[9月19日]]:友納知事が報道陣に対し警備陣の疲れなどを理由に代執行を21日に延期すると発表<ref>朝日新聞成田支局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年、47p</ref>。これを受け支援学生の主力部隊3,000人が帰京。 |
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**[[9月18日]]:杉並署高円寺駅前派出所が爆破される。杉並区上萩の陸橋の交通看板に「叛軍」「成田空港建設反対」と墨で上書きしたうえに同陸橋が火炎瓶で放火される<ref>{{Cite journal|date=1971-09-18|title=交番で時限爆弾破裂|journal=朝日新聞(夕刊)|page=11}}</ref>。 |
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**[[9月20日]]:1,000人の機動隊と伴に代執行実施班220人が現れ、'''小泉よね宅を強制収用'''。友納知事の会見を受けて、支援者らが引き上げたところを急襲される形となり、現場に居た反対派200人は、不意を突かれて抵抗する間もなかった。よねは住まいから連れ出されたうえ、前歯を折る怪我をした<ref>NHKオンライン『[http://www.nhk.or.jp/shutoken/net/report/20160704.html 成田闘争”50年 その教訓を語り継ぐ思いとは]』、2017年2月4日閲覧。</ref>。よね宅の撤去は2時間で完了、'''第二次行政代執行が終了'''する。最初で最後の居住宅に対する行政代執行となった。 |
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**[[9月19日]]:友納知事が報道陣に対し警備陣の疲れなどを理由に代執行を21日に延期すると発表{{sfn|朝日新聞|1998|p=47}}。これを受け支援学生の主力部隊3,000人が帰京。 |
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*:同日夜から翌日にかけて、青年行動隊主導のもと学生集団が小泉よね宅への「騙し討ち」への報復として工事関係業者の[[飯場]]など20棟を火炎瓶で襲撃して回った。[[火災]]で焼け出された者達の中には、子供がいる出稼ぎの一家も含まれており、脱出させようと身を盾にした十数人の[[警備員]]が、反対派によって袋叩きにされる<ref name="chihou610923"/>。 |
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**[[9月20日]]:1,000人の機動隊と伴に代執行実施班220人が現れ、'''小泉よね宅を強制収用'''。友納知事の会見を受けて、支援者らが引き上げたところを急襲される形となり、現場に居た反対派200人は、不意を突かれて抵抗する間もなかった。よねは住まいから連れ出されたうえ、前歯を折る怪我をした<ref>NHKオンライン『[http://www.nhk.or.jp/shutoken/net/report/20160704.html 成田闘争”50年 その教訓を語り継ぐ思いとは]』、2017年2月4日閲覧。</ref>。よね宅の撤去は2時間で完了、午後2時55分'''第二次行政代執行が終了'''する{{sfn|千葉県警|1989|p=493}}。最初で最後の居住宅に対する行政代執行となった。 |
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*:代執行期間中の反対派ゲリラは23件、飯場28棟が[[放火]]で焼かれ、工事作業員650人が焼け出された。更にダンプカー・ブルドーザー・警察車両が焼き討ちされ、被害総額は3億円を超えた。警察発表によれば、動員された機動隊は述べ22,000人、反対派は12,945人、逮捕者475人、警察官の死者3人・重軽傷者206人であった(反対派の負傷者は多数とのみ)<ref> [[#大坪景章|大坪景章(1978年)]]137頁</ref>。 |
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*:同日夜から翌日にかけて、青年行動隊主導のもと学生集団が小泉よね宅への「騙し討ち」への報復として工事関係業者の[[飯場]]など20棟を火炎瓶で襲撃して回った。[[火災]]で焼け出された者達の中には、子供がいる出稼ぎの一家も含まれており、脱出させようと身を盾にした[[テイケイ|帝国警備]]の[[警備員]]十数人が、反対派によって袋叩きにされる<ref name="chihou610923"/><ref>{{Cite journal|date=1971-09-21|title=夜明けのゲリラ 5むね焼き打ち|journal=読売新聞(夕刊)|page=11}}</ref>。 |
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*:代執行期間中の反対派ゲリラは23件、飯場28棟が[[放火]]で焼かれ、工事作業員650人が焼け出された。更にダンプカー・ブルドーザー・警察車両が焼き討ちされ、被害総額は3億円を超えた。警察発表によれば、動員された機動隊は述べ22,000人、反対派は12,945人、逮捕者475人、警察官の死者3人・重軽傷者206人であった(反対派の負傷者は多数とのみ)<ref name="document136137" />。 |
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**[[9月21日]]:「地下壕」に立て篭もっていた農民3名が機動隊によって排除され、うち農民1名が逮捕される。機動隊3,000名が捜索中に遭遇した反対派支援者ら約60人を連行。その夜、大清水に設営された「野戦病院」に機動隊約100名が突入。深夜、機動隊約500名が環視する中、反対派による飯場への放火で焼け出されて激昂した工事作業員が無人の千代田団結小屋「市民の家」を放火、全焼させる。 |
**[[9月21日]]:「地下壕」に立て篭もっていた農民3名が機動隊によって排除され、うち農民1名が逮捕される。機動隊3,000名が捜索中に遭遇した反対派支援者ら約60人を連行。その夜、大清水に設営された「野戦病院」に機動隊約100名が突入。深夜、機動隊約500名が環視する中、反対派による飯場への放火で焼け出されて激昂した工事作業員が無人の千代田団結小屋「市民の家」を放火、全焼させる。 |
||
**[[9月22日]]:代執行に出動した警視庁第四機動隊の独身寮が爆破される<ref>{{Cite journal|date=1971-09-22|title=機動隊寮に鉄パイプ爆弾|journal=朝日新聞(夕刊)|page=11}}</ref>。 |
|||
**[[9月27日]]:反対同盟が、友納知事・[[川上紀一]]副知事らを、9月16日の「駒井野鉄塔」撤去に関して「殺人未遂」で、[[千葉地方検察庁]]に告発する。 |
**[[9月27日]]:反対同盟が、友納知事・[[川上紀一]]副知事らを、9月16日の「駒井野鉄塔」撤去に関して「殺人未遂」で、[[千葉地方検察庁]]に告発する。 |
||
**[[10月1日]]:青年行動隊の三ノ宮文男が |
**[[10月1日]]:青年行動隊の三ノ宮文男が[[自殺]]{{sfn|原口|2000|p=204}}。 |
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**[[10月11日]]:友納知事や県議らが「これ以上知事に代執行させず、政府・空港公団がもっと真剣に反対同盟と話し合え」と、[[運輸省]]航空局長と空港公団総裁に申し入れる。 |
**[[10月11日]]:友納知事や県議らが「これ以上知事に代執行させず、政府・空港公団がもっと真剣に反対同盟と話し合え」と、[[運輸省]]航空局長と空港公団総裁に申し入れる<ref name="document136137" />。 |
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* {{Citation|和書|title=成田空港365日 {{small|1965-2000}}|publisher=[[崙書房]]|year=2000|month=5|ISBN=978-4845510672|last=原口|first=和久}} |
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2021年11月25日 (木) 23:35時点における版
強制代執行阻止闘争 | ||||
---|---|---|---|---|
三里塚闘争内で発生 | ||||
日時 | 1971年2月22日から3月6日(第一次代執行)、9月16日から9月20日(第二次代執行) | |||
場所 | 千葉県成田市 | |||
原因 | 政府が未買収地の強制収用を強行したため | |||
目的 | 土地収用の阻止 | |||
手段 | 団結小屋の要塞化・地下壕の建設、座り込み・立て篭もり、屎尿・火炎瓶の投擲、ゲバルト棒・竹槍による殴打・刺突 | |||
結果 | 警察官の殉職(東峰十字路事件)、対象用地の収用完了 | |||
参加集団 | ||||
指導者 | ||||
死傷者数 | ||||
死者 | 3人 |
成田空港予定地の代執行(なりたくうこうよていちのだいしっこう)は、1971年に新東京国際空港(現・成田国際空港)建設予定地で実施された、未買収地への公共用地の取得に関する特別措置法・土地収用法・行政代執行法に基づく行政代執行である。
2月22日から3月6日まで実施された第一次代執行と9月16日から9月20日にかけて実施された第二次代執行がある。いずれにおいても機動隊や新東京国際空港公団が雇った作業員らによって団結小屋等の排除が行われたが、空港建設反対派の地元住民や支援に来た新左翼セクトが激しく抵抗して双方に多くの負傷者を出し、特に第二次代執行では実施中に東峰十字路事件が発生し警察官3人が集団暴行により殉職した。また、地元農民が居住する民家1軒の強制収用も行われた。
概要
代執行に至るまでの経緯
新東京国際空港建設は、日本国政府側の説明・根回し不足により、地元住民らの猛反発を招いた。更に機動隊の投入等の強硬措置が取られたことで、地元住民らが当初革新政党指導のもとで結成した三里塚芝山連合空港反対同盟(以下、反対同盟)は、実力闘争を行って台頭していた当時の学生を中心とする新左翼を頼り、事態はより一層複雑化した[1]。
空港の設置を行う新東京国際空港公団(以下、空港公団)は、空港予定地内民有地の約9割を取得し、計画の半分の施設を1期工事で建設して開港にこぎつけようとした。しかし、未買収地は依然残されており、その中には空港に絶対不可欠な滑走路予定地も含まれていた。空港公団は1期工事区域内の土地所有者9人との用地買収交渉を重ねたが、成果は上がらなかった[2]。
一方東京国際空港(羽田空港)では、発着回数がその処理能力を超えたために、着陸時の上空待機・離陸時の遅延などの現象が現れ減便調整を余儀なくされており、一刻も早い国際線の移管が求められていた[3]。用地交渉の担当者からは任意の売買による用地取得を続けるべきとの声もあったが[注釈 1][7]、新空港の早期開港を目指す政府に急き立てられるようにして、空港公団は公権力による用地取得、即ち土地収用を実施するため手続きを進めていった[2][8]。
1969年12月16日、新東京国際空港建設事業は、建設大臣からの事業認定を受けた[根拠法令 1][9]。これにより空港建設は公共事業として扱われ、地権者の意思にかかわらず、千葉県収用委員会の採決を条件として、千葉県知事の権限で行政代執行法の手続きのもと必要な土地を収用することが可能になった[根拠法令 2][根拠法令 3]。収用の規模としては、「蜂の巣城紛争」で知られる下筌ダムを凌ぐ、戦後最大のものとなった[10]。
翌年から空港公団は、県収用委員会への申請に必要な土地調書及び物件調書を作成するため、未買収地への立入調査を実施した[根拠法令 4]。これに対し反対派は、子供を含む家族総出で抵抗した。1970年9月30日から10月2日に実施され『三日間戦争』と俗称される第三次立入調査では、反対同盟は「糞尿弾」「黄金爆弾」と称して人糞を詰めたポリ袋を空港公団の測量班や機動隊に投げつけるなどして抵抗し、空港公団や機動隊との激しい攻防が行われ、逮捕者が59人にも及んだ[11][12]。
1970年3月3日、空港公団は滑走路予定地の北端にあり大規模な埋め立てが必要となる谷津田の6件6筆[注釈 2]の一坪共有地1486 m2について、県収用委員会に権利取得と明渡しを求めて申請を行い、収用委員会は12月26日に収用採決を行った[9][14][15]。
更に1970年12月28日には、1期工事が建設大臣からの特定公共事業認定を受け[根拠法令 5][9]、損失補償に関して審理を尽していないものがある場合においても明渡裁決が可能となった(緊急裁決)[根拠法令 6]。
第一次代執行
前年に県収用委員会が採決した対象地6件について、空港公団は1971年1月14日から裁定に基づく損失補償金[根拠法令 7]総額190万円の支払いを開始したが、地権者は現金書留のうけとりを拒否し、期限である1月31日を迎えても明け渡されていなかったことから、友納武人千葉県知事は2月2日に2月12日までの明け渡しを定めるとともに、それまでに明け渡しがない場合は代執行を行う旨の戒告書を送った[根拠法令 8][9][14][16]。ここでも明け渡しがされなかったことから2月22日から3月14日までに代執行を行う旨の代執行令書が送付された[根拠法令 8][注釈 3][14]。
2月22日から代執行が始まると、反対同盟は立ち木やバリケードに体を縛り付けて撤去を阻み、予め青年行動隊らが掘り進めていた穴ぐらに決死隊が立て籠もることで代執行を阻害しようとした。また、茨城県の農民運動家である山口武秀の提案により、反対同盟はこれまで反対運動に加わらなかったために敵意を向けていた周辺地域に対してもビラや宣伝カーを使って代執行の現場を見に来るよう呼びかけていたことで、多くの野次馬が集結した。団結小屋に立て籠もる同盟員には、陣中見舞いを持った親戚や友人だけでなく、既に自分の土地を売り渡した条件派も激励に訪れた[18]。
代執行初日の22日は、中核派や反帝学評などの過激派約2,350人が反対同盟とともにデモ行進・アジ演説・突撃訓練などの示威行為を代執行予定地で繰り返し、代執行は早々に中止された[19]。翌23日も機動隊は投入されず、空港公団は団結小屋に手を出せずに大きな動きがないままに終わった。24日に少年行動隊が代執行実施班に体当たりして押し返し、これに対してガードマンが警棒を用いたことで小学4年生の男児と中学3年生の女生徒が負傷して入院した[20]。このような事態と群衆の中に紛れていた支援学生らの扇動を受けて、義憤に駆られた野次馬が投石などの妨害を行うようになり、代執行側の旗色が悪くなった。25日から機動隊が投入されたが野次馬の投石などにより代執行は引き続き進展せず、26日に友納知事が翌27日から3月1日までの代執行の停止を表明したことで仕切り直しとなった[21]。
代執行が再開された3月2日も野次馬の妨害[注釈 4]等により代執行の成果は上がらなかったが、翌3日に約3,000人に増強された機動隊が現地に投入され、代執行現場に通じる道での検問を実施して野次馬を阻んだことで形勢が逆転した。大雨が降り関東ロームが溶けて泥濘む中[23]、屈強な公団臨時職員[注釈 5]ら(反対同盟から「毀し屋」と呼ばれた[25])が代執行部隊の先頭に立ち、鎖で身体を括りつけた農民ごと立ち木を切り倒すなど、非情に徹して次々と立ち木や砦を撤去していった。「毀し屋」は木の上の農民を振り落とす際に網を張ったが、網にかからず地面に叩きつけられて骨折する者が続出した。「壊し屋」は構わずになおも作業を続け、その場にいた機動隊員が思わず同情したり止めに入るほどであった[注釈 6][18][27]。
4日に代執行が一時停止され、前日の事態を受けた反対派はこの間に火炎瓶を準備して翌日に備えた。5日及び6日には代執行側が重機を投入し、反対派が投げつけた火炎瓶を受けて火だるまとなった重機のオペレーターが転げ回るなどの壮絶な攻防が行われた。バリケードに開かれた突破口からの機動隊突入により団結小屋は陥落し、代執行の終了宣言が出された[21][28]。
13日間の激突での延べ動員数は反対派約2万人、機動隊約3万人。機動隊・空港公団職員・県職員・作業員のあわせて1,071人が反対派の竹槍・投石・火炎瓶等の攻撃で負傷した[29]。中には火炎瓶をまともに食らうなどして重傷を負い、退職を余儀なくされた者もいた[8]。反対同盟によれば逮捕者は461人[注釈 7]で反対派の負傷者は606人[30]。
反対派が作った穴ぐらは代執行では撤去されずに残された。一時空港公団と反対同盟の間にその取扱を巡って協定が結ばれる局面もあったが、青年行動隊らがなおも掘削・補強を続けたことを違反であるとして空港公団は協定を破棄、作業を再開し、穴ぐらは25日に撤去された[31]。このときは警察が代執行同様に野次馬対策の検問を行っただけでなく、代執行での"敗北"が既に世間に印象づけられたことや「地下壕」撤去が団結小屋の攻防ほどテレビ映えするものでなかったため、反対同盟は代執行の際のようにマスコミや野次馬の支援を得られなかった[32]。
第二次代執行
空港公団は代執行関連作業と並行して15件33筆に対して1971年2月3日に県収用委員会に対して緊急裁決の申立を行った。県収用委員会は、これを反対同盟系グループ・平和の塔グループ・その他個人に分類して審理し、1971年6月12日に空港公団からの取り下げがあった1件3筆[注釈 8]を除く14件30筆について緊急裁決をした[根拠法令 6]。明け渡し期日は8月12日とされた[9][33][34]。
空港公団は8月13日、期限内に明け渡しが履行されず将来とも履行される見込みがないとされた10件25筆について、県知事に対し代執行請求をおこなった[9]。その後明け渡しがなされたものを除いた以下の5件6筆5080 m2に対し、代執行令書が送付された[根拠法令 8][13][34]。代執行の時期は第7・第8・第9・第10地点は9月16日から29日までの間、第18地点は9月20日から10月3日までの間とされた[35]。
収用事件番号 | 所在 | 地目 | |
---|---|---|---|
第7地点 | 駒井野字天並野[注釈 9] | 原野 | 社会党一坪運動地[注釈 10]。16日は加瀬完衆議院議員・木原実参議院議員・県議7人[33]のほか、社青同・国労千葉県共闘など約100人が座り込みを行う[39]。 |
第8地点 | 天浪字大里[注釈 11] | 畑 | 天浪団結小屋。16日は反対同盟(内田寛一行動隊長、谷川たけ婦人行動隊長、少年行動隊)並びに第4インター・中核派ら約100人が立て籠もる[39][33]。 |
第9地点 | 木の根字横峰[注釈 12] | 畑 | 木の根団結小屋。16日は青年行動隊・少年行動隊並びに芝山町議ら約100人が立て籠もる[39][33]。 |
第10地点 | 駒井野字張ヶ沢[注釈 13] | 山林 | 駒井野団結小屋。16日は戸村一作反対同盟代表、北原鉱治事務局長以下支援各セクト混成団約150人が立て籠もる[33]。 |
第18地点 | 取香字馬洗[注釈 14] | 山林 | 小泉よね方家屋(取香)および敷地(古込)。 |
中でも堅牢なバリケードと地下要塞を備えた駒井野団結小屋がある第20地点の反対派排除は困難を極めることが予想された。また、第18地点は100人余の支援学生らがテントを張るなどして寝泊まりしていたとはいえ[40]反対派農家が生活する民家であり、一坪共有地や団結小屋とは性格が異なることから代執行が行われることには議論があり、友納知事自身も「生活のために反対している土地」の取得には消極的であった[41][42]。
第一次代執行での教訓から野次馬排除のための後方支援が必要とされたことに加えて対象の地点が分散していることから警察側では代執行にあたり大量の人員で警備を行う必要があり、千葉県警や警視庁だけでなく埼玉県警や神奈川県警からも応援部隊が動員された。さらに代執行の直前に在日米軍の相模総合補給廠から火薬等が盗まれたことにより、代執行中の爆弾テロ発生が警戒された。また警察側の事情として、昭和天皇の訪欧を同月27日に控えておりその警備の関係から25日までには代執行警備を終わらせる必要があったことから、地下構造物を後回しにしてでも地上構造物を最優先して撤去し拠点を潰す方針を採った[33]。
一方、大学臨時措置法が制定され大学紛争もほぼ終息する中、新左翼セクトは巻き返しを図って代執行予定地に集結した[43][44]。
代執行初日の9月16日には、第18地点を除く4地点を巡り総勢約1万人が激突した[33][45]。
代執行の開始早々に、東峰地区で後方支援をしていた神奈川県警特別機動隊がゲリラ部隊の襲撃を受けて潰走した(東峰十字路事件)。この中で3人の警察官が殺害され、現地総指揮官である川上紀一副県知事は代執行中止を検討するが、千葉県警察本部長の進言を受けて続行した[46]。
警察の主力とされた警視庁機動隊は駒井野団結小屋を、社会党一坪運動地[注釈 15]と木の根の制圧を済ませた埼玉県警機動隊・千葉県警機動隊は合同で天浪団結小屋を、それぞれ攻めることとなった。排除行動を開始した頃に、警察官死亡の報が警察無線等で伝わり、激昂した機動隊による攻勢は熾烈を極めた[47]。
天浪ではクレーン車の防石・火炎瓶対策に使っていた漁網[注釈 16]が学生らによって切断され、バリケードの丸太を倒そうとしたときにワイヤロープも切れてしまった。そこでクレーン車のアームをバリケードの土嚢にぶつけ、さらにそこへ放水することで突破口を開き[49]、正午過ぎに制圧した[47]。
駒井野では激しい火炎瓶攻撃が続き放水車の水も使い果たされたが、煙幕を張って学生らの視界を遮ったうえでショベルカーでバリケードを破壊し、午後0時半過ぎに機動隊が団結小屋内に突入した。高さ10メートルの鉄塔からはなおも学生らによる火炎瓶投擲が続けられていたが団結小屋の撤去作業が開始された。鉄塔が大人数が上に乗って動き回れるほどの強度を持たないことが判明し[注釈 17]急遽クレーンで支えようとしたが、午後3時15分に上にいた学生もろとも鉄塔が倒壊。この時火炎瓶の燃料が引火し学生らは火だるまとなった。火炎を吸った学生1人が一時意識不明の重体となったが、友納知事の要請を受けた千葉大学の香月秀雄らが成田赤十字病院で治療に当たり、一命はとりとめた。また、このとき鉄塔の下にいた撤去作業員も巻き込まれて骨折する大怪我を負った[36][47][52][45][5]。
この他に京成成田駅で改札口にいる機動隊を目掛けて火炎瓶5本が投げられたり、学生集団が自動車を倒して三里塚十字路の四方にバリケードを築き「三里塚解放区」を宣言するなどの動きがあった。セメントを150 t以上もつぎ込んだと言われる駒井野団結小屋の地下要塞の撤去作業はその後2日かけられたが、岩盤機4台がかりでも結局全てを撤去しきれず[53]、そのままA滑走路の下に埋められている。なお、代執行前に台風第25号による浸水があったため、反対派は結局この地下要塞を代執行阻止に活かすことができなかった。堅固な地下要塞を見た代執行関係者らは「この中に立て篭もられたら大変だった」と安堵した。一方、これは偶然の産物ではなく、警察側は毎日の監視で反対派の掘削作業で出される土量を把握し、地下壕がどの方向へどのくらい掘り進んでいるかを分析したうえで、夜間などに"地下に穴があるはずの地表"をパワーショベルで「から掘り」して雨水が流れ込むように予め仕込んでいたことによるともいわれる[25][46][47]。
9月19日に友納知事が代執行を延期し翌日の代執行は行わないと発表したが、翌20日に突如機動隊と作業員らが現れ、稲の脱穀をしていた小泉よねを排除して住居を撤去した。第二次代執行は最初で最後となる成田空港問題における民家への代執行実施をもって終結した。代執行の結果、空港公団は93%の地を取得した[41][55]。
形振り構わない行政の姿勢を目の当たりにした地権者の6,7割がこの後闘争を断念して移転に応じることとなったが、闘争を継続する者に対しては小泉よねへの代執行は逆に火に油を注ぐことになった[42][56]。一方、塩川正十郎が地方行政委員会で東峰十字路事件が発生した第二次代執行初日と対比して「小泉よねさんの場合は、抜き打ち的にすぽっとやりましたので、これがたいした混乱もなくして目的を達して収用いたしておるのであります。」と述べる[52]等、政府側にはこれ以上犠牲者を出さないためには不意打ちもやむなしと見る者もいた[注釈 19]。
国会の地方行政委員会で第二次代執行の報告を行った後藤田正晴警察庁長官は、「相手(反対派)方の動員は延べ12,600人、うち暴力集団が11,500人。警察官の動員数は延べで17,500人、検挙数は472名、うち女120名でございます。殉職者が3名、負傷者は224人でございますが、その内訳は、警察官が206人、うち入院いたしておる者が48名。学生は12名、うち入院5名でございます[注釈 20]。ただし、学生はこれ以上に相当の負傷者がやはり出ておると思いますが、彼らはそれが判明しますと逮捕せられるといったようなことで、当方では全員を詳細に知るというわけにはまいっておりません。その他の者が6人でございます。」と述べた[52]。なお、この頃行われた記者会見で後藤田は怒りで体を震わせながら「警官3人が殺されたために、千葉県知事が工事を一時ストップしたいと言ってきたが、そんなことは反対派を喜ばすだけではないか、やると決めたらやるべきだ、と言ってやった[注釈 21]。千葉県警本部長が辞表を持ってきたが、こんな紙切れ一枚が何になる、それより部下を殺した犯人をこの長官室まで連れてこいと言ってやった」と語っている[59][60]。
北原鉱治によれば、使用された火炎瓶は1万5千本で、後日未使用で発見された火炎瓶が更に3千本あったという[61]。反対派の矛先は代執行班や警察だけでなく、空港建設工事に携わる作業員とその家族が寝泊まりする飯場にも向かい、600人以上の作業員が焼け出された。「いったい、オレたちになんの恨みがあるんだ。燃えたのは、オレたちの月賦で買ったテレビや子供たちへのおみやげじゃないか」と彼らはやり場のない怒りを報道陣にぶつけた[46]。
元空港公団職員の回想によれば、第二次代執行でも野次馬が集結し、現場では野次馬相手に商売をしようと屋台までが建っている有様であった。更には石を投げるなどして逮捕された野次馬の中に空港公団の女性職員がいたことが判明したのだという(その女性職員はその後辞職した)[4]。
新左翼学生たちと機動隊の激しい衝突が目立った第二次代執行であったが、農民たちへの直接の暴行などは第一次代執行に比べて少なかったともいわれる[25]。
その後
日本国政府は当初、開港目標を1971年(昭和46年)4月に掲げており、同年7月に就任した丹羽喬四郎運輸大臣も「開港は昭和47年(1972年)4月」としていた。早期開港を目指して行われた代執行であったが、反対派が対抗措置として岩山鉄塔を建てたことに加えて、航空燃料パイプライン工事も進展せず、実現は絶望的となった。結局、実際の開港は代執行から7年後の1978年(昭和53年)5月20日にまでずれ込み、「伝家の宝刀」を抜いて緊急採決を行った県収用委員会の委員や、殉職者を出した警察関係者は憤慨した[注釈 22][63]。
1988年には、二期工事での強制収用再実施阻止を目論む中核派が小川彰県収用委員会会長を襲撃したほか、収用委員への強迫を繰り返した結果、県収用委員会は機能停止に追い込まれ、千葉県では空港のみならずインフラ整備全般に支障を来すことになった[64]。
1990年代に開催された成田空港問題シンポジウム及び成田空港問題円卓会議において、反対同盟旧熱田派と日本国政府の間で対話がなされた。その結果、日本国政府は平行滑走路(B滑走路)のための用地の取得においてはいかなる状況のもとにおいても強制的手段を取らないことを確約し、土地収用法の収用申請を取り下げた。千葉県収用委員会は2004年に再建されたが、その後成田国際空港に関する強制収用裁可を2021年現在に至るまで行っていない。
代執行で自宅を収用された小泉よねは、空港公団が用意した仮住居[35]への入居や仮補償の受取を拒否したまま、1973年(昭和48年)に66歳で死去するが、2015年(平成27年)に養子夫妻(三里塚闘争を支援していた活動家)が日本国政府・千葉県・成田国際空港株式会社(空港公団の後身)からの全面的な謝罪を受けて、補償解決への話し合いについて合意した[65][66][67]。
この養子は熱田派に属していたが、2021年現在も「への字誘導路」付近で農作業を継続する、北原派農家を支援する意向をその後表明している[68]。
経過
第一次代執行
- 1969年
- 1970年
- 1月15日:「強制測量粉砕・収用法粉砕全国総決起集会」が開催され、約7,000人が集結する。
- 2月18日:「事業認定取消請求訴訟」(原告28人、千葉地裁。1973目7月25日に取り下げ)[9]。
- 2月19日:土地収用法に基づく空港公団の第1次立入調査[9]に対抗し、反対同盟が「第一次強制測量阻止闘争」に取り組む(翌日まで)。「少年行動隊」に属する反対派世帯の生徒らも同盟休校と称して学校を休んで参加し、以降家族ぐるみの阻止闘争が実施される[69][70]。現地での測量は簡易に済ませ、航空測量による略式調査に切り替えられた[71]。
- 3月3日:空港公団が、千葉県収用委員会に対し第一次収用裁決を申請[9]。
- 3月13日:反対同盟が「事業認定取消請求訴訟」を起す(原告1,611人、東京地裁)[9]。
- 5月14日:「第二次強制測量阻止闘争」。滑走路用地など6箇所1.67 haに対し空港公団の第2次立入調査が実施される[9][71]。
- 6月12日:千葉県収用委員会が第一次収用裁決申請に係る公開審理を開始[9]。この日開かれた第一回公開審理を地権者ら約1,000人が傍聴。少年行動隊も「同盟休校」で闘争に参加した。反対同盟の顧問弁護士が異議を申し立てたところ発言を禁止され、怒った反対派が空港公団の事業内容説明者からマイクを奪うなどして会場は混乱、1時間で閉会した[72]。
- 8月26日:「第一次申請分」六筆の土地に収用委員会の現地調査が行われる[9]。反対同盟が約1,000人で阻止闘争を展開。3人逮捕。1人が手錠をされたまま逃走する。
- 9月1日:千葉県収用委員会が第二回公開審理[9]。混乱により開会も宣言できずに終わる。委員らが学生や青年行動隊から暴行を受け、1人が肋骨を折る怪我[72]。
- 9月2日:千葉県収用委員会が第三回公開審理[9]。警察の警護下で開会を宣言するが反対同盟が審議に応じず、審理をせずに終わる[72]。
- 9月13日:警察庁において、関東管区各警察本部長レベルが出席して第二次代執行の警備実施計画について会議が開かれ、千葉県警が出してきた計9000人を動員する計画に警察庁が難色を示し、3分の2の6400人に動員規模を削減される[73]。
- 9月30日:この日から10月2日まで「第三次強制測量阻止闘争」(のちに空港反対派は「三日戦争」と名づけた)。反対同盟は、落とし穴、「白兵戦」、「黄金爆弾(糞尿)」などを駆使して徹底抗戦する。3日間の攻防で61人が逮捕される。測量で空港公団職員が竹槍による青年行動隊の襲撃を受けて重傷を負い、この日以降機動隊が最初から全面に出てくるようになる[70][74]。
- 10月7日:空港公団、用地取得に「特別措置法を適用する」と発表。
- 10月22日:千葉県収用委員会が第四回公開審理[9]。反対同盟は引き伸ばしを図って会場入りを遅らせたが、その間に空港公団が無人の席に向かって意見陳述を行う。午後4時頃に反対同盟が到着し審理が進んでいる事態に演壇に詰め寄ろうとしたが、閉会が宣言され委員らは退席した[72]。
- 10月24日:千葉県収用委員会が第五回公開審理[9]。反対同盟はボイコットし、空港公団による意見陳述のみで公開審理は結審扱いとなる[72]。
- 11月4日:空港公団が1期工事について公共用地の取得に関する特別措置法に基づく特定公共事業の認定を建設大臣に申請[根拠法令 11][70]。
- 12月26日:千葉県収用委員会が、第一次収用裁決申請分に対する収用裁決(権利取得の時期および明渡しの期限1971年1月31日)[9][70]。
- 12月28日:11月4日の申請を受け、1期工事の特定公共事業認定が告示される[根拠法令 12][9]。
- 1971年
- 1月6日:反対同盟が代執行に備え強制収用対象地に「地下壕」(穴ぐら)を掘り始める[75]。
- 1月22日:佐藤栄作首相が「建設中の新東京国際空港は、(昭和)四十六年度中に供用を開始するとともに、関西新国際空港についても、すみやかに着工するよう目下調査を進めております」と施政方針演説を行う[76]。
- 1月23日:友納千葉県知事が初めて現地を訪れ戸村反対同盟代表と代執行問題について会談。反対同盟側の要求に応じて警備当局に一切の警察関係者を入れないよう申し入れたうえで御料牧場事務所に臨んだ友納知事は「(第一時代執行対象地は)農地でも宅地でもない。崖とか荒地のところで、しかもこんな土地を110人もの社会党・共産党の国会議員などが、工事を妨害するためだけに所有している。まったく農民の方々には関わり合いのないことである。妨害をしないでほしい」と呼びかけるが、論議は平行線のまま終わる。農民からは「なぜ、早く来なかった」との声が上がる[77][78][79][80]。
- 2月2日:空港公団の代執行請求に基づく県知事による戒告書が送付される[根拠法令 8][9]。
- 2月15日:友納千葉県知事が行政代執行の3週間以内の実施を発表。
- 2月16日:友納千葉県知事が代執行対象地の関係者に代執行令書を送付[根拠法令 8][9][81]。
- 2月20日:県教育委員会教育長が戸村反対同盟代表と面会して「同盟休校の形で学童を拘束せず、子どもたちを危険な場所に入れることだけはさけてほしい」と申し入れ[82]。
- 2月22日:6件6筆の建設予定地(いずれも一坪共有地)に対して第一次代執行が開始される[9]。午後1時からガードマンや県・空港公団職員らからなる約400人の代執行班が対象用地に向かうが、学生らに阻まれて約1時間半で引き揚げ。反対同盟子弟の半数にあたる少年行動隊142人は「同盟休校」で闘争に参加(反対同盟からの休校宣言は無し)。第5地点付近で情報収集をしていた私服巡査を学生らが竹槍を突きつけてつるし上げる。現地で取材中のNHK記者が空港公団分室近くで散弾を発見して警察に届け出、学生側は「官憲側の謀略」と主張[82]。千葉地方裁判所は、反対同盟の代執行停止処分申し立てを却下する。
- 2月23日:午前11時59分に執行官が「行政代執行法と土地収用法により代執行を行う」と宣言し作業が開始されるが、学生らから投石が行われて作業員2人が負傷し、4分で中断される[83][84]。千葉県現地本部が「第1地点については、午後1時17分、代執行を完了した」と発表したが、実際には代執行打班がバリケード付近の立木を伐採して持ち帰っただけだった[83][85]。
- 2月24日:第6地点に対して代執行が実施される。移動する代執行班の前に、少年行動隊の小中学生約50人が前列に出てくる。子供らは「公団帰れ」とシュプレヒコールをあげ、反対同盟は宣伝カーから「お前たちはこの少年たちを殺すつもりか」とマイクで叫ぶ。少年行動隊とのもみ合いで、代執行班は約100メートル後退させられる。更にその後ろには学生らのデモ隊が竹竿を突出して気勢を上げており、弱った代執行班は一旦引き上げ[86]。午後2時過ぎに代執行班が再び現地に向かうが、少年行動隊約30人及び約70人の支援学生らに阻まれ、もみ合いとなる。この中で、ガードマンに押し返された少年行動隊約15人が深さ約1.5メートルの溝に落下して、負傷者が出る。この日の代執行で少年行動隊7人(うち2人入院)が負傷し、ガードマン3人が学生に殴られて軽傷を負う[86][87]。事態に激怒した野次馬を含む群衆が「代執行開始宣言」の横断幕を引きちぎり、公団分室に投石を行った。混乱の最中、社会党議員団による空港公団への面会に社会党の木原実衆議院議員と三ッ松県会議員が遅参し、背後に黒ヘルメットをかぶった学生集団がいたために公団分室のガードマンらが反対派と誤認してこれを排除。両議員は顔などを負傷する[3][88]。
- 2月25日:この日は過激派が角材・竹槍・石塊・空瓶を大量に用意していることなどを理由に機動隊が早朝から前面に出て、積極的に反対派を実力排除する。正午過ぎに「地下壕」が落盤し、農民1人が負傷。この日の逮捕者141人。警察発表による負傷者は、機動隊員27人・ガードマン1人・報道関係者1人。反対同盟発表による反対派の負傷者は戸村代表を含む153人で、うち7人が重傷[19][89][90]。
- 2月26日:午前3時ごろ、空港公団のモータープールに角材などで武装した学生風の男5人が乱入し、ブルドーザーに火炎瓶を投げつける。男らはさらにガードマン4人に襲い掛かり1人を負傷させ、ガードマンの車両のフロントガラスを破りタンクローリーからガソリンを抜いて逃亡[91]。友納千葉県知事が、27日から3月1日までの代執行の停止を表明する[88]。少年行動隊の生徒らが通う小中学校の校長らが砦を訪れて説得を試みるが、生徒らは闘争現場から離れることを拒絶。北原事務局長に面会を打ち切られ退去した校長らは、空港公団理事と県警警務部長に生徒の安全確保を申し入れる。少年行動隊が公団分室に向かい、そこにいた県教育長や公団理事と口論するが話は平行線のままで、少年たちは口々に公団を罵りながら退出[21][91]。なお、少年行動隊が公団分室に訪れると職員が茶を出すなど、牧歌的なやり取りもあった[92]。
- 2月27日 - 3月1日:代執行が一時中止される。少年行動隊も登校を再開する[93]。その間に反対派と空港公団の双方で砦や金網の補修・補強が行われる[94]。
- 3月2日:代執行が再開され、全地点に執行宣言[95]。機動隊が2,300人に増強される。これに対し反対同盟と新左翼党派が対峙。事前に反対同盟が行っていた呼びかけに応じて「野次馬」約3,000人が現地に"ショー"の見物に現れ、約1800台のマイカーやバスで周辺の空き地は埋め尽くされ、野次馬相手のカー・レストラン、牛乳屋、コーラ屋が盛況という有様であった。中に紛れ込んだ支援学生らのアジテーションを受けた野次馬は、妨害をやめるよう求める機動隊の呼びかけを無視して、投石を行ったり阻止線を作るなどして、終始反対同盟側を支援した(逆に私服警官と誤認されて学生に追い掛け回される者もいた)[19][96][97][98]。更にテレビ局が中継車を反対同盟の砦に横付けしたため、機動隊と空港公団はほぼ手を出せぬまま撤収する。投石した学生を逮捕しようとした警視庁特務係の私服警官1人が逆に学生集団に拉致されて暴行される。警官は反対同盟の救護班に助け出され、反対同盟の野戦病院で手当てを受けてから成田赤十字病院へ搬送される。その後、救助に駆け付けた機動隊が野戦病院を包囲するが、既に当人がいないことが判明して引き揚げる[97]。同日、故小川明治副委員長の四十九日の慰霊祭が砦内でとり行われる。この日の逮捕者は高校生を含む13人。反対派の負傷者20人、成田日赤病院への緊急搬送3人。警察発表では警官ら46人が負傷[98]。
- 3月3日:機動隊が3,000人に増強され、現場周辺の道路で「野次馬」を閉め出す検問を開始。土砂降りの雨の中の衝突となる。逮捕者19人。反対同盟発表の反対派の負傷者101人。警察官91人・ガードマン10人・公団職員4人・報道関係者5人が負傷[99]。双方にかなりの負傷者が出たことや雨によって地下壕の地盤が弱くなっていることを踏まえ、友納千葉県知事が翌日の代執行中止を発表[100]。この日から反対同盟から「壊し屋」と呼ばれた屈強な工事作業員による撤去作業が行われる。
- 3月4日:代執行が一時中止。
- 3月5日:機動隊がさらに3,500人に増強される。重機を投入した代執行側に反対派は火炎瓶で対抗し、この日から翌日にかけて最大の攻防戦が行われる。千葉県警検挙隊員3人が拉致されて暴行される。逮捕者65人。反対派の負傷者259人(反対同盟発表)。代執行側の負傷者は121人(県発表)[101]。ガードマンが投石や奪った竹槍で殴り返すなどの過剰警備を行い、機動隊に諫められる。ガードマンの中には元地権者もいたが、これらの「暴走」を行ったのは主に東京から来た者たちであったという[102]。
- 3月6日:「地下壕」を除き、機動隊は砦などの第3・4・5地点の反対派拠点を高圧放水などで制圧。「故郷」を歌う支援学生がしがみついている第5地点の松の木が、チェーンソーで切り倒される[21]。千葉県は「地下壕」は対象外であるとして、「(第一次)代執行終了」を宣言。この日の逮捕者は186人[19]。13日間の代執行で反対派の竹槍・投石・火炎瓶等による攻撃で警官・職員・作業員ら1,171人が負傷し、反対派の逮捕者は487人[19]にのぼった。以降、反対派のゲリラ攻撃が活発化する。
- 3月7日:反対同盟が「緊急抗議集会」を約1,500人で開催。反対同盟は負傷者続出を理由として県知事・空港公団総裁・千葉県警本部長らの告発を決定する。十日間の第一次代執行期間で逮捕者461人、負傷者841人うち重傷43人。橋本登美三郎運輸大臣が「これで反対派の農民も、いくら抵抗してもだめだとわかったろう(中略)二、三日もすれば、農民も話し合いに乗ってくるだろう」と発言[103]。
- 3月8日:空港公団と機動隊が、現場判断でブルドーザーによる「地下壕」の一部埋め立てを実施。
- 3月9日:反対同盟及び支援者は8日の撤去作業に法的根拠がないとして強く抗議。現場に駆けつけた山本力蔵空港公団副総裁[104]と反対同盟の間で交渉が持たれ、撤去作業の中断・休戦・反対同盟による地下壕で立て籠もるメンバーの説得を約した協定書が結ばれる。
- 3月24日:空港公団が、反対同盟が協定に反して「地下壕」の強化を行い、且つ再三の警告を無視したことを理由に、協定の破棄を戸村反対同盟代表に通知。
- 3月25日:機動隊4,000人が動員され、空港公団はブルドーザーや大型ユンボを用いて8日に撤去しきれなかった頑丈な「地下壕」を撤去。
第二次代執行
- 1971年
- 2月3日:特定公共事業認定(1970年12月28日)に基づき、空港公団が5件33筆について千葉県収用委員会に対し緊急裁決の申立[9][34]。
- 3月20日:県収用委員会が緊急裁決の申立にかかる審理を開始[注釈 23][9]。
- 6月12日:千葉県収用委員会が、明け渡し期限を8月12日とする第二次収用の緊急裁決を下す[根拠法令 6][9][105]。
- 8月13日:空港公団が、県知事に対し10件25筆について第二次代執行を請求[105]。
- 8月18日:丹羽喬四郎運輸大臣が反対同盟に会談を申し入れる[9]。
- 8月24日:反対同盟が運輸大臣との会談を拒否[9]。
- 9月1日:県知事による土地明け渡しの戒告書が緊急採決地の土地所有者・関係者に対し発送される[根拠法令 8][9]。
- 9月6日:駒井野団結小屋に土地収用法違反(収用地内の形質の変更)容疑で千葉県警が家宅捜査[46]。反対同盟が千葉地裁に対し戒告処分取消請求と代執行停止申立を行う[105]。
- 9月7日:県内に甚大な被害をもたらした昭和46年台風第25号により、反対派の地下要塞が水浸しとなる。
- 9月10日:天浪団結小屋に土地収用法違反容疑で千葉県警が家宅捜査[46]。
- 9月11日:県知事による代執行令書が第二次代執行地4件5筆の関係者72人に対して発送される[根拠法令 8][9][105]。
- 9月13日:警察庁において、関東管区各警察本部長レベルが出席して第二次代執行の警備実施計画について会議が開かれ、千葉県警が出してきた計9000人を動員する計画に警察庁が難色を示し、3分の2の6400人に動員規模を削減される[46]。
- 9月15日:午前2時10分頃、小松製作所に置いてあった4台のブルドーザーに火炎瓶が投げられ、配線などを焼く。午後3時頃、駒井野団結小屋を捜索中の機動隊員が、草むらの中から火炎瓶250本・ガソリン入りタンク5個・濃硫酸入り試験管50本・塩素酸カリウムをしみこませた濾過紙30枚等を発見[106]。中核派が初めて独自の記者会見を農民の同席なく三里塚で行い、第二次代執行での抵抗作戦の意味を全学連委員長が語る[46]。
- 9月16日:5件6筆[注釈 24]の建設予定地に対し、第二次代執行が開始される[9]。数百名の「ゲリラ部隊」が各所で後方警備の機動隊を襲撃。この日の逮捕者375名。小泉よねあての代執行令書が発送される[9]。
- 午前5時:大清水付近で三里塚へ向かう警視庁部隊の車両に玉ねぎ型の爆弾4発、マジックインキの大瓶を転用した爆弾1発が投げられ、うちマジックインキ爆弾のみが破裂。警察部隊の1人が負傷。同じ頃、三里塚十字路の西約2キロの路上に太釘の出た板が多数置かれ、車両部隊の数台がパンク。福島小隊(堀田大隊所属)が三里塚に向けて神奈川署から出発[46]。
- 午前6時、大清水の県道を学生が木材などでバリケード封鎖[46]。
- 午前6時45分:天浪で作業開始宣言[107]。
- 午前7時頃:東峰十字路近辺で神奈川県警から応援派遣されていた臨時編成の特別機動隊(堀田大隊)がゲリラ部隊の急襲を受けて潰走(東峰十字路事件、逃げ遅れた福島小隊長を含む隊員3名が火炎瓶による全身火傷・鉄パイプ等での殴打により殉職、80名以上の隊員が重軽傷を負う)[39]。
- 午前7時8分:本部無線に「現在地不明、多数のゲリラと交戦中」と連絡[46]。
- 午前7月13分:堀田大隊長からの報告により攻撃を受けている大隊の所在が確認され、朝日台三差路付近にいた管区機動隊関根大隊が応援出動[46]。
- 午前7時40分:駒井野団結小屋南西側の大清水地区を走っていた千葉県警察のパトカーが火炎瓶で放火され炎上[108]。
- 午前8時すぎ:木の根団結小屋での排除作業が始まる[107]。
- 午前8時8分:警視庁機動隊が駒井野団結小屋の排除に出動[33]。
- 午前8時17分:成田赤十字病院に搬送中の福島小隊長が死亡[46]、「運び込まれた警察官4人のうち1人が死亡」との一報が入る。
- 午前8時35分頃:大清水三叉路で検問を行っていた警視庁第九機動隊と過激派の学生たちが衝突。過激派が投擲した爆発物により同隊の中隊長(警部)らが負傷。
- 午前9時:川上千葉県副知事が「死亡事故が起きたので、作業中止を」と荒木貞一千葉県警警備本部長に申し入れるが、荒木本部長は「死亡した警官は、中止を喜ばないはずです。代執行を完全に終了することが、霊を慰める唯一の道です」と拒否[46]。
- 午前9時すぎ:京成成田駅で急行電車から降りてきた赤ヘルの学生ら二十数人が旗竿を突出して警官隊と衝突。石や火炎瓶が投げつけられ、待合室が焼かれ一般客が逃げまどう。駅前の乗用車のガラスが割られ、土産物屋にも被害[109]。
- 午前9時15分:埼玉県警・千葉県警連合機動隊が天浪団結小屋排除に出動。
- 午前9時35分:UPI通信が「成田空港で警察殺さる」と全世界に打電[46]。
- 午前9時40分:柏村巡査部長が全身打撲によるショックで、成田市藤倉病院で死亡[46]。
- 午前10時5分:森井巡査が頭蓋骨骨折で空港公団分室救護室で死亡[46]。
- 午前10時15分:空港南端の報道用ヘリポートに過激派学生が侵入して火炎瓶を投げつけ、TBSがチャーターした朝日ヘリコプター(現・朝日航洋)の機体が炎上[110]。
- 午前10時45分:社会党一坪運動地での排除が行われ、労組員・社青同系学生らが糞尿弾や投石を行うが千葉県警機動隊により数十分で排除される。11時15分に立ち木切り倒し等の代執行が完了する[111]。
- 午前11時前:白ヘルメットの反戦グループ十数人が三里塚駐在所になだれ込み、ガラスや木戸を破壊したうえ、勤務中だった巡査部長に「てめえデカか、殺すぞ」と火炎瓶で脅す[109]。駐在所員の妻が学生らに対し、「中には一歩も入れません」と立ち向かう[112]。
- 正午過ぎ:埼玉県警機動隊が出動していた木の根団結小屋で、地下壕にこもる反対派が説得に応じ全員外に出る。午後1時40分、代執行終了が宣言される[39][111]。
- 午後0時3分:天浪団結小屋が制圧される。
- 午後0時30分:駒井野団結小屋に機動隊が突入する
- 午後3時15分:駒井野団結小屋の鉄塔が倒れる[39]。
- 午後3時35分:天浪団結小屋における代執行班による撤去と井戸の埋め立てが完了する[49]。
- この日、建設現場各所で作業小屋等35棟が放火される[113]。
- 9月17日:千葉県警が、反対同盟戸村代表宅・各団結小屋などの反対派拠点や都内の党派事務所13ヶ所を「殺人・殺人未遂・公務執行妨害・凶器準備集合・爆発物取締罰則違反」の容疑で一斉に家宅捜索を行う。
- 9月18日:杉並署高円寺駅前派出所が爆破される。杉並区上萩の陸橋の交通看板に「叛軍」「成田空港建設反対」と墨で上書きしたうえに同陸橋が火炎瓶で放火される[114]。
- 9月19日:友納知事が報道陣に対し警備陣の疲れなどを理由に代執行を21日に延期すると発表[115]。これを受け支援学生の主力部隊3,000人が帰京。
- 9月20日:1,000人の機動隊と伴に代執行実施班220人が現れ、小泉よね宅を強制収用。友納知事の会見を受けて、支援者らが引き上げたところを急襲される形となり、現場に居た反対派200人は、不意を突かれて抵抗する間もなかった。よねは住まいから連れ出されたうえ、前歯を折る怪我をした[116]。よね宅の撤去は2時間で完了、午後2時55分第二次行政代執行が終了する[117]。最初で最後の居住宅に対する行政代執行となった。
- 同日夜から翌日にかけて、青年行動隊主導のもと学生集団が小泉よね宅への「騙し討ち」への報復として工事関係業者の飯場など20棟を火炎瓶で襲撃して回った。火災で焼け出された者達の中には、子供がいる出稼ぎの一家も含まれており、脱出させようと身を盾にした帝国警備の警備員十数人が、反対派によって袋叩きにされる[52][118]。
- 代執行期間中の反対派ゲリラは23件、飯場28棟が放火で焼かれ、工事作業員650人が焼け出された。更にダンプカー・ブルドーザー・警察車両が焼き討ちされ、被害総額は3億円を超えた。警察発表によれば、動員された機動隊は述べ22,000人、反対派は12,945人、逮捕者475人、警察官の死者3人・重軽傷者206人であった(反対派の負傷者は多数とのみ)[41]。
- 9月21日:「地下壕」に立て篭もっていた農民3名が機動隊によって排除され、うち農民1名が逮捕される。機動隊3,000名が捜索中に遭遇した反対派支援者ら約60人を連行。その夜、大清水に設営された「野戦病院」に機動隊約100名が突入。深夜、機動隊約500名が環視する中、反対派による飯場への放火で焼け出されて激昂した工事作業員が無人の千代田団結小屋「市民の家」を放火、全焼させる。
- 9月22日:代執行に出動した警視庁第四機動隊の独身寮が爆破される[119]。
- 9月27日:反対同盟が、友納知事・川上紀一副知事らを、9月16日の「駒井野鉄塔」撤去に関して「殺人未遂」で、千葉地方検察庁に告発する。
- 10月1日:青年行動隊の三ノ宮文男が自殺[120]。
- 10月11日:友納知事や県議らが「これ以上知事に代執行させず、政府・空港公団がもっと真剣に反対同盟と話し合え」と、運輸省航空局長と空港公団総裁に申し入れる[41]。
脚注
根拠法令
注釈
- ^ 交渉を担当していた元空港公団職員は、一般大衆が反対運動に加担したのはマスコミによる成田美化キャンペーンの影響によるものとしながらも、民家への強制収用が行われた(後述)小泉よねの土地は道路に使用されており、その道路を迂回させれば強制収用は空港建設の上で必ずしも必要なものでなかったとしている[4]。当時の千葉県知事であった友納武人も、農家の収用を懸念し空港公団側と議論したが、過激派学生が地下壕を掘って拠点としておりどうしても交渉ができない、空港ターミナルビルの入り口に当たるとされ、対象地から外せなかったとしている[5]。また別の公団OBは、強制収用について「開港のため、どうしても必要な措置だった」としながらも、「強硬手段を用いた結果、過激派に暴力で抵抗する大義名分を与えてしまった」と述べている[6]。
- ^ 成田市駒井野字広田、字張ヶ沢などの原野及び山林であり、第1~6地点と呼称された[13]。
- ^ 友納は「これらはほとんどがけのような無価値な土地で、農作物が一本たりとも生えていない。しかも六カ所の土地が合計で四五〇坪しかない。それを六カ所に分けて、代議士だとかいろいろな人が所有している。こういったものは、農地だとか農家だとかと違いますし、話し合いで解決できないだろうという意味で、私は代執行しました」と当時の考えを述べている[17]。
- ^ 投石を行った野次馬の中には、当初の空港建設予定地であった富里村から駆け付けた法被姿の消防団や空港建設工事に従事する出稼ぎ労働者がいた[22]。
- ^ 小川紳介監督 の『三里塚 第二砦の人々』では、日当2万円で全国から雇われたとしている[24]。
- ^ ただし、公団や機動隊側は櫓を引き倒すときに一気に倒れないようにする措置等は必ず施していたという[26]。
- ^ 468人とも[29]。
- ^ 任意取得のため。これにより、7月26日から30日にかけて「農民放送塔」が妨害物除去仮処分で撤去された[9]。
- ^ 現在の日航貨物ビル前駐機スポット付近[36]。
- ^ 一坪運動地の登記簿には、成田知巳委員長以下、勝間田清一・大出俊・山口鶴男・阿部昭吾・加藤シヅエなど、国会議員55人が名を連ねていた[37][38]。成田空港 空と大地の歴史館では、立木トラストに使われた成田知巳と佐々木更三の明認札が展示されている。
- ^ 現在のA4離脱誘導路付近滑走路脇[36]。
- ^ 現在のP-1駐車場内[36]。
- ^ 現在の滑走路北端部[36]。
- ^ 現在の空港西通り出口付近[36]。
- ^ 社会党は、団結小屋も作らず簡単な天幕で済ませており、積極的守備体制が見られなかった[20]。
- ^ 九十九里浜の網元から入手した揚繰網[48]。
- ^ 反対派は、強度不足はやぐらに使う予定だった鉄材を団結小屋への家宅捜査で差し押さえられたためだったとしている[50][51]。
- ^ よねは、事実上の夫の大木姓を死別後も名乗り続けていたが、法律上の姓名は「小泉よね」である[54]。
- ^ 事実、事件当日に反対同盟副委員長の石橋政次が記者会見で「今後人が居住している住居などについて代執行が行われれば、死者はもっと出るかもしれない。機動隊に対するうらみは農民の中にもたくさんある。いっさいの原因は、数少ない農民を虫ケラ同然に扱う政府のやり方にある。」と述べている[57]。
- ^ 公安調査庁 1993, p. 23では、警察官282人・代執行作業員7人が重軽傷を負い、反対派489人が凶器準備集合罪・公務執行妨害罪・放火罪等で逮捕されている。
- ^ 日経新聞の取材に対しては「犠牲者が出ることを心配していた知事としては当然のことだろうが、私としては中止してやり直した場合、将来さらに犠牲者を重ねる恐れがあることと、警察官には冷静、慎重に職務を遂行させるから既定方針通り行うことが犠牲者を生かす道ではないか」と友納に電話で伝えたと述べている[58]。
- ^ 運輸省・空港公団は、開港予定期日を一番遅らせたのはパイプライン建設であったこと、当初の工事の見通しが楽観的であったことをシンポジウムにおいて認めている[62]。
- ^ 平和の塔の審理:3月20日(第1回)・3月29日(第2回)・4月22日(第3回)・5月4日(第4回)
反対同盟系の審理:3月23日(第1回)・3月24日(第2回)・4月27日(第3回)・5月4日(第4回)
個人の審理:3月27日[9] - ^ ただし、小泉よねの土地への代執行は20日から。
出典
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関連項目
外部リンク
- “成田空港問題シンポジウム記録集”. 成田空港地域共生・共栄会議 (1995年3月). 2017年4月閲覧。
- 成田空港予定地の代執行 - NHK放送史