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2021年4月27日 (火) 14:48時点における版
慶應義塾幼稚舎 | |
---|---|
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 慶應義塾 |
校訓 | 独立自尊 |
設立年月日 | 1874年(明治7年) |
創立者 |
和田義郎 福澤諭吉 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 3学期制 |
所在地 | 〒150-0013 |
北緯35度38分48.3秒 東経139度43分23.4秒 / 北緯35.646750度 東経139.723167度座標: 北緯35度38分48.3秒 東経139度43分23.4秒 / 北緯35.646750度 東経139.723167度 | |
公式サイト | 慶應義塾幼稚舎 |
プロジェクト:学校/小学校テンプレート |
慶應義塾幼稚舎(けいおうぎじゅくようちしゃ)は、東京都渋谷区恵比寿にある私立小学校。
概説
1874年(明治7年)、福澤諭吉の高弟である和田義郎が、慶應義塾の塾生で最も幼い者数名を三田の慶應義塾構内にある自宅に寄宿させて、夫婦で教育を行った「和田塾」が幼稚舎の始まりである[1]。
1937年(昭和12年)、福澤諭吉の別邸があった現在の広尾へ移転。谷口吉郎(文化勲章受章)と谷口吉生の父子二代にわたり校舎が設計されており、各教室への採光やグラウンドへの動線など機能的な校舎である本館は80年以上の歴史をもつ[2]。1999年(平成11年)に、日本の近代建築20選(DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築)に選定されている。
日本で最も古い私立小学校の一つである[2][3]。小中高大一貫教育を通して、福澤諭吉の教えを受け継いだ教育が行われている。
入試の志願倍率は全国の私立小学校で慶應義塾横浜初等部に次ぐ高さである(2017年は10.4倍[4])。
140年以上の歴史をもち、各界の著名人を輩出してきた。入学試験にもみられるように学力だけでなく体育が重視され、「勉強は強制しないし、勉強は家庭の責任」[5][6]を謳う、自由闊達な教育方針を旨とする。
年表
- 1869年(明治 2年)、慶應義塾の幼年生のために童子寮(12歳から16歳の者を預かる寄宿舎)を設ける。
- 1874年(明治 7年)、福澤門下の和田義郎が慶應義塾で最も幼い者数名を三田の義塾構内にある自宅に寄宿させ、夫婦で教育を行う。この頃は「和田塾」と呼ばれた。
- 1877年(明治10年)、和田塾を幼年局と称し、1880年頃まで女生徒も在学。
- 1879年(明治12年)、福澤諭吉が現在の幼稚舎校地の場所を購入し、広尾別邸とした。
- 1880年(明治13年)、幼年局を幼稚舎と改称する。
- 1881年(明治14年)、課業中に体操、柔術を加える[7]。
- 1886年(明治19年)、皇太子(のちの大正天皇)が幼稚舎に来校[8]。
- 1889年(明治22年)、雑誌『文園』創刊(幼稚舎生有志により発刊)[9]。
- 1892年(明治25年)、鎌倉光明寺に夏期学校開設[10]。
- 1897年(明治30年)、幼稚舎が小学校令準拠の教育機関(6年制)となる[11]。
- 1898年(明治31年)、三田山上から現在の三田キャンパス西校舎崖下に移転[12]。正式に慶應義塾の一員となり、初等教育から大学に至る一貫教育が確立した。
- 1898年(明治31年)、幻灯会を開催[13]。
- 1899年(明治32年)、制服・制帽を正式に定める[14]。
- 1906年(明治39年)、理科実験開始[15]。
- 1908年(明治41年)、「幼稚舎修身要領十箇条」を定める[16]。
- 1910年(明治43年)、理科実験室を新築[11]。
- 1920年(大正 9年)、朝吹常吉から活動写真機を寄贈される[11]。制服のデザインを改める(いわゆる慶應型)[17][18]。
- 1922年(大正11年)、学級委員制を設ける[19]。
- 1927年(昭和 2年)、大学評議会、予科・普通部・商工学校・幼稚舎の郊外移転方針決定[20]。
- 1937年(昭和12年)、福澤家広尾別邸の場所に移転[21]。
- 1944年(昭和19年)、集団疎開を行う(翌年10月まで)[22]。
- 1945年(昭和20年)、戦災で校舎を失った普通部が幼稚舎校地に移転(1952年まで)。
- 1947年(昭和22年)、新学制に移行[23]。
- 1948年(昭和23年)、男女共学となる[24]。
- 1954年(昭和29年)、「幼き塾生の歌」「幼稚舎同窓会の歌」「幼稚舎を讃える歌」ができる[25]。
- 1964年(昭和39年)までは敷地内に森、農家、田畑があり、福沢家の一族が住んでいたが、東京オリンピックに伴う高速道路の予定地となり撤去された。
- 1973年(昭和48年)、幼稚舎創立100周年記念式典を挙行。
- 1976年(昭和51年)、100周年記念事業の一貫として記念棟竣工。
- 1987年(昭和62年)、新体育館竣工。
- 2002年(平成14年)、125周年記念事業の一貫として新館21竣工。
教育
幼稚舎の教育理念は、校歌の『幼稚舎の歌』(菊池知勇作詞、江沢清太郎作曲)にも歌われているように、生徒が福澤諭吉の教え、「独立自尊」を実践できる人材を育成することである。福澤は、「まず獣身を成して、のちに人心を養う」と常に唱え、その教えに従って、幼稚舎では昔から身体能力を鍛えることに力を入れ、入学してから卒業するまでにたくさんの体育行事や活動を用意している。
6年間担任持ち上がり制、教科別専科制を採用している。在籍する男子児童は女子の2倍であり、1クラス36人、内訳は男子24人、女子12人である。一学年計144人である。
各学年にK組、E組、I組、O組の4つのクラスがあり、クラスごとにクラスカラーがあり、K組は青、E組は黄、I組は緑、O組は白である。運動会のクラス対抗リレーなどではそれぞれのクラスカラーのはちまきをする。
I組は2002年(平成14年)度に新設され、2002年度 - 2006年(平成18年)度までは1学年3クラス (K, E, O) と4クラス (K, E, I, O) が混合していた。
教育方針は「勉強は強制しないし、勉強は家庭の責任」である[5][6]。
また、6年間クラス替え、担任変更のない教育編成が特徴。クラスごとに方針が異なる。理科、音楽、絵画、造形、体育、英語、情報、習字はそれぞれ専門の教育を受けた教員が指導に当たる。
慶應義塾の教育の一環として児童全員に1000m完泳を義務付けている。また、福澤諭吉の誕生日記念会では幼稚舎生が『福澤諭吉ここにあり』を歌う。校歌は多数あるが、『若き血』、『福澤諭吉ここにあり』、『幼稚舎マーチ』が有名。給食はホテルニューオータニの食事が採用されている。
設備
各教室には冷暖房、それぞれ1台ずつプラズマテレビとパソコンが設置してある。
自尊館(講堂)、理科園(自然園)、サイエンスミュージアム(学校博物館)[26]、けやきホール(食堂)が備えられている。
図書室は約33,000冊以上の蔵書数を誇る。
入学・進学
日本を代表する名門校とされる。そのため、高額な学費と相まって、財界人や政治家、官僚ら政官財界、医者、文化人や芸能人ら著名人など、いわゆる"良家の子女"が多数在籍する。入学試験は学力ではなく行動観察、運動、制作、口頭試問などで行われるため、多くの父母がお受験塾に通わせる。
慶應義塾大学までの小中高大一貫教育、無試験でそのまま進級できるエスカレーター式を採用しているが、必ずしもそのまま進級できるわけではない。中学・高校で留年制度があるためである。特に義務教育の中学校で出席日数ではなく、学力で留年があるのは、日本国内でかなり異例である。
慶應義塾にある3つの中学校である慶應義塾普通部、慶應義塾中等部、慶應義塾湘南藤沢中等部のうちどこを進学希望先とするかについては、児童・保護者が選択できる。近年の幼稚舎卒業生の慶應義塾一貫校の各中学校への進学状況は以下である。
卒業年 | 普通部 | 中等部 | 湘南藤沢中等部 | 他校 |
---|---|---|---|---|
2012年3月卒業 | 男子81 | 男子13・女子45 | 男子1・女子3 | 1 |
2013年3月卒業 | 男子65 | 男子24・女子47 | 男子5・女子1 | 2 |
2014年3月卒業 | 男子68 | 男子22・女子46 | 男子5・女子2 | 0 |
2015年3月卒業 | 男子70 | 男子21・女子46 | 男子5・女子2 | 0 |
2016年3月卒業 | 男子64 | 男子25・女子45 | 男子6・女子3 | 男子1 |
2017年3月卒業 | 男子72 | 男子18・女子47 | 男子3・女子1 | 男子2 |
2018年3月卒業 | 男子66 | 男子24・女子41 | 男子6・女子7 | 0 |
2019年3月卒業 | 男子78 | 男子14・女子48 | 男子2・女子0 | 男子2 |
2020年3月卒業 | 男子77 | 男子18・女子46 | 男子1・女子2 | 0 |
エピソード
- 「幼稚舎」という名称であるが、幼稚園ではなく小学校である。幼稚舎出身の南博は旧制東京高校尋常科(後身校:東京大学)に入ったとき、修身の時間に教育勅語を暗誦できなかったため、「君は教育勅語を知らんのか、いったいどこの小学校からきた」と教師から怒られ、「慶應義塾の幼稚舎です」と答えたが、「幼稚園のことを訊いているのではない、小学校は何処だ」と怒鳴られたという[28]。このようなエピソードからも分かるように、現在でも幼稚園であるとの誤解が多く、また、そう思い込む者も多い。
幼稚舎出身の著名人
戦前
- 武智直道(台湾製糖創立者)
- 小早川四郎(男爵、宮中顧問官)
- 鹿島房次郎(第4代神戸市長、川崎造船所社長)
- 大谷光勝(伯爵、東本願寺第21代法主)
- 岡本癖三酔(俳人)
- 大倉喜七郎(男爵、帝国ホテル会長)
- 菊本直次郎(三井銀行初代会長)
- 今井利喜三郎(三井銀行頭取)
- 中村利器太郎(三越社長)
- 井上五郎(中部電力初代社長)
- 朝吹常吉(三越社長、日本庭球協会創立者)
- 岩村透(男爵、東京美術学校教授、白馬会、国民美術協会設立者)
- 土屋光金(男爵、海軍中将)
- 井田磐楠(男爵、大政翼賛会常任総務)
- 山本英輔(海軍大将)
- 永田泰次郎(海軍中将)
- 牛原陽一(海軍少尉、映画監督)
- 朽木綱貞(子爵、陸軍少将)
- 佐々木正五(慶大名誉教授、日本細菌学会理事長、国際無菌生物学会初代会長)
- 蘆野敬三郎(海軍大学校教授、理学博士)
- 大村徳敏(子爵)
- 松平康荘(侯爵、大日本農会会頭)
- 藤堂高義(伯爵)
- 陸奥廣吉(伯爵)
- 九鬼隆輝(子爵)
- 一柳紹念(子爵)
- 今城定政(子爵)
- 本多忠鋒(子爵)
- 岡田平太郎(宮内省式部官)
- 森村開作(森村財閥総帥)
- 大倉和親(日本陶器、東洋陶器社長 / 森村財閥系企業社長)
- 廣澤金次郎(伯爵、官吏、政治家、実業家)
- 堀江帰一(経済学者、慶大理財科教授)
- 高野岩三郎(統計学者、社会運動家、日本放送協会第5代会長)
- 川村鉄太郎(伯爵 / 川村純義の子)
- 加納友之介(官吏、住友銀行理事)
- 渡邊千冬(枢密顧問官、司法大臣)
- 大河内正敏(子爵、物理学者)
- 中島久万吉(男爵、実業家)
- 南部利克(子爵)
- 黒田長成(侯爵、枢密顧問官)
- 毛利五郎(男爵)
- 今村繁三(銀行家)
- 岩崎久弥(三菱財閥3代目当主 / 岩崎家)
- 森恪(政治家 /「日本のセシル・ローズ」、東京商工中へ)
- 益田太郎冠者(男爵、貴族院議員 / 益田孝の子、府立一中へ)
- 植村甲午郎(経団連会長 / 明治39年卒、府立一中へ)
- 武藤絲治(カネボウ社長 / 武藤山治の子)
- 柳満珠雄(三井銀行頭取)
- 神谷健一(三井銀行社長)
- 服部正次(服部時計店(現 セイコー)3代目社長 / 府立一中へ)
- 服部謙太郎(服部時計店4代目社長)
- 梁瀬次郎(ヤナセ2代目社長 / 梁瀬長太郎の子)
- 武田長兵衛(タケダ2代目)
- 小菅丹治(伊勢丹3代目社長)
- 岡崎真一(同和火災2代目 / 岡崎財閥)
- 岩崎清一郎(磐城セメント2代目社長 / 岩崎清七の子)
- 長與又郎(東大総長、医学部長 / 正則中へ)
- 桜内義雄(衆議院議長)
- 重松宣雄(駐奉天領事(昭和8年 - 柳条溝事件、革新官僚) / 府立一中へ)
- 獅子文六(作家)
- 高木文雄(大蔵事務次官、国鉄総裁)
- 林屋辰三郎(歴史学者)
- 藤山愛一郎(外相、藤山コンツェルン総帥、元日商会頭、初代日本航空会長 / 通称「絹のハンカチーフ」)
- 立作太郎(法学博士)
- 藤山一郎(歌手)
- 牧野直隆(高野連会長、野球殿堂)
- 南博(一橋大名誉教授)
- 岡本太郎(画家)
- 伊藤雄之助(俳優)
- 亀井孝(一橋大名誉教授)
- 山川方夫(作家)
- 朝吹三吉(フランス文学者)
- 駒井哲郎(版画家)
- 野口冨士男(作家)
- 内村直也(劇作家)
- 千家元麿(詩人)
- 大谷隆三(松竹社長 / 大谷竹次郎の子)
- 芥川隆行(ナレーター、フリーアナウンサー)
戦後
- 青井実(NHKアナウンサー、丸井創業者青井忠治の孫)
- 朝吹真理子(芥川賞作家、朝吹英二の玄孫)
- 梓真悠子(タレント、加山雄三の子)
- 麻生泰(麻生セメント社長、妹に寬仁親王妃信子、麻生太郎の弟、吉田茂の孫)
- 麻生巌(麻生社長、麻生泰の子)
- 安西祐一郎(慶應義塾塾長、工学者)
- 池田尊弘(学校法人創価学園主事、池田大作の子)
- 池端えみ(女優、加山雄三の子)
- 石原延啓(画家、石原慎太郎の子)
- 石原宏高(衆議院議員、同上)
- 石原良純(俳優、タレント、気象予報士、同上)
- 伊藤公平(慶應義塾大学理工学部教授、物理学者、初代伊藤忠兵衛来孫)
- 伊藤信太郎(衆議院議員)
- 糸川正晃(衆議院議員、ファイナンシャル・プランナー)
- 伊部勝利(ロック歌手)
- 井上絵美(料理研究家 / 聖心女子学院へ)
- 上田昭夫(慶應義塾體育會蹴球部元監督)
- 内野泰輔(フジテレビアナウンサー)
- 梅田晴夫(劇作家、小説家、随筆家)
- 梅田望夫(経営コンサルタント)
- 梅田みか(脚本家)
- 大塚雄三(歌手)
- 越智隆雄(衆議院議員)
- 片岡周子(小説家)
- 金子郁容(元慶應義塾幼稚舎長、慶應義塾大学教授)
- 加山徹(旧名:山下徹大。俳優、加山雄三の子)
- 川口浩(俳優)
- 川島裕(侍従長、元外務事務次官)
- 川添象郎(音楽プロデューサー)
- 河野明子(元テレビ朝日アナウンサー)
- 岸信夫(衆議院議員、安倍晋三の弟、岸信介の孫)
- 木村太郎(キャスター)
- 草野厚(慶應義塾大学教授、コメンテーター)
- 小林陽太郎(富士ゼロックス会長、経済同友会終身幹事)
- 坂井利彰(慶應義塾大学専任講師・體育會庭球部監督)
- 坂村健(情報工学者、東京大学教授、TRON開発者)
- 櫻井翔(アイドル・嵐)
- 桜井美南(女優)
- 佐藤義朗(日本テレビアナウンサー)
- 椎木里佳(実業家、タレント)
- 柴本幸(女優)
- 菅原正豊(ハウフルス代表取締役社長)
- 杉山顕太郎(ナレッジパーク社長・キャンパスパーク代表 / ミスキャンパス派遣事務所)
- 炭谷宗佑(元日本テレビアナウンサー)
- ZEEBRA(ラッパー、横井英樹の孫)
- 千住明(作曲家、千住鎮雄の子)
- 千住博(日本画家、同上)
- 千住真理子(ヴァイオリニスト、同上)
- 園原ゆかり(モデル、タレント)
- Taka(ONE OK ROCK・Vocal、森進一・森昌子の長男)
- 高野真太郎(ミュージシャン)
- 高橋治則(東京協和信用組合元理事長、元イ・アイ・イ・インターナショナル社長)
- 竹田恆和(JOC日本オリンピック委員会元会長)
- 竹田恒泰(評論家、竹田恆和の子)
- 武見敬三(参議院議員、武見太郎の子)
- 玉塚元一(ローソン、ロッテリア、ユニクロ社長)
- TAROかまやつ(歌手、元フジテレビ社員)
- 近田春夫(作曲家)
- DJ OASIS (DJ、ラッパー)
- 寺本圭一(歌手、作曲家、音楽プロデューサー)
- 遠山公一(慶應義塾大学文学部教授)
- 堂本正樹(劇作家、演出家、演劇評論家)
- 都倉賢(Jリーガー)
- 冨田勝(慶應義塾大学環境情報学部長)
- 友岡克彦(九州大学教授)
- 友岡賛(慶應義塾大学商学部教授)
- 外山惠理(TBSアナウンサー)
- 永井均(哲学者)
- 中島洋次郎(元衆議院議員、中島知久平の孫)
- 中曽根康隆(衆議院議員、中曽根康弘の孫)
- 中村壱太郎(歌舞伎役者)
- 中村時広(愛媛県知事)
- 中村紘子(ピアニスト)
- 中村光宏(フジテレビアナウンサー)
- 中山貴雄(テレビ朝日アナウンサー)
- 西岡信雄(大阪音楽大学学長、音楽人類学者)
- 二谷友里恵(元女優、実業家)
- 二村ヒトシ(AV監督)
- 根本美緒(フリーアナウンサー、気象予報士)
- 東久邇信彦(旧皇族、盛厚王第一子、新潟県長岡市名誉顧問)
- 一橋忠之(NHKアナウンサー)
- 福澤克雄(TBSディレクター、演出家、映画監督、福澤諭吉の玄孫)
- 福澤幸雄(モデル、カーレーサー、福澤諭吉の曾孫)
- 藤井清也(a flood of circleサポートメンバー、元The SALOVERSメンバー)
- 藤川雄太(元The SALOVERSメンバー)
- 古舘佑太郎(俳優、歌手)
- 星麻琴(NHKアナウンサー)
- 細田善彦(俳優 / 榮太樓總本鋪の次男)
- 松岡修造(元テニス選手、タレント、小林一三の曾孫)
- 松任谷正隆(作曲家)
- 峰岸慎一(文化放送会長 / 加山雄三の同期親友)
- 三宅恵介(テレビディレクター)
- 宮下啓三(慶應義塾大学法学部、帝京大学教授、独文学者)
- 持田昌典(ゴールドマン・サックス日本法人社長)
- 森泉(モデル、タレント、森英恵の孫)
- 森研(ファッションサイトWWD編集長、同上)
- 森星(モデル、タレント、同上)
- 森勉(ファッションデザイナー、同上)
- YUKA (moumoon)(歌手)
- 若杉弘(指揮者)
子女を幼稚舎に通わせた著名人
- 阿川弘之(作家)
- 秋元康(作詞家)・高井麻巳子(元アイドル)夫妻
- 麻生太賀吉(実業家・政治家)
- 麻生泰(実業家)
- 麻生太郎(政治家)
- 安倍晋太郎(政治家)
- 池田大作(創価学会名誉会長)
- 石原慎太郎(作家・政治家)
- 石原伸晃(政治家)
- 中島源太郎(政治家)
- 中曽根弘文(政治家)
- 松野頼久(政治家)
- 加山雄三(俳優・歌手)・松本めぐみ(元女優)夫妻
- 国松彰(元プロ野球選手)
- 二谷英明(俳優)・白川由美(女優)夫妻
- 郷ひろみ(歌手)・二谷友里恵(女優)元夫妻
- 斉藤慶子(女優)
- 桜井俊(官僚)
- 柴俊夫(俳優)・真野響子(女優)夫妻
- 千住鎮雄(慶大工学部教授)・千住文子(エッセイスト)夫妻
- 武見太郎(日本医師会会長)
- 竹田恒正(日本ゴルフ協会副会長)
- 竹田恆和(JOC委員長)
- 田中大貴(フリーアナウンサー)
- 地井武男(俳優)
- 千野志麻(フリーアナウンサー)
- 德川恒孝(徳川宗家第十八代当主、元日本郵船副社長)
- 原辰徳(元プロ野球選手)
- 藤井清孝(ルイ・ヴィトンジャパン プレジデント&CEO)
- 藤山雷太(福澤諭吉直系の実業家)
- フランキー堺(俳優)
- 古舘伊知郎(フリーアナウンサー)
- 北城恪太郎(日本IBM会長)
- 三木谷浩史(楽天社長)
- 水野正人(ミズノ社長)
- みのもんた(フリーアナウンサー)
- 三雲孝江(フリーアナウンサー)
- 森進一(歌手)・森昌子(歌手)元夫妻
- 寺島しのぶ (女優)
- 松岡功(東宝社長)
- 松岡修造(タレント・元プロテニス選手)・田口惠美子(元ニュースキャスター)夫妻
- 秋川雅史(歌手)
- 清原和博(元プロ野球選手)・清原亜希(モデル)元夫妻
- ムッシュかまやつ(歌手、元ザ・スパイダース)
- 村西とおる(AV監督)・乃木真梨子(元AV女優)夫妻
- 大宅映子(ジャーナリスト)
- 白鵬翔(大相撲力士)
- 井上梅次(映画監督)・月丘夢路(女優)夫妻
- 沢松奈生子(元女子プロテニス選手)
- 山本丈晴(作曲家)・山本富士子(女優)夫妻
- 高峰三枝子(女優)
- 市川右團次 (3代目)(歌舞伎役者)
- 川口松太郎(作家・劇作家)・三益愛子(女優)夫妻
- 坂井利郎(元プロテニス選手)
- 盛厚王(旧皇族)・東久邇成子(旧皇族)夫妻
周辺
慶應義塾幼稚舎の校地の北側に古川が流れ、天現寺橋交差点の脇には古川と笄川(こうがいがわ)の合流点があり、合流点より上流は渋谷川と名を変える。校地の北東に狸橋という橋が江戸時代から存在している。橋の南西に狸蕎麦という蕎麦店が明治になるまで存在し、福沢は狸蕎麦や周辺の田園風景を気に入りしばしば来店し、1879年(明治12年)には狸橋南岸一帯の土地を買収し別邸を設けた[29]。
慶應義塾幼稚舎や外苑西通りを挟んで向かいにある東京都立広尾病院の一帯は江戸時代には「広尾の原」と呼ばれており、徳川家光の時代以降にはしばしば鷹狩や鶉狩に利用されていた。その後、明治時代からは砂利採り場となっていたこともあった。古川の流れるこの辺り一帯の海抜は約9メートルで、渋谷区内では最も高度が低い場所となっている[30]。
関連項目
- 慶應義塾大学
- 慶應義塾中等部
- 慶應義塾普通部
- 慶應義塾横浜初等部
- 東京都小学校一覧
- 松濤幼稚園・幼稚園御三家
- 雅樹ちゃん誘拐殺人事件 - 1960年5月、当時当校に通っていた男児が誘拐、殺害された事件。報道協定が制度化するきっかけとなった[31]。
脚注
- ^ 尾崎行雄らが在籍した慶應義塾童子局(ないし童子寮)は、12-16歳の塾生ないし生徒を預かる寄宿舎になる。童子局ないし童子寮よりも年少の子供たちを任せる機関として明治7年に設けられたのが、同幼稚舎の前身になる慶應義塾構内にあった和田塾になる(幼稚舎の歴史 慶應義塾幼稚舎、No.15 塾監局 慶應義塾豆百科)。
- ^ a b 幼稚舎の歴史 慶應義塾幼稚舎
- ^ 小学校創立年度ランキング│お受験インデックス
- ^ 1位「慶應義塾横浜初等部」は11.5倍! 私立小学校志願倍率ランキング - ハピママ
- ^ a b 慶應幼稚舎に金で入るにはいくらかかる? コネ入学者の割合は?|LITERA/リテラ
- ^ a b 石井至『慶應幼稚舎と慶應横浜初等部』朝日新聞出版〈朝日新書〉、2014年5月13日。ISBN 978-4022735614。
- ^ 『慶應義塾百年史』 付録、289頁
- ^ 『慶應義塾百年史』 付録、291頁
- ^ 『慶應義塾百年史』 付録、293頁
- ^ 『慶應義塾百年史』 付録、296頁
- ^ a b c 慶應義塾 『慶應義塾七十五年史』 1932年、255-260頁
- ^ 三田評論 第51回 天現寺界隈、そして幼稚舎
- ^ 『慶應義塾百年史』 付録、301頁
- ^ 『慶應義塾百年史』 中巻(前)、417頁
- ^ 『慶應義塾百年史』 付録、316頁
- ^ 『慶應義塾百年史』 付録、319頁
- ^ 『慶應義塾百年史』 付録、336頁
- ^ ステンドグラス 塾生の制服
- ^ 『慶應義塾百年史』 付録、339頁
- ^ 『慶應義塾百年史』 中巻(後)、300頁
- ^ 三田評論 第51回 天現寺界隈、そして幼稚舎
- ^ 『慶應義塾百年史』 下巻、188頁
- ^ 『慶應義塾百年史』 下巻、188頁
- ^ 『慶應義塾百年史』 下巻、192頁
- ^ 『慶應義塾百年史』 下巻、192-193頁
- ^ 慶應義塾幼稚舎サイエンスミュージアム
- ^ “入学試験Q&A - 入学情報・学校説明会 - 慶應義塾幼稚舎”. www.yochisha.keio.ac.jp. 2020年6月15日閲覧。
- ^ 南博『出会いの人生―自伝のこころみ』勁草書房〈南博セレクション〉、2004年12月1日、8頁。ISBN 978-4326698417。
- ^ 三田評論 2010年11月号「天現寺界隈、そして幼稚舎」より
- ^ 東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p284-5
- ^ 実録事件スペシャル★青年が体験した恐怖の6日間奇跡体験!アンビリバボー、2015年7月23日閲覧。
関連文献
- 慶應義塾幼稚舎史 日録 - Google ブックス(慶應義塾幼稚舎、1965年)
- 慶應義塾幼稚舎史 日録(戦後編) - Google ブックス(慶應義塾幼稚舎、1970年)
- 稿本 慶應義塾幼稚舎史(戦後編) - Google ブックス(慶應義塾幼稚舎、1970年)