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園田喜則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
園田 喜則
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市旭区
生年月日 1948年7月29日
没年月日 (2006-09-06) 2006年9月6日(58歳没)
身長
体重
177 cm
69 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1966年 第1次ドラフト4位
初出場 1967年
最終出場 1971年5月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • ロッテ・オリオンズ (1972 - 1973)

園田 喜則(そのだ よしのり、1948年7月29日 - 2006年9月6日[注 1])は、大阪府出身(出生地は三重県伊勢市[注 2]プロ野球選手コーチ。選手時代のポジションは内野手。右投右打。

来歴・人物

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北陽高校では1966年、3年生の時に遊撃手、控え投手として夏の甲子園府予選決勝に進出。エース奥田敏輝を擁する桜塚高と対戦し、2回から橋本和行をリリーフし好投、4-0で勝利を飾る。夏の甲子園では1回戦で福島商を降すが、2回戦では桐生高に1回裏9点を奪われ、その後は前野和博(芝工大東芝)らに抑えられ敗退[3]。この2試合ともリリーフで登板している。2年下のチームメートに中堅手長崎慶一がいた。

1966年第1次ドラフト会議東京オリオンズ1969年よりロッテ・オリオンズ)[注 3]から1位指名を受け入団・プロ入り。初年度の1967年から一軍に上がり、遊撃手として4試合に先発出場を果たす。同年はジュニアオールスター(二軍のオールスターゲーム)にも出場したが、その後は右目に打球が当たり、視力が低下して活躍の場には恵まれず、1971年引退した。1973年まで二軍でマネージャーを兼務するコーチとして球団に残った。[注 4]

2006年9月、病により58歳で急死した。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1967 東京
ロッテ
22 21 20 0 4 0 1 0 6 0 0 0 0 0 1 0 0 4 0 .200 .238 .300 .538
1968 24 15 15 2 5 0 0 0 5 1 0 1 0 0 0 0 0 5 1 .333 .333 .333 .666
1971 1 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:3年 47 36 35 3 9 0 1 0 11 1 0 1 0 0 1 0 0 9 1 .257 .278 .314 .592
  • 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更

背番号

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※参考…[4]

  • 42 (1967年 - 1968年)
  • 6 (1969年)
  • 44 (1970年 - 1971年)
  • 62 (1972年)
  • 90 (1973年)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 参考:
  2. ^ 参考(出身地):
    • 「大阪」と明記[2]
  3. ^ 没後の1992年より千葉ロッテマリーンズに改称。
  4. ^ 参考:
    • 次の資料では、1972年に内野手兼コーチ、1973年に二軍コーチとして在籍の旨が明記[4]
    • 次の資料では、1972年まで選手として在籍の旨が明記(コーチ在任の旨は明記せず)[5]
    • 次の資料では、1971年まで選手として在籍の旨が明記[2]
    • 次の資料では、1971年まで内野手として、1972年にコーチとして在籍の旨が明記[6]

出典

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  1. ^ a b 日本野球機構公式サイト内プロフィールを参照。
  2. ^ a b c d 『週刊ベースボールONLINE』内プロフィールを参照。
  3. ^ 『全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  4. ^ a b 日本プロ野球80年史』記録編に収録された、毎日オリオンズ→毎日大映オリオンズ→東京オリオンズ→ロッテ・オリオンズ→千葉ロッテマリーンズの年度別監督・コーチ・選手一覧表を参照。
  5. ^ 検索結果:園田喜則 - 日本野球機構公式サイト内プロ野球在籍者名簿
  6. ^ 1970年~1974年所属選手 - 千葉ロッテマリーンズ公式サイトより、1970年から1974年までの監督・コーチ・選手一覧表

参考資料

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関連項目

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外部リンク

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