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{{by|2019年}}、「'''ブチ破れ!オレがやる'''」というチームスローガンを提唱。野球解説者時代に契約を結んでいたスポーツニッポン大阪本社発行分紙面での恒例企画(阪神の一軍監督が年始に自筆の書を披露する企画)でも、書道初体験ながらこのスローガンを毛筆でしたためた。さらに、二軍監督時代からの方針に加えて、一軍監督としての「5か条」(①チームの勝利 ②勝利プラス1 ③喜怒哀楽 ④裏方への感謝 ⑤球団とも一体となったチーム作り)を提示。就任後初めて迎えた春季キャンプでは、自分で考える力を選手に植え付けるべく、自主性を重視しながら相応の結果を求める方針を打ち出した<ref>[https://www.sanspo.com/baseball/news/20190203/tig19020313000002-n1.html 阪神・矢野監督、春季キャンプのテーマは自主性 選手に考える力を植え付ける](『[[サンケイスポーツ]]』2019年2月3日付記事)</ref>。レギュラーシーズン中には、試合に敗れてもナイン一同でグラウンドに出て観客に一礼したり、感情を抑えながらインタビューに応じたりするなど、ファンに対する真摯な姿勢を貫徹<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/10/16/kiji/20191016s00001173199000c.html 【矢野阪神 1年目の真実(1)】信念示した敗戦後のインタビューとファンへのあいさつ] スポーツニッポン 2019年10月16日、同月19日閲覧。</ref>。その一方で、味方の選手が活躍した際に満面の笑みでガッツポーズを見せる姿が、「'''矢野ガッツ'''」と呼ばれるようになった<ref>[https://www.daily.co.jp/tigers/2019/05/28/0012371832.shtml G倒で“矢野ガッツ”しまくる!試合中のガッツポーズ愛称決まった「楽しもう」] サンケイスポーツ 2019年5月28日、同年6月3日閲覧。</ref>。実際には、投手陣がチーム防御率で12球団のトップに立つ一方で、野手陣は得点力不足や守備でのミスを随所で露呈。レギュラーシーズンの最終盤まではAクラス入りが危ぶまれていたが、9月30日の最終戦(甲子園)で古巣の中日に3 - 0のスコアで勝利したことによって、レギュラーシーズンの3位と[[2019年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ(CS)]]進出を確定させた。レギュラーシーズンの通算成績は69勝68敗6分(勝率.504)で、阪神の一軍監督が就任1年目でチームをAクラスに導いた事例は、[[吉田義男]]の監督第2期初年に当たる1985年(昭和60年=セ・リーグ優勝)以来34年振り。新人監督が5割以上の最終勝率でAクラスを実現させた事例は1982年(昭和57年=セ・リーグ3位)の[[安藤統男]]以来37年振り<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/10/01/kiji/20191001s00001173098000c.html 阪神 奇跡のCS進出 広島と4厘差 最終戦で大どんでん返し] スポーツニッポン 2019年10月1日、同月19日閲覧。</ref> だが、前年のレギュラーシーズン最下位からAクラス入りに至った事例は、球団史上初めてであった。CSでは、[[横浜DeNAベイスターズ]]とのファーストステージ(横浜)を2勝1敗で突破。第1戦(10月5日)では、CS史上初めて、最大6点差から逆転勝利を収めた。ファイナルステージでは、レギュラーシーズンで大きく負け越したセ・リーグ優勝チームの巨人に1勝を挙げただけで、[[2019年の日本シリーズ|日本シリーズ]]進出を阻まれた。10月17日の[[2019年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|NPBドラフト会議]]では、「高校ビッグ4」と呼ばれた好投手([[奥川恭伸]]・[[佐々木朗希]]・[[西純矢]]・[[及川雅貴]])のうち、奥川への独占交渉権を1巡目の指名重複による抽選で逃したものの、西純矢(この年に[[オリックス・バファローズ]]から移籍した後に一軍公式戦でチームトップの10勝を挙げた[[西勇輝]]の遠縁の親戚)の交渉権を獲得した<ref name="redpants" />(後に入団)。
{{by|2019年}}、「'''ブチ破れ!オレがやる'''」というチームスローガンを提唱。野球解説者時代に契約を結んでいたスポーツニッポン大阪本社発行分紙面での恒例企画(阪神の一軍監督が年始に自筆の書を披露する企画)でも、書道初体験ながらこのスローガンを毛筆でしたためた。さらに、二軍監督時代からの方針に加えて、一軍監督としての「5か条」(①チームの勝利 ②勝利プラス1 ③喜怒哀楽 ④裏方への感謝 ⑤球団とも一体となったチーム作り)を提示。就任後初めて迎えた春季キャンプでは、自分で考える力を選手に植え付けるべく、自主性を重視しながら相応の結果を求める方針を打ち出した<ref>[https://www.sanspo.com/baseball/news/20190203/tig19020313000002-n1.html 阪神・矢野監督、春季キャンプのテーマは自主性 選手に考える力を植え付ける](『[[サンケイスポーツ]]』2019年2月3日付記事)</ref>。レギュラーシーズン中には、試合に敗れてもナイン一同でグラウンドに出て観客に一礼したり、感情を抑えながらインタビューに応じたりするなど、ファンに対する真摯な姿勢を貫徹<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/10/16/kiji/20191016s00001173199000c.html 【矢野阪神 1年目の真実(1)】信念示した敗戦後のインタビューとファンへのあいさつ] スポーツニッポン 2019年10月16日、同月19日閲覧。</ref>。その一方で、味方の選手が活躍した際に満面の笑みでガッツポーズを見せる姿が、「'''矢野ガッツ'''」と呼ばれるようになった<ref>[https://www.daily.co.jp/tigers/2019/05/28/0012371832.shtml G倒で“矢野ガッツ”しまくる!試合中のガッツポーズ愛称決まった「楽しもう」] サンケイスポーツ 2019年5月28日、同年6月3日閲覧。</ref>。実際には、投手陣がチーム防御率で12球団のトップに立つ一方で、野手陣は得点力不足や守備でのミスを随所で露呈。レギュラーシーズンの最終盤まではAクラス入りが危ぶまれていたが、9月30日の最終戦(甲子園)で古巣の中日に3 - 0のスコアで勝利したことによって、レギュラーシーズンの3位と[[2019年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ(CS)]]進出を確定させた。レギュラーシーズンの通算成績は69勝68敗6分(勝率.504)で、阪神の一軍監督が就任1年目でチームをAクラスに導いた事例は、[[吉田義男]]の監督第2期初年に当たる1985年(昭和60年=セ・リーグ優勝)以来34年振り。新人監督が5割以上の最終勝率でAクラスを実現させた事例は1982年(昭和57年=セ・リーグ3位)の[[安藤統男]]以来37年振り<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/10/01/kiji/20191001s00001173098000c.html 阪神 奇跡のCS進出 広島と4厘差 最終戦で大どんでん返し] スポーツニッポン 2019年10月1日、同月19日閲覧。</ref> だが、前年のレギュラーシーズン最下位からAクラス入りに至った事例は、球団史上初めてであった。CSでは、[[横浜DeNAベイスターズ]]とのファーストステージ(横浜)を2勝1敗で突破。第1戦(10月5日)では、CS史上初めて、最大6点差から逆転勝利を収めた。ファイナルステージでは、レギュラーシーズンで大きく負け越したセ・リーグ優勝チームの巨人に1勝を挙げただけで、[[2019年の日本シリーズ|日本シリーズ]]進出を阻まれた。10月17日の[[2019年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|NPBドラフト会議]]では、「高校ビッグ4」と呼ばれた好投手([[奥川恭伸]]・[[佐々木朗希]]・[[西純矢]]・[[及川雅貴]])のうち、奥川への独占交渉権を1巡目の指名重複による抽選で逃したものの、西純矢(この年に[[オリックス・バファローズ]]から移籍した後に一軍公式戦でチームトップの10勝を挙げた[[西勇輝]]の遠縁の親戚)の交渉権を獲得した<ref name="redpants" />(後に入団)。


{{by|2020年}}、「甲子園球場での全国大会に出場した経験のある高卒選手5人(西純矢・[[井上広大]]・及川・[[遠藤成]]・[[藤田健斗]])が一斉に入団」「([[MLB]]から新入団の[[ジャスティン・ボーア]]、[[ジョー・ガンケル]]、[[ジョン・エドワーズ]]、[[KBO]]から新入団の[[ジェリー・サンズ]]、[[福岡ソフトバンクホークス]]から移籍の[[ロベルト・スアレス]]を含む)外国人選手8人を同時に支配下登録」という球団史上初めての陣容を背景に、「楽しむからこそ実力が発揮できる」「笑うことには大きなパワーがある」というニュアンスで、チームスローガンを「'''It's 勝 Time! オレがヤル'''」(ロゴでは「勝」を「笑」と重ね合わせた特殊な文字で表記)に変更<ref>[https://hanshintigers.jp/news/topics/info_6594.html 2020年チームスローガンについて](阪神タイガース2019年11月23日付球団ニュース)</ref>。しかし実際には、年初からの[[新型コロナウイルス感染症の流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染拡大]]をめぐる球団内外の対応に翻弄された末に、巨人のリーグ2連覇を許した。感染拡大の防止を優先したNPBのレギュラーシーズン開幕延期および、セ・リーグのシーズン日程再編成によって「巨人との開幕3連戦から5カード連続でビジターゲームが組まれる」という異例のスタートを強いられたところ、球団では1996年以来24年振りの開幕4カード連続負け越しを記録<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/07/02/kiji/20200702s00001173082000c.html 阪神 96年以来の開幕4カード連続負け越し 貧打に守乱、矢野監督「あれじゃ投手は大変」] スポーツニッポン 2020年7月2日、同月6日閲覧。</ref>。セ・リーグに限ってクライマックスシリーズが開催されないにもかかわらず、夏季の長期ロードでは8年振り、対巨人戦では9年連続のシーズン負け越しを喫した。10月23日の対巨人戦(東京ドーム)に一塁手として起用した[[ジェフリー・マルテ]]が1イニング3失策(公式戦に出場したセ・リーグの一塁手最多記録)を含む1試合4失策(日本プロ野球の公式戦における一塁手の最多記録)を喫するなど、チーム全体でも「暴投や(公式記録の有無にかかわらず)守備・走塁面でのミスが失点に結び付く」という前年からの傾向に歯止めが掛からず<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/column/baseballcountry/news/202009150000329.html 阪神失点の15%ミスの比率高い/里崎チェック] 日刊スポーツ 2020年9月15日、10月24日閲覧</ref>、総失策数は両リーグ最多の85にまで達した。打撃陣では、シーズンの前半に梅野・糸原、中盤に近本・大山・サンズが主に打線を牽引。開幕当初は正三塁手争いでマルテの後塵を拝していた大山は、ボーアの不振やマルテの故障などで4番打者へ返り咲くと、終盤にセ・リーグの本塁打王や打点王を争うほどの進境を見せている。前年終盤の躍進を支えた救援陣からは、[[ラファエル・ドリス]]と[[ピアース・ジョンソン]]をMLBへの復帰、[[島本浩也]]を前年末の左肘手術、[[守屋功輝]]を故障で欠いたうえに、開幕前から調子が上がらなかったクローザーの藤川がシーズン中の9月に現役引退を表明。セットアッパー候補のエドワーズも右肩のコンディション不良で開幕早々に戦線を離脱したため、先発での起用を想定していたスアレスを前半戦の途中からクローザー、前半戦に先発で勝ち星が伸びなかった藤浪や[[岩貞祐太]]を後半戦から中継ぎへ転向させた。先発陣では、入団3年目の[[橋遥人]]が左のエース格に成長したほか、開幕投手の西勇輝が前年に続いて(オリックス時代を含めれば3年連続)、[[秋山拓巳]]が3年振りに2桁勝利をマーク。その一方で、球団はシーズン終盤の10月に、開幕から不振に陥っている[[福留孝介]](この年のNPB現役最年長選手)・[[能見篤史]](NPB現役最年長の左投手)・[[上本博紀]](金本監督時代に選手会長を務めた内野手)に対して、翌2021年の戦力構想から外れていることを通告した(3人とも他球団での現役続行を視野に退団)。このように世代交代を迫られているチーム事情を背景に、高卒2年目の[[小幡竜平]]内野手や、二軍の4番打者としてウエスタン・リーグでトップの本塁打と打点を記録していた井上が一軍の公式戦に相次いでデビュー。小幡については、二塁手や遊撃手としてのスタメン起用も相次いだ。結局、大山は最多本塁打・最多打点のタイトルを僅差で逃したものの、チームは金本監督時代の2017年以来4年振りにシーズンを2位で終了。近本は2年連続でリーグ最多盗塁、スアレスはリーグ最多セーブ投手のタイトルを手中に収めている。
{{by|2020年}}、「甲子園球場での全国大会に出場した経験のある高卒選手5人(西純矢・[[井上広大]]・及川・[[遠藤成]]・[[藤田健斗]])が一斉に入団」「([[MLB]]から新入団の[[ジャスティン・ボーア]]、[[ジョー・ガンケル]]、[[ジョン・エドワーズ]]、[[KBO]]から新入団の[[ジェリー・サンズ]]、[[福岡ソフトバンクホークス]]から移籍の[[ロベルト・スアレス]]を含む)外国人選手8人を同時に支配下登録」という球団史上初めての陣容を背景に、「楽しむからこそ実力が発揮できる」「笑うことには大きなパワーがある」というニュアンスで、チームスローガンを「'''It's 勝 Time! オレがヤル'''」(ロゴでは「勝」を「笑」と重ね合わせた特殊な文字で表記)に変更<ref>[https://hanshintigers.jp/news/topics/info_6594.html 2020年チームスローガンについて](阪神タイガース2019年11月23日付球団ニュース)</ref>。しかし実際には、年初からの[[新型コロナウイルス感染症の流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染拡大]]をめぐる球団内外の対応に翻弄された末に、巨人のリーグ2連覇を許した。感染拡大の防止を優先したNPBのレギュラーシーズン開幕延期および、セ・リーグのシーズン日程再編成によって「巨人との開幕3連戦から5カード連続でビジターゲームが組まれる」という異例のスタートを強いられたところ、球団では1996年以来24年振りの開幕4カード連続負け越しを記録<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/07/02/kiji/20200702s00001173082000c.html 阪神 96年以来の開幕4カード連続負け越し 貧打に守乱、矢野監督「あれじゃ投手は大変」] スポーツニッポン 2020年7月2日、同月6日閲覧。</ref>。セ・リーグに限ってクライマックスシリーズが開催されないにもかかわらず、夏季の長期ロードでは8年振り、対巨人戦では9年連続のシーズン負け越しを喫した。10月23日の対巨人戦(東京ドーム)に一塁手として起用した[[ジェフリー・マルテ]]が1イニング3失策(公式戦に出場したセ・リーグの一塁手最多記録)を含む1試合4失策(日本プロ野球の公式戦における一塁手の最多記録)を喫するなど、チーム全体でも「暴投や(公式記録の有無にかかわらず)守備・走塁面でのミスが失点に結び付く」という前年からの傾向に歯止めが掛からず<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/column/baseballcountry/news/202009150000329.html 阪神失点の15%ミスの比率高い/里崎チェック] 日刊スポーツ 2020年9月15日、10月24日閲覧</ref>、総失策数は両リーグ最多の85にまで達した。打撃陣では、シーズンの前半に梅野・糸原、中盤に近本・大山・サンズが主に打線を牽引。開幕当初は正三塁手争いでマルテの後塵を拝していた大山は、ボーアの不振やマルテの故障などで4番打者へ返り咲くと、終盤にセ・リーグの本塁打王や打点王を争うほどの進境を見せている。前年終盤の躍進を支えた救援陣からは、[[ラファエル・ドリス]]と[[ピアース・ジョンソン]]をMLBへの復帰、[[島本浩也]]を前年末の左肘手術、[[守屋功輝]]を故障で欠いたうえに、開幕前から調子が上がらなかったクローザーの藤川がシーズン中の9月に現役引退を表明。セットアッパー候補のエドワーズも右肩のコンディション不良で開幕早々に戦線を離脱したため、先発での起用を想定していたスアレスを前半戦の途中からクローザー、前半戦に先発で勝ち星が伸びなかった藤浪や[[岩貞祐太]]を後半戦から中継ぎへ転向させた。先発陣では、入団3年目の[[橋遥人]]が左のエース格に成長したほか、開幕投手の西勇輝が前年に続いて(オリックス時代を含めれば3年連続)、[[秋山拓巳]]が3年振りに2桁勝利をマーク。その一方で、球団はシーズン終盤の10月に、開幕から不振に陥っている[[福留孝介]](この年のNPB現役最年長選手)・[[能見篤史]](NPB現役最年長の左投手)・[[上本博紀]](金本監督時代に選手会長を務めた内野手)に対して、翌2021年の戦力構想から外れていることを通告した(3人とも他球団での現役続行を視野に退団)。このように世代交代を迫られているチーム事情を背景に、高卒2年目の[[小幡竜平]]内野手や、二軍の4番打者としてウエスタン・リーグでトップの本塁打と打点を記録していた井上が一軍の公式戦に相次いでデビュー。小幡については、二塁手や遊撃手としてのスタメン起用も相次いだ。結局、大山は最多本塁打・最多打点のタイトルを僅差で逃したものの、チームは金本監督時代の2017年以来4年振りにシーズンを2位で終了。近本は2年連続でリーグ最多盗塁、スアレスはリーグ最多セーブ投手のタイトルを手中に収めている。


なお、2020年には、新型コロナウイルスへの感染がチーム内にも波及。NPBがレギュラーシーズン開幕の延期を決めていた3月下旬には、NPB球団の現役選手として初めて、藤浪・[[伊藤隼太]]・[[長坂拳弥]]に感染が確認された。この事態を受けて、球団では感染防止策の一環として、チーム関係者によるシーズン中の外食の機会・参加人数を制限する内規を定めた。NPBでも同じ球団でポジションが重なる選手同士の会食を禁じることを申し合わせているが、シーズン中の9月下旬には、一軍の名古屋遠征中に球団の許可を得て会食していた[[糸原健斗]](チームキャプテン)・[[陽川尚将]]・岩貞・[[馬場皐輔]]・[[浜地真澄]]やチームスタッフからも感染が確認。保健所や球団が上記選手の「濃厚接触者」と認定した参加者(福留・木浪・セットアッパーの[[岩崎優]]など)を含めて、一軍と二軍の間で総勢19名の選手の入れ替えを余儀なくされた。この時の会食は、参加人数などで上記の内規やNPBの申し合わせに抵触していたため、矢野の一軍監督昇格などに尽力していた球団社長・揚塩健治がシーズン終了後(12月1日付)の引責辞任を表明<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202010090000888.html 道半ば阪神社長辞任「責任者は私」繰り返し収拾願い] 日刊スポーツ 2020年10月9日、同月10日閲覧。</ref>。球団では、会食へ参加した10選手に制裁金を課したうえで、全額を慈善団体へ寄付する方針も打ち出している。当該選手はシーズン終盤の10月から実戦へ復帰したが、同月上旬には、矢野自身も夏場の遠征中に内規を超える大人数での会食に臨んでいたことが一部で報じられた。この報道を受けて、球団では残りシーズンにおける(選手・スタッフを含めた)遠征先の外食を一切禁止しているが、矢野などの会食については不問に付した。会食の場所が(新型コロナウイルスへの感染者数が全国で少ない部類に入る)広島県内で、「監督のチームマネジメントやチーム力の強化に資する」という理由で、球団本部の責任者が会食を事前に許可していたことによる<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/10/13/kiji/20201013s00001173077000c.html 阪神・矢野監督 処分なし 大人数での会食は球団許可「チーム強化に資する内容」] スポーツニッポン 2020年10月13日、同月14日閲覧。</ref>。矢野自身は、一軍監督への就任に際して球団と3年契約を締結しているため、コーチ陣の一部を入れ替えたうえで翌2021年も監督を続投。レギュラーシーズン中の10月26日に開催された[[2020年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|NPBドラフト会議]]の1巡目では、大学球界屈指のスラッガーである[[近畿大学野球部|近畿大学]]の[[佐藤輝明]](阪神の本拠地・兵庫県西宮市出身の内野手)への独占交渉権を、3球団との指名重複に伴う抽選で自ら引き当てた(後に入団)。
なお、2020年には、新型コロナウイルスへの感染がチーム内にも波及。NPBがレギュラーシーズン開幕の延期を決めていた3月下旬には、NPB球団の現役選手として初めて、藤浪・[[伊藤隼太]]・[[長坂拳弥]]に感染が確認された。この事態を受けて、球団では感染防止策の一環として、チーム関係者によるシーズン中の外食の機会・参加人数を制限する内規を定めた。NPBでも同じ球団でポジションが重なる選手同士の会食を禁じることを申し合わせているが、シーズン中の9月下旬には、一軍の名古屋遠征中に球団の許可を得て会食していた[[糸原健斗]](チームキャプテン)・[[陽川尚将]]・岩貞・[[馬場皐輔]]・[[浜地真澄]]やチームスタッフからも感染が確認。保健所や球団が上記選手の「濃厚接触者」と認定した参加者(福留・木浪・セットアッパーの[[岩崎優]]など)を含めて、一軍と二軍の間で総勢19名の選手の入れ替えを余儀なくされた。この時の会食は、参加人数などで上記の内規やNPBの申し合わせに抵触していたため、矢野の一軍監督昇格などに尽力していた球団社長・揚塩健治がシーズン終了後(12月1日付)の引責辞任を表明<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202010090000888.html 道半ば阪神社長辞任「責任者は私」繰り返し収拾願い] 日刊スポーツ 2020年10月9日、同月10日閲覧。</ref>。球団では、会食へ参加した10選手に制裁金を課したうえで、全額を慈善団体へ寄付する方針も打ち出している。当該選手はシーズン終盤の10月から実戦へ復帰したが、同月上旬には、矢野自身も夏場の遠征中に内規を超える大人数での会食に臨んでいたことが一部で報じられた。この報道を受けて、球団では残りシーズンにおける(選手・スタッフを含めた)遠征先の外食を一切禁止しているが、矢野などの会食については不問に付した。会食の場所が(新型コロナウイルスへの感染者数が全国で少ない部類に入る)広島県内で、「監督のチームマネジメントやチーム力の強化に資する」という理由で、球団本部の責任者が会食を事前に許可していたことによる<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/10/13/kiji/20201013s00001173077000c.html 阪神・矢野監督 処分なし 大人数での会食は球団許可「チーム強化に資する内容」] スポーツニッポン 2020年10月13日、同月14日閲覧。</ref>。矢野自身は、一軍監督への就任に際して球団と3年契約を締結しているため、コーチ陣の一部を入れ替えたうえで翌2021年も監督を続投。レギュラーシーズン中の10月26日に開催された[[2020年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|NPBドラフト会議]]の1巡目では、大学球界屈指のスラッガーである[[近畿大学野球部|近畿大学]]の[[佐藤輝明]](阪神の本拠地・兵庫県西宮市出身の内野手)への独占交渉権を、3球団との指名重複に伴う抽選で自ら引き当てた(後に入団)。

2020年11月15日 (日) 22:27時点における版

矢野 燿大(矢野 輝弘)
阪神タイガース 監督 #88
阪神での現役時代
(阪神甲子園球場にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市東住吉区(現:平野区
生年月日 (1968-12-06) 1968年12月6日(55歳)
身長
体重
181 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1990年 ドラフト2位
初出場 1991年8月3日
最終出場 2010年5月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
指導歴
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本代表
五輪 2008年

矢野 燿大(やの あきひろ、本名:矢野 輝弘〈読み同じ〉、1968年12月6日 - )は、大阪府大阪市東住吉区(現:平野区瓜破出身の元プロ野球選手捕手)、指導者解説者評論家。2019年より阪神タイガース一軍監督を務める。右投右打。

中日ドラゴンズを経て、2010年に阪神で現役を引退。2013年11月からは野球日本代表のバッテリーコーチを務めた。2016年に一軍作戦兼バッテリーコーチとして阪神へ復帰[1]2018年には二軍監督を務めた。

経歴

プロ入り前

小学2年生から地元の少年野球チームで野球を始め、当初は遊撃手だったが、チームの捕手がケガをして以降は捕手を務めた。大阪市立瓜破中学校では当時野球部がなく、バスケットボール部に所属していた。

大阪市立桜宮高等学校へ進学し同校の硬式野球部へ入部。矢野は、少年野球時代の活躍を知る当時の監督・伊藤義博によって、1年生からレギュラーに抜擢された。伊藤が1年後に東北福祉大学の硬式野球部監督へ転じてからは、投手以外の全ポジションを経験しつつ、1年後輩の土井善和とバッテリーを組み、打撃ではクリーンナップを担うまでに成長(後述)。3年生の時には主将も務めた。高校通算で3本塁打を記録したものの、春・夏とも甲子園球場での全国大会出場を果たせなかった。

桜宮高校を卒業後は、伊藤のいる東北福祉大学へ進学。高校時代と同じく捕手以外のポジションもこなしていた関係で、1989年には三塁手として大学日本代表に選出された。第18回日米大学野球選手権のメンバーにも入っている[2]。後に阪神でも同僚となる同年齢の金本知憲は、1年浪人の後に矢野の下級生として同大学に入学している。

1990年のNPBドラフト会議では、読売ジャイアンツ中日ドラゴンズから2位で指名。指名の重複に伴う抽選の結果、中日が独占交渉権を獲得したため、4位で指名された東北福祉大学での同級生・吉田太と共に入団。この会議では、同大学から矢野・吉田以外にも、内野手の宮川一彦横浜大洋ホエールズ、投手の小坂勝仁ヤクルトスワローズからそれぞれ指名され、同一大学・学年から4人のプロ野球選手が誕生している。背番号は2[3]

中日時代

1991年、1年目から一軍公式戦へ出場。この年は22試合に出場し、プロ初本塁打も放った。翌1992年は72試合に出場し、打率.259と一定の成績を残した。

1993年からは出番が減り、1993年には24試合、1994年は35試合の出場に留まり、打撃面でも成績を残せなかった。1995年には57試合に出場したものの、同年オフのドラフト会議で1位指名を受けた荒木雅博に背番号2を譲る形で背番号38に変更。

1996年8月11日の対巨人戦では、野口茂樹バッテリーを組んでノーヒットノーランを達成した。また、捕手として一軍に帯同しながら、打撃力の高さを買われて公式戦に外野手として出場することもあった。また、巨人が逆転優勝を決めたナゴヤ球場での最終戦には、1番・中堅手で出場。中日の選手としては同球場の公式戦で最後となる本塁打を放った。56試合の出場で、打率.346、7本塁打、19打点だった。

1997年は中日では最多の83試合に出場した。しかし、オフに大豊泰昭と共に、関川浩一久慈照嘉との交換トレードで阪神へ移籍[4]。背番号は39となった。当初このトレードは中村武志放出の予定で進んでおり、もし実現していれば矢野を正捕手で起用する予定だったと星野仙一監督が後年振り返っている[5]

阪神時代

移籍1年目の1998年は、当時の監督であった吉田義男にリード面を評価され、山田勝彦に代わってすぐに正捕手の座を勝ち取る。5月26日の対中日戦で川尻哲郎をリードして2度目のノーヒットノーランを記録。この試合の対戦投手は中日時代にノーヒットノーランを達成した野口茂樹であった[6]。この年、7月7日の横浜戦でこの日まで無敗で連続セーブ記録を続けていた、当時全盛期(この年のシーズンMVP)の“大魔神”こと佐々木主浩東北福祉大の1年先輩)から、佐々木のその年唯一の敗戦となる逆転サヨナラヒットを記録した。同年はプロ入り初のシーズン100試合出場を果たし、最終的に打率.211と低調だったが110試合に出場した。

1999年、プロ入り9年目にして初めて規定打席に到達し、打率3割を記録した。阪神の捕手で規定打席に達した上での打率3割を記録したのは1979年の若菜嘉晴(打率.301)以来20年ぶりのことであった。

2000年、打率こそ前年を下回ったが正捕手に定着、こちらも若菜以来20年ぶりに2年連続捕手として規定打席に到達した。

2001年、オフ、このシーズン限りで監督を辞任した野村克也の後任として、かつて自らをトレードで放出した星野仙一が阪神監督に就任したことで、「また星野監督に捨てられてしまう」と失望したと後に語っている。

2002年、4月13日の横浜戦での本塁上のクロスプレイ相川亮二のタックルを受けて左肩脱臼。その後も骨折で戦線離脱するなど怪我が多く、好調だったチームも矢野の離脱と共に失速した。

2003年、前年オフに日本ハムファイターズの正捕手だった野口寿浩がトレードで入団。自身のポジションを危ぶまれたが、大学時代のチームメイトで広島東洋カープから移籍してきた金本知憲の影響を受け、強い体作りに着手。シーズンを通してほぼマスクを被り、8番の藤本敦士とともに「恐怖の下位打線」と呼ばれた。MVPは4点差で井川慶に譲ったものの、チーム防御率セントラル・リーグトップの3.53、打撃でも打率.328を記録し、初のベストナインゴールデングラブ賞を獲得。ゴールデングラブ賞は捕手として史上最年長での初受賞であった。同年6月17日の対横浜戦では矢野の打撃直後、一塁走者のジョージ・アリアスが若干遅れてスタートしたため、アリアスの生還よりも早く矢野が三塁に到達し、珍しいサヨナラ三塁打を記録した。

2004年には36歳にして自身初となる全試合出場を達成。しかし、シーズン終盤には捕逸などミスも目立った。また、辻恭彦以来球団史上2人目となる全試合マスクを目指したが、代打出場のみだった試合が1試合あり達成できなかった。

2005年には三振を減らすべく宮本慎也を参考にした打撃フォームに改造。自己最多の19本塁打を放ち、盗塁阻止率も自己最高記録を残す。自身2度目のベストナインとゴールデングラブ賞日本シリーズ敢闘賞を獲得。同年、自身2回目となるFA権を取得し、オフに行使して残留。

2006年には17本塁打を放ち、通算100本塁打を達成。チーム2位の78打点も評価され、2年連続3度目のベストナインにも選出された。

北京五輪での矢野(2008年)

2007年は週に1試合ほど野口寿浩狩野恵輔にスタメンマスクを譲ることが多く、セ・パ交流戦時に右のふくらはぎを痛めたこともあり、一時登録を抹消。打率.236, 6本塁打と打撃不振に終わった。同年オフには北京五輪の野球日本代表に招集され、アジア予選で試合の終盤を任される「抑え捕手」として活躍した。

2008年は野口が岩田稔上園啓史ら若手とバッテリーを組み、矢野は主に安藤優也下柳剛福原忍らと組む併用でスタート。スタメン出場しなかった試合では終盤に代打で出場し、その後抑え藤川球児とバッテリーを組むような起用が多く、2年ぶりに規定打席に到達。夏場には藤川、新井貴浩と共に北京五輪代表に招集された。

2009年は前年オフに手術した右ひじの回復が遅れたため開幕から二軍での調整が続き、7月に一軍昇格した後もスタメン出場は安藤・下柳が先発する試合に限られた。8月16日には41歳の下柳と組んでプロ野球史上初の40代バッテリーでの勝利を達成したが、シーズン終盤に右足首を骨折して再び戦線離脱し30試合の出場に終わった。打撃では100打席未満ながら打率3割、得点圏打率4割超を記録。オフに心機一転の意味を込め、登録名を本名の矢野輝弘から矢野燿大へ変更した。

2010年城島健司の加入もあり、8試合の出場のみだった。6月に右肘の故障で一軍登録を抹消されていたが回復の目処が立たず、9月2日にこのシーズン限りの現役引退を球団に申し入れ、了承された[7]。9月25日の中日との二軍最終戦では同級生の下柳とバッテリーを組み、9回の1イニングを無失点に抑え、試合後の二軍引退セレモニーで阪神と古巣・中日の双方の選手から胴上げされると、「中日での7年間が無ければ僕は無い。野球人生を幸せに送れた。」と感謝を述べ、「一軍も大事な時期だし、機会があればと言う事でしっかり準備はしておきたい!」と自らの一軍での引退セレモニー当日の、一軍最後の試合出場に向けて意気込んだ[8][9][10]。9月30日の横浜戦では、9回二死から出場予定で出場選手登録されていたが、二死になる前に抑え投手の藤川が村田修一に逆転3ランを浴びた為矢野の試合出場は幻となった。試合後、逆転3ランを浴びた藤川を抱き2人で号泣し「これまでお前のおかげでいっぱええ思いさせてもらったよ」と声を掛けた。引退セレモニーでは「最高の野球人生でした。またいつの日か甲子園で会いましょう!」と指導者として帰ってくる事を誓った[11]

現役引退後

2010年11月、スポーツニッポン大阪本社専属野球評論家への就任を発表。2011年1月からは、朝日放送サンテレビ野球解説者としても活動を始め、2月13日にABCテレビが関西ローカルで放送した阪神対ヤクルトの練習試合中継で、事実上の解説者デビューを果たした。朝日放送では、現役時代の2004年から、オフシーズンに同局のラジオ番組『矢野輝弘のどーんと来い!!』(2010年からは『矢野燿大のどーんと来い!!』)のパーソナリティを担当していた。

おはよう朝日です』『NEWSゆう+』『キャスト』(いずれもABCテレビ)で月曜日のスポーツキャスターを務めるかたわら、同局のゴルフラグビーなどのスポーツ中継や、『熱血!タイガース党』(サンテレビ)へ不定期で出演。ABCテレビの全国高等学校野球選手権大会中継でも、不定期で登場している。

2012年の日本プロ野球公式戦期間中に開催されたロンドンオリンピックでは、競技種目に野球が入っていないにもかかわらず、朝日放送を代表して岩本計介アナウンサーとともに現地取材を敢行。金本が現役引退を発表した同年9月12日には、ABCラジオの『ABCフレッシュアップベースボール』で阪神対ヤクルト中継の解説を担当する一方で、試合前に開かれた金本の引退発表記者会見の取材にも携わった。

2011年3月には、自身初の著書『考える虎』が発売された。発売直前に東日本大震災が発生したことを受けて、同書の印税の全額を大学時代を過ごした仙台市を含む、被災地域への義援金として寄付することを表明している。

2014年11月23日、第4回神戸マラソンで自身初のフルマラソンに挑戦した。熱烈な阪神ファンである坂本直子(元天満屋所属、2004年アテネオリンピック・女子マラソン7位入賞)からマラソン指導を受けた結果、3時間55分37秒で完走を果たした。

日本代表指導者時代

2013年、常設されていた野球日本代表(侍ジャパン)の新体制化に伴ってトップチームの新監督に就任した小久保裕紀の下でバッテリーコーチに就任。背番号は、自身の好きな数字(8)や矢野の妻の誕生日(8月8日)にちなんだ88[12]。矢野にとってはプロ・アマを通じて初のコーチ就任であった。

コーチとして、同年11月に台湾で開催された国際強化試合「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」、2014年11月に日本で開催された日米野球2014[13]2015年3月の強化試合「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」[14]、同年11月の第1回WBSCプレミア12[15] に参加した。

プレミア12開催期間中に阪神の一軍コーチ就任を発表したが(後述)、大会期間中は日本代表コーチとしての活動を優先した[16]

阪神指導者時代

一軍作戦兼バッテリーコーチ

2015年10月27日、阪神の一軍作戦兼バッテリーコーチに就任。大学および阪神でのチームメイトだった金本の一軍監督就任(10月17日)を受けての本格的な現場復帰で、背番号は日本代表コーチと同じ88[1][12]

2016年、春季キャンプから捕手陣を「横一線」として競い合わせた末に、二軍生活の長かった岡崎太一に一軍開幕戦のスタメンマスクを初めて任せた。その後は、解説者時代から注目してきた原口文仁や、新人の坂本誠志郎を一軍に抜擢。故障の影響で育成選手契約を結んでいた原口については、4月の支配下再登録を経て、クリーンアップの一角を担う正捕手格の主力選手に育て上げた。

2017年には、その原口を事実上一塁手へ転向させる一方で、2015年の正捕手だった梅野隆太郎に公式戦の開幕から多くの試合でスタメンマスクを任せている。4月4日の対ヤクルト戦(京セラドーム大阪)では、5回表に阪神の先発投手・藤浪晋太郎からヤクルトの畠山和洋への死球をきっかけに生じた乱闘で、ヤクルトのウラディミール・バレンティンと共に審判団から退場を宣告。矢野にとってはコーチ就任後初の退場処分で、翌5日には、バレンティンと共にNPBから厳重注意と制裁金を科された(矢野の制裁金は15万円)。藤浪を守る目的でグラウンド上に出たところ、畠山の死球に激昂したバレンティンに突き倒されたため、ジャンピングニーパッド(跳び蹴り)で応戦したことによる[17][18]

二軍監督

2018年掛布雅之の後任で二軍監督へ就任。監督として初めて臨んだ2018年のウエスタン・リーグ公式戦では、「超積極的」「諦めない」「誰かを喜ばせる」という方針の下で、若手選手に積極的な走塁の意識を植え付けた。チームが勝利した試合では、勝利へ貢献した選手にヒーローインタビューやファンに対するスピーチを必ず体験させた。その結果、前年のシーズンをリーグ最下位で終えたチームを8年振りのリーグ優勝に導く[19] と、ファーム日本選手権を12年振りに制した[20]。ちなみに、ウエスタン・リーグでの最終成績は、115試合で68勝40敗7分。通算勝率は.630で、リーグ内のチーム最多記録であるシーズン163盗塁[20] と、チーム歴代最多記録のシーズン68勝を達成した[21]

一軍監督

2018年の阪神は、二軍が矢野の下で日本選手権を制したのに対して、一軍は球団史上17年振りのリーグ最下位でシーズンを終了。全日程終了直前の10月11日には、金本がこのシーズン限りで一軍監督を辞任することを表明した。この表明を受け、球団は急遽矢野に一軍監督への就任を要請[22]、これを矢野が受諾したことにより[23]、同月18日には、翌2019年から一軍監督へ就任することを正式に発表した。就任に際しては、金本監督時代の方針を継承しながら、二軍監督時代に続いて「超積極的」「諦めない」「誰かを喜ばせる」という姿勢を選手に浸透させることを表明[24]。一軍監督として初めて臨んだ10月25日のNPBドラフト会議1巡目では、藤原恭大辰己涼介への指名重複に伴う抽選で独占交渉権のクジを相次いで外し[25] ながらも、二軍監督時代に大阪ガス硬式野球部との練習試合で対戦した近本光司の指名に漕ぎ着けた。

2019年、「ブチ破れ!オレがやる」というチームスローガンを提唱。野球解説者時代に契約を結んでいたスポーツニッポン大阪本社発行分紙面での恒例企画(阪神の一軍監督が年始に自筆の書を披露する企画)でも、書道初体験ながらこのスローガンを毛筆でしたためた。さらに、二軍監督時代からの方針に加えて、一軍監督としての「5か条」(①チームの勝利 ②勝利プラス1 ③喜怒哀楽 ④裏方への感謝 ⑤球団とも一体となったチーム作り)を提示。就任後初めて迎えた春季キャンプでは、自分で考える力を選手に植え付けるべく、自主性を重視しながら相応の結果を求める方針を打ち出した[26]。レギュラーシーズン中には、試合に敗れてもナイン一同でグラウンドに出て観客に一礼したり、感情を抑えながらインタビューに応じたりするなど、ファンに対する真摯な姿勢を貫徹[27]。その一方で、味方の選手が活躍した際に満面の笑みでガッツポーズを見せる姿が、「矢野ガッツ」と呼ばれるようになった[28]。実際には、投手陣がチーム防御率で12球団のトップに立つ一方で、野手陣は得点力不足や守備でのミスを随所で露呈。レギュラーシーズンの最終盤まではAクラス入りが危ぶまれていたが、9月30日の最終戦(甲子園)で古巣の中日に3 - 0のスコアで勝利したことによって、レギュラーシーズンの3位とクライマックスシリーズ(CS)進出を確定させた。レギュラーシーズンの通算成績は69勝68敗6分(勝率.504)で、阪神の一軍監督が就任1年目でチームをAクラスに導いた事例は、吉田義男の監督第2期初年に当たる1985年(昭和60年=セ・リーグ優勝)以来34年振り。新人監督が5割以上の最終勝率でAクラスを実現させた事例は1982年(昭和57年=セ・リーグ3位)の安藤統男以来37年振り[29] だが、前年のレギュラーシーズン最下位からAクラス入りに至った事例は、球団史上初めてであった。CSでは、横浜DeNAベイスターズとのファーストステージ(横浜)を2勝1敗で突破。第1戦(10月5日)では、CS史上初めて、最大6点差から逆転勝利を収めた。ファイナルステージでは、レギュラーシーズンで大きく負け越したセ・リーグ優勝チームの巨人に1勝を挙げただけで、日本シリーズ進出を阻まれた。10月17日のNPBドラフト会議では、「高校ビッグ4」と呼ばれた好投手(奥川恭伸佐々木朗希西純矢及川雅貴)のうち、奥川への独占交渉権を1巡目の指名重複による抽選で逃したものの、西純矢(この年にオリックス・バファローズから移籍した後に一軍公式戦でチームトップの10勝を挙げた西勇輝の遠縁の親戚)の交渉権を獲得した[30](後に入団)。

2020年、「甲子園球場での全国大会に出場した経験のある高卒選手5人(西純矢・井上広大・及川・遠藤成藤田健斗)が一斉に入団」「(MLBから新入団のジャスティン・ボーアジョー・ガンケルジョン・エドワーズKBOから新入団のジェリー・サンズ福岡ソフトバンクホークスから移籍のロベルト・スアレスを含む)外国人選手8人を同時に支配下登録」という球団史上初めての陣容を背景に、「楽しむからこそ実力が発揮できる」「笑うことには大きなパワーがある」というニュアンスで、チームスローガンを「It's 勝 Time! オレがヤル」(ロゴでは「勝」を「笑」と重ね合わせた特殊な文字で表記)に変更[31]。しかし実際には、年初からの新型コロナウイルス感染拡大をめぐる球団内外の対応に翻弄された末に、巨人のリーグ2連覇を許した。感染拡大の防止を優先したNPBのレギュラーシーズン開幕延期および、セ・リーグのシーズン日程再編成によって「巨人との開幕3連戦から5カード連続でビジターゲームが組まれる」という異例のスタートを強いられたところ、球団では1996年以来24年振りの開幕4カード連続負け越しを記録[32]。セ・リーグに限ってクライマックスシリーズが開催されないにもかかわらず、夏季の長期ロードでは8年振り、対巨人戦では9年連続のシーズン負け越しを喫した。10月23日の対巨人戦(東京ドーム)に一塁手として起用したジェフリー・マルテが1イニング3失策(公式戦に出場したセ・リーグの一塁手最多記録)を含む1試合4失策(日本プロ野球の公式戦における一塁手の最多記録)を喫するなど、チーム全体でも「暴投や(公式記録の有無にかかわらず)守備・走塁面でのミスが失点に結び付く」という前年からの傾向に歯止めが掛からず[33]、総失策数は両リーグ最多の85にまで達した。打撃陣では、シーズンの前半に梅野・糸原、中盤に近本・大山・サンズが主に打線を牽引。開幕当初は正三塁手争いでマルテの後塵を拝していた大山は、ボーアの不振やマルテの故障などで4番打者へ返り咲くと、終盤にセ・リーグの本塁打王や打点王を争うほどの進境を見せている。前年終盤の躍進を支えた救援陣からは、ラファエル・ドリスピアース・ジョンソンをMLBへの復帰、島本浩也を前年末の左肘手術、守屋功輝を故障で欠いたうえに、開幕前から調子が上がらなかったクローザーの藤川がシーズン中の9月に現役引退を表明。セットアッパー候補のエドワーズも右肩のコンディション不良で開幕早々に戦線を離脱したため、先発での起用を想定していたスアレスを前半戦の途中からクローザー、前半戦に先発で勝ち星が伸びなかった藤浪や岩貞祐太を後半戦から中継ぎへ転向させた。先発陣では、入団3年目の髙橋遥人が左のエース格に成長したほか、開幕投手の西勇輝が前年に続いて(オリックス時代を含めれば3年連続)、秋山拓巳が3年振りに2桁勝利をマーク。その一方で、球団はシーズン終盤の10月に、開幕から不振に陥っている福留孝介(この年のNPB現役最年長選手)・能見篤史(NPB現役最年長の左投手)・上本博紀(金本監督時代に選手会長を務めた内野手)に対して、翌2021年の戦力構想から外れていることを通告した(3人とも他球団での現役続行を視野に退団)。このように世代交代を迫られているチーム事情を背景に、高卒2年目の小幡竜平内野手や、二軍の4番打者としてウエスタン・リーグでトップの本塁打と打点を記録していた井上が一軍の公式戦に相次いでデビュー。小幡については、二塁手や遊撃手としてのスタメン起用も相次いだ。結局、大山は最多本塁打・最多打点のタイトルを僅差で逃したものの、チームは金本監督時代の2017年以来4年振りにシーズンを2位で終了。近本は2年連続でリーグ最多盗塁、スアレスはリーグ最多セーブ投手のタイトルを手中に収めている。

なお、2020年には、新型コロナウイルスへの感染がチーム内にも波及。NPBがレギュラーシーズン開幕の延期を決めていた3月下旬には、NPB球団の現役選手として初めて、藤浪・伊藤隼太長坂拳弥に感染が確認された。この事態を受けて、球団では感染防止策の一環として、チーム関係者によるシーズン中の外食の機会・参加人数を制限する内規を定めた。NPBでも同じ球団でポジションが重なる選手同士の会食を禁じることを申し合わせているが、シーズン中の9月下旬には、一軍の名古屋遠征中に球団の許可を得て会食していた糸原健斗(チームキャプテン)・陽川尚将・岩貞・馬場皐輔浜地真澄やチームスタッフからも感染が確認。保健所や球団が上記選手の「濃厚接触者」と認定した参加者(福留・木浪・セットアッパーの岩崎優など)を含めて、一軍と二軍の間で総勢19名の選手の入れ替えを余儀なくされた。この時の会食は、参加人数などで上記の内規やNPBの申し合わせに抵触していたため、矢野の一軍監督昇格などに尽力していた球団社長・揚塩健治がシーズン終了後(12月1日付)の引責辞任を表明[34]。球団では、会食へ参加した10選手に制裁金を課したうえで、全額を慈善団体へ寄付する方針も打ち出している。当該選手はシーズン終盤の10月から実戦へ復帰したが、同月上旬には、矢野自身も夏場の遠征中に内規を超える大人数での会食に臨んでいたことが一部で報じられた。この報道を受けて、球団では残りシーズンにおける(選手・スタッフを含めた)遠征先の外食を一切禁止しているが、矢野などの会食については不問に付した。会食の場所が(新型コロナウイルスへの感染者数が全国で少ない部類に入る)広島県内で、「監督のチームマネジメントやチーム力の強化に資する」という理由で、球団本部の責任者が会食を事前に許可していたことによる[35]。矢野自身は、一軍監督への就任に際して球団と3年契約を締結しているため、コーチ陣の一部を入れ替えたうえで翌2021年も監督を続投。レギュラーシーズン中の10月26日に開催されたNPBドラフト会議の1巡目では、大学球界屈指のスラッガーである近畿大学佐藤輝明(阪神の本拠地・兵庫県西宮市出身の内野手)への独占交渉権を、3球団との指名重複に伴う抽選で自ら引き当てた(後に入団)。

人物

愛称は「テル」、「アキちゃん」など。

読書家で、愛読書は「夢をかなえるゾウ」(水野敬也)や「アドラー心理学」など。阪神での現役時代に星野の前任監督・野村克也から読書を勧められたことをきっかけに、読書の重要性を認識したことから、若手選手にも自主的に考えながら本を読むことを勧めている。阪神の二軍監督へ就任してからのキャンプでは、宿泊先のホテルで朝食を取ってから球場へ出発するまでの1時間を読書に充当。「活字を追い掛けながら頭に入れたことは、他人に話すことで覚えられる」という考え[36] から、読んだ本の内容を、チームミーティングや選手へのアドバイスに反映させることも多い。

大のスイーツ(甘い菓子)好きで、阪神の現役時代後期には、プロ野球シーズン中に甲子園球場内の売店だけで販売されるスイーツのプロデュースも手掛けた(詳細後述)。

桜宮高校硬式野球部時代のコーチに、岡田龍生がいた。岡田は、矢野が卒業した1987年から、履正社高等学校硬式野球部の監督に就任。矢野が阪神の一軍監督へ就任した2019年の第101回全国高等学校野球選手権大会では、4番打者の井上広大が3本塁打を放つなどの活躍を背景に、同部を初めての優勝に導いた。奇しくも阪神は、この年のNPBドラフト会議2巡目で、井上への独占交渉権を獲得。井上が交渉後に入団したことから、矢野は翌2020年10月に、井上をスタメン(右翼手)として一軍の公式戦に出場させた。高校から阪神へ直接入団した後に、スタメンでの一軍公式戦デビューを入団1年目で果たした野手は、同年時点での阪神OB会長で福井県立若狭高等学校出身の川藤幸三1968年遊撃手として出場して以来52年振りである[37]

プロ入りを検討していた当時は、レギュラー捕手が高齢で捕手の層も薄かった地元・阪神タイガースや読売ジャイアンツへの入団を希望していた。それだけに、2歳年上の中村武志がレギュラー捕手として全盛期を迎えていた中日からドラフト会議で指名されたことに不安を感じていたという[38]。後に中日時代の思い出を振り返り「(中村の)存在が大き過ぎて、勝てるとは思えなかった」と、ラジオ番組『スポーツにぴたっと。』で語っている。その中で、2010年に自身が引退する際に、当時中日のコーチに就任していた中村から労われたことに対し「中日時代はどうしても超えられなかった人なので嬉しい」と語り、「幸せな野球人生を送れた」と20年の現役生活を振り返った[8]

ドラフト会議では、司会者だった伊東一雄から名前を「てるひろ」と読み間違えられ、当時中日の監督であった星野仙一から「テル」と呼ばれるようになった。中日では星野から打撃力を評価されていたが、入団4年目(1994年)まで一軍で目立った実績を残せなかった。しかし、東北福祉大から一緒に入団した吉田太が、その年のシーズン終了後に戦力外通告を受けてひっそりと退団したことから一念発起。「自分が辞める時に後悔だけはしたくない」という危機感を抱きながら、正捕手の中村のリードを本格的に研究するなど、自ら率先して練習に励むようになった。さらに、外野手として公式戦に出場する機会を重ねるうちに、捕手というポジションへの思いを強めた。「ボールがいつ飛んでくるか分からない外野手では、一球ごとにサインを考えたり投手にボールを返したりする捕手に比べて、どこか試合に参加してないような気持ちになった」という[38]。解説者に転じてからは、このような下積みの経験を基に、(捕手を含めた)若手野手のプレーや野球へ取り組む姿勢に苦言を呈することが多かった。

技術的にはストレートで追い込んで最後に変化球というタイプの捕手であったと山本昌からは評されている[39]。ちなみに、矢野が一軍監督として指揮する2019年の阪神秋季キャンプでは、中日一筋で現役を終えていた山本を臨時コーチとして招聘した。

中日から阪神へのトレードが決まった際、当時中日の監督であった星野からは何も言葉を掛けてもらえなかったといい、「絶対に星野さんを見返す。中日戦だけには絶対、負けへん」と中日相手には多く死球を要求していた。なお、星野の阪神監督就任後は、気まずい素振りも見せずに星野がよく話しかけてきてくれたため、次第に「星野さんに認められたい。認められるために頑張る」と気持ちが変わっていった[40]

阪神の選手時代には、「優しい」と形容する解説者が多い一方で、「阪神で一番短気」と言われることもあった。現に、退場寸前の乱闘を年に1度のペースで起こしたほか、幼児が駄々をこねるような仕草で審判の判定に不服を示すことも珍しくなかった。前述した2017年の退場処分以外にも、阪神捕手時代の1998年と2006年に、審判への暴力行為で退場処分を受けている。

打てそうで打てなかった(苦手にしていた)投手に、小笠原孝(古巣の中日で活躍した左投手)を挙げていた。

阪神で現役を引退してからは、野球解説者・評論家として活動するかたわら、現役時代からの趣味であるゴルフ関連の番組にもたびたび出演。朝日放送が毎年11月に主催するマイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメントでは、ABCテレビの中継でラウンドリポーターを務めたり、アマチュアのゴルファーとして「マンデートーナメント」に参加したりしている(#関連情報に詳述)。しかし、他のゴルフトーナメントへの出場に向けた練習中に左肘を痛めたことから、2014年5月20日に患部を手術。手術の直後には、左腕を大きなギプスで固定しながら、同局のレギュラー番組への出演を続けていた[41]

現役時代には験を担がなかったが、阪神の一軍監督へ就任してからは、「未来に起こりそうな慶事をあらかじめ祝ってしまうことで現実を引き寄せる」という「予祝」(よしゅく)を実践。毎年の初頭から、チームがリーグ優勝や日本シリーズ制覇を既に達成したかのようなコメントを、報道陣の前で意識的に繰り返している[42]。就任2年目の2020年には、「日本シリーズの制覇を記念してチーム全体でハワイ旅行」という予祝を体現すべく、選手有志(選手会長の糸原健斗など)からの発案による「矢野ハワイ」(現地の挨拶であるアロハポーズにちなんだポーズ)をオープン戦で披露していた[43]。しかし、後に新型コロナウイルス感染拡大の影響で「予祝」どころではない事態(詳細前述)に次々と見舞われたばかりか、「矢野ハワイ」実現への絶対条件である日本シリーズへの出場を2年続けて巨人に阻まれている。

2019年のレギュラーシーズン最終盤には、試合がある日に起床してから球場でユニフォームに着替えるまで赤色のパンツを履くように心掛けていた。奇しくも、この時期にチームは6連勝でレギュラーシーズンを終えたばかりか、前述した最終戦でシーズン3位を確定[44]。その後も、クライマックスステージやドラフト会議など、監督として大事な局面へ臨むたびに赤色のパンツを着用していた[30][45]。このエピソードにちなんで、阪神球団では2020年6月から、矢野の監修による「矢野監督勝負パンツ」(矢野のイラストと阪神球団のロゴを入れた赤色のボクサーブリーフ)を公式グッズとして発売している[46]。もっとも、佐藤輝明への独占交渉権を4球団の指名重複による抽選で引き当てた同年のドラフト会議には、赤色のパンツを履くなどの験を担かずに「自然体」で臨んでいたという[47]

2020年1月13日(月曜日・成人の日)には、兵庫県西宮市成人式式典「二十歳を祝うつどい」が甲子園球場で初めて開催されたことに伴って、同球場スコアボード内の「オーロラビジョン」から式典中に流されるメッセージビデオに阪神のユニフォーム姿で出演。阪神の一軍監督として、新成人に「チャレンジ」を勧めるメッセージを寄せた[48]

選手・著名人との交流

桜宮高校の野球部では、後にお笑い芸人となる河本栄得高山知浩が同級生として在籍しており、高山が3番、矢野が4番を打っていた。高山の前に走者が出ると勝負強い矢野に打席が回るよう、ほぼ毎回高山にバントのサインが出されたと高山が語っている。阪神に在籍していた2005年のシーズンオフには、リーグ優勝記念旅行の模様を放送する特別番組で、高山と2人で漫才に挑んだ。ちなみに、高山からは「アキちゃん」と呼ばれている。

阪神での現役時代には、当時の主力投手陣(藤川、福原、安藤、下柳など)からは絶大な信頼を受けていた。ニューヨーク・ヤンキースへ移籍した井川からも「ヤンキースに来て下さい」と言われたことがある。巨人時代の上原浩治からも、オールスターでバッテリーを組んだ際にブログで「阪神で矢野さんがみんなに好かれる訳がわかった。すごく話しやすいいい人」と評され、2007年12月のアジア予選韓国戦でバッテリーを組み9回裏を三者凡退で抑え勝利した際は、ウイニングボールを上原から直接手渡され、自らのブログで「一生の宝物」と書いた。

阪神時代のチームメイトで奈良県出身の関本賢太郎とも仲が良く、矢野の現役時代には、「必死のパッチ」(「必死で頑張った」という意味の大阪弁)という発言をめぐる丁々発止のやり取りが人気を博した。矢野は、「自分がヒーローインタビューで最初に発した『必死のパッチ』を、翌日のヒーローインタビューで関本が勝手に真似たせいで、いつの間にか球団公認で関本の『必死のパッチ』グッズまで作られた」と主張。ヒーローインタビューや出演番組では、関本に向けて冗談交じりで「『必死のパッチ』を返せ」と迫る一幕もあった。実際には、関本が「必死のパッチ」を使用することを容認しており、矢野が現役を退いた後は、現役後期の関本にとどまらず、自身より後で阪神に入団した西岡剛藤浪晋太郎原口文仁もヒーローインタビューで使用している。その一方で、『おはよう朝日です』では「“必死のパッチ”を(関本に)貸した覚えはない」と応酬している(その前日の試合で、関本はヒーローインタビューにて西岡に対して「“必死のパッチ”は矢野さんに借りている」と発言したため)。また、『キャスト』のスポーツキャスターを務めていた時期には、自身が担当するコーナー「ヤノスポ」で「必死のパッチ賞」を創設。公式ブログで阪神のコーチ就任を報告する際にも、「必死のパッチで頑張って来ます!」という言葉で記事を結んでいる[49]

また、阪神での現役時代には、オフシーズンを中心に関本や福原忍と趣味の釣りに興じていた。日本を代表するバスプロ今江克隆とも親しく、今江が経営している会社IMAKATSUの工場へ足を運んでルアーを作るほどである。なお、そのルアーは、同社ホームページ内のブログなどでたびたび紹介。解説者時代には、スポーツキャスターやラジオパーソナリティとして、野球・釣り以外のスポーツも積極的に取材していた。

阪神の一軍監督就任を機にヘッドコーチとして東北楽天ゴールデンイーグルスから招聘した清水雅治とは、2人とも現役の選手として星野監督時代の中日へ在籍した時期に、同じマンションへ居住。ナゴヤ球場やナゴヤドームで中日のホームゲームを開催する日に、矢野が4歳年上の清水を自家用車に同乗させてから、自身の運転によって一緒に球場へ入るほどの間柄にもあった。現役(外野手)時代に阪神でのプレー経験がない清水は、2002年に西武ライオンズで現役を引退した後も、ユニフォームを脱ぐことなくパ・リーグ4球団(西武・日本ハム・ロッテ・楽天)や野球日本代表で16シーズンにわたってコーチを歴任。2018年のシーズン終了後も楽天野球団から残留の要請を受けていたが、その最中に阪神の一軍監督へ就任した矢野から直々に一軍ヘッドコーチへの就任を要請されたことを機に、阪神への移籍を決めた[50]。2019年のシーズン終了後には、中日時代のチームメイトだった井上一樹も一軍打撃コーチに招聘。2021年シーズンからは、井上が一軍のヘッドコーチ、清水が二軍の野手総合コーチに異動している。

2020年11月10日の阪神対巨人戦(甲子園)終了後に催された藤川の現役引退セレモニーでは、自身の引退以来10年振りに藤川とのバッテリーが実現した。前述した事情で矢野の引退試合が幻に終わったことを背景に、藤川本人が「監督と選手」の立場を越えて1球だけの「ラストピッチング」を提案したことによるもので、矢野は実際に捕手役で藤川の投球を受けた[51]

矢野のファンであることを公言している声優水樹奈々が2006年1月21日に行った日本武道館ライブ(NANA MIZUKI LIVEDOM-BIRTH- AT BUDOKAN)でビデオメッセージとサインボールを送り、2009年に水樹がナビゲーターとして出演していたGAORAの『ぷちトラ!』にて、お礼としてそのライブのDVDをプレゼントされた。また、矢野の地元・関西では、ラジオパーソナリティ桜井一枝も矢野公認のファンとして知られている。

プロデュース・社会貢献活動

2006年から2008年シーズンには、本人プロデュースのオリジナルスイーツ「Yano Chou(矢野シュー)」を甲子園球場の内野席売店で販売。夏季には、シューの中身をアイスに変えていた。2008年9月から現役最終年の2010年シーズンまでは、プロデュースメニューの第2弾「矢野輝弘(燿大)のヘルシーミックスジュース」と、繰り返し使える専用のタンブラーを同様の方法で販売。2006年8月末には、公式サイト限定でオリジナルTシャツを発売した。解説者時代にも、2014年に「矢野燿大のタイガースワッフルボウル」、2015年に「矢野の中華風牛肉弁当」を期間限定で発売している。

2003年からは、筋ジストロフィーを患うファンとも交流。現役最終年の2010年には、筋ジストロフィー患者や児童養護施設で暮らす子供たちへの支援を目的に、社会福祉法人・大阪府社会福祉協議会からの協力で「39(サンキュウ)矢野基金」を設立した。

2011年3月には、あきんどスシローの「応援部長」に就任。同月9日から31日までは、売上の一部を「39矢野基金」への寄付に充てることを目的に、自身のプロデュースによる2種類の寿司メニュー「必死のパッチまき」を近畿2府4県および徳島県の店舗(全103店)で発売していた[52]。同様の趣旨で、同年5月には「39矢野ネクタイ」、2012年3月には「Tシャツ」を公式サイトで販売している。

2015年には、「プロ野球の世界で、20年にわたり一線で活躍してきた矢野燿大だからこそできる恩返し」と称して、矢野が関西各地の少年野球チームを直々に指導する「39ベースボールプロジェクト」を4月から実施。軟式・硬式を問わず、指導を希望するチームを 公式サイト で募った後に、抽選で決まったチームを月に2回のペースで訪れていた。

ちなみに関本は、2015年の現役引退表明を機に、矢野と同じくスポーツビズとの間でマネジメント契約を締結。引退後の2016年からは、矢野と入れ替わる格好で朝日放送の野球解説者・スポーツニッポンの野球評論家を務めるほか、矢野から「39ベースボールプロジェクト」を引き継いでいる。

日本国内における新型コロナウイルスへの感染拡大の影響で、日本高等学校野球連盟(日本高野連)主催の全国大会(甲子園球場を使用する第92回選抜高等学校野球大会第102回全国高等学校野球選手権大会および明石トーカロ球場を使用する第65回全国軟式高等学校野球選手権大会)、男子の硬式選手権大会への出場校を決める地方大会、全国高等学校女子硬式野球連盟主催の第21回全国高等学校女子硬式野球選抜大会第24回全国高等学校女子硬式野球選手権大会第11回全日本女子硬式野球ユース選手権大会全日本女子軟式野球連盟主催の第18回全国高等学校女子軟式野球選手権大会が軒並み中止に追い込まれた2020年には、阪神の一軍監督として、上記連盟への加盟校の硬式・軟式野球部へ所属する3年生の男女部員とマネジャー全員(約5万名)に「甲子園の土キーホルダー」を8月下旬から順次贈呈することをコーチ・選手とともに提案。球場を運営する阪神甲子園球場・阪神園芸の協力を得ながら、キーホルダーに用いる土を6月16日に甲子園球場のグラウンドで直々に採取する[53] など、プレゼントの実現に尽力した[54](8月31日に約4万8,700個のキーホルダーを阪神球団から全加盟校へ発送)[55]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1991 中日 22 30 27 2 3 0 0 1 6 4 0 0 1 0 2 0 0 15 0 .111 .172 .222 .395
1992 72 118 108 10 28 6 0 0 34 8 0 1 0 1 8 0 1 20 3 .259 .314 .315 .628
1993 24 39 31 5 10 0 0 1 13 3 0 0 1 0 6 2 1 4 1 .323 .447 .419 .867
1994 35 53 46 5 10 2 0 1 15 2 0 1 3 0 3 1 1 9 2 .217 .280 .326 .606
1995 57 123 115 14 28 2 2 1 37 5 1 0 0 0 7 1 1 31 5 .243 .293 .322 .614
1996 56 124 104 26 36 3 0 7 60 19 1 0 2 2 13 0 3 16 2 .346 .426 .577 1.003
1997 83 244 214 24 54 8 0 3 71 19 1 0 5 0 22 1 3 32 3 .252 .331 .332 .662
1998 阪神 110 340 285 27 60 18 0 3 87 20 1 2 24 0 27 3 4 63 9 .211 .288 .305 .593
1999 113 418 369 39 112 13 2 3 138 27 5 2 6 2 36 2 5 74 14 .304 .371 .374 .745
2000 114 428 376 41 101 12 1 5 130 26 1 2 9 4 35 4 4 87 9 .269 .334 .346 .680
2001 119 364 327 26 79 10 1 8 115 30 1 1 5 3 28 0 1 72 10 .242 .301 .352 .653
2002 66 253 221 31 71 18 2 6 111 27 1 1 5 0 24 4 3 51 6 .321 .395 .502 .897
2003 126 484 433 65 142 25 5 14 219 79 1 0 4 1 38 6 8 84 8 .328 .392 .506 .897
2004 138 551 502 38 143 23 3 11 205 65 1 3 4 3 35 7 7 110 19 .285 .338 .408 .747
2005 138 550 499 53 135 26 0 19 218 71 1 1 9 2 32 1 8 113 12 .271 .323 .437 .760
2006 133 501 453 42 124 20 3 17 201 78 0 0 8 5 32 1 3 94 12 .274 .323 .444 .766
2007 106 401 356 25 84 14 1 6 118 42 0 0 7 1 34 0 3 92 9 .236 .307 .331 .639
2008 119 404 371 20 102 17 1 4 133 36 0 1 10 5 16 1 2 100 13 .275 .305 .358 .663
2009 30 83 75 9 23 1 1 2 32 8 1 0 0 0 8 1 0 17 1 .307 .373 .427 .800
2010 8 9 9 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .222 .222 .222 .444
NPB:20年 1669 5517 4921 503 1347 218 22 112 1945 570 16 15 103 29 406 35 58 1089 138 .274 .335 .395 .730

年度別守備成績



捕手 外野


































1991 中日 14 34 3 0 0 2 1.000 3 0 3 1.000 -
1992 65 210 16 2 2 2 .991 22 18 4 .182 -
1993 21 56 7 0 1 3 1.000 8 5 3 .375 1 0 0 0 0 ----
1994 26 76 7 0 1 1 1.000 8 5 3 .375 -
1995 41 191 21 1 3 0 .995 16 10 6 .375 -
1996 38 157 13 1 0 3 .994 13 9 4 .308 12 14 1 1 0 .938
1997 60 307 28 2 3 4 .994 41 34 7 .171 22 34 0 0 0 1.000
1998 阪神 109 521 49 2 8 7 .997 80 54 26 .325 -
1999 111 693 52 5 8 6 .993 79 53 26 .329 -
2000 113 752 62 6 9 6 .993 69 45 24 .348 -
2001 108 556 72 3 14 2 .995 81 49 32 .395 4 4 0 0 0 1.000
2002 66 528 30 1 7 4 .998 31 19 12 .387 -
2003 123 932 66 2 11 14 .998 100 65 35 .350 -
2004 137 1126 56 3 16 5 .997 87 57 30 .345 -
2005 138 1130 76 3 11 8 .998 76 43 33 .434 -
2006 132 1001 75 6 7 5 .994 67 39 28 .418 -
2007 101 720 56 3 8 3 .996 67 47 20 .299 -
2008 116 748 63 2 7 4 .998 71 45 26 .366 -
2009 26 144 14 2 1 0 .988 18 13 5 .278 -
2010 1 0 0 0 0 0 .--- 0 0 0 .--- -
通算 1546 9882 766 44 117 79 .996 937 610 327 .349 39 52 1 1 0 .981

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:7回 (1999年、2002年 - 2006年、2008年)
  • 通算サヨナラ安打10本(阪神タイガース球団タイ記録)

背番号

  • 2 (1991年 - 1995年)
  • 38 (1996年 - 1997年)
  • 39 (1998年 - 2010年)
  • 88 (2016年 - )

登録名

  • 矢野 輝弘 (やの あきひろ、1991年 - 2009年)
  • 矢野 燿大 (やの あきひろ、2010年、2016年 - )

登場曲

指導歴

関連情報

解説者時代の出演番組

2011年から2015年まで、朝日放送の解説者として、テレビ・ラジオで放送されるプロ野球中継(主に阪神戦)に登場。同局からの出向扱いで、『サンテレビボックス席』の阪神戦中継にも解説者として出演している。さらに中日OBでもあることから、CBCラジオの中日対阪神戦中継(ABCラジオと相互ネットの場合)に出演することがあった。

レギュラー番組

  • 虎バンABCテレビ) - 阪神での現役時代から、インタビューやドキュメンタリー企画などに度々登場。2011年以降は、レギュラーコメンテーターとして出演。
  • おはよう朝日です月曜日(ABCテレビ) - 2011年3月7日放送分から、スポーツキャスターとしてレギュラー出演。
  • キャスト(ABCテレビ) - 『NEWSゆう+』の後番組で、2011年10月の放送開始から2015年3月まで、月曜日に編成されていた「ヤノスポ」でキャスターを担当。番組リニューアルで同コーナーが終了した2015年4月以降は、阪神時代のチームメイトだった下柳や桧山進次郎と交互に、水曜日の「週刊 浦川スポーツ」へ出演している。
  • スポーツにぴたっと。(ABCラジオ、オフシーズン番組)- 現役引退後初のレギュラー番組で、2010年度の途中(2011年1月5日放送分)から水曜日に出演(2011年度も続投)。2012年1月6日からは金曜日にも登場していた。2012年度は金曜日、『武田和歌子のぴたっと。』第2部として放送される2013年度以降は火曜日にのみ出演。
  • 金谷多一郎・矢野燿大の考えるゴルフSky・A sports+、2011年~)
  • 虎魂(sky・A sports+、2011年10月から月1回のペースで放送)
  • NEWSゆう+月曜日(ABCテレビ) - 2011年3月28日放送分から番組終了の同年9月まで、スポーツコーナー「週刊YANO+」にレギュラー出演。
  • 見知らぬ関西新発見!みしらん(ABCテレビ) - 2013年1月5日放送分からスポーツコーナー「スポーツみしらん」を新設したことを機に、スポーツキャスターとして同年9月21日の最終回まで出演。

不定期放送・出演

  • 矢野輝弘のどーんと来い!!(ABCラジオ、2004年度から、オフシーズンのレギュラー番組→スペシャル番組) - 阪神での現役時代からメインパーソナリティを担当。2009年度以降は『矢野燿大のどーんと来い!!』というタイトルで放送。指導者として阪神へ復帰してからも、年末年始の特別番組として継続している。
  • 矢野燿大の「アスリートの舞台裏」(ABCラジオ) - 2011年5月16日から月1回のペースで放送。メインパーソナリティを担当。
  • 熱血!タイガース党サンテレビ)- 阪神での現役時代にゲストやVTRで出演。ABC野球解説者時代には、「優勝対策委員長」という肩書で随時登場していた。指導者として阪神へ復帰してからも、ゲストとしてスタジオへ出演する際にはこの肩書を用いている。
  • CBCドラゴンズナイターCBCラジオ) - 中日主管の阪神戦(ABCラジオが同時ネットで放送する火曜 - 木曜の試合)中継にのみ、ゲスト解説者として出演。
  • 全国高校野球選手権大会中継(ABCテレビ)- 2011年から、試合前後に甲子園スタジオから放送される中継に、ゲストとして随時出演。ただし、試合の解説まで担当するわけではない。
  • マイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメント(ABCテレビ制作、テレビ朝日系列で放送) - 2011年以降のテレビ中継で、金谷とともにラウンドリポートを担当。2013年には、アマチュアのゴルフプレイヤーとして、本選への出場を目指して「マンデートーナメント(主催者推薦の予選会)」に初めて挑戦した(結果は6オーバーの59位で本選出場ならず)[59]

以下はゲストで出演した主な番組。

出演映画

  • ミスター・ルーキー』(2002年) - 阪神を舞台にした作品だったことから、当時の現役選手を代表して、本人役で最終決戦のシーンに捕手として出演。

出演CM

ABCラジオでは、矢野を起用した他社のスポットCMも随時流している。
以下はいずれも、阪神での現役選手時代に出演したテレビCM。

著書

脚注

  1. ^ a b 矢野氏 作戦兼バッテリーコーチに就任 デイリースポーツ 2015年10月27日閲覧
  2. ^ 第18回日米大学野球選手権日本代表選手 全日本大学野球連盟公式サイト
  3. ^ 【矢野燿大物語17】「何で中日やねん…」喜びより落胆が勝った
  4. ^ 【矢野燿大物語16】一睡もできなかったトレード通告
  5. ^ 【矢野燿大物語8】阪神への移籍前、正捕手の座は目前だった
  6. ^ 野口茂樹氏「矢野さんにはお世話に」ノーノー返しも
  7. ^ 阪神・矢野捕手、今季限りで引退 右ひじ痛治らず 朝日新聞、2010年9月3日閲覧
  8. ^ a b 矢野2軍戦で引退セレモニー「幸せな野球人生」 スポーツニッポン、2010年9月26日閲覧
  9. ^ 矢野、下柳とコンビ復活!2軍で引退試合 日刊スポーツ 2010.09.26 2019.04.28閲覧
  10. ^ おめでとう!平田ファーム4年目の初優勝! 阪神タイガース公式サイト 2010.10.04 2019.04.28閲覧
  11. ^ 矢野引退セレモニー「感謝感謝感謝」 日刊スポーツ 2010.10.01 2019.04.28閲覧
  12. ^ a b 阪神・矢野コーチの背番は『88』「たまたま嫁さんの誕生日」 サンケイスポーツ 2015年10月29日閲覧
  13. ^ 侍ジャパン「2014 SUZUKI 日米野球」出場選手発表 野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト(2014年10月9日)2015年10月27日閲覧
  14. ^ 「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」コーチングスタッフについて 野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト (2015年2月6日) 2016年3月10日閲覧
  15. ^ トップチーム、WBSC世界野球プレミア12へ向けて、コーチ陣を発表! 野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト (2015年7月16日) 2015年8月4日閲覧
  16. ^ 阪神矢野コーチが就任会見、金本監督のご意見番襲名 日刊スポーツ 2015年10月27日閲覧
  17. ^ 阪神矢野コーチ、バレに蹴り「一番は晋太郎を守る」 日刊スポーツ 2017年4月9日閲覧
  18. ^ ヤクルト・バレが矢野コーチを突き倒して退場 ジャンピングニーで“応戦”した矢野コーチも退場 サンケイスポーツ 2017年4月9日閲覧
  19. ^ ウエスタン・リーグ優勝!”. 阪神タイガース公式サイト (2018年9月22日). 2018年9月23日閲覧。
  20. ^ a b 阪神二軍12年ぶり日本一、矢野監督が1年目で快挙”. 日刊スポーツ (2018年10月6日). 2018年10月6日閲覧。
  21. ^ ウエスタン・リーグ順位表”. 阪神タイガース公式サイト (2018年9月25日). 2018年9月25日閲覧。
  22. ^ “矢野二軍監督14日にも結論 新監督就任正式要請を保留 /デイリースポーツ online” (日本語). デイリースポーツ online. https://www.daily.co.jp/tigers/2018/10/14/0011729981.shtml 2018年10月15日閲覧。 
  23. ^ “新監督に矢野燿大氏が正式決定「いろいろ悩みましたがやらせて頂く」/デイリースポーツ online” (日本語). デイリースポーツ online. https://www.daily.co.jp/tigers/2018/10/15/0011733303.shtml 2018年10月15日閲覧。 
  24. ^ 矢野燿大新監督が就任会見 阪神タイガース公式サイト 球団ニュース 2018年10月18日
  25. ^ ドラフト:巨人・原、阪神・矢野の両新監督が抽選「連敗」 毎日新聞 2018年10月25日
  26. ^ 阪神・矢野監督、春季キャンプのテーマは自主性 選手に考える力を植え付ける(『サンケイスポーツ』2019年2月3日付記事)
  27. ^ 【矢野阪神 1年目の真実(1)】信念示した敗戦後のインタビューとファンへのあいさつ スポーツニッポン 2019年10月16日、同月19日閲覧。
  28. ^ G倒で“矢野ガッツ”しまくる!試合中のガッツポーズ愛称決まった「楽しもう」 サンケイスポーツ 2019年5月28日、同年6月3日閲覧。
  29. ^ 阪神 奇跡のCS進出 広島と4厘差 最終戦で大どんでん返し スポーツニッポン 2019年10月1日、同月19日閲覧。
  30. ^ a b “阪神・矢野監督、勝負の赤パン…奥川ひけずも、西に期待”. 朝日新聞デジタル. (2019年10月18日). https://digital.asahi.com/articles/ASMBK54ZNMBKPTQP008.html 2019年10月18日閲覧。 
  31. ^ 2020年チームスローガンについて(阪神タイガース2019年11月23日付球団ニュース)
  32. ^ 阪神 96年以来の開幕4カード連続負け越し 貧打に守乱、矢野監督「あれじゃ投手は大変」 スポーツニッポン 2020年7月2日、同月6日閲覧。
  33. ^ 阪神失点の15%ミスの比率高い/里崎チェック 日刊スポーツ 2020年9月15日、10月24日閲覧
  34. ^ 道半ば阪神社長辞任「責任者は私」繰り返し収拾願い 日刊スポーツ 2020年10月9日、同月10日閲覧。
  35. ^ 阪神・矢野監督 処分なし 大人数での会食は球団許可「チーム強化に資する内容」 スポーツニッポン 2020年10月13日、同月14日閲覧。
  36. ^ “矢野監督、読書大好き「夢をかなえるゾウ」や「アドラー心理学」も”. デイリースポーツ. (2018年11月30日). https://www.daily.co.jp/tigers/2018/11/30/0011863265.shtml 20192-02-25閲覧。 
  37. ^ 阪神ドラフト2位井上、先発デビューは川藤以来52年ぶり”. 日刊スポーツ (2020年10月14日). 2020年10月14日閲覧。
  38. ^ a b 『阪神の女房』
  39. ^ ベースボール・マガジン社『133キロ怪速球』(山本昌、2009年) ISBN 978-4583101699 p40-41
  40. ^ “【星野の記憶】矢野燿大氏“無言トレード”で遺恨「見返したい」が「認められたい」に”. Sponichi Annex. (2018年1月13日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/01/13/kiji/20180112s00001173358000c.html 2018年1月13日閲覧。 
  41. ^ 矢野燿大オフィシャルブログ2014年5月21日付記事「実は!」
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関連項目

外部リンク