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2020年12月30日 (水) 08:36時点における版
フェミニズム |
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フェミニズム(英: feminism)とは、女性解放思想、およびこの思想に基づく社会運動の総称であり[1]、政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性別による格差を明るみにし、性差別に影響されず万人が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想・運動である[2][3]。女権拡張主義、男女同権主義などと訳されることもある[1]。
フェミニズムは市民革命に端を発し、19世紀から20世紀前半までの女性参政権運動を中心とする第一波フェミニズムと、社会習慣・意識に根ざす性差別との闘いを中心とする第二波フェミニズムに大別される。後者においては、思想的立場により、リベラル・フェミニズム、社会主義フェミニズム、マルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、エコロジカル・フェミニズムなど多様な潮流がある。また、性別に限らず、人種、階級、年齢、国籍、宗教、性的指向などの文化的・社会的要素を考慮し、インターセクショナリティというより広い概念のもとで捉えられるようになっている[4]。
フェミニズムの対置概念はマスキュリズム(男性解放運動、メンズリブ)。フェミニズムの推進者や同調者を「フェミニスト」と呼ぶ。
起源・概要
著作家のクリスティーヌ・ド・ピザンのように、個人としての活動は中世から存在したが、思想体系・社会運動としてのフェミニズムは、18世紀の欧州において、封建的・絶対主義的国家体制の解体と近代社会の実現を目指す市民革命の一環として起こった。
女性参政権運動や社会主義に基づく女性の権利・地位向上、男女同権を求める運動を中心とした第一波フェミニズムに対して、文化・社会に深く根を張る意識や習慣による性差別と闘い、主に性別役割分業の廃絶、性と生殖における自己決定権などを主張した運動が第二波フェミニズムである[1]。
第一波フェミニズムは19世紀の運動や文化に大きく影響を与えた。19世紀後半から20世紀、特に第一次世界大戦の間に、多くの国で女性参政権が認められた。ニュージーランドでは、婦人参政権論者ケイト・シェパードの助けによって、1893年に最も早く女性参政権が認められている(なお、アメリカで認められたのは1920年、また日本では1945年である)。
第二波フェミニズムは歴史的・文化的構築物であるジェンダーの概念を中心に様々な潮流を生み、さらに、異なる文化的・社会的立場から批判、再解釈、再構築されている。
歴史
第一波フェミニズム
フェミニズムの起源は市民革命、とりわけ、18世紀末のフランスに遡る。1789年にフランス革命により「人間と市民の権利の宣言」(フランス人権宣言)が採決されたが、この「人間」とは「男性」のことであり、男性にのみ権利を与えることに対して女性が抗議し、女性の権利を求める運動が欧州各地に広がった。これがフェミニズムの誕生とされる。ただし、ジロンド派の指導者ニコラ・ド・コンドルセがすでに1787年に執筆した論文「ニューヘイヴンのあるブルジョワからヴァージニアの一市民への手紙」[5]および1790年の「女性の市民権の承認について」において女性に参政権を与えるべきであると主張しており、ロベスピエールのようにフェミニズムに敵対的な態度をとった者が多いなかで、コンドルセは唯一、フランスのフェミニズム史上、重要な地位を与えられている[6]。同じくジロンド派を支持した女性作家オランプ・ド・グージュは、1791年憲法で女性の権利が無視されたことに対して、同年、『女性および女性市民の権利宣言』を発表した。イギリスの代表的なフェミニズム作家メアリ・ウルストンクラフトがフェミニズム運動の先駆ともいえる『女性の権利の擁護』を執筆したのは翌1792年である[7]。こうした運動は反対に遭いながらも、徐々に欧州全体に浸透していった。
19世紀半ばになると、女性参政権を求める運動がヨーロッパやアメリカにおいて盛んになっていった。この女性参政権運動の起源となったのは1848年にアメリカ・ニューヨーク州の西部にあるセネカフォールズにおいて、エリザベス・キャディ・スタントンとルクレシア・モットによってセネカフォールズ会議が開催され、その要求の一つに女性参政権が盛り込まれたことである[8]。
1848年はまた、フランスにおいても、プロレタリアート主体の二月革命によって成立した臨時政府のもとで、社会主義(サン=シモン主義、フーリエ主義)のフェミニストを中心とする「1848年の女性たち」の運動が起こった年であり、この運動を牽引したのがウジェニー・ニボワイエと彼女が創刊した機関誌『女性の声』である[9]。
18世紀以前は一部の上流階級を除いて、女性は男性と等しく農作業・商・手工業などの労働に就いていたが(戦後の高度経済成長期の日本の地方では、都会で専業主婦が広まってからも女性が農業や漁業などの労働に従事していたように)、産業革命の影響で労働に就いていた中流階級の女性は専業主婦となる事が多かった。20世紀には「結婚して子供を持つ郊外住宅の主婦」が女性の憧れの的とされた。この背景には戦中に若い男性がいない為に工場で労働に従事していた女性を家庭に入れようとするアメリカ政府のプロパガンダがあった[7]。日本も例外ではなく、戦中は男性不足のため若い女性は工場で軍需産業などの労働に就いていたが、戦後はアメリカ型の専業主婦となることが幸福と思う者が、特に日本女性には多かった。しかし、家庭に戻った女性の中には結婚し子供を育てるだけの人生に不満を持つ者もいた。米国における第二波フェミニズム(ウーマンリブ運動)の引き金となった『新しい女の創造』の著者ベティ・フリーダンは同書で当時の女性の心境を語っている。
郊外住宅の主婦、これは若いアメリカの女性が夢に見る姿であり、また、世界中の女性がうらやんでいる姿だといわれている。 しかし、郊外住宅の主婦たちは、密かに悩みと戦っていた。ベッドを片付け、買い物に出かけ、子供の世話をして、 1日が終わって夫の傍らに身を横たえたとき、『これだけの生活?』と自分に問うのを怖がっていた[10]。
第二波フェミニズム
こうした状況にあって、20世紀西欧の女性解放思想の草分けとなったのが、1949年に出版されたシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』である。ボーヴォワールは本書で実存主義の立場から、本質的な「主体」としての男性に対する女性の「他者性」という概念を提示し、女性の「他者」としてのアイデンティティや根源的疎外が、一方において女性の身体、とりわけその生殖能力から生じ、他方において出産・育児といった歴史的な分業から生じると論じた。『第二の性』の冒頭に掲げられた「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉は、こうした歴史的・社会的・文化的構築物としての「女」を表わす。本書は1950年代から60年代にかけて、主に中産階級の若い女性に強い影響を与え、自立を促すことになった。とりわけ米国では、『第二の性』に影響を受けたケイト・ミレットやベティ・フリーダンらの活動から、第二波フェミニズムが生まれることになった。
1960年代後半から1970年代前半にかけて女性解放運動(米国のウーマン・リブ運動、フランスの女性解放運動 (MLF) など)が世界中に広まり、ニューヨーク、パリなど各地で数十万規模のデモが発生した。この運動により後に多くの国で女性の労働の自由が認められるようになった[7]。これを境にフェミニズムはほとんどの国で政治、文化、宗教、医療といったあらゆる分野で取り入れられるようになる。
女性解放運動は女性を拘束しているとする家族や男女の性別役割分担、つくられた「女らしさ」、更にはこの上に位置する政治・経済・社会・文化の総体を批判の対象にしていた。日本でも1970年代に各地でウーマン・リブの集会が開かれ運動の拠点も作られた。またこの頃、ピル解禁を要求する、榎美沙子が代表の「中ピ連」が結成された。
ウーマン・リブ運動の高揚を受けた国際連合は、1972年の第27回国連総会で1975年を国際婦人年と決議し、メキシコで国際婦人年世界会議(1975年)を開催して「世界行動計画」を発表した。続いてコペンハーゲン会議(1980年)、ナイロビ会議(1985年)、北京会議(1995年)などが開催された。
一方、理論面においても、以下のように、その思想的立場から様々な潮流を生み、人種、階級、年齢、国籍、宗教、性的指向などの異なる文化的・社会的立場から次々と批判的な読み解きが行われている。
1970年代以降
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当初は主に欧米で運動が進められ、男女の法的権利の同等(女性が男性と同様に参政権を持つことなど)を求めていたが、それが実現された後、20世紀後半の運動において、文化における性差別の克服が取り込まれ、伝統的な女性概念による束縛からの「女性による人間解放主義」と定義された。70年代のイギリスでは、左派系の女性たちがLWLW(ロンドン・ウィメンズ・リベレーション・ワークショップ)を結成した[11]。
1970年代以降の第二波フェミニズムでは、同性愛者であったミシェル・フーコーらによる、男性同性愛者や性的指向についての研究の成果を取り込み、ジェンダーへの関心や、LGBTなどセクシュアル・マイノリティの扱いにまで視点を広げた。
だが、フェミニストとセクシュアル・マイノリティにはそれぞれに立場に違いがあり、対立や論争も発生した。また、性的虐待の問題に関して、新興宗教的な福音派プロテスタントの巨大の宗教団体で、妊娠中絶反対のキャンペーンを張るフォーカス・オン・ザ・ファミリーは幼児虐待の問題にも取り組んでいるが、右派でゲイ・中絶反対の団体にフェミニストが好意的になることには問題がある。
フェミニズムは過去、現在の社会関係においての社会理論と政治的慣習の組み合わせであり、主に女性の被抑圧的な体験によって動機付けされた束縛からの解放を目指すものである。一般的には、フェミニズムは性別的不平等論を含み、より具体的には、女性権利の新たな獲得と利益の向上を含む。
フェミニストが論じるのは、ジェンダー、そして性でさえもが、社会的、政治的、経済的な理由によって不平等に構築されているのではないか、という問題である。 政治的に活動するフェミニストが主張するのは、女性参政権、賃金格差の是正、選択的婚姻男女別姓、出産の自己決定権などの問題である。
多くのフェミニストは、女性に関する様々な社会問題が、男性優位の社会構造から生じ、または家父長制が無意識に前提視されていることから生じていると主張している。また、女性間の差異を考慮に入れれば、たとえば「黒人」「女性」というように、二重、三重に抑圧されていると捉えることができるため、フェミニズムを複合的な抑圧の集成理論として、また相互に影響する多くの解放運動の流れの一つとして捉えることもできる、と主張している。
フェミニズムの議論は妊娠中絶、避妊、出産前のケア、育児休暇、セクハラ、ドメスティックバイオレンス、強姦、近親相姦、女子割礼問題なども対象とする。
リベラル・フェミニズム
一般に個人主義的でリベラル・左派的な傾向を持つ。男女平等は法的手段を通して実現可能で、集団としての男性と闘う必要はないと主張する。ジェンダー・ステレオタイプ、女性蔑視のほか、女性の仕事に対する低賃金、妊娠中絶に関する制限などを男女不平等の原因と考える。ナオミ・ウルフらが代表格である。
- 1791年、『女性および女性市民の権利宣言』(オランプ・ド・グージュ)
- 1792年、『女性の権利の擁護』(メアリ・ウルストンクラフト)
- 1869年、『女性の隷従』(ジョン・スチュアート・ミル)
- 2007年、『ポルノグラフィ防衛論』(ナディーン・ストロッセン)
マルクス主義フェミニズム
マルクス主義フェミニズム[12]は、資本主義が女性を抑圧する原因だと考える。資本制的生産様式では男女不平等は決定しているとみなし、女性を解放する方法として資本主義の解体に焦点を合わせる。
- 1972年、『家事労働に賃金を』(マリアローザ・ダラ・コスタ)
- 1978年、『沈黙』(ティリー・オルセン)
- 1984年、『家事労働と資本主義』(クラウディア・フォン・ヴェールホーフ)
- 1984年、『なにが女性の主要な敵なのか ― ラディカル・唯物論的分析』(クリスティーヌ・デルフィ)
ラディカル・フェミニズム
1970年代に米国で誕生。公的領域のみならず家庭や男女の関係までも含む私的領域まで急進的な姿勢で問い直すことを主とする。右派と左派が存在する。ラデイカルと呼ぶよりも、保守・右派的な傾向もあり、ポルノグラフィーに対する法的規制運動に熱心である。ポルノグラフィ撲滅運動は、純潔思想からポルノグラフィを糾弾している保守系議員やキリスト教原理主義団体といった反フェミニズム・アンチジェンダーフリー勢力と考え方が一致しており、批判の対象となっている。過激なポルノ規制派のアンドレア・ドウォーキンは、ポルノ弾圧の目的のため、保守派の男女や右派フェミニストとも交流し、リベラルのナオミ・ウルフから批判された[13]。
- 1970年、『性の政治学』(ケイト・ミレット)
- 1970年、『性の弁証法』(シュラミス・ファイアストーン)
- 1970年、『シスターフッド(女性同士の連帯)は力強い』(ロビン・モーガン編)
- 1976年、『ポルノグラフィー ― 女を所有する男たち』(アンドレア・ドウォーキン)
- 1978年、『ガイン/エコロジー』(メアリ・デイリー)
- 1980年、「強制的異性愛とレズビアン存在」(アドリエンヌ・リッチ)
- 2003年、『ポルノグラフィと売買春』(キャサリン・マッキノン)
エコロジカル・フェミニズム
エコフェミニズムとも。男性による自然支配と女性支配を同根と定め、自然保護の立場から戦争、女性への暴力、女性支配、先住民への差別、環境破壊に反対する。
「エコフェミニズム」という言葉の生みの親とされるフランソワーズ・ドボンヌは、1978年にエコロジー・フェミニズム協会を設立。この運動は、当時、フランスではほとんど反響を呼ばず、オーストラリアや米国において引き継がれ、大きな広がりを見せることになった[14]。
- 1974年、『フェミニズムか、死か (Le Féminisme ou la mort)』(フランソワーズ・ドボンヌ)- 本書でエコフェミニズムを提唱。
- 1978年、『女性と自然』(スーザン・グリフィン)
- 1980年、『自然の死』(キャロリン・マーチャント;団まりなほか訳 1985 工作舎 ISBN 4-87502-109-7)
- 1994年、『フェミニズムとエコロジー』(青木やよひ)
第三波フェミニズム
ポスト・フェミニズム(バックラッシュ)
ポスト・フェミニズムとは第三波のフェミニズムに対する批判として生まれた複数の見解を指す。明確にはアンチ・フェミニズムではないが一波と二波の確立した女性の権利を肯定するとともに三波の立場を総じて批判する集団で構成された。1980年に現れバックラッシュと表現された集団が使い出した言葉である。上野千鶴子の書籍を、図書館から排除させようとする動きなどが存在した。
日本
明治維新からの女性解放政策
明治維新からは女性解放政策が打ち出されたが、反発も起こり十年ほどで急速にしぼんでしまう。
推進政策
- 1869年、関所を女性が自由に通行できるようになる。また津田真一郎(津田真道)という刑法官が女子売買の禁止の建白書を政府に提出。
- 1871年、津田梅子(当時、満六歳:最年少)ら、五人の少女が、岩倉使節団で、米国へ、留学する。
- 1872年、芸妓と娼妓の無条件解放が布告される(公娼制度は残された)。女学校が設立される。
- 1873年、妻からも離婚訴訟が出来るようになる。女子伝習所(女子のための職業訓練所)が開設される。
- 1874年、東京女子師範学校が設立される。
反発政策
- 1885年、第一次伊藤博文内閣の文部大臣森有礼が「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。
- 1890年7月公布の「集会及政治結社法」にて女性の政治活動を禁止。女子は政談演説を聴きに行くことも禁じられ、戸外で三人以上集まる時は警察に届けなければならなくなった。
日本初の女性参政権 1878年(明治11年)、区会議員選挙で楠瀬喜多という一人の婦人が、戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないことに対し高知県に対して抗議した。しかし県には受け入れてもらえず、喜多は内務省に訴えた。そして1880年(明治13年)9月20日、日本で初めて(戸主に限定されていたが)女性参政権が認められた。その後、隣の小高坂村でも同様の条項が実現した。
この当時、世界で女性参政権を認められていた地域はアメリカ合衆国のワイオミング準州や英領サウスオーストラリアやピトケアン諸島といったごく一部であったので、この動きは女性参政権を実現したものとしては世界で数例目となった。しかし4年後の1884年(明治14年)、日本政府は「区町村会法」を改訂し、規則制定権を区町村会から取り上げたため、町村会議員選挙から女性は排除された[15]。
女性解放運動家の登場
政府の反発政策に対して平塚雷鳥ら女性解放運動家が誕生し、政治的要求を正面に掲げた最初の婦人団体である「新婦人協会」もできる。女性に不利な法律の削除運動、女性の参政権獲得運動などがさかんになる。完全な女性参政権の獲得と言う大目標の達成には至らなかったが、女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正(1922年・大正11)や、女性が弁護士になる事を可能とする、婦人弁護士制度制定(弁護士法改正、1933年・昭和8)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげた。
戦後の女性解放運動
第二次世界大戦前から一部では女性の選挙参加も認められており、日本における女性解放がすべて占領後の産物であったわけではない。 戦前から選挙権獲得運動を推進していた市川房枝などの女性運動家によって、終戦から10日後の1945年8月25日に「戦後対策婦人委員会」が組織され、日本政府とGHQに対して婦人参政権と政治的権利を要求した。その後も「主婦連合会(主婦連)」など、女性が担い手となった政治結社がいくつも作られたが、この時期の組織は食糧獲得や物価高騰への抵抗など、生活を再建させる上での主婦や母という性別役割を完全に果たすたことが動機である「婦人」たちの組織だった[16]。
こうした性別役割に基づく婦人運動は第二波フェミニズム(ウーマンリブ運動)以降の女性運動家からは、「男に認められたい女」の組織として全面否定された[16]。しかし、「女・子ども」の言い分と切り捨てられる文化風土に対して、女性が自律的な活動をする上で「母」の観念は強力なエートスとなりえた。
1960年代の安保闘争以降、女性が政治運動に参加する中で、主婦や母といった性別役割分業への疑問や葛藤が表面化し始めた[16]。それは1970年代のリブ運動の到来とともに一挙に明らかとなった。なかでも、1975年の国際婦人年は大きな契機となり、女性であるがゆえに免れない不利な状況を克服するための諸問題を打破するために、公的な場への女性の登用を目的として41の女性団体が共同行動を起こした。 職種における賃金差、選択的夫婦別姓制度の未導入など、日本の男女平等はいまだに実現していない[17][18]。
フェミニズムの影響
フェミニズム運動は、女性が家庭外で働くこと、そして女性が積極的に政治に参加する上で重要な役割を果たしている。また、職場やその他日常における性的嫌がらせを問題化する、セクシャルハラスメントの概念(詳しくはセクシャルハラスメントの項を参照)の成立にも影響を及ぼした。フェミニズム運動によって社会状況に変化がもたらされたり、具体的な制度が成立した例としては、以下のようなものが挙げられる。
女性の政治参加
19世紀末期から女性参政権を求める運動が高まり、1893年のニュージーランド[19](被選挙権は1919年から)を皮切りに、世界各国で女性参政権が認められるようになった。日本では1925年に男性のみの普通選挙が実現しているが、これより以前から女性参政権を求める婦人運動も活発化していた。戦後、新選挙法が制定され、女性の参政権が認められている。
1970年代以降、フェミニズムによって女性議員の数は大幅に増加した。世界各国では女性議員は通常2割程度存在し、2000年から2005年度までのIPUの調査によれば、地域別でみるとEUの31.0%がトップ、南北アメリカ18.4%、アジア15.5%、サハラ以南アフリカ14.9%、アラブ諸国6.0%となっている[20]。世界で最も女性議員の議会に占める割合が高い国家はアフリカのルワンダであり、2013年における女性議員の割合は56.3%と半数を超えている[21]。なお、日本における2015年の衆議院の女性議員割合は9.5%であり、先進国中では最も低い水準となっている[22]。
ノルウェー、スウェーデンやドイツ、イギリスの社会民主主義政党では1981年にクォータ制が導入され、政治家のほぼ半数が女性である。
女性の労働
日本では1933年に弁護士の性別要件が削除されて女性の弁護士への道が開かれ、1940年には初の女性弁護士が誕生[23]。女性の職業選択の面で重要な成果を挙げた。1999年には男女雇用機会均等法の大幅な改正によって、雇用上の女性の権利、育児休暇の権利が獲得された。また、改正男女雇用機会均等法では、企業に対してセクシャルハラスメント防止を配慮する義務も課せられた。海外では、ノルウェーにて2006年度に女性の私企業へのクォータ制が義務付けられ、企業役員の40%を女性とする事が定められた。
また、ポリティカル・コレクトネスの観点から、性別が特定されたイメージを持つ職業名を男女両者に使用できる語へと変える動きもある(具体例として、「スチュワーデス」→「客室乗務員」、「看護婦」、「看護士」→「看護師」など)。英語圏でも例えば「fireman」→「fire fighter」、「policeman」→「police officer」、「stewardess」→「flight attendent」などの言い換えが行われている。この背景には、男女が同じ職業に就くようになってきた事と、男女を同じ呼称とすることで性別による賃金格差などの差別をなくそうという意図がある。
賃金格差については、日本は先進国で最下位レベルであり、正社員であっても女性は男性の75%ほどの賃金となっている[24]。原因としては、女性の管理職の少なさや就職時の差別等もあげられる。例えば、2014年の新卒採用において、総合職で採用された学生のうち、20%が女性であり、労働機会は平等とは言えない現状がある[25]。
GEM指数という基準を用いた場合、他の先進諸国と比較すると男女平等政策に遅れを取っているという見方がされるが、過去には、日本の女性の場合「寿退職」なる言葉が存在したように「年に500ポンド(約6万5千円)の収入と、鍵のかかる部屋」を与えられ賃金労働に従事していても、女性の自由意思で職場を去り、専業主婦の道を選ぶ者も多かった。
労働においてフェミニズムへの批判として、GEM指数等の基準は一面的なものにすぎず、女性を一括りにしてその幸福感をはかる基準とするには不適切であることが指摘されている。例えば、企業や団体の管理職で激務に従事するよりも家庭で子育てに専念できるほうが幸福と考え、専業主婦となることを志向する女性が多ければ、GEM指数は低くなる。このため、女性の労働者化のみを基準に政策を進めることは、すべての女性(特に、家庭での育児を中心に考えている女性、激務を望まない女性など)の意見を反映していない[26]。という批判である。しかし、フェミニストは、専業主婦の女性を働かせようとしている訳ではなく、「女性」というだけで、労働に置いて差別や不利益を受けることをなくすことを目的としている。そのため上記のような批判は、的を射ていないと言える[27]。
教育
第二次世界大戦前の教育制度上、女性の大学進学を難しくしていたのは旧制中学、旧制高等学校が女子の入学を認めなかったことで、旧制中学に対応する高等女学校はあったが、大学に進むコースとしては、女子師範学校などを卒業するという必要があった。3つの帝国大学、2つの官立大学などが女性の入学を認めていたが女性の学生は少なかった。学生の改革によって、戦後、女子の大学進学数は男性に追いつくペースで年々増加し、平成16年度に短大を含めると48.7%の女性が大学へと進学している。男子は47.8%(男女共同参画局調べ)であり、女子の方が進学率が高くなっている。女子の短大進学率は平成7年の24.6%をピークに15年度には13.9%と激減している。他国の例としては米国の女性の大学進学率は男子を上回り、女子学生への学位授与数が全体の54%を占め、英国、北欧でも同様の女子優位が起きている。
一方で、2018年に発覚した不正入試のように、女子生徒を入学試験において不利に扱う問題は依然として残っている。
フェミニズムは学問を女性の視点から見た女性学の概念を生み出した。
宗教
カトリック教会では女性は司祭には叙階されない。しかし近年ではフェミニズムによって聖公会等の他の教派には女性司祭が誕生するなど、徐々に男性と同等の権利を獲得しつつある局面もある。しかしながらこうした状況に反発する保守派が形成されてもいる。イスラム教では、女性が男性を導くことができるかどうかという討論が起きている。
自由主義神学には、人工妊娠中絶を女性の権利とする主張がある[28][29]。
性意識と性規範
性意識や性規範などの社会的なジェンダーに関する認識もフェミニズムにおいて研究されている。女性は男性に比べ、素肌の露出に対する社会的な規範が厳しい。特に大きな違いとして、女性は乳房や乳首は衣服で隠すべきであるという規範が多くの地域で存在する。近年では「乳首は性器ではない。どうして女だけが、乳首を隠さなければならないのか?」との問題が定義され、女性が男性同様に上半身を露出する権利を訴える「フリー・ニップル運動」がアメリカを中心に盛んになっている。2016年8月28日、<Go Topless(ゴー・トップレス)>という上半身露出の権利に関する催事が行なわれアメリカや南アフリカ、韓国、ペルー、イギリスなど世界各国で老若男女が自身の胸部をさらけ出す形で催事のパレードに参加している[30]。また、インスタグラムなどのSNSにおいて、女性の乳首だけが検閲の対象となっている事について抗議が行われている[31]。
著名なフェミニスト
海外
- キャサリン・マッキノン
- アンドレア・ドウォーキン
- ベル・フックス
- メアリ・ウルストンクラフト
- オランプ.ド-グージェ
- ガートルード・スタイン
- キャロライン・ペレス[32]
- グロリア・スタイネム
- ジュディス・バトラー
- ジャスティン・トルドー
- シモーヌ・ド・ボーヴォワール
- ベティ・フリーダン
- アリス・ウォーカー
- テイラー・スウィフト
- シュラミス・ファイアストーン
- ジョン・スチュアート・ミル
- ナオミ・クライン
- マイリー・サイラス
- エマ・ワトソン[33]
日本
脚注
- ^ a b c 井上輝子, 上野千鶴子, 江原由美子, 大沢真理, 加納実紀代, ed (2002). 岩波 女性学事典. 岩波書店
- ^ 1952-, Hawkesworth, M. E., (2006). Globalization and feminist activism. Lanham, Md.: حRowman & Littlefield. ISBN 074253782X. OCLC 62342167
- ^ Chris., Beasley, (1999). What is feminism? : an introduction to feminist theory. London: Thousand Oaks, Calif.. ISBN 9781446210420. OCLC 731677122
- ^ Richards, Anna; Weedon, Chris (2008-07-01). “Gender, Feminism, and Fiction in Germany, 1840-1914”. The Modern Language Review 103 (3): 896. doi:10.2307/20467993. ISSN 0026-7937 .
- ^ Condorcet, « Lettres d’un bourgeois de New-Haven à un citoyen de Virginie sur l’inutilité de partager le pouvoir législatif entre plusieurs corps ». Œuvres de Condorcet publiées par A. Condorcet O’Connor et M. F. Arago, tome neuvième, Paris, Firmin Didot Frères, 1847.
- ^ 武藤健一「コンドルセの女性参政権論 : 「女性の市民権の承認につ いて」を中心に」『一橋論叢』第112巻第1号、一橋大学、1994年7月1日、152-169頁。
- ^ a b c エステル・フリードマン 著、西山惠美・安川悦子 訳『フェミニズムの歴史と女性の未来-後戻りさせない』明石書店、2005年。ISBN 4750320595。
- ^ 在日アメリカ合衆国大使館. “第5章「西への拡大と各地域の特徴」”. 米国の歴史の概要. 2015年5月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年5月26日閲覧。
- ^ “1848 : la révolution des femmes” (フランス語). www.lhistoire.fr. 2019年7月9日閲覧。
- ^ ベティ・フリーダン 著、三浦富美子 訳『新しい女性の創造』大和書房、2004年。
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関連文献
- 天野正子、福田アジオ(編)、2006、「「婦人」から「女性」へ、そして「おんな=女」の結社へ」、『結衆・結社の日本史』、山川出版社〈結社の世界史〉 ISBN 4-634-44410-0
- 上野千鶴子『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2009年5月。ISBN 978-4006002169。
- 有限責任事業組合フリーターズフリー編『フェミニズムはだれのもの?―フリーターズフリー対談集』人文書院、2010年4月。ISBN 978-4409240861。
- 上野千鶴子『差異の政治学 新版』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2015年11月。ISBN 978-4006003340。
- 小川たまか『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』タバブックス、2018年7月。ISBN 978-4907053260。
- 上野千鶴子『女ぎらい』朝日新聞出版〈朝日文庫〉、2018年10月。ISBN 978-4022619433。
- チョ・ナムジュ、斎藤真理子(翻訳)『82年生まれ、キム・ジヨン』筑摩書房、2018年12月。ISBN 978-4480832115。
- 栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』作品社、2019年5月。ISBN 978-4861827518。
- 北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か—不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』書肆侃侃房、2019年6月。ISBN 978-4863853652。
関連項目
外部リンク
- フェミニズムと女性学 - ウェイバックマシン(2017年8月5日アーカイブ分)
- 司法におけるジェンダーバイアス(第二東京弁護士会) - ウェイバックマシン(2017年6月9日アーカイブ分)
- 『フェミニズム』 - コトバンク