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「涿郡」の版間の差分

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==歴史==
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前漢の高祖([[劉邦]])が設置した。郡治は[[タク県|涿県]]。涿・[[水県|遒]]・[[穀丘県|穀丘]]・[[故安県|故安]]・[[南深沢県|南深沢]]・[[定興県|范陽]]・[[博野県|蠡吾]]・[[容城県|容城]]・[[易県|易]]・[[広望県|広望]]・[[鄚県|鄚]]・[[高陽県|高陽]]・[[州郷県|州郷]]・[[安平県|安平]]・[[清苑区|樊輿]]・[[成県 (河北省)|成]]・[[良郷県|良郷]]・[[利郷県|利郷]]・[[臨郷県|臨郷]]・[[益昌県|益昌]]・[[陽郷県|陽郷]]・[[西郷県 (河北省)|西郷]]・[[饒陽県|饒陽]]・[[中水県|中水]]・[[武垣県|武垣]]・[[阿陵県|阿陵]]・[[阿武県|阿武]]・[[高郭県|高郭]]・[[固安県|新昌]]の29県を管轄した。『[[漢書]]』によれば前漢末に19万5607戸、78万2764人があった<ref>[[班固]]『[[漢書]]』地理志第八上。[[小竹武夫]]訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、320-322頁。</ref>。


[[新]]の時代に'''垣翰郡'''(えんかんぐん)と改称したが、後漢になって戻された<ref>班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、320頁。</ref>。
[[新]]の時代に'''垣翰郡'''(えんかんぐん)と改称したが、後漢になって戻された<ref>班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、320頁。</ref>。

2021年3月1日 (月) 05:23時点における版

中国地名の変遷
建置 漢代
使用状況 唐代に廃止
前漢涿郡
垣翰郡
後漢涿郡
三国范陽郡
涿郡
幽州

涿郡(たく-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代および隋代に、現在の河北省北京市にまたがる地域に設置された。

歴史

前漢の高祖(劉邦)が設置した。郡治は涿県。涿・穀丘故安南深沢范陽蠡吾容城広望高陽州郷安平樊輿良郷利郷臨郷益昌陽郷西郷饒陽中水武垣阿陵阿武高郭新昌の29県を管轄した。『漢書』によれば前漢末に19万5607戸、78万2764人があった[1]

の時代に垣翰郡(えんかんぐん)と改称したが、後漢になって戻された[2]

後漢の涿郡は涿・遒・故安・范陽・良郷・北新城・方城・容城の8県を管轄した[3]

三国時代文帝により涿郡は范陽郡と改称された[4]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、范陽郡は廃止されて、幽州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、幽州は涿郡と改称された。涿郡は薊・良郷・安次・涿・固安・雍奴・昌平・懐戎・潞の9県を管轄した[5]

618年武徳元年)、により涿郡は幽州と改められ、涿郡の呼称は姿を消した[6]

脚注

  1. ^ 班固漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、320-322頁。
  2. ^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、320頁。
  3. ^ 後漢書』郡国志五
  4. ^ 晋書』地理志上
  5. ^ 隋書』地理志中
  6. ^ 旧唐書』地理志二