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医学界の重鎮[[長與專齋]]の三男として[[東京]][[神田 (千代田区)|神田]]に生まれる。[[慶應義塾幼稚舎]]、[[正則高等学校|正則学校]]、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[1904年]](明治37年)12月に[[東京大学|東京帝国大学]]医科大学(現在の[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京大学医学部]])を卒業する。[[ドイツ帝国|ドイツ]]の[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]に留学し、帰国後、東京帝国大学の病理学教授となる。[[夏目漱石]]の主治医でもあり、[[1916年]]([[大正]]5年)、漱石が病死した際には、未亡人[[夏目鏡子]]の希望で、漱石の遺体を解剖した。
医学界の重鎮[[長與專齋]]の三男として[[東京]][[神田 (千代田区)|神田]]に生まれる。[[慶應義塾幼稚舎]]、[[正則高等学校|正則学校]]、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[1904年]](明治37年)12月に[[東京大学|東京帝国大学]]医科大学(現在の[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京大学医学部]])を卒業する。[[ドイツ帝国|ドイツ]]の[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]に留学し、帰国後、東京帝国大学の病理学教授となる。[[夏目漱石]]の主治医でもあり、[[1916年]]([[大正]]5年)、漱石が病死した際には、未亡人[[夏目鏡子]]の希望で、漱石の遺体を解剖した。


[[東京大学医科学研究所|伝染病研究所]]長や医学部長を経て、[[1934年]](昭和9年)、[[東京大学の人物一覧#歴代総長|東京帝国大学第12代総長]]に就任する。[[1936年]](昭和11年)[[帝国学士院]]会員。[[1938年]](昭和13年)、[[文部大臣 (日本)|文部大臣]][[荒木貞夫]]から総長官選案を示されるも、大学の自治を守るために戦い、荒木の案を撤回させて総長を辞任する。同年12月28日、東京帝国大学[[名誉教授]]の称号を授与された<ref>『官報』第3597号、昭和13年12月29日。</ref>。
[[東京大学医科学研究所|伝染病研究所]]長や医学部長を経て、[[1934年]](昭和9年)、[[東京大学の人物一覧#歴代総長|東京帝国大学第12代総長]]に就任する。[[1936年]](昭和11年)[[帝国学士院]]会員。[[1938年]](昭和13年)、[[文部大臣]][[荒木貞夫]]から総長官選案を示されるも、大学の自治を守るために戦い、荒木の案を撤回させて総長を辞任する。同年12月28日、東京帝国大学[[名誉教授]]の称号を授与された<ref>『官報』第3597号、昭和13年12月29日。</ref>。


昭和初期には、[[満州]]へ渡航し[[関東軍司令部]]や[[731部隊]]を訪問している。731部隊では研究を視察している。細菌学会などを通じ、[[石井四郎]]軍医と交流があった。
昭和初期には、[[満州]]へ渡航し[[関東軍司令部]]や[[731部隊]]を訪問している。731部隊では研究を視察している。細菌学会などを通じ、[[石井四郎]]軍医と交流があった。

2020年12月30日 (水) 08:57時点における版

長與又郎

長與 又郎新字体長与 又郎、ながよ またお、1878年明治11年)4月6日 - 1941年昭和16年)8月16日)は、日本病理学者、男爵研究の世界的権威。号は雷山。

略歴・人物

医学界の重鎮長與專齋の三男として東京神田に生まれる。慶應義塾幼稚舎正則学校第一高等学校を経て、1904年(明治37年)12月に東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業する。ドイツフライブルク大学に留学し、帰国後、東京帝国大学の病理学教授となる。夏目漱石の主治医でもあり、1916年大正5年)、漱石が病死した際には、未亡人夏目鏡子の希望で、漱石の遺体を解剖した。

伝染病研究所長や医学部長を経て、1934年(昭和9年)、東京帝国大学第12代総長に就任する。1936年(昭和11年)帝国学士院会員。1938年(昭和13年)、文部大臣荒木貞夫から総長官選案を示されるも、大学の自治を守るために戦い、荒木の案を撤回させて総長を辞任する。同年12月28日、東京帝国大学名誉教授の称号を授与された[1]

昭和初期には、満州へ渡航し関東軍司令部731部隊を訪問している。731部隊では研究を視察している。細菌学会などを通じ、石井四郎軍医と交流があった。

また癌研究所日本癌学会を設立し、癌の解明に努力する。父の遺志を継いで、公衆衛生院や結核予防会をも設立した。自ら予言していた通りに癌となり、1941年(昭和16年)8月15日、死の前日に、医学への貢献により男爵となる。享年63。

逸話

  • 東京帝国大学野球部長も務め、部の寮である「一誠寮」の看板は長與の揮毫による。この時、「誠」の字の右側の「ノ」の画を入れ損なったが、これを指摘した選手たちに「最後のノは君たちが優勝したときに入れよう」と語ったという(東大の六大学野球最高位は1946年春季の2位であるため、以後も「ノ」の部分が欠けたままとなっている)。
  • 1996年、日本癌学会は長與を記念して長與又郎賞(長與賞)を設立した。

日記

  • 『長與又郎日記 近代化を推進した医学者の記録』全2巻、小高健編、学会出版センター、2001年2月

栄典

位階
勲章等

親族

長兄長與稱吉も医師で男爵。弟岩永裕吉同盟通信社の初代社長。弟の長與善郎白樺派の作家。妻は森村組創業者の一人森村豊の娘・玉。長男の長與太郎は銀行員で男爵位を継承、妻は志賀直哉の次女・留女子(るめこ)。四男の長與健夫も医師で、愛知県がんセンター総長などを務める。孫の長與寿恵子は作曲家で、夫の吉田耕一とともに「杜こなて」という共有の筆名を用いている[5]

脚注

  1. ^ 『官報』第3597号、昭和13年12月29日。
  2. ^ 『官報』第1680号「叙任及辞令」1918年3月12日。
  3. ^ 『官報』第4383号「叙任及辞令」1941年8月16日。
  4. ^ 『官報』第4385号「叙任及辞令」1941年8月19日。
  5. ^ 細川周平片山杜秀 監修「杜 こなて もり・こなて」『日本の作曲家 近現代音楽人名事典』日外アソシエーツ、2008年、678-679頁。ISBN 978-4-8169-2119-3 

外部リンク

学職
先代
小野塚喜平次
東京帝国大学総長
1934年 - 1938年
次代
平賀譲
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
長與(又郎)家初代
1941年
次代
長與太郎