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西武に移籍してきた[[江夏豊]]が、球団で唯一慕っていたコーチである。その江夏が在籍した{{by|1984年}}はリーグ優勝を逃し、翌シーズンはその責任をとらされ二軍コーチに降格させられてしまう<ref>ムック「埼玉西武ライオンズ 黄金投手陣の軌跡」(2013年、[[ベースボール・マガジン社]])にある八木沢のインタビューによれば、二軍降格は自らの志願だったという。</ref>。 |
西武に移籍してきた[[江夏豊]]が、球団で唯一慕っていたコーチである。その江夏が在籍した{{by|1984年}}はリーグ優勝を逃し、翌シーズンはその責任をとらされ二軍コーチに降格させられてしまう<ref>ムック「埼玉西武ライオンズ 黄金投手陣の軌跡」(2013年、[[ベースボール・マガジン社]])にある八木沢のインタビューによれば、二軍降格は自らの志願だったという。</ref>。 |
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[[野村克也]]が阪神監督就任時、一軍投手コーチとして声をかけていた[[尾花高夫]](尾花本人が行動を共にすることを希望していた)が[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]のコーチに就任。阪神の一軍投手コーチを誰にするか迷った時、友人の[[森祇晶]]が八木沢を推薦したため就任に至ったという経緯がある。野村からは親しみをこめて「ロクさん」と呼ばれていた一方、[[藤川球児]]は自著の中で「八木沢と{{by|2000年}}秋季キャンプで腕立て伏せのやり方で言い合いになり、その後謝罪をして和解したが、翌年のシーズンは一度も使ってもらえなかった」と告白している。 |
[[野村克也]]が阪神監督就任時、一軍投手コーチとして声をかけていた[[尾花髙夫|尾花高夫]](尾花本人が行動を共にすることを希望していた)が[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]のコーチに就任。阪神の一軍投手コーチを誰にするか迷った時、友人の[[森祇晶]]が八木沢を推薦したため就任に至ったという経緯がある。野村からは親しみをこめて「ロクさん」と呼ばれていた一方、[[藤川球児]]は自著の中で「八木沢と{{by|2000年}}秋季キャンプで腕立て伏せのやり方で言い合いになり、その後謝罪をして和解したが、翌年のシーズンは一度も使ってもらえなかった」と告白している。 |
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[[伊原春樹]]とは西武・阪神でコーチとして同僚となり、伊原が西武監督時はキャンプで臨時コーチを務めた。オリックス監督時も一軍投手コーチとして招聘され、2004年に就任。前年のオリックスはチーム防御率5.95、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819と投手陣が大崩壊状態であった。八木沢に投手陣再建の手腕が託されたが、同年もチーム防御率が5.66を記録。2年連続5点台という結果に終わり、伊原と共に同年限りで辞任。 |
[[伊原春樹]]とは西武・阪神でコーチとして同僚となり、伊原が西武監督時はキャンプで臨時コーチを務めた。オリックス監督時も一軍投手コーチとして招聘され、2004年に就任。前年のオリックスはチーム防御率5.95、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819と投手陣が大崩壊状態であった。八木沢に投手陣再建の手腕が託されたが、同年もチーム防御率が5.66を記録。2年連続5点台という結果に終わり、伊原と共に同年限りで辞任。 |
2020年12月23日 (水) 05:06時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 栃木県日光市 |
生年月日 | 1944年12月1日(79歳) |
身長 体重 |
172 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1966年 第2次ドラフト1位 |
初出場 | 1967年8月11日 |
最終出場 | 1979年10月20日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督・コーチ歴 | |
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この表について
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八木沢 荘六(やぎさわ そうろく、1944年12月1日 - )は、栃木県今市市(現・日光市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。現・全国野球振興会理事長。
史上13人目の完全試合達成者。
来歴
プロ入りまで
実家は製材所を経営し[1]、父親の善吉は今市市の市長も務めた。作新学院では2年次の1961年に春の選抜で初出場を果たすと、1回戦に先発して柏原高を完封するが、2回戦はリリーフに回って高松商に敗退。3年次の1962年には春の選抜にエースとして出場し、準々決勝では八幡商を延長18回引き分け再試合の末に降す。準決勝に進んで松山商の山下律夫との投手戦となるが、控え投手であった加藤斌のリリーフもあって延長16回で辛勝。決勝では倍賞明らのいた日大三高を完封で降し初優勝を飾ると、作新は同年夏の甲子園も制して史上初の甲子園春夏連覇を果たすが、八木沢は大会前に体内から赤痢菌が検出されて出場できなかった。準々決勝から復帰してベンチ入りしていたが、加藤が主戦投手となった。高校同期に高山忠克・中野孝征、1期上に島野育夫がいた。
高校卒業後は1963年に早稲田大学へ進学し、東京六大学リーグでは在学中に3度の優勝に貢献するなどエースとして活躍。3年次の1965年にはマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会に出場し、日本代表となった東京六大学選抜チームの優勝に貢献。リーグ通算52試合登板、24勝12敗、防御率1.54、176奪三振、ベストナイン2回。大学同期に西田暢がいる。
現役時代
1966年の第2次ドラフトで東京オリオンズから6位に指名され、大学卒業後の1967年に入団。即戦力と期待されながら伸び悩むが、3年目の1969年には一軍に定着し、先発・中継ぎで活躍。1970年にはチーム最多の43試合に登板し、10年ぶりのリーグ優勝に貢献すると、巨人との日本シリーズでも2試合にリリーフで登板。1973年10月10日の太平洋戦ダブルヘッダー第1試合(宮城)で史上13人目の完全試合を達成するが、この試合は中継ぎ登板が多く、規定投球回に足りなかった八木沢に最高勝率のタイトルを取らせるべく投球回数を稼ぐために先発した試合であった。この後、八木沢は目論見どおり規定投球回に到達し、7勝1敗で最高勝率のタイトルを獲得。7勝は最高勝率を獲得した投手の中では最少であり、1986年以降は「規定投球回到達有無に関係なく13勝以上」という規定ができたため、この規定が存在する限り更新されることはない。同年の完投は完全試合の1試合のみであり、完封に至ってはプロ入り7年目で初だった。八木沢は元々ダブルヘッダーの第2試合に先発の予定であったが、第1試合に先発する予定であった村田兆治が寝違えて首を痛めたため、急遽第1試合に先発することになった。完全試合の日はカウントボール3までいったケースは一度もなかったが、これは15回ある完全試合の中で唯一の記録である。1974年は12試合に先発として起用され、自身2度目のリーグ優勝を経験。中日との日本シリーズでも2試合に中継ぎとして登板し、24年ぶりの日本一に寄与した。コーチ兼任となった1976年からは主に先発として起用され、同年は自己最多で初の2桁となる15勝、1977年には2年連続2桁の11勝をマーク。1978年には「お前はもう限界」と金田正一監督に強制引退させられるが、投手陣のリーダー格であったことから選手たちが猛反発し、1979年に復帰。同年6月9日の近鉄戦(日生)でチャーリー・マニエルの顔面に死球を当て、マニエルは顎の骨を複雑骨折する重傷を負った[2]。この悲劇は、薄暮ゲームであったためボールが見辛く、マニエルが避け損ねたことも一つの要因だと言われている[3]。マニエルが復帰した後に「和解」の場が持たれたが、故意にボールを当てたという疑念(ロッテ側は否定)を持っていたマニエルは八木沢と握手をしなかった。同年引退。
引退後
引退後はロッテ(1980年二軍投手コーチ, 1992年 - 1994年8月2日監督)、西武(1981年 - 1984年・1986年 - 1991年一軍投手コーチ, 1985年二軍投手コーチ)、横浜(1995年一軍投手コーチ)、巨人(1997年 - 1998年二軍投手コーチ)、阪神(1999年 - 2001年一軍投手コーチ)、オリックス(2004年一軍投手コーチ)、四国IL(2005年巡回コーチ)、東京ガス[4](2006年 - 2007年投手コーチ)、ヤクルト(2008年 - 2010年二軍投手コーチ)、BCリーグ・群馬(2011年 - 2012年投手コーチ[5], 2013年特別アドバイザー)で監督・コーチを歴任。指導者生活の合間を縫って、フジテレビ・ニッポン放送解説者(1996年)、ラジオ日本解説者(2002年 - 2003年)を務めた。
コーチ時代は指導力を発揮し、中西太・山内一弘・水谷実雄・高畠康真(いずれも打撃コーチ)などと並び「12球団巡回コーチ」と呼ばれた。2014年、同年2月6日に死去した森徹の後を受けて2月11日に日本プロ野球OBクラブ理事長に就任[6]。前述の死球事件を教訓に、アマチュア野球でもフェイスガードを解禁して欲しいと訴えている[7]。
人物
西武に移籍してきた江夏豊が、球団で唯一慕っていたコーチである。その江夏が在籍した1984年はリーグ優勝を逃し、翌シーズンはその責任をとらされ二軍コーチに降格させられてしまう[8]。
野村克也が阪神監督就任時、一軍投手コーチとして声をかけていた尾花高夫(尾花本人が行動を共にすることを希望していた)がダイエーのコーチに就任。阪神の一軍投手コーチを誰にするか迷った時、友人の森祇晶が八木沢を推薦したため就任に至ったという経緯がある。野村からは親しみをこめて「ロクさん」と呼ばれていた一方、藤川球児は自著の中で「八木沢と2000年秋季キャンプで腕立て伏せのやり方で言い合いになり、その後謝罪をして和解したが、翌年のシーズンは一度も使ってもらえなかった」と告白している。
伊原春樹とは西武・阪神でコーチとして同僚となり、伊原が西武監督時はキャンプで臨時コーチを務めた。オリックス監督時も一軍投手コーチとして招聘され、2004年に就任。前年のオリックスはチーム防御率5.95、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819と投手陣が大崩壊状態であった。八木沢に投手陣再建の手腕が託されたが、同年もチーム防御率が5.66を記録。2年連続5点台という結果に終わり、伊原と共に同年限りで辞任。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1967 | 東京 ロッテ |
1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 7 | 1.0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0.00 | 2.00 |
1968 | 6 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 81 | 19.1 | 16 | 2 | 6 | 1 | 3 | 4 | 0 | 0 | 10 | 9 | 4.19 | 1.14 | |
1969 | 44 | 2 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | -- | -- | .600 | 359 | 90.0 | 71 | 11 | 24 | 4 | 3 | 56 | 1 | 0 | 40 | 36 | 3.60 | 1.06 | |
1970 | 43 | 4 | 2 | 0 | 1 | 5 | 4 | -- | -- | .556 | 419 | 98.1 | 99 | 11 | 30 | 8 | 1 | 72 | 0 | 0 | 36 | 31 | 2.85 | 1.31 | |
1971 | 23 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | -- | -- | .800 | 161 | 36.2 | 40 | 3 | 11 | 3 | 0 | 19 | 1 | 0 | 25 | 19 | 4.66 | 1.39 | |
1972 | 35 | 7 | 1 | 0 | 1 | 7 | 8 | -- | -- | .467 | 395 | 90.1 | 106 | 14 | 20 | 2 | 6 | 33 | 0 | 0 | 50 | 45 | 4.48 | 1.39 | |
1973 | 55 | 9 | 1 | 1 | 1 | 7 | 1 | -- | -- | .875 | 513 | 130.1 | 112 | 14 | 25 | 2 | 3 | 68 | 1 | 0 | 47 | 40 | 2.76 | 1.05 | |
1974 | 37 | 12 | 2 | 2 | 0 | 8 | 7 | 2 | -- | .533 | 453 | 115.0 | 86 | 12 | 27 | 1 | 3 | 54 | 1 | 0 | 56 | 49 | 3.83 | 0.98 | |
1975 | 20 | 9 | 1 | 0 | 1 | 2 | 5 | 0 | -- | .286 | 324 | 77.2 | 76 | 13 | 21 | 1 | 2 | 26 | 1 | 0 | 35 | 33 | 3.82 | 1.25 | |
1976 | 34 | 22 | 5 | 0 | 1 | 15 | 9 | 1 | -- | .625 | 676 | 171.2 | 153 | 14 | 29 | 1 | 5 | 66 | 2 | 0 | 53 | 47 | 2.46 | 1.06 | |
1977 | 40 | 28 | 5 | 2 | 1 | 11 | 14 | 1 | -- | .440 | 719 | 175.0 | 167 | 10 | 32 | 0 | 6 | 89 | 2 | 0 | 75 | 51 | 2.62 | 1.14 | |
1978 | 28 | 17 | 6 | 1 | 1 | 5 | 6 | 3 | -- | .455 | 496 | 120.1 | 119 | 7 | 23 | 0 | 5 | 48 | 0 | 0 | 49 | 43 | 3.22 | 1.18 | |
1979 | 28 | 6 | 0 | 0 | 0 | 4 | 8 | 1 | -- | .333 | 326 | 74.1 | 95 | 6 | 19 | 1 | 4 | 32 | 0 | 0 | 43 | 40 | 4.84 | 1.53 | |
通算:13年 | 394 | 119 | 23 | 6 | 7 | 71 | 66 | 8 | -- | .518 | 4929 | 1200.0 | 1142 | 117 | 267 | 24 | 42 | 567 | 9 | 0 | 521 | 443 | 3.32 | 1.17 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1992年 | ロッテ | 6位 | 130 | 54 | 74 | 2 | .422 | 26.5 | 89 | .241 | 3.82 | 47歳 |
1993年 | 5位 | 130 | 51 | 77 | 2 | .398 | 23.5 | 95 | .251 | 4.08 | 48歳 | |
1994年 | 5位 | 85 | 34 | 51 | 0 | .400 | -- | -- | ---- | ---- | 49歳 | |
通算:3年 | 345 | 139 | 202 | 4 | .408 | Bクラス:3回 |
- 1992年から1996年までは130試合制
- 1994年、成績不振により8月2日に監督を解任。監督代行は中西太
タイトル
- 最高勝率:1回 (1973年)
記録
- 初登板:1967年8月11日、対南海ホークス17回戦(大阪スタヂアム)、8回裏に5番手で救援登板・完了、1回2失点(自責点0)
- 初奪三振:1968年9月29日、対東映フライヤーズ27回戦(東京スタジアム)、4回表に青野修三から
- 初先発:1968年10月3日、対南海ホークス25回戦(大阪スタヂアム)、5回2/3を4失点
- 初勝利:1969年10月4日、対東映フライヤーズ24回戦(後楽園球場)、9回裏に3番手で救援登板・完了、2回1失点
- 初先発勝利・初完投勝利:1970年9月17日、対東映フライヤーズ22回戦(後楽園球場)、9回3失点
- 初完封勝利:1973年10月10日、対太平洋クラブライオンズ後期12回戦(宮城球場) ※史上13人目の完全試合
- 初セーブ:1974年5月24日、対阪急ブレーブス前期6回戦(阪急西宮球場)、7回裏2死に2番手で救援登板・完了、2回1/3を無失点
その他の記録
- 完全試合:1973年10月10日、対太平洋クラブライオンズ後期12回戦(県営宮城球場) ※史上13人目
背番号
- 27 (1967年 - 1979年)
- 72 (1980年、1999年 - 2001年、2011年 - 2012年)
- 73 (1981年)
- 84 (1982年 - 1991年)
- 80 (1992年 - 1994年)
- 77 (1995年)
- 85 (1997年 - 1998年)
- 75 (2004年)
- 74 (2008年 - 2010年)
関連情報
出演番組
- BASEBALL SPECIAL〜野球道〜 - かつてフジテレビ解説者として出演していた中継の現行統一タイトル
- プロ野球ニュース
- ニッポン放送ショウアップナイター
脚注
- ^ 「週刊ベースボール」2011年1月31日号(懐かしのプロ野球自主トレ企画)より、八木沢が実家で丸太を背負ってスクワットをしている写真から。
- ^ 近鉄・マニエル(右)はロッテ・八木沢から顔面死球を受け、下あごの複雑骨折などの重傷を負った(1979年6月9日撮影)
- ^ あの時フェースガードがあったら― 40年前、赤鬼マニエルにぶつけた八木沢荘六さんの悔恨と願い
- ^ 八木沢氏 東京ガスのコーチに就任
- ^ 八木沢荘六投手コーチ就任・青木野手コーチ背番号決定のお知らせ - 2010年12月20日
- ^ プロ野球OBクラブ新理事長は八木沢氏 スポーツニッポン 2014年2月11日閲覧
- ^ あの時フェースガードがあったら― 40年前、赤鬼マニエルにぶつけた八木沢荘六さんの悔恨と願い
- ^ ムック「埼玉西武ライオンズ 黄金投手陣の軌跡」(2013年、ベースボール・マガジン社)にある八木沢のインタビューによれば、二軍降格は自らの志願だったという。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 八木沢荘六 - NPB.jp 日本野球機構