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* 歴史上の[[大正]]初日は1912年7月30日であるが、この日受付の郵便物(実逓便)には「(明治)45年7月30日」の日付印が押印されている。「(大正)1年」の日付印が押印されたのは翌31日受付の郵便からであるとされている。「(大正)1年7月30日」の日付印が押印された実逓便の存在は確認されていない<!--記念押印なら存在する--><ref>「収友たちの宴会談義 番外編 郵便史の大正改元は7月31日であった、とすべきでしょう」『[[郵趣 (雑誌)|郵趣]]』([[日本郵趣協会]])1995年(平成7年)4月号、82頁。</ref>。 |
* 歴史上の[[大正]]初日は1912年7月30日であるが、この日受付の郵便物(実逓便)には「(明治)45年7月30日」の日付印が押印されている。「(大正)1年」の日付印が押印されたのは翌31日受付の郵便からであるとされている。「(大正)1年7月30日」の日付印が押印された実逓便の存在は確認されていない<!--記念押印なら存在する--><ref>「収友たちの宴会談義 番外編 郵便史コレクションの大正改元は7月31日であった、とすべきでしょう」『[[郵趣 (雑誌)|郵趣]]』([[日本郵趣協会]])1995年(平成7年)4月号、82頁。</ref>。 |
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* 「[[大正]]16年元旦」([[1927年]]1月1日)に配達される予定であった[[年賀状|年賀郵便]]には「(大正)16年1月1日」の日付印が押印されていたが、[[1926年]](大正15年・昭和元年)末の12月25日に[[大正天皇]]が[[崩御]]したため、年賀郵便の取扱いそのものが中止になった。ただし、それまでに引き受けていた年賀郵便は年が明けて配達された。訂正の意味で「(昭和)2年1月1日」の日付印が押印されていたものもある<ref>「私の好きなこのマテリアル 大正16年1月1日の引受印と昭和2年1月1日の到着印の年賀状」『郵趣』1993年8月号、89頁。(「16年1月1日」と「2年1月1日」の日付印が押印されている年賀はがきの写真が掲載)</ref>。 |
* 「[[大正]]16年元旦」([[1927年]]1月1日)に配達される予定であった[[年賀状|年賀郵便]]には「(大正)16年1月1日」の日付印が押印されていたが、[[1926年]](大正15年・昭和元年)末の12月25日に[[大正天皇]]が[[崩御]]したため、年賀郵便の取扱いそのものが中止になった。ただし、それまでに引き受けていた年賀郵便は年が明けて配達された。訂正の意味で「(昭和)2年1月1日」の日付印が押印されていたものもある<ref>「私の好きなこのマテリアル 大正16年1月1日の引受印と昭和2年1月1日の到着印の年賀状」『郵趣』1993年8月号、89頁。(「16年1月1日」と「2年1月1日」の日付印が押印されている年賀はがきの写真が掲載)</ref>。 |
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* 大正から[[昭和]]へ改元される際、『[[東京日日新聞]]』(現・『[[毎日新聞]]』)が新しい元号を「光文」との誤報を流した。{{main|光文事件}} |
* 大正から[[昭和]]へ改元される際、『[[東京日日新聞]]』(現・『[[毎日新聞]]』)が新しい元号を「光文」との誤報を流した。{{main|光文事件}} |
2020年12月3日 (木) 09:30時点における版
元号(げんごう)は、中国で創始された紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。
2020年(令和2年)現在は、日本のみで制定、使用されている。日本における元号の使用は、宝女王(皇極天皇)治世第4年(西暦645年)に難波宮で行われた大化の改新時に始まり、以降、「日本」という国号の使用も始まったとされる。この他、日本やベトナム(越南)では年号(ねんごう)の称号で呼ばれることが多かった。公称としては、日本では江戸時代(慶応)までは「年号」が多く使われ、明治以降は一世一元の制が定着し元号法制定以後、「元号」が法的用語となった[1]。ベトナムでも保大20年(1945年)の八月革命まで一貫して「年号」が使用され、「元号」という称号は一般的ではなかった。
総説
紀年法のうち、西暦やイスラム紀元、皇紀(神武紀元)などが無限のシステム(紀元)であるのに対して、元号は有限のシステムである。皇帝や王など君主の即位、また治世の途中にも行われる改元によって元年から再度数え直され(リセット)、名称も改められる。元号の「元年」は「1年目」に当たる。英訳すると、元号は「regnal era name」などとなる。「○○1年」または「○○一年」と表記・呼称される例が多く散見されるが、これは誤りであり[要出典]、正式には「○○元年」と表記・呼称する[要出典][信頼性要検証][2]。日本では一度使用された元号は二度と使用しない慣例がある[3]が、中国などの他の元号文化圏ではそのような慣例は重視されておらず、嘗て使用した元号を再使用する例が多くみられる。
元号は、古代中国の漢の武帝の時代に始まった制度で[4]、皇帝の時空統治権を象徴する称号である[5]。『春秋公羊伝』隠元年では「元年者何。君之始年也」とあり、これは皇帝権力の集中統一を重視する「大一統」思想の国制化であった[5]。時の政権に何らかの批判を持つ勢力が、密かに独自の元号を建てて使用することもあった[注 1]。
元号は漢字2字で表される場合が多く、まれに3字、4字、6字の組み合わせを採ることもあった。最初期には改元の理由にちなんだ具体的な字が選ばれることが多かったが、次第に抽象的な、縁起の良い意味を持つ字の組み合わせを、漢籍古典を典拠にして採用するようになった。日本の場合、採用された字は2020年(令和2年)現在の令和の時点でわずか73字であり[6]、そのうち21字は10回以上用いられている。一番多く使われた文字は「永」で29回、2番目は「天」・「元」のそれぞれ27回、4番目は「治」で21回、5番目は「応」・「和」で20回である[7]。なお、近代以降の元号のうち令和の「令」や平成の「成」、昭和の「昭」はそれぞれ初めて採用されたものである。また、平成の「平」は12回[8]、大正の「大」は6回「正」は19回、明治の「明」は7回使われている[7]。
独自の元号が建てられた国家には、以下の項目に挙げる他、柔然、高昌、南詔、大理、渤海がある。また遼、西遼、西夏、金は中国史に入れる解釈もあるが、いずれも独自の文字を創製しており、元号も現在伝えられる漢字ではなく、対応する独自文字で書かれていた。
アジアにおける歴史
中国で元号制度が始まるのは漢の武帝の時代のことである[4]。漢の武帝の治世第36年 - 元鼎2年(紀元前115年)頃、治世第1年(紀元前140年)に遡及して「建元」という元号が創始されて以降、清まで用いられた。
前近代の朝鮮と雲南
中国の元号は、中華帝国の冊封を受けた朝鮮(新羅、高麗、朝鮮)、雲南(南詔、大理)でもそのまま使われた。ただし、これらの諸国は時代により独自の元号を使用・併用することもあった。また、特に朝鮮においては、紀年において中国の元号 + 年数の代わりに自国の王や皇帝の廟号 + 干支を組み合わせて使うことがよくあった。
前近代の満州とベトナム(越南)
8世紀初頭以降の満州(大氏渤海国・大武芸の仁安元年以降、遼、金、後金を経て、愛新覚羅氏大清帝国・溥儀の宣統2年まで)、日本(文武天皇の治世第5年 = 大宝元年以降、現在まで)と、10世紀末以降のベトナム(丁氏大瞿越国太平元年以降、阮氏大南帝国保大20年まで)は、中華帝国の冊封を受けた時期もあったが、常に独自の元号を使用し、中国と対等の立場を表した。満州から出た清は中国本土(明)及び台湾(鄭氏東寧)を倒して中華帝国を統治し、満州の元号が中国本土及び台湾でも用いられた。ベトナムにおいても、朝鮮と同様に、紀年において中国の元号 + 年数の代わりに自国の王や皇帝の廟号 + 干支を組み合わせて使うことがよくあった。
前近代の琉球
伝承上の琉球国王の系譜は舜天氏(清和源氏の系統)と尚氏(天孫氏オモイカネの系統、日本本土では阿智祝氏がオモイカネの系統である)から成る。琉球は12世紀に日本本土から来た皇別氏族である清和源氏の舜天尊敦(源義家の四世孫である源為朝の子と伝えられる)によって建国された。この伝承によれば鎌倉幕府の源氏と琉球王国の舜天氏は一家である。その後、数代を経て舜天氏はオモイカネ系統の尚氏(英祖)と交替した。尚氏琉球は元を倒した明に朝貢し、尚氏が大明皇帝によって琉球国王と認められる冊封体制に属した。17世紀の島津氏による尚氏琉球の保護国化以降も、尚氏琉球は国内外で中国の元号(明及び清の年号) + 年数を使っていたが、琉球通信使などのような島津氏(同じく源義家の四世孫である源頼朝の庶出を自称するが、日向国島津荘にあった藤原北家 = 近衛家領地の荘官を兼ねており、領家であった藤原朝臣を本姓とする)や徳川氏(同じく源義家の四世孫である得川頼有/徳河頼有の子孫を自称)とのやりとりの際には日本の元号 + 年数を使った。
中国
漢の武帝以前は王や皇帝の即位の年数による即位紀元の方式が用いられていた[4]。当時の紀年法では新しい天子が即位した翌年を始めの年とする認識がとられていることが多い[4]。例えば『資治通鑑』によれば周の威烈王23年の翌年が安王元年、高祖12年の翌年が高后元年となっている[4]。また『史記』の孝武本紀では孝景の崩じた翌年を元年としている[4]。このように王暦において即位の翌年から次の天子の元号を始めることを「踰年称元」といい[4]、即位年(先の天子の没年)から次の天子の元号を始めることを「没年称元」という。ただし『史記』でも孝文本紀と孝景本紀とでは記載に混乱がみられ、史書によっても混乱がみられる部分がある[4]。そのため史書の編纂の過程で『資治通鑑』のような体裁に整えられていったとする説がある[4]。
元号制度が始まったのは漢の武帝の時代からだが、明の太祖洪武帝(朱元璋)により一世一元の制がとられるまで、ひとりの皇帝の治世中にしばしば改元された[4]。武帝の時、「元」は祥瑞によって決めるべきで、即位の年を「建」、彗星出現の年を「光」、一角獣(麒麟)捕獲の年を「狩」とすることが献策された。これによって「建元」「元光」「元狩」といった元号が作られ、以後、このような漢字名を冠した元号を用いる紀年法が行われるようになった。
中国では元号制度が正式に設けられた後も、即位改元の場合は原則として前皇帝が亡くなった年のうちは改元を行わず、新皇帝は翌年正月に改元する方式がとられた(踰年称元、踰年改元)[4]。伊藤東涯は『制度通』において「先君崩薨の後、明年を元年と云、踰年改元すと云、是なり。」としている[4]。ただし、王朝交替時には新皇帝の即位とほぼ同時、政変・譲位の時は新皇帝の即位と同時か間をおいて改元されることが多かった[4]。
明の太祖(朱元璋)は、皇帝即位のたびに改元する一世一元の制を制定した。これにより実質的に在位紀年法に戻ったといえるが、紀年数に元号(漢字名)が付されることが異なっている。また元号が皇帝の死後の通称となった。
1911年に辛亥革命によって満州族(愛新覚羅氏)の清が倒れると元号は廃止された。各省政府は当初、革命派の黄帝紀元を用いていたが、これもまた帝王在位による紀年法であり、共和制になじまないという理由で、中華民国建国に際し、1912年を中華民国元年(略して民国元年)とする「民国紀元」が定められた。1916年に袁世凱が帝制(中華帝国)を敷いた時には「洪憲」の元号を建てた。ただし、清室優待条件によって宣統帝溥儀は紫禁城で従来通りの生活が保障されており、宮廷内部(遜清皇室小朝廷)では「宣統」の元号が引き続き使用されていた。このことが溥儀の「復辟(帝制復活)」への幻想を生んだ。
満州国が1932年に建国されると「大同」と建元し、1934年に溥儀が皇帝に即位すると「康徳」と改元され、1945年の満州国の滅亡で再び元号は廃止された。
中華人民共和国が大陸を制覇すると、「公元」という名称で西暦が採用される。しかし、これはキログラムが「公斤」と、キロメートルが「公里」と表記されるのと同じで、元号としてではなく、中国語表記である。
現代の台湾
中華民国(台湾)では、正月(元旦節)は農暦正月(旧正月)を祝う一方、公元(西暦)と同期した「中華民国紀元」が、辛亥革命(1911年)の翌年(1912年)以降、台湾光復(1945年10月25日)、台北遷都(1949年12月7日)を経て現在に至るまで公式に用いられている。西暦1912年1月1日 = 黄帝紀元4609年旧暦11月13日 = 大清帝国宣統2年旧暦11月13日 = 中華民国元年1月1日( = 日本大正元年1月1日)。民国紀元は、厳密には国号であって、紀元でも元号でもないが、元号のように絶対的に使用されている。台湾独立時代の元号として、鄭氏東寧国の永暦(もと南明の元号、1662年 - 1683年)、台湾民主国の永清(1895年)があるが、鄭氏東寧国や台湾民主国の建設、中華民国の台北遷都にちなむ台湾紀元のような紀年法は無い。また、1949年以降の中国(中華人民共和国)では一般の公文書には「公元」(西暦)を使用し、元号やそれに準じた民国紀元のような紀年法は無く、西暦の使用が憚られる宗教建築の棟札などには干支と農暦(旧暦)による紀年が用いられる。西暦2024年は中華民国113年である。
現代の朝鮮
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、正月(元旦節)は陰暦正月(旧正月)を祝う一方、陽暦(西暦)と同期した「主体紀元」が、金正日の統治第3年(1997年)以降、現在に至るまで公式に用いられている。1997年 = 主体86年であり、元年 - 85年までは観念上の存在であって遡及的に使用され、金正日の父・金日成が生まれた1912年(民国元年、大正元年)を観念上の元年とする。主体紀元は、厳密にはイデオロギー口号(こうごう、スローガン)であって、紀元でも元号でもないが、元号のように絶対的に使用されている。日本では1872年 = 明治5年末の改暦で旧暦が廃止され、翌1873年 = 明治6年以降、元号が西暦と同期するようになったが、李氏朝鮮国(1897年以降は李氏大韓帝国)においても1895年 = 開国504年末の改暦で旧暦が廃止され、翌1896年 = 高宗建陽元年以降、李氏大韓帝国が消滅した1910年 = 純宗隆熙4年まで西暦と同期した元号が用いられた。1912年 = 【観念上の朝鮮開国521年】 = 【観念上の朝鮮純宗隆熙6年】 = 朝鮮主体元年 = 中華民国元年( = 日本大正元年)。このほか、李氏朝鮮国で1870年 - 1896年まで用いられた開国紀元(旧暦と同期、1392年を元年とする)や、大韓民国(韓国)の大韓民国紀元(西暦と同期、三一独立運動の年、大韓民国臨時政府(上海)成立の年、1919年を元年とする)、檀君紀元(もと旧暦と同期していたが1948年以降は西暦と同期する、開天紀元ともいう、『三国遺事』に記録された檀君神話に基づき、檀君即位の年である、中国の五帝・帝堯の治世第50年 = 紀元前2333年「旧暦10月3日」を元年 = 即位年即位日とし、今は西暦10月3日を開天節として祝う)などの紀年法がある。1961年以降の韓国では一般の公文書には「陽暦」(西暦)を使用し、檀君紀元は使用されず、元号やそれに準じた主体紀元のような紀年法も無い。西暦2024年は朝鮮主体109年( = 中華民国109年)である。
現代のベトナム
ベトナム社会主義共和国(共和社会主義越南)の指導政党であるベトナム共産党の設立記念日は1930年2月3日(保大5年/旧暦1月5日)であり、必ず西暦で祝われ、旧暦1月5日に祝われることはない。一方、ベトナムもまた正月(元旦節)は台湾や朝鮮と同様に陰暦正月(旧正月)を祝う。また、元旦節や清明節、春分節などの伝統節日の紀年においては、公元(西暦)ではなく旧暦と同期した「共和社会主義越南紀元」が、サイゴン解放・南ベトナム革命(1975年)の翌年(1976年)以降、現在に至るまで非公式に用いられている。1976年 = 共和社会主義越南三十二年であり、元年 - 31年までは観念上の存在であって遡及的に使用される。共和社会主義越南紀元は、厳密には国号とイデオロギー口号(こうごう、スローガン)を合わせたものであって、紀元でも元号でもないが、ローマ字やキリスト紀元(西暦)の使用が憚られる宗教建築ー村落集会所(亭)や寺、廟、族祠の棟札などには、原則として漢字(及び喃字、チューノム)と漢数字で、阮氏大南帝国時代の元号(年号)のように使用されている。実際にはローマ字や算用数字で書く場合もあり、共和社会主義越南紀元の代わりに干支と陰暦(旧暦)による紀年が用いられる場合もあって、その使用は必ずしも絶対ではない。旧南ベトナムの亭、寺、廟、族祠などでは1955年を元年とする越南共和紀元が1955年から1975年まで使用されていた。共和社会主義越南紀元の観念上の元年は、1976年以前に旧・北ベトナムの亭、寺、廟、族祠などで非公式に使用されていた越南民主共和紀元と同じ、八月革命の年、1945年である。1945年 = 阮氏大南帝国保大20年 = 越南民主共和元年 = 【観念上の共和社会主義越南元年】( = 日本昭和20年)である。
このほかに、同じく旧暦と同期した雄王紀元(フンヴオン紀元)がある。鴻厖紀元(ホンバン紀元)ともいう。雄王紀元は、『大越史記』及び『大越史記全書』に記録された神話(雄王祖 = 帝明説)に基づき、初代フンヴオン(雄王 = 涇陽王)鴻厖氏即位の年である、中国の三皇・炎帝神農氏の第三世孫(帝明)の没年 = 紀元前2879年を元年とする。このため、ベトナム人の間では「ベトナム五千年の歴史」という言い回しが存在する。ベトナムでは「ベトナム(鴻厖氏文郎国)建国の年・建国の日は、初代フンヴオンの父・王祖帝明の没年であり命日・忌日(ゾー Giỗ)である」という「没年称元」の観点から、建国記念日「旧暦3月10日」を雄王祖忌(ゾートーフンヴオン、Giỗ Tổ Hùng Vương)という。雄王紀元は雄王祖忌を祝う上での観念上の紀元であり、雄王祖忌以外の場で使用されることは稀である。
1887年のフランスによる阮氏大南帝国の保護国化以降、ベトナムの一般の公文書は「西紀」(西暦と同期する)と元号(年号、旧暦と同期する)が併記され、1945年以降の独立ベトナム諸政権は元号・旧暦を廃止して「公元」(西暦)だけを使用したため、旧暦3月10日に固定されたベトナムの建国記念日(雄王祖忌)は、旧正月(元旦節)とともに、ベトナムの国民の祝日のうち「移動祝日」(毎年西暦上の日付が移動する祝日)となっている。西暦2024年1月25日 = 【観念上の雄王紀元4900年旧暦正月元日】 = 共和社会主義越南76年旧暦正月元日(日本令和2年1月25日)である。
東北アジア、東南アジアの神話紀元と王室の華裔伝承
朝鮮・ベトナム王室の華裔伝承
旧暦と同期した中国の黄帝紀元、朝鮮(高麗)の檀君紀元、ベトナム(大越)の雄王紀元は、いずれも唐の司馬貞・補『史記』(732年頃完成、以下『補史記』と称する)の三皇本紀・五帝本紀に記載された中国神話(朝鮮の場合はプラスしてインド神話)に基づき、自らの王家の祖先を華裔(中華皇帝の血統)とする形で、13世紀までに創作された神話紀元である。『補史記』に基づいて古代の諸帝王の系譜を順に追うと、①第3代三皇 = 初代炎帝神農氏 = 帝石年、②帝臨魁(石年の子)、③帝承(帝臨魁の子)、④帝明(帝承の子、帝石年の三世孫)と続き、帝明の庶子がベトナムの初代フンヴオン(雄王 = 涇陽王)となる。その後、⑤帝直(帝宜ともいう。帝明の子、初代フンヴオンの異母兄)、⑥帝嫠(帝直の子)、⑦帝哀(帝嫠の子)、⑧帝楡罔(帝哀の三世孫)と続き、帝楡罔を倒して三皇時代を終焉させ、新たな五帝時代を開始し、また干支を創ったのが、❶初代五帝 = 黄帝である。三皇は、炎帝神農氏や、その庶子であるベトナムの初代フンヴオン涇陽王を含め、人間ではなく龍の体(蛇体)であり、黄帝に至ってようやく人間が世界の統治者になったと伝えられる。黄帝に続いて、❷帝顓頊(黄帝の二世孫)、❸帝嚳(帝顓頊の甥、黄帝の三世孫)、❹帝堯(帝嚳の子)と続き、帝堯の治世第50年に帝釈天(インドラ、桓因)の二世孫である檀君が朝鮮に降臨した(人間ではなく熊の体であったと伝えられる。『ラーマーヤナ』物語の猿王ヴァーリンは熊王であるともいわれ、檀君同様にインドラの子孫である)。その後、❺帝舜(帝堯の女婿)が帝堯から禅譲を受け、次いで1⃣初代夏王ー禹(夏禹、禹王)が帝舜から禅譲を受けて夏朝を創業した。以後、夏 → 殷 → 周(西周)へ至り、東周・春秋戦国時代以降は神話的記述が消えて、歴史時代に入る。
日本皇室の華裔伝承 1872年(明治5年)に制定された日本の神話紀元ー神武天皇即位紀元(皇紀)は、『日本書紀』(養老4年(720年)頃完成)の紀年(元嘉暦と儀鳳暦による干支紀年)を西暦に換算し、西暦と同期しており、またその由来が『補史記』(天平4年(732年)頃)に記述された中国神話とは無関係である点で、中国の黄帝紀元、朝鮮の檀君紀元、ベトナムの雄王紀元と異なる。しかし、日本皇室に華裔伝承がなかったわけではなく、中国側では『史記』淮南衡山列伝に徐福伝説が記載され、三国志の『魏書』(魏志倭人伝)に「男子無大小、皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身…」のように倭人と夏王朝の夏后少康の後裔との関係が暗示され、『晋書』・『梁書』に「自云太伯之後」(倭人は周王朝の親戚で衡山に隠棲した呉太伯の後裔を自称する)と記載され、日本側でも倭服(和服)を呉服と称する伝統があった。日本の儒学者にとっての皇祖 = 呉太伯説は、日本の仏教者にとっての反本地垂迹説と同様に、日本の皇室こそ周室の後裔であり、世界の中心にして正統であり、日本儒教こそ正しい儒教であると主張できる根拠であったたため、林羅山などがこれを支持したが、林羅山・林鵞峰父子らの『本朝通鑑』(寛文10年(1670年)頃)には皇祖 = 呉太伯説は記載されなかった。一方、イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』(寛永10年(1633年)頃)はもうひとつの異説を採用して、「日本の皇室は姫季歴の子孫」と記載した。鄭成功の幕僚で、南中国やベトナムを転戦したのち来日した儒学者(朱子学者)の朱舜水は、武人であると同時に当時の中国最高の儒学者であり、水戸黄門(徳川光圀)の保護を受けて水戸藩の儒学者らに学問を講じ、水戸学に大きな影響を及ぼしたが、皇祖 = 呉太伯説、皇祖 = 姫季歴説を自著で述べていない。上記のように、朱舜水同様、林羅山もまた皇祖 = 呉太伯説を自著で述べていないにもかかわらず、18世紀以降の水戸藩において、「林羅山・鵞峰らの『本朝通鑑』が呉太伯説を採用し、これに怒った水戸黄門、佐々介三郎、安積覚兵衛らが、林家の妄説である呉太伯説を否定するため、『本朝通鑑』へのアンチテーゼとして『大日本史』執筆に取り組み、日本全国を探訪して史料蒐集をおこなった」という誤った伝承が存在し、『水戸黄門漫遊記』などの娯楽小説へとつながった。詳細は『本朝通鑑』による呉太伯説との関係」を参照。
「万世一系」「孟舟即覆」 『書経』、『史記』が記述する中国神話によれば、周の武王(姫発、紀元前1070年 - 1043年ごろ)の曾祖父、古公亶父(姫亶の父)には長男(長兄)の姫太伯、次男(長弟)の姫虞仲、三男(次弟)の姫季歴がおり、呉の子爵家は姫太伯(呉太伯)の子孫、周の王家は姫季歴の子孫、周の武王は姫季歴の二世孫である。『日本教会史』の皇祖 = 姫季歴説はベトナムにおける雄王祖 = 帝明説と酷似し、中国と自国の帝王の兄弟関係を強調するものである。このほかに、松野氏系譜(松野連系図)にも松野氏 = 姫氏説(姫太伯の系統)がある。皇祖 = 呉太伯説、皇祖 = 姫季歴説はいずれも周室と皇室は同根として、皇室の万世一系の正統性を補強するものであった。そのため、日本における皇祖 = 呉太伯説の支持者たちにとって、①秦による周討伐(紀元前249年、秦の呂不韋によって攻め滅ぼされた)を正当化する理論を提供し、②周の武王による殷の紂王討伐を革命の例とした『孟子』の革命説は、周を滅ぼした理論、周を侮辱し皇祖に不敬をなす理論であって、絶対に受け入れがたいものであった。『孟子』は遣唐使によって早期に日本に持ち込まれていたにもかかわらず、鎌倉期の花園天皇などの天皇自身を除き、引用が憚られた。宋代の「国王一姓相伝六十四世」(新唐書日本伝)、明代の「有携孟子往者,舟即覆溺」(五雑俎、ただし原文は「有携其書往者,舟輒覆溺」)など日本の「万世一系」・「孟舟即覆」を裏付ける記述は中国側にも存在した。日本の元号は宗教上・産業上の瑞祥を除き、基本的に四書五経を出典とするが、四書五経の中の『孟子』に由来する元号はいまだかつて存在しない。
日本の元号
元号を用いた日本独自の紀年法は、西暦に対して和暦(あるいは邦暦や日本暦)と呼ばれることがある。
日本国内では今日においても西暦(グレゴリオ暦)と共に広く使用されている。
元号名(読み) | 初日年月日 | 現年数 | 現在位年月日数 | 天皇名 |
---|---|---|---|---|
令和(れいわ) | 令和元年(2019年)5月1日 | 6年 | 5年6か月と25日 | 徳仁(今上天皇) |
皇室典範特例法および元号法に基づく、明仁(上皇)の退位および徳仁(今上天皇)の即位(譲位による皇位継承)による改元。( ) |
2019年(令和元年)5月1日[9]に、前日(平成31年)4月30日の天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行での第125代天皇明仁の退位(上皇となる)に伴い、皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位した。この皇位の継承に伴い元号法の規定により同年4月1日に元号を改める政令が公布・5月1日に施行され、「令和」(日本における最初の元号「大化」から数えて248番目の元号)に改元された。
元号制定の条件
『昭和大礼記録(第一冊)』によると、一木喜徳郎宮内大臣(現:宮内庁長官)は、漢学者で宮内省(現:宮内庁)図書寮の編修官であった吉田増蔵に「左記の五項の範囲内に於て」元号選定にあたるように命じた[10]。
- 元号は本邦はもとより言うを俟たず、支那、朝鮮、南詔、交趾(ベトナム)等の年号、その帝王、后妃、人臣の諡号、名字等及び宮殿、土地の名称等と重複せざるものなるべきこと。
- 元号は、国家の一大理想を表徴するに足るものとなるべきこと。
- 元号は、古典に出拠を有し、その字面は雅馴にして、その意義は深長なるべきこと。
- 元号は、称呼上、音階調和を要すべきこと。
- 元号は、その字面簡単平易なるべきこと。
なお歴史的には、「他国でかつて使われた元号等と同じものを用いてはならない」という条件はなかった。異朝でかつて使われた元号を意図して採用した例すらある。例えば、後醍醐天皇の定めた「建武」は、王莽を倒して漢朝を再興した光武帝の元号「建武」にあやかったものであった。また、徳川家康の命によって用いられた「元和」は、唐の憲宗の年号を用いたものである。近代の「明治」も大理国で用いられた例があり、「大正」もかつてベトナムの莫朝で用いられた(ただし、読みは「たいせい」)。
元号選定手続について
1979年(昭和54年)10月、第1次大平内閣(大平正芳首相)は、「元号法に定める元号の選定」について、具体的な要領を定めた(昭和54年10月23日閣議報告)[11]。
これによれば、元号は、「候補名の考案」、「候補名の整理」、「原案の選定」、「新元号の決定」の各段階を践んで決定される。まず、候補名の考案は内閣総理大臣が選んだ若干名の有識者に委嘱され、各考案者は2 - 5の候補名を、その意味・典拠等の説明を付して提出する。総理府総務長官(後に内閣官房長官)は、提出された候補名について検討・整理し、結果を内閣総理大臣に報告する。このとき、次の事項に留意するものと定められている。
- 国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること。
- 漢字2字であること(3文字以上は不可。但し、天平21年/天平感宝元年(749年)から神護景雲4年/宝亀元年(770年)にかけては、漢字4文字の元号が使用されている)。
- 書きやすいこと。
- 読みやすいこと。
- これまでに元号又はおくり名として用いられたものでないこと(過去の元号の再使用は不可)。
- 俗用されているものでないこと(人名・地名・商品名・企業名等は不可)。
整理された候補名について、総理府総務長官、内閣官房長官、内閣法制局長官らによる会議において精査し、新元号の原案として数個の案を選定する。全閣僚会議において、新元号の原案について協議する。内閣総理大臣は、新元号の原案について衆議院及び参議院の議長及び副議長に連絡し、意見を聴取する。そして、新元号は、閣議において、改元の政令の決定という形で決められる。
元号の字数
日本の元号は伝統的に「2文字」であるが、元号に用いることのできる文字数は明確に制限されていない[注 2]。この例外は聖武天皇・光明皇后の時代から約4半世紀、天平感宝、天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景雲の5つ(4文字)のみである。
元号使用の歴史
一般に難波宮で行われた大化の改新(645年)時に「大化」が用いられたのが最初であり、以降、日本という国号の使用が始まったとされる。なお、即位改元は南北朝以後から江戸時代前半期の数例(寛永など)を除いて確実に実施されている[4]。
前史
『日本書紀』の王暦は原則として王の即位の翌年を元年とする記述で整理されている[4]。ただし『日本書紀』は後世に編纂されたもので各王の時にどのような紀年法だったかは別問題である[4]。
『日本書紀』の王暦は前王の崩御と同じ年に即位したか翌年に即位したかにかかわらず原則として即位の翌年を元年とする記述で整理されている[4]。例外的に孝徳天皇と文武天皇の王暦は即位年が元年となっているが、いずれも譲位により即位した例で、諒闇即位の時は翌年を元年とし、譲位即位の時は同年を元年としている[4]。『日本書紀』の王暦における即位翌年に改元する越年称元(踰年称元)は那珂通世によって指摘された[4]。元号制度が確立されてからも即位翌年に改元する踰年改元の例は江戸時代までみられた[4]。
飛鳥時代 〜 江戸時代
一般には「大化」が日本最初の元号とされている。
元号制度が安定的にみられるのは文武天皇5年(701年)に「大宝」と建元してからで、以降、独自の元号制度が展開されている[4]。飛鳥時代の「大宝」から江戸時代末期の「慶応」までは一代の天皇の間に複数回改元しうる制度であった[4]。
平安時代末期、源頼朝は、寿永二年十月宣旨によって朝敵認定を赦免され東国支配権を認められるまで、養和ついで寿永への改元をいずれも認めず、それ以前の治承の年号を使い続けるなど、元号は強い政治性を帯びていた。
南北朝時代には、持明院統(北朝)、大覚寺統(南朝)が独自に元号を制定したため、元徳3年/元弘元年(1331年)から元中9年/明徳3年(1392年)まで2つの元号が並存した[12](建武元年、同2年は、南北共通)。
室町時代には、朝廷が定めた新元号を、将軍が吉書として総覧して花押を据える「吉書始」と呼ばれる儀式で改元を宣言して、武家の間で使用されるようになった。そのため元号選定には武家の影響力は強いものであった。特に足利3代将軍の義満以降、改元に幕府の影響が強まった。一方で京都の室町幕府と対立した鎌倉府が改元を認めずに反抗するという事態も生じた。また応仁の乱などで朝廷と幕府が乱れると朝廷による改元と幕府の「吉書始」の間が開くようになり、新・元号と旧・元号が使用される混乱も見られた。
戦国時代末期、織田信長は元亀4年7月、将軍足利義昭を京都から追放した直後に元亀から天正への改元を主導し、織田政権の開始を象徴する出来事となった。
江戸時代に入ると幕府によって出された禁中並公家諸法度第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし。但し重ねて習礼相熟むにおいては、本朝先規の作法たるべき事(中国の元号の中から良いものを選べ。ただし、今後習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである)」とされ、徳川幕府が元号決定に介入することになった。また、改元後の新元号を実際に施行する権限は江戸幕府が有しており、朝廷から連絡を受けた幕府が大名・旗本を集めて改元の事実を告げた日(公達日)より施行されることになっていた。これは朝廷のある京都においても同様であり、朝廷が江戸の幕府に改元の正式な通知をして、幕府が江戸城で諸大名らに公達を行い、江戸から派遣された幕府の使者が京都町奉行に改元の公達を行い、町奉行が改元の町触を行った後で初めて施行されるものとされた。京都の役人や民衆はたとえ改元の事実を知っていても、町触が出される前に新元号を使うことは禁じられていた[13]。 広く庶民にも年号が伝わるようになったのは、江戸時代になってからのことである[14]。
江戸時代まで元号は一代の天皇の間に複数回改元しうるもので後世になるほど祥瑞や辛酉年での改元が増えた[4]。即位改元では9世紀以降は践祚の翌年に改元する踰年改元、江戸時代には即位儀の翌年に改元するのが通例であった(ただし中国のように改元の月は正月に固定されなかった)[4]。また、南北朝以後から江戸時代前半期にかけて即位改元が実施されなかった例がいくつかある(後水尾天皇の御世に改元された「寛永」は明正天皇が即位しても改元されなかった例など)[4]。
明治時代以後
慶応以前は、在位した天皇の交代時以外にも随意に改元(吉事の際の祥瑞改元、大規模な自然災害や戦乱などが発生した時の災異改元など)していた。しかし、戊辰戦争の結果として全国政府の座を奪取した明治政府は、明治に改元した時に一世一元の詔を発布し、明治以後は、現在に至る、新天皇の即位時に限定して改元する「一世一元の制」に変更された。これにより、辛酉改元や甲子改元も廃止された。さらに、1872年(明治5年)には、西洋に合わせて太陽暦(グレゴリオ暦)へと移行することになり、「旧暦(太陰太陽暦)に代わる暦として永久にこれを採用する」との太政官布告により採用された[15](詳細は「グレゴリオ暦#日本におけるグレゴリオ暦導入」を参照)。それに伴い、元号や干支、神武天皇即位紀元(皇紀、神武暦)[注 3]に加えて、キリスト紀元(西暦、西紀)の使用も始まったが、第二次世界大戦時には西暦はむしろ敵性語扱いされた節もあった。その後、太陽暦に移行しても、1910年代までは旧来の太陰太陽暦(天保暦)での暦が併記されていたように、年数を数えるにおいて民衆には浸透しづらかった側面もある。そして、1889年(明治22年)に公布された旧皇室典範と1909年(明治42年)に公布された登極令(皇室令の一部)に「(天皇の)践祚後は直ちに元号を改める」と規定され、元号の法的根拠が生じた。
第二次世界大戦敗戦後に、日本国憲法制定に伴う皇室典範の改正をもって、元号の法的根拠は一時消失した。しかし慣例という形で、官民を問わず「昭和」の元号が使用され続けた。だが、第二次世界大戦終結の翌年に当たる1946年(昭和21年)1月には、尾崎行雄が帝国議会衆議院議長に改元の意見書を提出した。この意見書において、尾崎は、第二次世界大戦で敗れた1945年(昭和20年)限りで「昭和」の元号を廃止して、1946年(昭和21年)をもって「新日本」の元年として、1946年(昭和21年)以後は無限の「新日本N年」の表記を用いるべきだと主張した。これに対して、石橋湛山は、『東洋経済新報』1946年(昭和21年)1月12日号のコラム「顕正義」において、「元号の廃止」と「西暦の使用」を主張した。1950年(昭和25年)2月下旬になると、国会参議院で「元号の廃止」が議題に上がった。ここで東京大学教授の坂本太郎は、元号の使用は「独立国の象徴」であり、「西暦の何世紀というような機械的な時代の区画などよりは、遙かに意義の深いものを持って」いる上、更に「大化の改新であるとか建武中興であるとか明治維新」という名称をなし、「日本歴史、日本文化と緊密に結合し」ていることは今後も同様であるため、便利な元号を「廃止する必要は全然認められない」一方で「存続しなければならん意義が沢山に存在する」と熱弁をふるった[16]。さらに1950年(昭和25年)5月、日本学術会議は吉田首相あてに「天皇統治を端的にあらわした元号は民主国家にふさわしくない」として、元号の廃止と西暦の採用を申し入れる決議を行った[17]。
1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発すると、元号の議題は棚上げされた。以来、元号の廃止や新たな元号に関する議論は低調にとどまることとなる。その後、1979年(昭和54年)に元号法が制定され、議論は事実上終結した。これは昭和天皇の高齢化と、1976年(昭和51年)当時の世論調査で国民の87.5%が元号を使用している実態[18]に鑑みたものである。元号法では「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」と定められ、明治以来の「一世一元の制」が維持された。ここで再び元号の法的根拠が生まれ、現在に至るまで元号と西暦の双方が使用され続けることとなる。ただし、皇紀(神武天皇即位紀元)に関しては現在、(文化的な場での使用を除き)公文書にて使用されていない。
最も期間の長い元号と短い元号
日本の元号で最も期間の長い元号は「昭和」の62年と14日。最も期間の短い元号は「暦仁」の2か月と14日である。昭和は日本だけでなく、元号を用いていた全ての国の元号の中でも最も長い元号である。
年数で最も長い元号も「昭和」で、64年まである。逆に元年だけしか使われなかった元号は「朱鳥」と「天平感宝」がある。暦仁は期間内に元日を挟んでいるため2年まである。
元号使用の現状
日本において、元号は1979年制定の「元号法」(昭和54年法律第43号)によってその存在が定義されており、法的根拠があるが、その使用に関しては基本的に各々の自由で、私文書などで使用しなくても罰条などはない。一方で、西暦には元号法のような法律による何かしらの規定は存在しない(法令以外では日本産業規格[注 4]に見られるような公的な定義例がある)。なお、元号法制定にかかる国会審議で「元号法は、その使用を国民に義務付けるものではない」との政府答弁があり[注 5]、法制定後、多くの役所で国民に元号の使用を強制しないよう注意を喚起する通達が出されている。また、元号法は「元号は政令で定める事」「元号は皇位の継承があった場合に限り改める事(一世一元の制)」を定めているにすぎず、公文書などにおいて元号の使用を規定するものではない。しかしながら、公文書の書式においては生年などを記載する際、西暦を選択しまたは記載するためのスペースはほとんど設けられていない。そのため、日本共産党などは、事実上西暦が否定されており「元号を使わなければ受理しないなど、元号の使用が強制されているのは不当」であると主張している[19]。同様に、キリスト教原理主義者団体などは「元号の使用を強制し西暦の使用を禁止するのは、天皇を支持するか否かを調べる現代の踏み絵である」と主張している[20]。
国(日本国政府)、地方公共団体などの公文書ではほとんど元号が用いられる。ただし、ウェブサイトについては本文は元号を使用していても最終更新日やファイル名などは西暦を使用していることもある。また、官公庁の中長期計画の名称など、キャッチフレーズとして年を印象付けさせる場合は、西暦が用いられることが多い[21][22]。国において西暦が使用されている具体例には以下のものがある。
- 2002年(平成14年)制定の気象測器検定規則(平成14年3月26日国土交通省令第25号)に定められた気象機器の検定証印の年表示[注 6]など、西暦を使用するよう規定した法令も少数ながら存在する。
- 旅券(パスポート)は日本国外でも用いられるため、名義人の生年が西暦で記載されている。
- 個人番号カード(マイナンバーカード)やかつて発行されていた住民基本台帳カードは、有効期限が西暦で表記されている。個人番号カードの生年月日は日本国籍者については元号で、日本以外の国籍を有する者については西暦で表記されている[24]。また法務大臣が日本以外の国籍を持つ人に交付する在留カードや特別永住者証明書は、券面に記載されている年号は全て西暦で記載されている[25][26]。
- 都道府県公安委員会が発行する運転免許証は所持者の生年月日、交付年月日、有効期限年月日、各3種類(自動二輪車・小型特殊自動車・原動機付自転車、その他、第二種)の免許取得年月日の全てが元号のみで表記されている。なお、2018年(平成30年)8月6日から同年9月4日まで、運転免許証の有効期限年を西暦表記に変更するための表示の見直し等の「道路交通法施行規則の一部を改正する内閣府令案」に係るパブリックコメントが実施され[27]、その結果2019年(平成31年)3月末頃から順次、有効期限の西暦の後に括弧書きで元号を表示することに決まった[28]。
- 特許庁が発行する公開特許公報等の工業所有権公報は、「平成22年1月1日(2010年(平成22年)1月1日)」の形で元号表記と西暦表記の日付を併記している[30]。また、特許の出願番号等も「特許2000-123456」のように「西暦年 + 6桁の通番」の形式とされている[31]。これは、日本以外での利用を考慮したためで、世界知的所有権機関が定める標準に準じて行われている[32]。
- 2018年(平成30年)3月30日の改正により、計量法に基づく計量法施行規則(平成5年通商産業省令第69号)第15条に規定する修理年、並びに食品店等の質量計、燃料油メーター、タクシーメーター等が対象である特定計量器検定検査規則(平成5年通商産業省令第70号)第28条の3及び第56条に定める検定証印の年表示を西暦に限定した。但し2018年(平成30年)12月31日までは経過措置として従前の元号表示も可としている[33]。
- 食品表示法に基づく食品表示基準(平成27年内閣府令第10号)に係る通知「食品表示基準について」(平成30年7月10日消食表第375号)の「(加工食品)」1-(3)-⑤に定める消費期限又は賞味期限表示例では元号との選択可として西暦の表示例も明記されている[34]。
- 2018年(平成30年)6月15日に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針2018」(骨太方針)において、表紙の日付、「平成n年度税制改正」等の名称中に含まれるもの、及び脚注の出典制定日を除外すると、64ページの「平成31年」1箇所を除き、過去未来共に西暦のみの表記となっている[35]。
日本国内において西暦の併用が増加したのは、1964年(昭和39年)の東京夏季オリンピックに向けてのキャンペーンを経た後である。皇室典範改正により元号が法的根拠を失った後も、東京オリンピックのキャンペーンが始まる前までは、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効に伴う独立・主権回復以後も、米国による統治下に置かれ日本から切り離された沖縄と小笠原諸島、千島列島を除き、前述の背景により元号のみが常用されていた。とはいえ、1976年(昭和51年)に行われた元号に関する世論調査では、「国民の87.5%が元号を主に使用している」と回答しており、「併用」は7.1%、「西暦のみを使用」はわずか2.5%であった。元号が昭和から平成に変わると、「西暦を併用する人」「西暦を主に使用する人」も次第に多くなってきた。殊に21世紀に入った今日ではインターネットの普及などもあり、日常において「元号より西暦が主に使用されるケース」は格段に増えているため、元号では「今年が何年なのか判らない」「過去の出来事の把握が難しい」という人の割合も多くなってきている[36]。
報道機関では『朝日新聞』が1976年(昭和51年)1月1日に、『毎日新聞』が1978年(昭和53年)1月1日に、『読売新聞』が1988年(昭和63年)1月1日に、『日本経済新聞』が1988年(昭和63年)9月23日に、『中日新聞』『東京新聞』が1988年(昭和63年)12月1日に、日付欄の表記を「元号(西暦)」から「西暦(元号)」に改めた。それでも昭和年間の末期には、未来の予測(会計年度など)を「(昭和)70年度末」といった表記をすることが多かった。1989年(平成元年)1月8日の平成改元以降、その他の各報道機関も本文中は原則として西暦記載、日付欄は「2012年(平成24年)」の様に「西暦(元号)」という順番の記載を行うところが多くなった。『産経新聞』[注 7]や『東京スポーツ』、一部の地方紙[注 8]、NHKの国内ニュースのように本文中は原則元号記載、日付欄は「平成29年(2017年)」の様に「元号(西暦)」という順番の記載を行っている報道機関もある。日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』は平成改元以降、日付欄の元号併記を取りやめ西暦表記のみに変更していたが、2017年(平成29年)4月1日より元号を併記する「西暦(元号)」表記に改めた(本文中は引き続き西暦表記のみ)[37][38][39]。
企業の決算や有報など社外向け資料、鉄道などの乗車券、金融機関の預金通帳なども、以前は和暦表記(元号の年部分表記)が主流であったが、2019年の改元を前に、西暦表記に改める動きもみられる[40][41][42]。
切手における元号
日本で発行されている切手には元号および西暦で発行年が記載されている。ただし歴史的にみれば大きな変遷がある。なお、記念切手には万国郵便連合(UPU)によって原則として西暦で発行年を入れるように規定されている。
日本の切手で発行年が入るものに記念切手があるが、記念切手の印面に戦前までは元号が入る場合と全くない場合が混在していた。ただし国立公園切手の小型シートには皇紀(西暦)とアラビア数字で記入されたものがある。戦後、発行された記念切手には「昭和二十二年」といったように漢数字で表記されていたが、経緯は不明であるが1949年(昭和24年)頃から西暦のみで表記されるようになった。ただし、年賀切手の中に一部例外があるほか、皇室の慶事に関する記念切手は元号のみの表示の場合があった。また年賀小型シートなどには「お年玉郵便切手昭和三十一年」といった元号による表記があるほか、切手シートの余白には元号で発行年月日が入っていたが、1960年(昭和35年)頃からなくなった。
1979年(昭和54年)に施行された元号法による政策のためか、1979年(昭和54年)7月14日に発行された「検疫制度100年記念切手」から西暦と元号で併記されるようになった。ただし、毎年発行される国際文通週間記念切手については西暦しか表記されていない。また切手シートの余白に1995年(平成7年)頃から「H10.7.23」というローマ字による発行年月日が、さらに2000年(平成12年)からは「平成12年7月23日」という元号表記が入るようになった。なお、令和に改元された2019年(令和元年)5月から9月までは切手面・余白の発行年月日ともに西暦のみの表記で、令和の使用は10月からとなっている。
なお、世界的に見ると切手に記入される年号としては西暦のほかには仏滅紀元、イスラム暦、北朝鮮の主体暦、中華民国(台湾)の民国紀元などがある
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1957年(昭和32年)に発行された製鉄100年記念切手。西暦のみの表記である。
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1958年(昭和33年)お年玉年賀切手の表記のある小型シート。切手には西暦のみの表記であるが、小型シートの余白は元号のみの表記である。
元号と商標
日本においては、元号としてのみ認識される商標(例えば「平成」)は、識別力がないとされ商標登録を受けることはできない。また、元号と普通名称等の識別力のない文字(例えば饅頭についての「まんじゅう」)とを組み合わせた商標(例えば「平成まんじゅう」)等も、同様に商標登録を受けることはできない。
ただし、その商標を使用し続けたことによって、識別力が生じた場合(例えば「平成まんじゅう」という商標を長年使い続けた結果、だれもが「平成まんじゅう」といえばその饅頭のことだと分かるようになった場合)には商標登録される場合もある[43]としており、実際に食品会社の「明治[44]」や「大正製薬[45]」は商標登録されている。
特許庁では、以前から旧・元号も現行の元号と同様に取り扱われるとの解釈であったが、商標登録できないのは現・元号に限られ、旧・元号は商標登録できる(例えば改元後には「平成」も商標登録できる)とも解釈される可能性があり、実際にそのような報道もなされていた[46][47]。そのため、特許庁では2019年(平成31年)1月30日に審査基準の改訂を行い、現元号以外の元号(旧・元号や改元前に公表された新・元号)も原則、登録を認めないことを明確化した[43][48][49]。
元号使用のメリット・デメリット
元号使用のメリットとしては、以下の様な物がある。
- 年齢や国籍詐称などの確認(今年が元号で何年かは覚えていなくとも、自分の生まれ年の元号については覚えている事が多いため。)
- 「昭和の大合併」や「平成の大合併」など、歴史的な出来事を表現する場合には、名詞である元号の方が区別しやすい。
一方、デメリットとしては、以下の様な物がある。
- 西暦には終わりがなく、紀年数は常に変わらないが、元号には終わりがあり、いつかは変更される。明治維新前は大事件や政権を担う征夷大将軍の都合などで幾度となく変更され、明治維新後は新天皇の即位(天皇の崩御または生前退位による次期皇位継承者への譲位)によって変更されている。このため、例えば「平成40年」(西暦2028年)のような遠い未来の紀年を正確に表現できない[注 9]。
- 元年より前の過去を表現する場合、西暦では「紀元前N年」という形で表現できるが、元号には「紀元前」の概念が設けられていない。このため、例えば「明治前28年」(西暦1840年。実際は天保11年)という過去の紀年を正確に表現できない。そして、元号そのものが施行される前の過去は、もはや表現できない。
- 日本独自の紀年であり、国外では通用しないため、外国人には理解されにくい。日本国内でも、元号ではなく西暦で時期を覚えている人には、同様の問題が生じる[55]。
- 西暦では1年に対する紀年数が常に1対1の関係にあるのに対し、日本の元号制度では「立年改元」ではなく「即日改元」を採用しているため、1つの西暦年に対して複数の元号(1860年 = 安政7年/万延元年。1912年 = 明治45年/大正元年、1926年 = 大正15年/昭和元年、1989年 = 昭和64年/平成元年、2019年 = 平成31年/令和元年)が混在する例や、翌月が新しい元号の「元年」ではなく「2年」になる例が発生する。
- 元号が変更される度に、各種印刷物記載の旧・元号を新・元号に修正する作業のための、余計な時間と費用を発生させる。また修正が困難である(一度公に出回ったもので回収や再配布にコストがかかるもの)か修正に時間がかかる[注 10]ため古い元号の使用を続けざるを得ない場合があり混乱の元となる。
- 元号が異なる2つの年の前後関係を判別するには、元号の順序を記憶していなければならない。また、元号が異なる2つの年の間隔を計算するには、西暦などの無限の紀年法に換算するか、元号の継続年を知っていなければならない(例:明治30年から平成10年まで何年離れているか、というような年数を数えにくい)。特に「和暦表記のみ」と「西暦表記のみ」が混在する場合はさらに混乱しやすい(例:昭和58年から1996年まで何年離れているか、など)。
- 年度の区切りが改元の区切りと一致せず、改元後年度の終了日までの呼称は旧元号による(例えば平成元年3月31日は昭和63年度に属する)ため、混乱を生じやすい。ただし、2019年の令和への改元時の2019年度(2019年4月1日から2020年(令和2年)3月31日まで)の国の予算は改元日以後、「令和元年度予算」として扱うものとされたため、平成31年4月1日から4月30日は新元号の年度である令和元年度に属することとなった[56]。
元号をめぐる事件・出来事
- 歴史上の大正初日は1912年7月30日であるが、この日受付の郵便物(実逓便)には「(明治)45年7月30日」の日付印が押印されている。「(大正)1年」の日付印が押印されたのは翌31日受付の郵便からであるとされている。「(大正)1年7月30日」の日付印が押印された実逓便の存在は確認されていない[57]。
- 「大正16年元旦」(1927年1月1日)に配達される予定であった年賀郵便には「(大正)16年1月1日」の日付印が押印されていたが、1926年(大正15年・昭和元年)末の12月25日に大正天皇が崩御したため、年賀郵便の取扱いそのものが中止になった。ただし、それまでに引き受けていた年賀郵便は年が明けて配達された。訂正の意味で「(昭和)2年1月1日」の日付印が押印されていたものもある[58]。
- 大正から昭和へ改元される際、『東京日日新聞』(現・『毎日新聞』)が新しい元号を「光文」との誤報を流した。→詳細は「光文事件」を参照
- 盗難預金通帳を偽造された保険証で本人確認をして銀行が払い戻しをした過失に対する民事訴訟で、銀行側が保険証の生年月日が「昭和元年6月1日」という存在しない日付(上記のとおり、昭和元年は12月25日からの1週間しかない)なのに気が付かなかった過失があるとして敗訴した事例[59]がある。
- 平成から令和への改元に当たって「改元に乗じた詐欺」が相次いで発生し、被害者まで出た。ほぼ同時期には新・元号の号外を手に入れようと人々が殺到し、怪我人まで現れた。
コンピュータでの処理
元号を採用している日本においても、コンピュータでは元号よりも西暦による処理の方が次の点において便利であるとされる。
- 元号では改元される毎に新元号に換算する処理を追加する必要があるが、西暦ではそれが不要である。ただし、アプリケーションによっては、コンピュータの内部処理として特定の日付を基準とした。例えばExcelでは1900年(明治33年)1月1日を基準日とする。シリアル値で管理しているので、西暦であっても基準日以前を使用する場合は別途計算処理が必要となる。
- 西暦を使用する外国の情報を利用する際に、元号で表記するには、西暦から和暦に換算する処理が必要となる。
- オペレーティングシステムの大半は、ファイル作成日付に見られるように西暦を使用している。
- Unicodeでは、「㍾ (Unicode U+337E)」「㍽ (Unicode U+337D)」「㍼ (Unicode U+337C)」「㍻ (Unicode U+337B)」についてはCJK互換用文字ブロックに合字が準備されており、「㋿(Unicode U+32FF)」にも新たに囲みCJK文字・月ブロックに合字が準備された[60]。これら以外の元号は入っておらず、4つ連続していたUnicodeの前後には別の文字が割り当てられている(U+337Aは㍺、U+337Fは㍿)。
これらの点から、日本でもコンピュータでの処理に際しては内部で西暦を用いているが、ほとんどの公文書(前述の通り、補助的に西暦を併用しているものも存在している)では元号を使用することを始め、一般にも書類事務は元号を用いるというニーズが根強いため、表示や入力に際しては元号を使用できるアプリケーションが多い。これは、特に使用者を限定せず多様な用途が想定されているオフィススイートに顕著である(ExcelやOpenOffice.orgなど多種)。
なお、昭和年間に使用されていたアプリケーションの中には、年を「昭和○○年」として入力し、処理されているものがある。平成以降も、内部的に昭和の続きとして扱うため、1989年(平成元年 = 昭和64年)、1990年(平成2年 = 昭和65年)、1991年(平成3年 = 昭和66年)…として処理される。しかし、3桁になる2025年(令和7年 = 昭和100年)に誤作動が起きる可能性(昭和100年問題)が懸念されている。
Excel 98以前は、2桁で入力した場合は元号優先で処理していた。例えば、「08.03.01」と入力した場合、Excel 98以前のバージョンでは「1996年(平成8年)3月1日」と処理されていた(詳細は「Microsoft Excel#日付の変換問題」を参照)。なお、Excel 2000以降のバージョンでは西暦(この場合、「2008年(平成20年)3月1日」)で処理されるようになっている。
なお、コンピュータにおけるファイル名の先頭部分に元号を用いた場合、単純に文字コードの順序で並べ替えると、利用者の意図しない順序になり、混乱を招くおそれがある。例として、「元治→慶応→明治→大正→昭和→平成→令和」の順序にすべきところが、「慶応→元治→昭和→大正→平成→明治→令和」の順序になる(文字コード「シフトJIS」の昇順で並べ替えた場合)。
西暦と元号との変換
元号による日付と西暦との対応表(日本産業規格JIS X 0301:2019)[61]
元号 | 元号による最初の日付及び最後の日付 | 対応する西暦日付 |
---|---|---|
明治 | M01.01.01(注1) | 1868-01-25 |
M01.09.08(太政官令の発令日) | 1868-10-23 | |
M05.12.02(注2) | 1872-12-31 | |
M06.01.01(グレゴリオ暦採用の初日) | 1873-01-01 | |
M45.07.29 | 1912-07-29 | |
大正 | T01.07.30 | 1912-07-30 |
T15.12.24 | 1926-12-24 | |
昭和 | S01.12.25 | 1926-12-25 |
S64.01.07 | 1989-01-07 | |
平成 | H01.01.08 | 1989-01-08 |
H31.04.30 | 2019-04-30 | |
令和 | R01.05.01 | 2019-05-01 |
(注1)明治時代までは、慣例として、元号が変わったとき、その年の1月1日にさかのぼって、その元号の最初の日付としていた。太政官令が発令されたのは明治元年9月8日で,その日付から明治となった。
(注2)M06.01.01より前は、日本は太陰太陽暦が使われていた。したがって、それ以前の元号表記は、この規格の適用範囲外であり、この期間の元号による日付の換算には特別な注意が必要である。
簡易な換算法
西暦年から元号年を簡易に計算する方法として、知りたい年の西暦の紀年数から各元号の元年の前年(0年)の西暦を引いて元号の紀年数を算出する方法がある(逆に、加えると西暦が算出できる)。減算は、下2桁同士でもよい。
- 1867年 = 慶応3年 = 明治0年
- 1878年:78 - 67 = 明治11年
- 明治11年:1867 + 11 = 1878年
- 1967年:1967 - 1867 = 明治100年
- 「明治100年」の式典は 1968年(昭和43年)の10月23日に行われた。
- 1911年 = 明治44年 = 大正0年
- 1919年:19 - 11 = 大正 8年
- 1925年 = 大正14年 = 昭和0年
- 1947年:47 - 25 = 昭和22年
- 昭和63年:1925 + 63 = 1988年
- 昭和は西暦と下1桁が5ずれているので、比較的数えやすい。
- 1988年 = 昭和63年 = 平成0年
- 1990年:90 - 88 = 平成2年
- 1999年:99 - 88 = 平成11年
- 2008年:108 - 88 = 平成20年
- 西暦に12を足して下2桁を読むことで、平成年を算出することもできる。
- 2018年 = 平成30年 = 令和0年
- 西暦から18を引いて下2桁を読むことで、令和年を算出することができる。
元号一覧
脚注
注釈
- ^ このほか、日本では室町幕府と対立した古河公方足利成氏が改元を無視して以前の元号を使い続けたという例もある。ただし改元詔書を室町幕府方の関東管領上杉氏のみに下したとの説もある。詳細は「享徳」を参照。
- ^ 元号法に定める元号の選定について、第1次大平内閣(大平正芳首相)が具体的な要領を定めている(昭和54年10月23日閣議報告)。この要領では留意すべきことの一つとして「漢字2文字であること」としている。
- ^ 1840年代から1860年代にかけては、藤田東湖など国学者が皇紀を用いていた。
- ^ 情報における日時データ形式を規定する JIS X 0301 においては国際規格 ISO 8601 に準じて、西暦年をメートル条約の調印年を「1875」年としてこの起点から年の値を増減両方向に定義する紀年法として定めている。
- ^ 元号法案(趣旨説明)での答弁(参議院会議録情報 第087回国会 本会議 第13号、1979年(昭和54年)4月27日)を以下に抜粋する。
- 国務大臣(三原朝雄君):(中略)次に、本法案が制定をされた後において、公の機関の手続あるいは届け出等において強制的な措置がとられるのではないか、現在でもそういうのが見られるがという御指摘でございました。御承知のように、私ども、本法案が制定されますれば、公的な機関の手続なりあるいは届け出等に対しましては、行政の統一的な事務処理上ひとつ元号でお届けを願いたいという協力方はお願いをいたします。しかし、たって自分は西暦でいきたいという方につきましては、今日までと同様に、併用で、自由な立場で届け出を願ってもこれを受理すると、そういう考えでおるわけでございます。
- 国務大臣(古井喜実君):法務に関する部分についてお答えを申し上げます。従来、戸籍などの諸届けの用紙に、不動文字で「昭和」と、こういうことを刷り込んでおることは事実でございます。これは申請者に便宜を与える、便宜を図るというだけの趣旨のものでございまして、強制するとか拘束するとかという趣旨ではございません。新しい元号法が施行されるといたしまして、その場合、この辺につきましては誤解が起こらぬように、強制する、拘束するものではないという趣旨を十分徹底して、行き違いがないようにいたしたいと思っております。
- 国務大臣(渋谷直蔵君):私に対する質問は二問ございますが、一つは、ただいま法務大臣からも御答弁がありましたように、市町村における戸籍上の届け出、住民登録、印鑑登録など、現在法的根拠がないにもかかわらず強制しておるのではないかと、こういう御質問でございます。現在の住民基本台帳、それから印鑑登録のそれらの様式は、いずれもこれは市町村が自主的な判断で定めておるわけでございますが、一般に元号が使用されておりますけれども、これはもう御承知のように、従来からの慣行によって行われ、協力を求めておる、強制するというものでないことは言うまでもございません。このことによって別に不都合なことは生じておらないと考えております。
- ^ 13条2項で、検定証印の数字を「西暦年数の十位以下を表すものとする」と定めている[23]。
- ^ 産業経済新聞社が発行する産経新聞は国内の記事に関して一貫して元号表記のみを行っており、同社が発行する『サンケイスポーツ』も原則元号表記のみとなっている(ただし、産経新聞の記事を配信するウェブサイト「産経ニュース」では、トップページの今日の日付は「2010(平成22)年04月04日」、個々の記事タイトルの下にある配信日時は「2010.4.4 02:04」、記事の本文中では「平成22年」のように不統一が見受けられる)。また同社が発行する新聞では夕刊フジもかつては同様であったが、2007年(平成19年)2月1日より原則西暦表記に変更している。さらに、同社が発行するタブロイド版日刊紙『SANKEI EXPRESS』は西暦を主に使用するなど、新聞によって方針が異なっている。
- ^ 『河北新報』『静岡新聞』『熊本日日新聞』など。
- ^ 昭和年間には、行政庁の政策計画に「昭和7n年」(昭和70年代)なるものまで存在した例や、荒俣宏の小説『帝都物語』に「昭和73年」(1998年、実際の元号は平成10年)の用例がある。また、運転免許証の有効年月日が「昭和66年」(当時は3年有効のみ)という存在しなくなった年度のものを使用していた者も当時は少なくなかった。より極端な例では「昭和230年」(西暦2155年)と表記したものも見られた[50]。2018年(平成30年)現在においても、例えば復興特別所得税が「平成49年」(西暦2037年)まで徴収されるという表記が見られる[51]ほか、公文書の保存期限に「平成61年」(西暦2049年)などという表記も行われている例もある[52]。なお、平成3桁の年では、「平成122年」(西暦2110年)[53]、「平成222年」(西暦2210年)[54]などという表記が見られるものの、昭和230年などの例と異なり、西暦を併記している場合がほとんどである。
- ^ 1989年に発行された硬貨がこの例に当てはまる。昭和天皇が崩御した直後も、「平成元年」の金型ができ上がるまでの期間は、刻印の製作が完了していなかった50円と100円硬貨以外の額面の硬貨は「昭和64年」の刻印で発行された。また平成最初の日である1989年(平成元年)1月8日が日曜日であり、新聞社によってはあらかじめ印刷されていた日曜版を後日配達したため、その日付が「昭和64年1月8日」という存在しない日になった。
出典
- ^ 所功、久禮旦雄、吉野健一郎『元号 年号から読み解く日本史』(文春新書)
- ^ 昭和64年1月7日法務省民2第20号法務局長,地方法務局長あて民事局長通達 改元に伴う戸籍事務の取扱いについて
参考:元号の変わり目(史料編) - 略本雑記(2007.10) - ^ 同音異字で再使用された例は数度みられる(例として「しょうわ」が上げられる。鎌倉時代に『正和』が使用され、後に『昭和』として近現代で再使用された)。
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- ^ 元号を改める政令等について
- ^ 「収友たちの宴会談義 番外編 郵便史コレクションの大正改元は7月31日であった、とすべきでしょう」『郵趣』(日本郵趣協会)1995年(平成7年)4月号、82頁。
- ^ 「私の好きなこのマテリアル 大正16年1月1日の引受印と昭和2年1月1日の到着印の年賀状」『郵趣』1993年8月号、89頁。(「16年1月1日」と「2年1月1日」の日付印が押印されている年賀はがきの写真が掲載)
- ^ 「昭和元年6月1日」ひよっこ支部長の司法書士ブログ(BLOG)、2005年(平成17年)2月23日
- ^ “アドビのフォントが新元号「令和」に対応--2パターンの合字を追加”. CNET Japan. (2019年4月1日) 2019年4月3日閲覧。
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参考文献
- 所功 『日本の年号 揺れ動く<元号>問題の原点』雄山閣、1977年
- 葦津珍彦・村松剛ほか 『元号 いま問われているもの』 日本教文社、1977年
- 瀧川政次郎 『元号考証』 永田書房、1974年、新版1988年
- 歴史と元号研究会 『日本の元号』 新人物往来社文庫、2012年、ISBN 404-6029501
関連項目
- 即位紀元 - 君主の即位を紀元とする紀年法(例:便宜的国教徒禁止法案には「10 Anne」と書かれているが、これは「アン女王即位から10年目」の意である。)
- 君主リスト - 上記の即位紀元を読み解くのに必要な君主の一覧
- 元号一覧
外部リンク
- なぜ日本人は元号を使い続けるのか - iRONNA(2020年(令和2年)11月29日閲覧)