「ドーハの悲劇」の版間の差分
タグ: 取り消し |
編集の要約なし タグ: 差し戻し済み モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
13行目: | 13行目: | ||
| details = |
| details = |
||
| date = [[1993年]][[10月28日]] |
| date = [[1993年]][[10月28日]] |
||
| stadium = [[ |
| stadium = [[カラムーチョ競技場]] |
||
| city = {{QAT}} [[ドーハ]] |
| city = {{QAT}} [[ドーハ]] |
||
| man_of_the_match1a = [[ |
| man_of_the_match1a = [[蛭子能収]] |
||
| man_of_the_match1atitle = |
| man_of_the_match1atitle = |
||
| man_of_the_match1b = |
| man_of_the_match1b = |
2021年2月28日 (日) 11:27時点における版
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 |
| |||||||
開催日 | 1993年10月28日 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
会場 | カラムーチョ競技場( カタール ドーハ) | ||||||
最優秀選手 | 蛭子能収 | ||||||
主審 | セルジュ・ムーメンターラー |
ドーハの悲劇(ドーハのひげき, Agony of Doha[1])は、1993年10月28日[注 1] にカタールの首都・ドーハのアルアリ・スタジアムで行われたサッカーの国際試合、日本代表対イラク代表戦の日本における通称。
1994年アメリカワールドカップ・アジア地区最終予選の最終節で行われたこの試合は、第4戦終了時点で日本はグループ1位となり、初の本戦出場に王手をかけていた。
しかし最終第5節で、劣勢ながら試合終了間際まで2-1でリードしていながら、ロスタイムにイラク代表に同点ゴールを入れられ、一転して予選敗退する結末となったことから、この通称で呼ばれている。
最終予選の経過
アジア地区最終予選は、ドーハでの集中開催方式にて行われた。1次予選A〜F組を1位通過した6か国が総当たりのリーグ戦で対戦し、上位2か国がワールドカップの出場権を得ることになっていた。日本は1次予選F組で7勝1分けとし、UAEを抑えて最終予選へ進出した。一方のイラクは1次予選A組で6勝1分1敗で勝点13、中国を勝点1差で抑えて進出した。
日本は初戦のサウジアラビア戦を0-0で引き分けたが、第2戦のイラン戦を1-2で落としこの時点で6か国中最下位に転落した。スタメンの入れ替えを敢行した第3戦の北朝鮮戦を3-0で快勝。続く第4戦ではそれまでW杯と五輪のアジア予選で一度も勝てなかった韓国に三浦知良のゴールで1-0で勝利し、韓国に代わり首位に立った。守備は6チーム中最少失点(4試合中3試合を完封)、スーパーサブからスタメンに起用された中山雅史が攻撃を活性化するなど、攻守のバランスは上向いていた。
イラクは初戦の北朝鮮戦で2点を先取しながら退場者を出し、2-3で逆転負け。イラクサッカー協会が監督を更迭し、1980年代に2度五輪チームを率いたエマヌエル・"ババ"・ダウド (Ammo Baba) が監督に就任した。第2戦韓国戦は86分に追いつき2-2で引き分け、第3戦イラン戦は2-1で初勝利を収め、第4戦サウジアラビア戦は1-1で引き分けた。6チーム中最多の7得点を挙げながら、失点も7失点という出入りの激しいサッカーをしていた。
最終戦となる第5戦を残した第4戦終了時点の順位は以下のとおり。
|
|
- 当時の勝点は勝利2、引き分け1、敗戦0。勝点が同じ場合、得失点差、総得点、当該国間の対戦結果の順で順位を決した。
北朝鮮以外の5か国が勝点の差「1」の中でひしめき、5か国のいずれにも本大会出場のチャンスが残されていた。同日・同時刻キックオフとなる最終戦(第5戦)3試合の組み合わせは
となっていた。各試合の結果による勝点等の成績をまとめると下表のようになる。
日本 - イラク | 日本 | イラク | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
勝点 | 得失差 | 得点 | 勝点 | 得失差 | 得点 | |
日本が勝った場合 | 7 | +4以上 | 6以上 | 4 | -1以下 | 7以上 |
引き分けの場合 | 6 | +3 | 5以上 | 5 | 0 | 7以上 |
イラクが勝った場合 | 5 | +2以下 | 5以上 | 6 | +1以上 | 8以上 |
サウジアラビア - イラン | サウジアラビア | イラン | ||||
勝点 | 得失差 | 得点 | 勝点 | 得失差 | 得点 | |
サウジアラビアが勝った場合 | 7 | +2以上 | 5以上 | 4 | -3以下 | 5以上 |
引き分けの場合 | 6 | +1 | 4以上 | 5 | -2 | 5以上 |
イランが勝った場合 | 5 | 0以下 | 4以上 | 6 | -1以上 | 6以上 |
韓国 - 北朝鮮 | 韓国 | 北朝鮮 | ||||
勝点 | 得失差 | 総得点 | 勝点 | 得失差 | 総得点 | |
韓国が勝った場合 | 6 | +3以上 | 7以上 | 2 | -5以下 | 5以上 |
引き分けの場合 | 5 | +2 | 6以上 | 3 | -4 | 5以上 |
北朝鮮が勝った場合 | 4 | +1以下 | 6以上 | 4 | -3以上 | 6以上 |
本大会出場(勝点7)
|
最終予選敗退(勝点5以下)
|
したがって、各国の本大会出場条件は次のとおりとなる。
日本 - イラク | |
---|---|
日本が勝った場合 | 【日 本】 本大会出場
【イラク】敗 退 |
引き分けの場合 | 【イラク】敗 退
【日 本】サウジアラビア、イラン、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある
|
イラクが勝った場合 | 【日 本】敗 退
【イラク】サウジアラビア、イラン、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある
|
サウジアラビア - イラン | |
サウジアラビアが勝った場合 | 【サウジアラビア】 本大会出場
【イラン】敗 退 |
引き分けの場合 | 【イラン】敗 退
【サウジアラビア】日本、イラク、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある
|
イランが勝った場合 | 【サウジアラビア】敗 退
【イラン】日本、イラク、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある
|
韓国 - 北朝鮮 (北朝鮮は敗退決定) | |
韓国が勝った場合 | 【韓国】日本、イラク、サウジアラビア、イランの4か国のうち3か国を成績で上回る必要がある ↓ 次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場
|
引き分けの場合 | 【韓国】敗 退 |
北朝鮮が勝った場合 |
第4戦終了時点で首位の日本は勝てば他会場の試合結果にかかわらず出場決定となり、引き分けでもサウジアラビアと韓国のいずれかが引き分け以下、あるいはどちらも勝った場合であっても、韓国が北朝鮮に1点差で勝利した場合には(即ち得失点差で日本と同数となる場合)、日本の総得点が韓国と同数以上であれば日本が出場権を得られるという、かなり有利な条件で日本は最終戦に臨んだ。一方、イラクは日本戦での勝利がまず必要となり、加えてサウジアラビア-イラン戦が引き分けかイランの2点差以内勝利(3点差以上の場合は得失点・総得点でイランとの争い)または韓国が北朝鮮に対し引き分けか敗れた場合、1986年メキシコ大会に続く2度目のW杯本大会出場が実現する状況だった。3位の韓国も自力出場の可能性が消滅しており、最終戦で勝利しても日本とサウジアラビアが共に勝利した場合は本大会出場ができない状況にあった。
第5戦(最終戦)
試合経過
第4戦までは全試合がハリーファ国際スタジアムで行われてきたが、最終戦は3試合同時進行のため、日本-イラク戦はアル・アリ競技場で開催された。観客席はイラクのサポーターが多数を占めたが、遠来の日本サポーターも懸命に声援を送った。
両国の過去の対戦成績は日本の1引き分け3敗で、ロサンゼルス五輪アジア・オセアニア地区最終予選(1984年4月21日 日本 1-2 イラク)以来9年半ぶりの対戦となる。第4戦からイラクは中3日、日本は中2日を挟んで最終戦に臨む。
日本は、北朝鮮戦・韓国戦で成功した4-3-3システムを継続。前線には三浦知良・中山雅史・長谷川健太が変則3トップ気味に並ぶ。中盤のボランチのポジションには、韓国戦で活躍した北澤豪に替わり、出場停止明けの森保一が戻った。イラクは出場停止処分が重なり、主力数名を欠いた布陣で臨んだ。
- 前半戦
- 試合は開始5分に中山のポストプレーから長谷川がシュートを放ち、クロスバーに弾かれバウンドした所を三浦知がヘディングで押し込み、日本が早々と先制する。その後は勝利でしか望みをつなげないイラクが同点を狙い、日本が堅守からカウンターを仕掛ける展開となり、前半は1-0のまま終了した。
- 他会場の前半は『サウジアラビア 2-1 イラン』『韓国 0-0 北朝鮮』で、このスコアのままだと日本とサウジアラビアが勝ち抜けとなる。
- 後半戦
- 後半に入るとイラクのサイド攻撃が活発になり、55分にアーメド・ラディがセンタリングをゴールへ流しこみ、1-1の同点に追いついた。日本は特に中盤の運動量が落ちてセカンドボール回収がままならなくなり、以降イラクが更にボール支配率を高めて攻勢を強めていく[2]。他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねており、日本は劣勢下で勝ち越すことができなければ予選敗退となる。
- イラクは何度か決定的なチャンスを掴むが得点には結びつかず、64分には日本のDFとGKをドリブルで抜いたアラー・ジェベルが無人のゴールにシュートするも外す。逆に日本は69分にラモス瑠偉のスルーパスから中山が右角に決めたゴールが、オフサイドポジションでありながらも認められ、2-1の勝ち越しに成功した。
- ロスタイム
- その後、イラクの運動量も落ちたことで、膠着状態のまま日本の勝利の時が近づく。89分50秒、ラモスのパスをカットしたイラクは自陣からカウンターアタックを仕掛け、日本の左サイド(バックスタンド側)からコーナーキックのチャンスを得た。このキック前に90分を経過してロスタイムに突入。ここでキッカーのライト・フセインはゴール前に直接センタリングを送らず、素早くショートコーナーを開始。意表を突かれた日本は三浦知が対応するが、フセイン・カディムに振り切られセンタリングを上げられる。これをニアポスト側にいたオムラム・サルマンがヘディングシュート。ボールは、見上げるGK松永成立の頭上を放物線を描いて越えゴールに吸い込まれ、同点となった(90分17秒)。
- イラクの同点ゴールが決まった瞬間、控えを含めた日本代表選手の多くが愕然としてその場に倒れ込んだ。その後、日本はキックオフからすぐ前線へロングパスを出すも、ボールがそのままタッチラインを割ったところで主審のセルジュ・ムーメンターラーの笛が鳴らされ、2-2の引き分けで試合終了となった。
- 試合終了後
- 終了後、ピッチ上の日本代表選手の多くはその場にへたり込んだまま動けず、控え選手やスタッフに声をかけられ、夢遊病者のようによろよろと立ち上がるという状態だった。キャプテンの柱谷哲二は両手で顔を覆って号泣し、ハンス・オフト監督と清雲栄純コーチに支えられながらピッチを後にした。左サイドバックの勝矢寿延は、これまで惨敗でのワールドカップ地区予選敗退のイメージがあったため、引き分けという結果で予選敗退という状況が呑み込めておらず、他の選手がピッチにへたりこむ様子を見て不思議に思ったという。
- 日本-イラク戦より数分早く終了した他会場の結果が、『サウジアラビア 4-3 イラン』『韓国 3-0 北朝鮮』だったため、最終順位は下表の通りとなり、サウジアラビアと韓国が本大会への出場権を獲得。得失点差で韓国に及ばず3位に転落した日本は出場権を逃した。「日本リード」を聞かされていた韓国の選手達は勝利後もうつむいていたが、「日本同点、試合終了」の結果を知ると一転して歓喜に包まれた。
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
本大会出場(2位以上)
|
最終予選敗退(3位以下)
|
- 当時の勝点は勝利2、引き分け1、敗戦0。勝点が同じ場合、得失点差、総得点、当該国間の対戦結果の順で順位を決した。
試合結果
|
|
登録メンバー
ゴールキーパー | ||
---|---|---|
1 | 松永成立 | 横浜マリノス |
19 | 前川和也 | サンフレッチェ広島 |
ディフェンダー | ||
2 | 大嶽直人 | 横浜フリューゲルス |
3 | 勝矢寿延 | 横浜マリノス |
4 | 堀池巧 | 清水エスパルス |
5 | 柱谷哲二 | ヴェルディ川崎 |
6 | 都並敏史 | ヴェルディ川崎 |
7 | 井原正巳 | 横浜マリノス |
21 | 三浦泰年 | 清水エスパルス |
22 | 大野俊三 | 鹿島アントラーズ |
ミッドフィルダー | ||
8 | 福田正博 | 浦和レッズ |
10 | ラモス瑠偉 | ヴェルディ川崎 |
14 | 北澤豪 | ヴェルディ川崎 |
15 | 吉田光範 | ジュビロ磐田 |
17 | 森保一 | サンフレッチェ広島 |
18 | 澤登正朗 | 清水エスパルス |
フォワード | ||
9 | 武田修宏 | ヴェルディ川崎 |
11 | 三浦知良 | ヴェルディ川崎 |
12 | 長谷川健太 | 清水エスパルス |
13 | 黒崎比差支 | 鹿島アントラーズ |
16 | 中山雅史 | ジュビロ磐田 |
20 | 高木琢也 | サンフレッチェ広島 |
監督 | ハンス・オフト | |
コーチ | 清雲栄純 | |
GKコーチ | ディド・ハーフナー |
放送
日本では、テレビ東京およびNHK BS1がテレビ中継を、ニッポン放送がラジオ中継を行った。
テレビ東京の放送では、現地実況を久保田光彦アナウンサー、解説を前田秀樹が務めた。東京のスタジオでは金子勝彦が司会を務め、ゲストとして釜本邦茂(当時:ガンバ大阪監督)、森孝慈(当時:浦和レッズ監督)、当時の日本代表主将・柱谷哲二の実兄である柱谷幸一(当時:浦和レッズ選手)がいた。ロスタイムの同点ゴール時には久保田が「決まった!」と叫んだあと久保田、前田ともに一言も発せず、日本の制作スタッフは放送事故かと慌てたという[3]。沈黙が30秒近く続いたあと、ようやく久保田が「仕方ないですね」と発した[4]。試合終了後、スタジオに画面が戻ってきても、金子、釜本、森、柱谷の四者とも呆然として何も言うことができず、特に柱谷は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。森はロスタイムの同点劇について「これがサッカーなんですよ」とコメントし、金子は「サッカーの世界では、天国と地獄を見て初めて本当のサポーターになれる」との言葉を紹介した。柱谷は、金子から「お辛いでしょうけど」と促され、絞り出すように「1カ月、辛かっただろうけど、胸を張って帰ってこい」と弟の哲二ら選手にメッセージを送った[4]。番組の視聴率は日本時間の深夜帯にもかかわらず、同局史上最高の48.1%を記録した。
NHK BS1の放送では実況を山本浩アナウンサー、解説を田中孝司が務めた。スタジオでは友田幸岐が司会を務め、解説は岡田武史と田嶋幸三が担当した。試合終了後、岡田は言葉を詰まらせ、友田は「サッカーの怖さが出ました。何もこの試合じゃなくても良かったんじゃないかと…」とコメントした。岡田はこの4年後、1998年フランスワールドカップ最終予選中に急遽日本代表監督を引き継ぎ、ワールドカップ初出場を決めることになる(ジョホールバルの歓喜)。
ニッポン放送のラジオ中継は、実況が師岡正雄アナウンサー[5]、解説は小谷泰介が務めた。イラクの2点目(同点ゴール)の直後に、小谷が「何ということだ……」とコメントしている。フジテレビでドーハの悲劇の映像が流れる際にはこのニッポン放送の実況音声が使われた。
エピソード
- ロスタイムに突入する頃、日本サッカー協会の川淵三郎強化委員長は「(Jリーグ開幕に続いて)こんなにすべてが上手くいっていいのかな」と思っていたが[6]、イラクの同点ゴールが決まった時には「ああ、やっぱりな。神様はそうさせるはずはないって、本当にそう思った」という[6]。川淵は、この試合がテレビ放映で高視聴率を記録したというだけでなく、国民感情の振幅も大きく日本国民にサッカーの面白さを強烈に印象付けることとなり、オリンピックをも上回る最大のスポーツイベントであるFIFAワールドカップの人気を日本に定着させることになったと評価した[7]。
- 最終予選のベストイレブンに、参加6か国では最多となる松永、柱谷、ラモス、三浦知の4名が選ばれており、表彰式に参加するよう日本サッカー協会に要請が来ていたが、当時オフト監督の通訳を担当していた日本サッカー協会強化委員会の鈴木徳昭総務担当が柱谷に確認したところ、みんなの判断で行けないとのことだったため、鈴木総務担当と川淵強化委員長、小倉純二だけで出席することとなった。鈴木総務担当は、「それはそれでそのときのどうしようもない判断だったけど、本来は結果にかかわらず、どんな悲惨なことがあったとしても、行かせなければいけなかったのかもしれない、とあの後すぐに思った」と回顧している[4]。また鈴木は、FIFA関係者のドイツ人から「これがサッカーだよ」という言葉を投げかけられ「こういう経験を私たちサッカー界はあと100年の間に何十回も経験しないと、本当の意味で世界を知ることは、世界と伍することはできないんだなと思いました」と語っている[4]。
- 川淵は日本への帰国便に乗る前、「明日から我々に厳しい批判の声が飛んでくるけれど、それを受け止めて、前へと進んでいこう」と声をかけた[8]。しかし、選手達を乗せたチャーター便が成田国際空港に到着すると、数百人のファンから温かく出迎えられた[9]。多くのマスコミやファンは、ワールドカップ出場を直前で逃したにもかかわらず、この結果を好意的に受け止めた。しかし、こういった反応はワールドカップ出場をギリギリで逃した選手たちにとって複雑なものだったという[9]。松永は、「日本はサッカー先進国に向かっている途中だからこうなんだ。これがドイツやブラジル、スペインだったらこういう歓迎のされ方はしないんだろうな。これから代表を背負って戦っていく選手たちに対して、ここでブーイングされるときこそが本当の日本のサッカーのスタートなんだな」と感じたという[4]。また実際に現場で取材したベテラン記者の中には、こうした国内の反応を苦々しく思う者もいたらしい[9]。
- 試合終了の数時間後に発行された読売新聞10月29日付朝刊では、すでに解説文中で「ドーハの悲劇」という言葉が使われていた[10]。現地で取材した読売新聞記者は、1986年のUEFAチャンピオンズカップ決勝で優勝候補のFCバルセロナがステアウア・ブカレストにPK戦で敗れた「セビリアの悲劇」を思い浮かべながら記事を書いたという[10]。その日以降、ほかの新聞や雑誌でも「ドーハの悲劇」というフレーズが用いられた。
- 韓国の選手は本戦出場決定に大喜びし、試合後にホテルで祝勝パーティーを行った。しかし、部屋に戻りテレビで日本の選手・サポーターが泣く映像を見ると、誰もが声を失ったという[11]。なお、日本と韓国はドーハの同じホテルに泊まっており、サンフレッチェ広島に所属していた盧廷潤の好意で焼肉とキムチをお裾分けしてもらったこともあった[12]。
- この試合の結果、自力での本大会出場の可能性がなかった韓国が本大会出場を決めたため、韓国国内では「ドーハの奇跡(도하의 기적)」と呼ばれている。その後、大韓サッカー協会は同点ゴールを決めたオムラムを韓国に招待して国賓級の待遇をもてなし、韓国のテレビ番組でも英雄扱いされた。協会国際部の部屋には、オムラムのサインボールが飾られた[13]。なお、2006年アジア競技会カタール大会の野球競技で、大会3連覇を目指した韓国代表がチャイニーズタイペイと日本代表に連敗したショックを、韓国では「ドーハの悲劇」と表現することがある[10]。
- 日本のフジテレビもオムラムらイラク代表選手数名を日本に招待し、ニュース番組でドーハの悲劇の感想を聞いたり、バラエティ番組「明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」で芸能人らとのリベンジマッチを行わせたりもした(1994年4月8日放送分)。
分析
オフト采配
日本サッカー協会強化委員会は同年11月5日に定例会議を開き、「修羅場での経験不足」を理由に翌1994年5月まで契約が残っていたオフト監督の解任を決定した。10日に川淵三郎強化委員長とオフト監督との間で会談が開かれ、翌11日に退任が正式発表された。
サッカー専門誌では、ハンス・オフト監督の作り上げた組織的サッカーが、この予選中でアジアトップレベルのサッカーを披露したとし、その功績を認めながらも、オフト監督自身の指導力の限界を指摘した。
- オフトは1992年3月に代表監督に就任すると、前任の横山謙三監督時代の選手を継続起用しながら、「アイコンタクト」「トライアングル」などの規律を浸透させ、同年8月のダイナスティカップと同年10月のアジアカップで初優勝するなど短期間でチーム力を向上させた。しかし、ワールドカップ・アジア1次予選(1993年5月)まで1年しかない状況でレギュラーをほぼ固定してチームを強化したため、新戦力の導入は進まなかった。1993年1月のカールスバーグカップ(香港)に参加した日本選抜チームの若手や、開幕したJリーグで好調な選手をサブメンバーに補強してみたものの、主力選手の故障・不調が重なると選手層の薄さが深刻な問題になった。
- 特に左サイドバック (SB) の都並敏史が左足を亀裂骨折した影響は大きく、左サイドで三浦知・ラモス・都並のヴェルディトリオが絡みながら、都並の攻撃参加を引き出すという武器が失われた。オフト監督と清雲コーチは70試合のスカウティングを重ねたが、都並の代役になりうる攻守のバランスがとれたバックアップは見つからなかった[14]。悩んだオフト監督は「街で『あなたサッカーやってませんか?左サイドバック、できませんか?』と聞いて回りたいくらいだ」と清雲コーチに真顔で話したという[15]。スペイン合宿でのレアル・ベティスとの練習試合では江尻篤彦をテストするも満足できず、最終予選の壮行試合を兼ねたアジア・アフリカ選手権(10月4日)ではボランチの三浦泰年を左SBに起用し[注 2]、一応の目途がついたと思われたが、最終予選第2戦でイランに三浦泰のいる左サイドを執拗に狙われ、第3戦以降はセンターバック(もしくは右SB)が本職の勝矢を左SBにコンバートした。勝矢は北朝鮮のキーマンであるキム・グァンミンを完封するなど守備面で貢献したが[16]、攻撃面とのバランスは解決しなかった。
- イラク戦の後半、日本は中盤の運動量が落ちてボールを回収できず、ディフェンスラインが下がりっぱなしになりイラクの波状攻撃を浴びる状態だった。ピッチ上の選手は中盤のカンフル剤となる北澤豪の投入を望んでおり[2]、ラモスはベンチに向かって「キタザワー」とリクエストしていた[17]。しかし、オフト監督は韓国戦と同じく「長谷川→福田正博」「中山→武田修宏」という前線2人の交代を行い[注 3]、結果的に劣勢を挽回する事が出来なかった。清雲コーチは「中盤の選手を入れると、イラクのディフェンダーが上がってきてプレッシャーがきつくなる。それが嫌だったんです」と交代策の意図を説明する[19]。結果論にすぎないが、北澤は後に「やはり(あの交代は)間違いだったと思う」と述べている[2]。柱谷は「武田が悪いわけじゃないけど、この時、初めてオフトが自分たちの考えとズレた采配をした」と述べている[20]。
チームの内情
- オフトジャパン人気との相乗効果で、同年5月のJリーグ開幕は社会現象的な注目を集め、選手たちは期待と関心に応えるため、アマチュア時代とは全く異なるプレッシャーの中でプレーしていた。さらに、延長・PK戦[注 4] にもつれることもある試合が週2回ペースで続き、厳しいスケジュールでコンディションを崩す選手が続出した。北澤と都並(前述)は足を疲労骨折し、柱谷は風邪が治りきらないまま出場し続けたためウイルス感染で肝機能を低下させ8月上旬から入院した[21]。福田は所属する浦和レッズの成績低迷で自信を失っていた[22]。代表のキャンプは野戦病院のようで、オフトはそこで鍛える事よりも、コンディションを普通の状態に回復させることに苦労していた[23]。最終予選1カ月前のスペイン合宿は戦術の最終チェックを行う目的だったが、レギュラーに怪我や病気が相次ぎ、この時期にメンバーの再選考をしなければならないという誤算が生じた[24]。合宿中、チーム状態が上向かないことに苛立ったラモスが「ああ、つまんねえ!帰りたいよ、日本に」と癇癪を起したこともあった[25]。
- イラン戦の敗戦で崖っぷちに立たされた日本は、オフト監督の「3WIN(残り3試合を全勝する)」というメッセージで気持ちを切り替え、活気を取り戻した[26]。北朝鮮戦で圧勝し、次の韓国戦ではカズのスタンドプレーによる先制点を守り切って勝利し、最下位から一転首位に躍り出た。都並によると、本当はあと1つ勝たなければならないにも関わらず宿敵韓国に勝利した事で日本の選手達の間ではワールドカップ行きが決まったような雰囲気が生まれ、ラモスが選手たちに「まだ終わっていない」としつこく言っていた[27]。
- イラク戦のハーフタイム中、ロッカールームに引き上げてきた選手たちは、オフト監督が3度も「Shut Up(黙れ)!」と怒鳴らなければならない程[28] の興奮状態にあり、オフト監督の戦術説明を聞かず勝手に修正点を話し合っていた。清雲コーチによれば「選手たちの会話がどこで起こっているのかわからない異様な状況」で、「そんな混乱が続く中でオフトが『U.S.A. 45min』とホワイトボード上の模造紙に書いて説明しようとしたら、後半のブザーが鳴ってしまった」という[4]。
- 後半ロスタイム突入間際、日本はカウンターから敵陣深くへ侵入したが、途中出場の武田はボールをキープせず、味方が詰め切れていないゴール前へセンタリングを上げた[29]。そのルーズボールを回収したラモスも、最終ラインの裏へ浮き球のスルーパスを通そうとしてカットされた[29]。そこからイラクの同点ゴールにつながるカウンターが始まった。オフト監督は後に「ゲームの作り方(組織戦術)は教えたが、ゲームの壊し方(試合を逃げ切る方法)は教えることが出来なかった」と語っている[13]。また、吉田光範によれば、前の韓国戦も1-0でリードした残り10分間の内容が不安定で、オフト監督は「キープ・ザ・ボール!」と声を嗄らして叫んでいたという[30]。
イラクの健闘
- 最終予選の対戦国ではサウジアラビアと韓国が難敵になると予想されていたが、オフト監督はイラクを「危険なチーム」として一番マークしていた[22]。井原は「試合が始まってみて、こいつら、まだこんなに走れるのかよと驚いた」[31]、堀池は「運動量もテクニックもあるモダンなサッカーに走らされて、身体も心も追いつめられていった」と述べている[32]。イラクの選手は後半ロスタイムに同点とすると、センターサークルにボールを戻して日本のキックオフを待ち、最後まで勝利を目指す姿勢を見せた。奮闘の理由として、イラクオリンピック委員長ウダイ・フセイン(サダム・フセインの長男)から「日本に敗れたら鞭打ちの刑に処す」と脅されていたという[33]。
- イラクは最終予選を通して不利な判定を受けており、イラクが湾岸戦争の「敵国」アメリカで開催されるW杯へ出場することを阻止する配慮があったのではないかとまことしやかに囁かれた[34]。日本戦では出場停止中だった主力選手2名が復帰するはずだったが、試合当日朝にペナルティーの延長が決まった[34]。ラモスは主審の笛が日本寄りな雰囲気を感じ取り、オフサイドかどうか微妙な場面ではそのまま流すことも想定していた[35]。69分の勝ち越しゴールの場面では、中山が確実にゴールを決められるよう、中山がオフサイトポジションに出た瞬間を狙ってスルーパスを出した[36]。ゴールシーンをベンチ正面から見ていた都並は「こりゃオフサイドだ、これ、くれるか」と呟いたという[37]。
- ロスタイムに入り主審がいつ試合終了の笛を吹くか分からない状況では[注 5]、コーナーキックを直接ゴール前へ蹴るのが常識だった[38]。イラクの選手がコーナーにボールをセットする間、柱谷はゴール前の人数と配置を確認して、これなら大丈夫と思ったという[38]。しかし、日本選手の予想を裏切り、イラクのフセインはショートコーナーを選択した。松永は「もしゴールが逆だったら、イラクは電光掲示板を見ていたはず。そうしたら、イラクはショートコーナーなんて絶対やらなかったと思う。あいつらはロスタイムだってことを知らなかったんだ」と述べている[39]。同年12月22日放送のNHKクローズアップ現代「空白の17秒 〜日本がW杯にもっとも近づいた日〜[40]」でフセインはインタビュー答え、「試合に夢中で、時計を見る余裕がなかったので、時間が残っているのかいないのか分かりませんでした」と語った[41]。
- 柱谷哲二はのちに最後のコーナーキックの守備について、「マークについていなかった。ゴール前に密集していればクリアできるものだと思った」と語った[42][要出典]。
- イラクがコーナーキックを始める前、ラモスがレフェリーにポルトガル語で「アカボウ(これで終わり)?」と尋ねると、「スィ(イエス)」と答えたという[43]。ラモスはコーナーキックを蹴った時点で試合終了になると思ったが、イラクがショートコーナーを繋いでも終了の笛は鳴らなかった。のちに、川淵が主審になぜ前半はロスタイムを取らなかったのに後半は取ったのかと尋ねると、後半途中にイラクの観客がピッチへ投げ込んだコカ・コーラの瓶[注 6] を拾って副審へ渡しに行った時間を加えたと教えられた[44]。
- イラク代表は最終予選を通じて全チーム中1位の得点数を叩き出していた。また日本戦までの星どりは1勝2分け1敗だったが、ワールドカップ本戦出場国の韓国・サウジアラビアを苦しめた上での2分け、唯一の黒星となった北朝鮮戦も後半途中退場者を出すまで2-0でリードしており、日本戦においても主力を多く欠く中での引き分けであった。ラモスも最終予選を振り返った時に強かったチームはとインタビューで聞かれると「間違いなく韓国とイラク。イラクは特にサッカーをよく知っているなと思った」と述懐している。
その他
- アジア最終予選に関しては、イラク戦の結果のみがクローズアップされがちだが、それまでの経過に敗退の原因があるという意見もある。
- 最終予選はセントラル方式(中立地開催)だったが、中東の地で開催された点で日本はアウェイの立場だった。福田は「東アジアの2か国に勝ったけど、中東の3か国には勝てていない。ホームとアウェイはそれくらい違うということを、改めて理解すべきだと思う」と述べている[32]。
その後
1994年、日本が出場を逃したワールドカップ・アメリカ大会でアジア勢は奮闘した。サウジアラビアはエースオワイランを中心に躍進。アジア勢として7大会振りのベスト16入りを果たす。土壇場で出場を決めた韓国も勝利を収めることはできなかったが、スペイン戦では試合終了5分前から2点差を追いつき、ドイツ戦でも3点ビハインドから1点差に追い上げ、前回大会全敗に終わったアジア勢の復活を印象付けた。
ドーハの悲劇から1年後、アジア予選突破・世界大会出場というフル代表が果たせなかった目標は、アンダー世代によってドーハの地で達成された。1994年10月、カタールで行われたU-16アジアユース選手権に出場したU-16日本代表は、アル・アリ競技場で行われた決勝戦を山崎光太郎の延長ゴールデンゴールで勝利し、初のアジア制覇と翌年のU-17世界選手権エクアドル大会出場を決めた。中心メンバーの小野伸二・高原直泰・稲本潤一らは1999年のワールドユースで準優勝し、「黄金世代」と呼ばれるようになる[48]。
1996年、U-23日本代表がアトランタ五輪アジア最終予選でサウジアラビアと対戦した際には、ハーフタイム中に選手の興奮を鎮めたり[49]、リードした後半に効果的に時間を稼ぐなどドーハの悲劇の教訓が活かされ[50]、28年ぶりの五輪出場が成し遂げられた[51]。
1998年のワールドカップ・フランス大会以降、アジア最終予選はホーム・アンド・アウェー方式で行われるようになった。日本は1997年のアジア最終予選でイランとの3位決定プレーオフに勝利してワールドカップ初出場を決めている(ジョホールバルの歓喜)。1994年大会出場を逃したいわゆる「ドーハ組」の中で、1998年大会の本戦メンバーに選ばれたのは中山雅史と井原正巳の2名のみだった。以後、日本は自国開催枠出場の2002年日韓大会を含め、2018年ロシア大会まで6大会連続でワールドカップ出場を果たしている。
2011年、アジアカップ・カタール大会で日本代表は6試合中5試合をドーハで戦い、史上初となる4度目のアジア制覇を成し遂げ、「もうドーハは『悲劇の地』では無くなった」などと言われた[52]。特に初戦のヨルダン戦では、敗色濃厚の後半ロスタイムにショートコーナーからヘディングで同点に追いつくという、まさに18年前の立場を逆にしたかのような試合展開であった。
2013年、2014年ワールドカップ・ブラジル大会アジア最終予選においては、『日本[注 7] がドーハの地でイラク[注 8] との最終戦[注 9] に臨む』ことが話題となった(試合は1-0で日本が勝利)。
2015年、アジアカップ・オーストラリア大会のグループD第2戦では、ドーハの悲劇にDFとして出場したラディ・シュナイシェルが指揮を執るイラクとブリズベンで対戦し、1-0で日本が勝利した。
2016年、リオデジャネイロ五輪アジア最終予選を兼ね、ドーハでアジアU-23選手権が行われた。準決勝ではU-23日本代表がU-23イラク代表と対戦し、後半48分に決勝点を奪ってリオデジャネイロ五輪本大会出場を決めた。この世代の選手は「ドーハの悲劇」が起きた1993年かそれ以降に生まれた選手たちだった。手倉森誠監督は勝利後のインタビューで「日本サッカー界のことを思えば、ロスタイムで取るあたり歴史を逆転させた。いい勝ち方だなと思います」と述べた[53]。
脚注
注釈
- ^ カタール時間16時15分開始の日本-イラク戦でロスタイムにイラクの同点ゴールが決まった時刻は18時過ぎであり、6時間の時差の関係で、日本では日付が変わり10月29日の0時過ぎとなっていた。
- ^ 三浦泰年は読売サッカークラブにいた頃ラモスや実弟の三浦知良とプレーし、SBをした経験もあった。
- ^ 当時のルールではFIFA公式戦の交代選手は2人まで。なお1994年ワールドカップ本大会からフィールドプレーヤー2人+ゴールキーパー1人の最大3人に改正された[18]。
- ^ サッカー不人気の理由に「引き分けが多い」というイメージがあったため、発足当時のJリーグは90分間で同点の場合はVゴール方式の30分間の延長戦を行い、それでも決まらない場合はPK戦を行ない決着をつけるという、引き分けが一切起こらないルールを採っていた。
- ^ 当時は終了間際にサイドラインで第三審判がアディショナルタイムの目安を表示するルールはなかった。
- ^ 後半4分、フリーキックからイラクのヘディングシュートが決まったが、オフサイド判定で取り消され、怒ったイラクの観客が瓶を投げ入れた。
- ^ 前節の試合で既に本大会出場を確定。
- ^ FIFA安全規則違反により、アジア予選のホームゲーム国内開催権を剥奪。
- ^ 組み合わせの都合により、日本は最終節の対戦がない。
出典
- ^ “Agony amid drama in Doha”. FIFA.com. 国際サッカー連盟 (2017年6月12日). 2017年10月27日閲覧。
- ^ a b c 渡辺達也 (2013年10月14日). “「ドーハの悲劇」イラク戦で出場できなかった北澤豪の本音”. Web Sportiva. 集英社. 2013年10月15日閲覧。
- ^ 布施鋼治 (2013年10月27日). “平均視聴率48.1%!ドーハの悲劇、テレビ東京の舞台裏”. Web Sportiva. 集英社. 2013年11月2日閲覧。
- ^ a b c d e f 一志治夫 (2013). “'93・10・28の夜〜希望と蹉跌を味わった者たち〜”. Sports Graphic Number (文藝春秋): 56-61.
- ^ 松本秀夫『プロ野球 実況できなかったスゴイ話』ぜんにち出版、2009年、245-246頁。ISBN 978-4-86136-122-7。
- ^ a b 『1945-2015 サッカー「戦後70年史」』ベースボールマガジン社<分冊百科シリーズ12>、2015年、48頁。
- ^ 川淵三郎『私の履歴書』 日本経済新聞 2008年2月17日
- ^ 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、61頁。
- ^ a b c 潮智史『日本代表監督論』 63頁。
- ^ a b c 大西秀明 (2013年9月5日). “ドーハの「悲劇」と「奇蹟」”. ことばマガジン (朝日新聞DIGITAL) 2018年7月17日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、72頁。
- ^ “ドーハの悲劇、20年後に出てきたエピソード”. web Sportiva. 集英社 (2013年10月20日). 2016年11月20日閲覧。
- ^ a b 後藤健生『日本サッカー史 日本代表の90年』双葉社、2007年、286頁。
- ^ 一志治夫 (2013年11月15日). “<狂気の左サイドバックが語る代表の20年> 都並敏史 「僕を一回り超える世界基準の男が現れた」”. Number web. 2017年8月16日閲覧。
- ^ “賢者は敗北に学ぶが、愚者は敗北に浸る……「ドーハの悲劇」生き証人・清雲栄純が語るオフトJAPAN”. ぐるなび (2017年8月10日). 2018年7月11日閲覧。
- ^ “93年のドーハ。DF勝矢寿延を奮い立たせた「ふたり」とは?”. Web Sportiva. 集英社. pp. 3-4 (2013年10月23日). 2018年6月29日閲覧。
- ^ 一志治夫『狂気の左サイドバック』、p186。
- ^ 大住良之 (1994年4月5日). “No.48 GKはサッカー選手ではない?”. サッカーの話をしよう. 2018年8月27日閲覧。
- ^ 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』318頁。
- ^ “柱谷哲二が語るドーハの悲劇。イラク戦で投入してほしかった選手の名は”. Web Sportiva. 集英社. p. 6 (2020年2月1日). 2020年9月8日閲覧。
- ^ 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』272頁。
- ^ a b 二宮清純 (2013年5月9日). “福田正博(サッカー解説者)<前編>「重圧に押し潰された“ドーハの悲劇”」”. sports communications. 2016年11月20日閲覧。
- ^ 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、57頁。
- ^ 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』271頁。
- ^ 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』275頁。
- ^ 二宮寿朗 (2015年3月19日). “<再び世界の頂点を目指して> “未来のサッカー日本代表”を強くするために、今やるべきことを考える。”. Number web. 2016年11月21日閲覧。
- ^ "ラモス瑠偉". ワンダフルライフ. 20 July 2014. フジテレビ。
- ^ 一志治夫『狂気の左サイドバック』182頁。
- ^ a b ““ドーハの悲劇”から25年…ラモス瑠偉が武田修宏に「あり得ない!」と恨みを爆発”. ザテレビジョン. KADOKAWA (2018年5月7日). 2018年6月29日閲覧。
- ^ 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、47頁。
- ^ 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、25頁。
- ^ a b 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、43頁。
- ^ “フセインの息子の元影武者、「ドーハの悲劇」の背景を暴露”. 映画.com (2011年10月21日). 2013年9月8日閲覧。
- ^ a b 杉山 『「ドーハ以後」ふたたび』37頁。
- ^ 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、31頁。
- ^ 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』316頁。
- ^ 一志 『狂気の左サイドバック』188頁。
- ^ a b 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』322頁。
- ^ 戸塚『青の群像 サッカー日本代表クロニクル 1992-2007』55頁。
- ^ 空白の17秒 ~日本がW杯にもっとも近づいた日~ クローズアップ現代+ 1993年12月22日放送
- ^ 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』323頁。
- ^ ビートたけしのTVタックル 2017年7月2日
- ^ 二宮清純 (2013年11月3日). “ラモス瑠偉「復讐するは我にあり」”. sports communications. 2016年11月21日閲覧。
- ^ 二宮清純 (2010年12月10日). “第127回 日本代表監督、こう選んだ<前編>”. Sports Communications. 2016年11月20日閲覧。
- ^ 『1945-2015 サッカー「戦後70年史」』ベースボールマガジン社<分冊百科シリーズ12>、2015年、26頁。
- ^ 西部謙司 『サッカー日本代表システム進化論』<学研新書070>、学習研究社、2010年、81頁。
- ^ ドーハの悲劇から20年、セルジオ越後氏「あれは悲劇じゃない」 サッカーキング 2013年10月28日
- ^ “小野、高原、稲本ら後の黄金世代が出場、初のアジア王者に/1994年のAFC U-16選手権”. SOCCER KING (2015年9月19日). 2020年9月9日閲覧。
- ^ 浅田真樹 (2013年10月17日). “ドーハの夜。オフトが綴った「二文字」が日本の未来を開いた”. Web Sportiva. 集英社. 2013年11月2日閲覧。
- ^ “マイアミの奇跡”よりも熱かった! “ドーハの悲劇”の教訓が活かされたアトランタ五輪予選・サウジアラビア代表戦2/2 フットボールチャンネル 2013年10月11日
- ^ 【元川悦子コラム】アトランタ五輪プレイバック:「28年の壁」をこじあけた日本、そして「マイアミの奇跡」 Soccer Journal編集部 2012年6月20日
- ^ アジア杯優勝、もうドーハは「悲劇の地」ではなくなった (1/4ページ) 日本経済新聞 2011年1月31日
- ^ “手倉森監督感慨「歴史逆転させた」ドーハでイラク相手にロスタイムV弾”. Sponichi Annex. (2016年1月27日) 2016年1月27日閲覧。[リンク切れ]
参考文献
- 一志治夫『狂気の左サイドバック 日の丸サッカーはなぜ敗れたか』、小学館、1994年
- 潮智史『日本代表監督論』、講談社、2002年
- 大住良之『アジア最終予選』、双葉社、2005年
- 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年』、双葉社、2007年
- 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年 資料編』、双葉社、2007年
- 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』、文藝春秋、1994年
- 戸塚啓『青の群像 サッカー日本代表クロニクル 1992-2007』、ソニーマガジンズ、2007年
- 杉山茂樹『「ドーハ以後」ふたたび 世界から見た日本サッカー20年史』、PHP研究所、2012年
- 西部謙司 『サッカー日本代表システム進化論』、学習研究社<学研新書070>、2010年
- 『1945-2015 サッカー「戦後70年史」』、ベースボールマガジン社<分冊百貨シリーズ12 永久保存版 全7巻シリーズ③>、2015年
- 「週刊サッカーマガジン」1993年11月17日号、ベースボールマガジン社
- 「Sports Graphic Number No.839 ドーハの悲劇 20年目の真実」2013年10月31日号、文藝春秋社
関連項目
- パリの悲劇
- ヤウンデの悲劇
- メルボルンの悲劇
- ジョホールバルの歓喜 - 1998 FIFAワールドカップ・アジア地区第3代表決定戦 「日本vsイラン」
- 1998 FIFAワールドカップ日本代表
- ロストフの14秒 - 2018 FIFAワールドカップ・決勝トーナメントにおいて日本代表がベルギー代表に敗北した試合
外部リンク
- 1994 FIFAワールドカップ アジア地区最終予選 勝ち点計算機
- アル・アリスタジアム Al Ahli Stadium - ウェイバックマシン(2005年5月7日アーカイブ分)