「ちばてつや」の版間の差分
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{{別人|x1=俳優の|千葉哲也}} |
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| 名前 = ちば てつや |
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| 脚注 = 2023年11月、[[内閣総理大臣官邸]]にて<ref>{{Cite web2 |df=ja |url=https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/actions/202311/01moushiire.html |title=令和5年11月1日 マンガ・アニメ・ゲームに関する議員連盟による申入れ - 総理の一日 |website=首相官邸ホームページ |publisher=内閣官房内閣広報室 |date=2023-11-01 |accessdate=2024-07-28}}</ref> |
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| 本名 = 千葉 徹彌{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|p=9}}<ref name="mangapedia">{{Cite web|和書|url=https://mangapedia.com/ちばてつや-7rieaxmpz|title=ちば てつや(漫画家)|website=マンガペディア|accessdate=2024-09-17}}</ref> |
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| 職業 = [[漫画家]] |
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| 活動期間 = [[1956年]]{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|p=9}} - |
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| ジャンル = [[少女漫画]]<br />[[少年漫画]]<br />[[青年漫画]] |
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| 代表作 = 『[[あしたのジョー]]』(原作 |
| 代表作 = 『[[あしたのジョー]]』(原作:[[梶原一騎|高森朝雄]])<br />『[[ハリスの旋風]]』<br />『[[おれは鉄兵]]』<br />『[[あした天気になあれ (漫画)|あした天気になあれ]]』<br />『[[のたり松太郎]]』<br />『[[あかねちゃん|みそっかす]]』<br />『ユカをよぶ海』 |
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| 受賞 = |
| 受賞 = |
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* 第3回[[講談社児童まんが賞]] (『1・2・3と4・5・ロク』・ |
* 第3回[[講談社児童まんが賞]] (『1・2・3と4・5・ロク』・『魚屋チャンピオン』) |
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* 第7回講談社出版文化賞児童まんが部門(『[[おれは鉄兵]]』) |
* 第7回講談社出版文化賞児童まんが部門(『[[おれは鉄兵]]』) |
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* 第23回[[小学館漫画賞]]青年一般部門(『[[のたり松太郎]]』) |
* 第23回[[小学館漫画賞]]青年一般部門(『[[のたり松太郎]]』) |
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* 文部科学大臣賞 |
* 文部科学大臣賞 |
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* 第33回[[講談社漫画賞]]講談社創業100周年記念特別賞 |
* 第33回[[講談社漫画賞]]講談社創業100周年記念特別賞 |
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| 公式サイト = [https://ameblo.jp/chibatetsu/ ちばてつやのブログ『ぐずてつ日記』] |
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'''ちば てつや'''(本名:千葉 徹彌 |
'''ちば てつや'''(本名:千葉 徹彌{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|p=9}}、[[1939年]]〈[[昭和]]14年〉[[1月11日]]{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|p=9}} - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。男性{{R|mangapedia}}。代表作に『[[あしたのジョー]]』(原作:[[梶原一騎|高森朝雄]])、『[[ハリスの旋風]]』、『[[あした天気になあれ (漫画)|あした天気になあれ]]』、『[[のたり松太郎]]』、『[[あかねちゃん|みそっかす]]』など。 |
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[[東京府]]([[東京都]]の前身)出身 |
[[東京府]]([[東京都]]の前身)出身{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|p=9}}。現在は[[練馬区]]在住。[[日本大学第一中学校・高等学校|日本大学第一高等学校]][[卒業]]{{sfn|漫画家人名事典|2003|p=243}}。 |
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2005年からは[[文星芸術大学]]教授を務める |
2005年からは[[文星芸術大学]]教授を務める{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|pp=108-113|loc=「親子対談 ちばてつや×千葉修平」}}。2012年7月から2018年6月まで[[日本漫画家協会]]理事長を務め、2018年6月から同協会会長。2019年4月1日より2022年3月31日まで文星芸術大学学長<ref name="asahi20190227">{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM2W4CV2M2WUUHB016.html |title=ちばてつや氏、文星芸大学長に あしたのジョー漫画家 |website=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2019-02-27 |accessdate=2021-11-03}}</ref><ref name="shimotsuke20220326">{{Cite web|和書|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/569694 |title=文星芸大のちばてつや学長辞任へ 後任に田中副学長 |website=下野新聞 SOON(スーン) |publisher=下野新聞 |date=2022-03-26 |accessdate=2022-09-10}}</ref>。 |
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『[[キャプテン (漫画)|キャプテン]]』『[[プレイボール (漫画)|プレイボール]]』などが代表作の漫画家[[ちばあきお]]、ちばプロダクション社長千葉研作、漫画原作者[[七三太朗]]は実弟。 |
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== 概要 == |
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作風は、体温のある描線の画風で1960年代には心理描写がうまいことで評価が高かった。また情景描写が長いことで生活感が表れたという評もある<ref>[[村上もとか]]「[[フイチン再見!]]」83話</ref>。また、貧しい環境の自然児的な主人公が、微妙な摩擦を起こす(に出会う)話が多い。そうでない作品でも、同時期(昭和30年代)の他の少年漫画に比べて人間ドラマ性が強い。 |
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== 来歴 == |
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初期には少女マンガの名手とされ、少年マンガで人気を得てからはそちらが主となり、のちに青年漫画へ活躍の場を広げた。中でも『[[あしたのジョー]]』は、当時の時代の象徴と受け取られていることも多く、国民的に名を知られた代表作になっている。 |
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=== 生い立ち === |
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[[1939年]](昭和14年)[[1月11日]]、[[東京府]][[東京市]][[京橋区]](現:[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]])[[明石町 (東京都中央区)|明石町]]の[[聖路加国際病院]]で生まれる{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|p=9}}<ref>佐藤正弥編著 『データ・バンク にっぽん人』現代書林、[[1982年]]、196頁。</ref>。同年11月に日本を離れ、[[朝鮮半島]]を経て1941年1月、2歳の時に[[満州国]][[奉天市|奉天]](現:[[中華人民共和国]][[遼寧省]][[瀋陽市]])に渡る。印刷会社に勤めていた父親が暖房用にと貰ってきた紙の切れ端に絵を書いて寒い冬を過ごしていた{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|pp=196-204|loc=「ちばてつや×モンキーパンチ “漫画家”になるために」}}。 |
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[[1945年]](昭和20年)、同地で終戦を迎え、敗戦に伴い暴動や略奪などが相次ぐ社会的混乱の中、生と死が隣り合わせの過酷な幼少の一時期を過ごした。父の同僚の中国人徐集川に一家は助けられて、屋根裏部屋にかくまってもらった。翌年家族共々[[葫芦島市|葫芦島]]へ約200kmを移動、いわゆる[[葫芦島在留日本人大送還]]により[[舞鶴港]]に[[引き揚げ]]、父親の故郷である[[千葉県]][[海上郡]][[飯岡町]](現:[[旭市]])に住んだ後、東京都[[墨田区]]に移り住んだ。『ユカを呼ぶ海』を描いた時の浜辺のモチーフは、この飯岡町である。 |
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[[手塚治虫]]がかつて(1970年代末)<ref>「ぱふ」誌。1979年、手塚治虫特集</ref>語ったところによると「自分がストーリー漫画を始めて以降、ほんとに新しいものを加えたのはちばてつやだけだと思っている」と、また『あしたのジョー』の連載開始時点(1968年頃)で、[[梶原一騎]]が手塚治虫に並ぶ別格作家と語ったことがある。[[楠高治]]は「ちば氏は手塚治虫氏から最も影響を受けていない漫画を描く人」だと語っている。 |
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== 来歴 == |
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=== デビュー前 === |
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[[1939年]](昭和14年)1月11日、東京都[[中央区 (東京都)|中央区]][[築地]]の[[聖路加病院]]で生まれる<ref name="prof" /><ref>佐藤正弥編著 『データ・バンク にっぽん人』 [[現代書林]]、[[1982年]]、196頁。</ref>。同年11月に日本を離れ、[[朝鮮半島]]を経て、1941年1月、2歳の時に、[[満州国]][[奉天]]に渡る。印刷会社に勤めていた父親が暖房用にと貰ってきた紙の切れ端に絵を書いて寒い冬を過ごしていた<ref name="mp">「ちばてつや×モンキーパンチ "漫画家"になるために」『[総集編]ちばてつや』196 - 204頁</ref>。[[1945年]](昭和20年)、同地で終戦を迎え、敗戦に伴い、暴動や略奪などが相次ぐ社会的混乱の中、生と死が隣り合わせの過酷な幼少の一時期を過ごした。父の同僚の中国人徐集川に一家は助けられて、屋根裏部屋にかくまってもらった。翌年、家族共々、日本に[[引き揚げ]]、千葉、飯岡(旭市)を経て、東京、[[墨田区]]小梅町に移り住んだ。 |
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道ばたに落ちていた[[豆本]]で初めて漫画を見る。『[[千夜一夜物語|アラビアンナイト]]』を題材にした[[杉浦茂]]の作品で、その面白さに衝撃を受け、漫画にのめり込む<ref> |
道ばたに落ちていた[[豆本]]で初めて漫画を見る。『[[千夜一夜物語|アラビアンナイト]]』を題材にした[[杉浦茂]]の作品で、その面白さに衝撃を受け、漫画にのめり込む<ref>{{Cite web|和書|url=https://serai.jp/hobby/300499 |title=【インタビュー】ちばてつやさん(漫画家)|漫画家デビュー60年、戦争体験を描き続ける |website=サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト |publisher=小学館 |date=2018-01-08 |accessdate=2021-11-03}}<!-- 『サライ』2017年8月号より転載 実物を探しているが見つかっていない--></ref>。しかしちばの家は漫画に対して厳しく、一切禁止されていたため購入や家で読むことはできず、友人の家でこっそりと読むなどしていた{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|pp=10-41|loc=「ちばてつや3万字ロングインタビュー 「真っ白な灰に燃え尽きるまで」」}}。 |
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小学生時にちばが絵を好きなことを見て声をかけた[[木内堯央]]<ref>{{Cite web|author=ちばてつや|date=2005-08-31|url=http://chibapro.co.jp/index.php?tbl=news&id=106|title=木内くんを偲んで|work=[http://chibapro.co.jp/ ちばてつや公式サイト]|publisher=ちばてつやプロダクション|accessdate=2011-02-13}}</ref>と親友になり、彼が作成していた[[同人誌]]「漫画クラブ」に[[1950年]](昭和25年)より参加するようになる |
小学生時にちばが絵を好きなことを見て声をかけた[[木内堯央]]<ref>{{Cite web|和書|author=ちばてつや|date=2005-08-31|url=http://chibapro.co.jp/index.php?tbl=news&id=106|title=木内くんを偲んで|work=[http://chibapro.co.jp/ ちばてつや公式サイト]|publisher=ちばてつやプロダクション|accessdate=2011-02-13}}{{リンク切れ|date=2021年11月}}</ref>と親友になり、彼が作成していた[[同人誌]]「漫画クラブ」に[[1950年]](昭和25年)より参加するようになる{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|pp=10-41|loc=「ちばてつや3万字ロングインタビュー 「真っ白な灰に燃え尽きるまで」」}}。 |
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=== 貸本時代 === |
=== 貸本時代 === |
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高校生だった16歳のちばは、[[新聞広告|新聞の三行広告]]で |
高校生だった16歳のちばは、[[新聞広告|新聞の三行広告]]で漫画家を募集しているのを見つけて日昭書店に応募{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|pp=196-204|loc=「ちばてつや×モンキーパンチ “漫画家”になるために」}}。社長の石橋国松{{efn2|『[[ハリスの旋風]]』の主人公・石田国松の名前は、石橋への恩を忘れぬために彼の名前にちなんで命名された。}}は、ちばにプロの生原稿を見せて道具の使い方を教え、試しに描いてくるように指示したため、ちばは本格的な執筆を始めた。約3か月間にわたり、毎回20ページから30ページずつ原稿を持って行くとそのたびに続きを描くように言われていたちばは、これをテストだと思い込んでいたが、128ページ目で話を終わらせるように指示を受けて描いた最後の原稿を持ち込むと、その場で当時の大卒初任給を超える1万2351円を原稿料として石橋から手渡された{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|pp=196-204|loc=「ちばてつや×モンキーパンチ “漫画家”になるために」}}。 |
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この時に執筆した『復讐のせむし男』は[[1956年]](昭和31年)に貸本として出版され、ちばは17歳で漫画家としてデビュー{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|pp=10-41|loc=「ちばてつや3万字ロングインタビュー 「真っ白な灰に燃え尽きるまで」」}}。以降、高校に通いながら貸本の執筆を続けた。 |
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=== 雑誌デビュー === |
=== 雑誌デビュー === |
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高校卒業を前に先輩の漫画家である |
高校卒業を前に先輩の漫画家である鳥海やすに付いて訪れた『[[少女クラブ]]』([[講談社]])の編集部で自身の原稿([[江戸川乱歩]]原作の『魔法人形』)を見せて執筆依頼を受け、読み切り『リカちゃん』を執筆。また同時期に訪れた『[[少女ブック]]』([[集英社]])でも執筆依頼を取り付け、読み切り『舞踏会の少女』を執筆する。両作共に[[1958年]](昭和33年)に発表されたが『少女ブック』が先に発売されたため、『舞踏会の少女』が雑誌デビュー作となった。ともに少女誌となったのは、当時執筆陣が固まっていた少年漫画に比べ、少女漫画の方が新人の入る隙があったためであった{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|pp=196-204|loc=「ちばてつや×モンキーパンチ “漫画家”になるために」}}。 |
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両作をきっかけに連載も依頼され、同年6月号より『オデット城のにじ』(『少女ブック』)と『ママのバイオリン』(『少女クラブ』)を同時に連載開始する。しかし『少女ブック』がちばの了承なしに別冊への掲載を予告したことを機に講談社との専属契約を結び、『オデット城のにじ』は連載途中で降板する{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|p=212|loc=「ちばてつや作品解説 1956 - 2008」}}。 |
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[[1961年]](昭和36年)には『[[週刊少年マガジン]]』(講談社)において[[野球漫画]]『[[ちかいの魔球]]』(原作:[[福本和也]])の連載を開始し、少年漫画の執筆にも活動を広げる。[[1962年]](昭和37年)より『少女クラブ』の別冊ふろくで『[[1・2・3と4・5・ロク]]』を連載開始し、同年に同作と『魚屋チャンピオン』で第3回[[講談社児童まんが賞]]を受賞する。 |
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=== 『あしたのジョー』で社会現象に === |
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[[1961年]](昭和36年)には『[[週刊少年マガジン]]』(講談社)において[[野球漫画]]「[[ちかいの魔球]]」(原作:[[福本和也]])の連載を開始し、少年漫画の執筆にも活動を広げる。[[1962年]](昭和37年)より『少女クラブ』の別冊ふろくで「[[1・2・3と4・5・ロク]]」を連載開始し、同年に同作と「魚屋チャンピオン」で第3回[[講談社児童まんが賞]]を受賞する。 |
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その後も『[[紫電改のタカ]]』、『ユキの太陽』などヒット作を手がけ、[[1965年]](昭和40年)に発表された『[[ハリスの旋風]]』は[[テレビアニメ]]化され、注目を集めた。 |
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[[1968年]](昭和43年)には劇画作家である高森朝雄([[梶原一騎]])と組み、[[ボクシング]]を舞台とした『[[あしたのジョー]]』を発表。同作品は爆発的なヒットとなり、連載されていた『[[週刊少年マガジン]]』の発行部部数を飛躍的に伸ばしたほか、一躍社会現象にもなった。 |
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=== スポーツ漫画の長期連載 === |
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その後は、[[角界]]を舞台にした「[[のたり松太郎]]」や、[[プロゴルフ]]を舞台にした「[[あした天気になあれ (漫画)|あした天気になあれ]]」などスポーツ漫画のロングランヒット作に加え、幅広い作品を発表。[[1980年]](昭和55年)にはこれまでの功績を称え、青年漫画家の発掘を主とした講談社主催の[[ちばてつや賞]]が設立された。 |
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その後は、[[角界]]を舞台にした『[[のたり松太郎]]』や、[[プロゴルフ]]を舞台にした『[[あした天気になあれ (漫画)|あした天気になあれ]]』などスポーツ漫画のロングランヒット作に加え、幅広い作品を発表。[[1980年]](昭和55年)にはこれまでの功績を称え、青年漫画家の発掘を主とした講談社主催の[[ちばてつや賞]]が設立された。 |
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[[1984年]](昭和59年)の創刊時から『[[GOLFコミック]]』([[秋田書店]])の表紙イラストを担当し、2018年の休刊まで続いた<ref>{{Cite web|title=GOLFコミックが休刊、ちばてつやが表紙を描くゴルフ専門月刊マンガ誌|url=https://natalie.mu/comic/news/263296|website=コミックナタリー|accessdate=2020-08-10 |
[[1984年]](昭和59年)の創刊時から『[[GOLFコミック]]』([[秋田書店]])の表紙イラストを担当し、2018年の休刊まで続いた<ref>{{Cite web|和書|title=GOLFコミックが休刊、ちばてつやが表紙を描くゴルフ専門月刊マンガ誌|url=https://natalie.mu/comic/news/263296|website=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2017-12-28|accessdate=2020-08-10}}</ref>。 |
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=== 連載活動の休止 === |
=== 連載活動の休止 === |
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[[ファイル:Shinji Mizushima Machiko Satonaka Tetsuo Saito Tetsuya Chiba and Monkey Punch cropped 1 Shinji Mizushima Machiko Satonaka Tetsuo Saito Tetsuya Chiba and Monkey Punch 20090906.jpg|thumb|200px|[[2009年]][[9月6日]]、国際マンガサミットフェスタにて国際マンガサミット実行委員会[[委員長]][[水島新司]](左端)、[[マンガジャパン]][[代表理事]][[里中満智子]](左から2人目)、[[環境大臣]][[斉藤鉄夫]](中央)、[[デジタルマンガ協会]][[会長]][[モンキー・パンチ]](右端)と]] |
[[ファイル:Shinji Mizushima Machiko Satonaka Tetsuo Saito Tetsuya Chiba and Monkey Punch cropped 1 Shinji Mizushima Machiko Satonaka Tetsuo Saito Tetsuya Chiba and Monkey Punch 20090906.jpg|thumb|200px|[[2009年]][[9月6日]]、国際マンガサミットフェスタにて国際マンガサミット実行委員会[[委員長]][[水島新司]](左端)、[[マンガジャパン]][[代表理事]][[里中満智子]](左から2人目)、[[環境大臣]][[斉藤鉄夫]](中央)、[[デジタルマンガ協会]][[会長]][[モンキー・パンチ]](右端)と]] |
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『[[少年よラケットを抱け]]』の執筆中、心臓疾患と[[網膜剥離]]を患って手術を受けることになり、ちばの身を案じた妻がちばの入院中にスタッフを解散させた<ref>{{Cite web|和書|author=松岡かすみ |author2=一木俊雄|url=https://dot.asahi.com/articles/-/117622?page=1 |title=ちばてつやの入院中に妻がアシスタント8人を解散させ…そのワケは? |website=AERA dot. (アエラドット) |publisher=週刊朝日 |date=2019-06-08 |accessdate=2021-11-03}}</ref>。このため、[[1994年]](平成6年)に連載を終了した『少年よラケットを抱け』以降は短編作品の執筆を中心とし、大人数を雇うプロダクション形式での長期連載は行っていない{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|pp=114-121|loc=「妻・千葉幸子」}}<ref>{{Cite web|和書|author=荒俣宏|authorlink=荒俣宏|author2=ちばてつや|date=2010-10-22|url=http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manganavi/manganavi_03-4h.asp|title=荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第3回 ちばてつや編 その4 まんがのこと、自分のことの巻 (8)|work=荒俣宏の電子まんがナビゲーター|publisher=eBookJapan|accessdate=2011-02-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141010183732/http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manganavi/manganavi_03-4h.asp |archivedate=2014-10-10}}</ref>。 |
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[[1998年]](平成10年)には |
[[1998年]](平成10年)には、社団法人[[日本漫画家協会]]の常任理事に就任<ref>{{Cite web|和書|date=不明|url=http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/history.php?startIndex=30&tbl=&key=|title=社団法人日本漫画家協会の歩み|work=[http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/ 社団法人日本漫画家協会]|publisher=社団法人[[日本漫画家協会]]|accessdate=2011-02-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101226123103/http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/history.php?startIndex=30&tbl=&key=|archivedate=2010-12-26}}</ref>。また、[[2002年]](平成14年)に[[横浜市]]で開催された『第5回[[マンガサミット|アジアMANGAサミット]]』実行委員長に就任し、漫画文化の担い手として活躍する一方、[[2005年]](平成17年)からは[[文星芸術大学]]でマンガ専攻の教授を務め、後進の育成に力を注いでいる。 |
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2012年、日本漫画家協会理事長に就任し、2018年6月から同協会会長となる |
[[2012年]]、日本漫画家協会理事長に就任し、[[2018年]]6月から同協会会長となる。 |
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[[2015年]]、『[[ビッグコミック]]』にて『[[ひねもすのたり日記]]』を連載開始<ref>{{Cite web |url=https://natalie.mu/comic/news/170051 |title=ちばてつや、水木しげる作品のオマージュなど新連載への思いを語る |access-date=2024-03-14}}</ref>。 |
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== 受賞歴 == |
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* [[1962年]] - 第3回[[講談社児童まんが賞]] - 『[[1・2・3と4・5・ロク]]』・「魚屋チャンピオン」 |
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[[2019年]]4月1日より文星芸術大学学長に就任<ref name="asahi20190227" />。 |
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[[2021年]]10月29日、体調を崩し東京都内の病院へ入院した<ref name="sankei20211103">{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20211103-BL4HDIA2QBMLRBFOZBCDXADGK4/ |title=漫画家ちばてつやさん入院 持病の心臓疾患などで |website=産経ニュース |publisher=産経新聞社 |date=2021-11-03 |accessdate=2021-11-03}}</ref>。持病の心臓疾患などの治療を受け、年内に退院予定<ref name="sankei20211103" />。 |
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[[2022年]]1月4日、自身のブログを更新し仮退院したことを報告した<ref>{{Cite web|和書|author=ちばてつや |url=https://ameblo.jp/chibatetsu/entry-12719340073.html |title=か、帰ってきました。 |website=ちばてつやのブログ『ぐずてつ日記』 |date=2022-01-04 |accessdate=2022-01-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2022/01/04/0014961839.shtml |title=漫画家ちばてつや氏 仮退院を報告「あしたのために、頑張っとります」 |website=デイリースポーツ online |publisher=デイリースポーツ社 |date=2022-01-04 |accessdate=2022-01-11}}</ref>。 |
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2022年2月22日、2022年3月1日付けで[[文部科学大臣]]が発令する予定の[[日本芸術院]]の新設分野「マンガ」の新会員候補として選出された<ref>{{Cite web|和書|author=黒田健朗 |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ2Q5RPXQ2QUCVL01L.html |title=ちばてつやさん「漫画が芸術、文化のひとつに」 芸術院新会員に |website=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2022-02-22 |accessdate=2022-02-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=ちばてつや |url=http://www.chibapro.co.jp/news/news.html |title=【日本芸術院 入会のご報告】 - ニュース |website=ちばてつやホームページ |accessdate=2022-02-23}}</ref>。同年3月31日、文星芸術大学学長を退任<ref name="shimotsuke20220326" />。 |
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2024年8月30日、自身のブログを更新し左目の手術を終えたことと、しばらくの間は休筆することを報告した<ref>{{Cite web2 |df=ja |author=ちばてつや |url=https://ameblo.jp/chibatetsu/entry-12865524969.html |title=休筆宣言 |website=ちばてつやのブログ『ぐずてつ日記』 |date=2024-08-30 |accessdate=2024-08-30}}</ref>。 |
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== 受賞・栄典 == |
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[[ファイル:ちばてつや.jpg|サムネイル|文化功労者顕彰に際して公表された肖像写真]] |
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* [[1962年]] - 第3回[[講談社児童まんが賞]] - 『[[1・2・3と4・5・ロク]]』・『魚屋チャンピオン』 |
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* [[1976年]] - 第7回[[講談社出版文化賞]]児童まんが部門 - 『[[おれは鉄兵]]』 |
* [[1976年]] - 第7回[[講談社出版文化賞]]児童まんが部門 - 『[[おれは鉄兵]]』 |
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* [[1977年]] - 第23回[[小学館漫画賞]]青年一般部門 - 『[[のたり松太郎]]』 |
* [[1977年]] - 第23回[[小学館漫画賞]]青年一般部門 - 『[[のたり松太郎]]』 |
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* [[1977年]] - 第6回[[日本漫画家協会賞]]特別賞 - 『のたり松太郎』 |
* [[1977年]] - 第6回[[日本漫画家協会賞]]特別賞 - 『のたり松太郎』 |
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* [[2001年]] - 文部科学大臣賞 |
* [[2001年]] - 文部科学大臣賞 |
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* [[2002年]] - [[紫綬褒章]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tobunken.go.jp/japanese/nenshi/2002.html|title=美術界年史 2002年(4月 紫綬褒章受章者)|accessdate=2024-05-26|publisher=[[東京文化財研究所]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140413101917/http://www.tobunken.go.jp/japanese/nenshi/2002.html|archivedate=2014-04-13}}</ref> |
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* [[2002年]] - [[紫綬褒章]] |
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* [[2009年]] - 第33回[[講談社漫画賞]]講談社創業100周年記念特別賞 |
* [[2009年]] - 第33回[[講談社漫画賞]]講談社創業100周年記念特別賞 |
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* [[2012年]] - [[旭日小綬章]]<ref>{{Cite web2|df=ja|url=http://www8.cao.go.jp/shokun/hatsurei/24aki/meibo_jokun/kyokujitsu-13tokyo.pdf#page=2|title=平成24年秋の叙勲 旭日小綬章等受章者 東京都|format=PDF|publisher=内閣府|accessdate=2017-01-17|date=2012-11-03|page=2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170117233636/http://www8.cao.go.jp/shokun/hatsurei/24aki/meibo_jokun/kyokujitsu-13tokyo.pdf#page=2|archivedate=2017-01-17|url-status-date=2023-05-26}}</ref> |
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* [[2012年]]11月 - [[旭日小綬章]] |
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* [[2014年]] - [[文化功労者]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20141110_286088.html?DETAIL |title=文化功労者選出のちばてつや氏とノーベル賞受賞者2人の写真 |website=NEWSポストセブン |publisher=小学館 |date=2014-11-10 |accessdate=2021-11-03}}</ref> |
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* [[2014年]] - [[文化功労者]]<ref>http://www.asahi.com/articles/ASGBQ46FTGBQUCVL001.html</ref> |
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* [[2017年]] - [[練馬区]]名誉区民 |
* [[2017年]] - [[練馬区]]名誉区民<ref>{{Cite web|和書|url=https://nerima.keizai.biz/headline/1283/|title=練馬区、名誉区民を選定 画家・野見山暁治さん、漫画家・ちばてつやさん|publisher=練馬経済新聞|date=2017-06-09|accessdate=2021-11-03}}</ref> |
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* [[2022年]] - 日本芸術院会員 |
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* [[2024年]] - 第72回[[菊池寛賞]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://bungakushinko.or.jp/award/kikuchi/list.html|title=菊池賞受賞者一覧|work=[[日本文学振興会]]|accessdate=2024-10-09}}</ref>、[[文化勲章]]<ref>{{Cite web2 |df=ja |url=https://www.sankei.com/article/20241025-6Z4YG7XOTNMJRA2SF4TL7YBSTA/ |title=漫画のちばてつや氏ら7人に文化勲章 功労者にはスポーツ振興の青木功氏ら |website=産経ニュース |publisher=産経新聞社 |date=2024-10-25 |accessdate=2024-10-25}}</ref><ref>{{Cite web2 |df=ja|url=https://www.asahi.com/articles/ASSC31SLDSC3UTIL01SM.html|title=漫画家のちばてつやさん「悪書から文化の一つに」 文化勲章親授式|publisher=朝日新聞|date=2024-11-03|accessdate=2024-11-03}} </ref> |
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== 家族構成 == |
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四人兄弟の長男で、実弟に漫画家の[[ちばあきお]](三男){{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|p=105|loc=「ちばてつやが語る 弟・ちばあきおの素顔」}}と[[漫画原作者]]の[[七三太朗]](四男){{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|p=230|loc=「ちばてつや作品解説 1956 - 2008」}}がいる。妻は漫画家のチバユキコ{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|p=114|loc=「妻・千葉幸子」}}。ちばの次男の千葉修平は文星芸術大学で専任講師を務め、父の助手として漫画教育に携わっている{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|pp=108-113|loc=「親子対談 ちばてつや×千葉修平」}}。 |
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* 2015年9月 [[大英博物館]]「Manga now three generations (漫画の現在 三世代)」展<ref>[http://www.britishmuseum.org/whats_on/exhibitions/manga_now.aspx Manga now three generations]British Museum, 3 September –15 November 2015</ref>。[[星野之宣]]・[[中村光 (漫画家)|中村光]]とともに、三世代の漫画家のひとりとして取り上げられる。 |
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== 功績・評価 == |
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* キャラクター作りの名手として知られる。特に「品行方正」な人物が求められた1960年代の少年、少女漫画の世界に、破天荒で欠点だらけだが愛嬌のある主人公(『[[ハリスの旋風]]』)、勝ち気で情に厚いヒロイン( 『[[あかねちゃん|みそっかす]]』)など型にはまらない人間味のあるキャラクターを登場させ、従来のストーリー重視の作風から、キャラクターの意志に沿ってストーリーを構築していく'''「キャラクターがストーリーを創る」'''作劇方法を確立させた{{sfn|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011|p={{要ページ番号|date=2024年1月}} }}。生き生きとしたキャラクターと彼らの作り出す物語は読者の多くの共感と支持を集め、加えてキャラクターの心理や行動を巧みに描写した手法は後進の漫画家にも大きな影響を与えた{{sfn|ちば|2014|p={{要ページ番号|date=2021年11月}} }}。 |
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四人兄弟の長男で、実弟に漫画家の[[ちばあきお]](三男)<ref>「ちばてつやが語る 弟・ちばあきおの素顔」『[総集編]ちばてつや』105頁</ref>と[[漫画原作者]]の[[七三太朗]](四男)<ref>「ちばてつや作品解説 1956 - 2008」『[総集編]ちばてつや』230頁</ref>がいる。妻は漫画家の[[チバユキコ]]<ref>「妻・千葉幸子」『[総集編]ちばてつや』114頁</ref>。ちばの次男の[[千葉修平]]は文星芸術大学で専任講師を務め、父の助手として漫画教育に携わっている<ref name="oyako" />。 |
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* また誠実な人柄と共に80を過ぎた現在も新作を発表し、漫画文化の担い手として活動する姿は多くの漫画家たちの尊敬を集めている。[[青山剛昌]]、[[高橋留美子]]、[[浦沢直樹]]<ref>{{Cite web2 |df=ja |url=https://www.joqr.co.jp/article/detail/post_266.php |title=浦沢直樹が語る、ちばてつや最新作は「わからないところがない」!?『純次と直樹』 |website=文化放送 |publisher=文化放送 |date=2020-02-17 |accessdate=2023-12-16}}</ref>、[[荒木飛呂彦]]、[[大友克洋]]<ref>{{Cite web2 |df=ja |url=https://mantan-web.jp/article/20181109dog00m200041000c.html |title=ビッグに聞く:第20回 大友克洋 ちばてつやの意外な影響 気になる新作は… |website=MANTANWEB(まんたんウェブ) |publisher=MANTAN |date=2018-11-10 |accessdate=2023-12-16}}</ref>、[[秋本治]]、[[あだち充]]、[[井上雄彦]]、[[宮崎駿]]などジャンルを超えてその影響や敬意を公言する漫画家も少なくない<ref>ちばてつや--漫画家生活55周年記念号(文藝別冊)</ref>。 |
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* 少年、少女漫画以外にも1970年代に頻発していた暴力事件から発想を得た『餓鬼』{{sfn|ちば|2014|p={{要ページ番号|date=2021年11月}} }}、終戦時の引き上げの際に壮絶な体験を描いた『家路』といった作品も数多く発表しており、人間の暗部を生々しいタッチで描いたリアリズムは批評家からも高い評価を受けている<ref>呉智英「マンガ狂につける薬」(リクルート ダヴィンチ編集部)</ref>。 |
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* 漫画編集者の[[鳥嶋和彦]]は、ちばの漫画を「一目見ただけで、登場人物のキャラクターや心理、ストーリーや状況が理解できる」と評し、少年漫画には必要不可欠なものであると語っている。また鳥嶋自身もちばの代表作である『[[おれは鉄兵]]』の19ページの漫画を50回読み返すことで漫画の基礎を学び、その培った知識を若手漫画家に伝授したところ飛躍的に技術が向上したと語っている<ref>{{Cite web2 |df=ja |author=今野大一 |url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1903/26/news037_5.html |title=ジャンプ「伝説の編集長」がFGO誕生に関わった“黒子”、電ファミニコゲーマー編集長と語る「才能を“超一流”に育てる極意」:「マシリト」こと鳥嶋和彦が語るキャリア論【前編】(5/7 ページ) |website=ITmedia ビジネスオンライン |publisher=ITmedia |page=5 |date=2019-03-26 |accessdate=2023-12-11}}</ref>。 |
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== エピソード == |
== エピソード == |
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*漫画家デビュー作の『復讐のせむし男』の元版(日昭館書店)は2018年現在、5冊のみ現存が確認されている([[まんだらけ]]調べ)<ref> |
* 漫画家デビュー作の『復讐のせむし男』の元版(日昭館書店)は2018年現在、5冊のみ現存が確認されている([[まんだらけ]]調べ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://ekizo.mandarake.co.jp/auction/item/itemInfoJa.html?index=561318 |title=日昭館書店-千葉徹弥「復讐のせむし男」 |website=まんだらけ |accessdate=2021-11-03}}</ref>。 |
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* 漫画家の[[松本零士]]とは親友であり、松本が上京したその日に旅館で出会い、松本の部屋に行く約束を交わしたものの、その旅館で生まれて初めて[[ビール]]を呑んでしまい、酔った挙句にトイレで気絶してしまったことがある<ref>『吉田豪の巨匠ハンター』、2020年4月5日発行、吉田豪、毎日新聞出版、P75。</ref>。 |
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*[[2008年]]に『[[週刊ヤングマガジン]]』で発表された『トモガキ』によると、ちばは気分転換として弟の[[ちばあきお]]と共に、幼い頃から他人に[[電気あんま]]をかますことがしばしばあったという。しかし、『ママのバイオリン』(1958年7月 - 1959年5月、『[[少女クラブ]]』[[講談社]])の連載時、締め切りが迫っていて缶詰状態になった際、気分転換のため当時の担当者にあきおと電気あんまを無理矢理かましたところ、担当者は堪らずにちばを思い切り蹴飛ばしてしまった。 |
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* 昭和の30年頃、松本零士に騙されて、[[猿股]]に生えた[[ササクレヒトヨタケ]]や[[ツヤマグソタケ]]がトッピングされた[[チキンラーメン]]を食べさせられたが、「美味い!」とそのまま完食し、後日に松本が白状した際も、一笑にして許したことがある<ref>『吉田豪の巨匠ハンター』、2020年4月5日発行、吉田豪、毎日新聞出版、P82。</ref>。 |
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**ちばは蹴飛ばされた勢いで窓ガラスに体を突っ込んでしまい、割れたガラスで腕の腱を切った上に口の中にも破片が刺さる大怪我を負い、一時は漫画が描けなくなってしまった。口の中の傷は頚動脈寸前にまで達しており、かろうじて奥歯で食い止められたため九死に一生を得たという。締め切りが迫っていた中での出来事だったため、担当者は[[トキワ荘]]のメンバーである[[赤塚不二夫]]、[[石ノ森章太郎]]をはじめとしたメンバーに慌てて代筆を依頼した。当初は仕事で睡眠が取れていないことと絵柄の違いから渋られていたものの後に承諾、一同の代筆により締め切り内に原稿は無事完成したという。これを機に、ちばとトキワ荘のメンバーとの交流が始まった。 |
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* スポーツ愛好家として知られる。執筆中にノイローゼに陥り、気分転換で運動をしたことがその解消につながったことがきっかけであると自著で語っている<ref>「みんみん蝉の唄 」(人間の記録)日本図書センター</ref>。漫画の取材を通じて、野球やゴルフなどを嗜むようになりそれがきっかけで[[さいとうたかを]]や[[松本零士]]など他ジャンルの漫画家と親交を深めるきっかけになったという<ref>{{Cite web2 |df=ja |url=https://www.asahi.com/articles/ASP9Y6F9BP9YUCVL01X.html |title=ジェントルマンだった「たかをちゃん」 ちばてつやさんが悼む |website=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2021-09-29 |accessdate=2023-12-11}}</ref><ref>{{Cite web2 |df=ja |url=https://www.asahi.com/articles/ASR637H6GR63UCVL00Q.html |title=松本零士さんが夢見た、座布団ビフテキ ちばてつやさんら別れの言葉 |website=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2023-06-03 |accessdate=2023-12-11}}</ref>。 |
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**本人はこの時の体験を言いたくなかったらしく、怪我の原因を"疲れから誤って窓ガラスに突っ込んでしまった"とずっと話しており、電気あんまをかましたからと明かしたのは、40年経ってからのことだった<ref>ちばてつや「一番の宝物」([[丸山昭]]『トキワ荘実録』小学館文庫、1999年、240-242頁)。</ref>。 |
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* 『ママのバイオリン』(1958年7月 - 1959年5月、『[[少女クラブ]]』[[講談社]])の連載時、[[トキワ荘]]のメンバーである[[赤塚不二夫]]、[[石ノ森章太郎]]をはじめとしたメンバーが代筆したことがある。締め切りが迫っていて缶詰状態になった際、ふざけて弟の[[ちばあきお]]に[[電気あんま]]をかけた際に乱闘となり、蹴飛ばされた拍子に窓ガラスに体を突っ込み大けがをしたことが原因である。この一件からちばとトキワ荘のメンバーとの交流が始まり、一連の出来事は後に『トモガキ』という作品にまとめられ、[[2008年]]に『[[週刊ヤングマガジン]]』にて同年に逝去した[[赤塚不二夫]]の追悼として発表された。 |
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*人間描写の力を磨くため、2014年現在も大学に通勤する電車の中で車内の人物をこっそり無断でスケッチしている。ただ、それでトラブルになったことも何度かあるという<ref name=gnavi>[http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/1337 【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第一話:ちばてつやの「こづゆ」] - ぐるなび みんなのごはん。・2014年5月20日</ref>。 |
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* 戦時中の検閲や1950年代の[[悪書追放運動]]に遭遇した経験から、「表現は法律などで規制すべきものではなく、常に描く側の良識に委され己れの仕事に対する誇りや自粛に計るべきである」という持論を貫いている。[[東京都青少年の健全な育成に関する条例]]改正問題に関しても何度も積極的に発言しており、“非実在青少年”規制には否定的な見解を述べたり、また[[松文館裁判]]では証人として持論を述べたほか、自身のホームページでもその件に関わる漫画を公表している。 |
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* 人間描写の力を磨くため、大学に通勤する電車の中で車内の人物をこっそり無断でスケッチしている。ただ、それが元でトラブルになったことも何度かあるという<ref>{{Cite web|和書|author=田中圭一|authorlink=田中圭一 (漫画家)|url=https://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/1337 |title=【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第一話:ちばてつやの「こづゆ」 |website=ぐるなび みんなのごはん。 |date=2014-05-20 |accessdate=2021-11-03}}</ref>。 |
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* 『[[あしたのジョー]]』の[[力石徹]]が亡くなったのはちばがボクシングをよく理解せずに、力石徹を丈より大柄に描いてしまったため、設定の都合で、力石徹に減量が必要になってしまったためである。『[[トリビアの泉]]』で「力石徹は作者のつじつま合わせで死んだ」というトリビアが紹介され、ちばがコメントをしておりVTRの最後で力石をつじつま合わせで死なせたことに対して、「彼(力石)には申し訳なく思っている」とコメントしている<ref>フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 6』講談社、2004年。</ref>。ただし、ちばは後年、この見解を撤回している。最初は少年院編でのみ登場するキャラクターだったが、梶原が力石のキャラクターを気に入って方針変更したのではないかと語っている{{efn2|ちば曰く「当時はしょっちゅう梶原さんと会って、打ち合わせをしていましたから。ボクシングは同じ体重同士で戦うんだから、最初からライバルと決めていればそう言うでしょう」<ref>{{Cite book|和書|author=伊藤和弘 |title=「週刊少年マガジン」はどのようにマンガの歴史を築き上げてきたのか? 1959-2009 |date=2022-07-21 |publisher=講談社 |series=星海社新書 |isbn=978-4-0652-8763-7 |pages=75-76}}(ちばてつやの発言引用箇所)</ref>。}}。 |
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* 漫画家志望者に対しては「キャラクターはシルエットでわかるようにする」「編集者など作品にはじめて触れる読者の反応を意識して作品を作る」「いったん失敗だと思ったキャラクターや物語でも廃棄せずに保存し、時間がたってから再度内容を吟味する」ことをアドバイスとしている<ref>{{Cite web2 |df=ja |url=https://www.comitia.co.jp/html/145kikaku.html |title=ちばてつや×鳥嶋和彦 公開対談「マンガの話」 |website=COMITIA |accessdate=2023-12-11}}ページ内の動画で対談を行っている。総再生時間 1h24m13s。「キャラクターはシルエットで」については1h15m57sから、「初めて触れる読者の反応を大切にする」は14m10sから、「失敗しても廃棄しない」は43m13sからそれぞれ発言している。</ref>。 |
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== 作品リスト == |
== 作品リスト == |
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* オデット城のにじ(1958年6月号 - 8月号、[[少女ブック]]、[[集英社]]) - 初連載作品。 |
* オデット城のにじ(1958年6月号 - 8月号、[[少女ブック]]、[[集英社]]) - 初連載作品。 |
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* [[ママのバイオリン]](1958年7月 - 1959年5月、[[少女クラブ]]、[[講談社]]) |
* [[ママのバイオリン]](1958年7月 - 1959年5月、[[少女クラブ]]、[[講談社]]) |
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*: (単行本。母と娘でみる漫画名作館シリーズやちばてつや全集において各全3巻。) |
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* ユカをよぶ海(1959年6月 - 1960年8月、少女クラブ) |
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* リナ(1960年9月 - 1961年12月、少女クラブ) |
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* [[ちかいの魔球]](1961年1月 - 1962年12月、[[週刊少年マガジン]]、講談社、原作:[[福本和也]]) |
* [[ちかいの魔球]](1961年1月 - 1962年12月、[[週刊少年マガジン]]、講談社、原作:[[福本和也]]) |
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* [[1・2・3と4・5・ロク]](1962年1月 - 12月、少女クラブ) - [[1972年]]及び[[1988年]]-[[1989年]]に2度ドラマ化されている。 |
* [[1・2・3と4・5・ロク]](1962年1月 - 12月、少女クラブ) - [[1972年]]及び[[1988年]]-[[1989年]]に2度ドラマ化されている。 |
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* ユキの太陽(1963年1号(創刊号)<ref>{{Cite journal|和書|author=ちばてつや|month=1|year=1963|title=ユキの太陽|journal=少女フレンド|volume=1|issue=1|publisher=講談社}}</ref> - 48号、[[少女フレンド|週刊少女フレンド]]、講談社) |
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* [[ハチのす大将]](1963年1月-5月、週刊少年マガジン) |
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* ハチのす大将(1963年1月 - 5月、週刊少年マガジン) |
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* [[紫電改のタカ]](1963年7月 - 1965年1月、週刊少年マガジン) |
* [[紫電改のタカ]](1963年7月 - 1965年1月、週刊少年マガジン) |
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* パパのお嫁さん(1964年1号 - 9号、[[マーガレット (雑誌)|週刊マーガレット]]、集英社) |
* パパのお嫁さん(1964年1号 - 9号、[[マーガレット (雑誌)|週刊マーガレット]]、集英社) |
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* |
* 島っ子(1964年3月 - 1965年6月、[[少女フレンド|週刊少女フレンド]]、講談社) |
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* 少年ジャイアンツ(1964年11月 - 1966年11月、[[少年ブック]]、[[集英社]]) |
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* [[ハリスの旋風]](1965年4月 - 1967年11月、週刊少年マガジン) - 2度のテレビアニメ化 |
* [[ハリスの旋風]](1965年4月 - 1967年11月、週刊少年マガジン) - 2度のテレビアニメ化 |
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* アリンコの歌(1965年9月 - 1966年7月、週刊少女フレンド) |
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* [[あかねちゃん|みそっかす]](1966年8月 - 1967年8月、週刊少女フレンド) - 『あかねちゃん』としてアニメ化。 |
* [[あかねちゃん|みそっかす]](1966年8月 - 1967年8月、週刊少女フレンド) - 『あかねちゃん』としてアニメ化。 |
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* ジャンボ・リコ(1967年39号 - 48号、週刊少女フレンド) |
* ジャンボ・リコ(1967年39号 - 48号、週刊少女フレンド) |
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* モサ(1969年20号 - 1970年2・3号、[[週刊少年ジャンプ]]、[[集英社]]) |
* モサ(1969年20号 - 1970年2・3号、[[週刊少年ジャンプ]]、[[集英社]]) |
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* 餓鬼(1970年6号 - 36号、[[週刊ぼくらマガジン|ぼくらマガジン]]、講談社) |
* 餓鬼(1970年6号 - 36号、[[週刊ぼくらマガジン|ぼくらマガジン]]、講談社) |
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* 蛍三七子 |
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* [[おれは鉄兵]](1973年8月 - 1980年4月、週刊少年マガジン) - アニメ化 |
* [[おれは鉄兵]](1973年8月 - 1980年4月、週刊少年マガジン) - アニメ化 |
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* [[のたり松太郎]](1973年8月 - 1993年6月、1995年10月 - 1998年5月、[[ビッグコミック]]、[[小学館]]) - アニメ化 |
* [[のたり松太郎]](1973年8月 - 1993年6月、1995年10月 - 1998年5月、[[ビッグコミック]]、[[小学館]]) - アニメ化 |
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* おれイガオくん(1975年3月23日付-12月21日付、[[読売新聞]]) |
* おれイガオくん(1975年3月23日付 - 12月21日付、[[読売新聞]]) |
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* 練馬のイタチ(1980年7月 - |
* 練馬のイタチ(1980年7月 - 10月、[[週刊ヤングマガジン|ヤングマガジン]]、講談社) |
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* [[あした天気になあれ (漫画)|あした天気になあれ]](1981年1月 - 1991年5月、週刊少年マガジン) - アニメ化 |
* [[あした天気になあれ (漫画)|あした天気になあれ]](1981年1月 - 1991年5月、週刊少年マガジン) - アニメ化 |
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* 男たち(1982年1月 - 1983年7月、[[モーニング (漫画雑誌)|コミックモーニング]]、講談社) |
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* [[少年よラケットを抱け]](1992年5月 - 1994年6月、週刊少年マガジン、講談社) |
* [[少年よラケットを抱け]](1992年5月 - 1994年6月、週刊少年マガジン、講談社) |
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* ハネ太(1998年4号 - 1999年13号、[[コミックアルファ]]、[[メディアファクトリー]]) |
* ハネ太(1998年4号 - 1999年13号、[[コミックアルファ]]、[[メディアファクトリー]]) |
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* [[ひねもすのたり日記]](2016年1号 - ビッグコミック、小学館) |
* [[ひねもすのたり日記]](2016年1号 - 、ビッグコミック、小学館) |
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=== アニメ作品 === |
=== アニメ作品 === |
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* テレビアニメ『[[3月のライオン]]』第7話エンドカード |
* テレビアニメ『[[3月のライオン]]』第7話エンドカード |
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* テレビアニメ『[[おじゃる丸]]』放送20周年記念イラスト<ref>{{ |
* テレビアニメ『[[おじゃる丸]]』放送20周年記念イラスト<ref>{{Cite news|url=https://www6.nhk.or.jp/anime/topics/detail.html?i=4659|title=著名マンガ家続々!「おじゃる丸」にスペシャルなイラストが登場|newspaper=NHKアニメワールド|date=2017-10-13|accessdate=2021-11-03}}</ref> |
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* テレビアニメ『[[UQ HOLDER!]]』第12話エンドカード |
* テレビアニメ『[[UQ HOLDER!]]』第12話エンドカード |
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* テレビアニメ『[[アニ×パラ〜あなたのヒーローは誰ですか〜]] episode5 車いすラグビー』キャラクターデザイン<ref |
* テレビアニメ『[[アニ×パラ〜あなたのヒーローは誰ですか〜]] episode5 車いすラグビー』キャラクターデザイン<ref>{{Cite web|和書|date=2018-12-10|url=https://www.oricon.co.jp/news/2125164/full/|title=ちばてつや氏、車いすラグビー描く 声優は玉山鉄二|website=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|accessdate=2019-03-29}}</ref> |
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* [ |
* アニメ映画『[https://anime.or.jp/kazenoyouni.html 風のように]』(2016年7月9日)原作(1969年) |
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* テレビアニメ「[[青春アニメ全集|住友生命 青春アニメ全集]] 日本名作文学 『[[姿三四郎 ]]』」(1986年10月、日本テレビ系列、全3回)キャラクターデザイン |
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== 展覧会 == |
== 展覧会 == |
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* 2015年9月 [[大英博物館]]「Manga now |
* 2015年9月 [[大英博物館]]「Manga now three generations」(漫画の現在 3世代)展<ref>{{Cite web |url=http://www.britishmuseum.org/whats_on/exhibitions/manga_now.aspx |title=Manga now - three generations |website=British Museum |accessdate=2015-10-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151020115333/http://www.britishmuseum.org/whats_on/exhibitions/manga_now.aspx |archivedate=2015-10-20}}</ref> - [[星野之宣]]・[[中村光 (漫画家)|中村光]]とともに、3世代の漫画家のひとりとして取り上げられた。 |
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== その他の活動 == |
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=== 文庫解説 === |
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* 『[[男おいどん]]』1巻(著:[[松本零士]] 1996年 講談社) |
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* 『[[魔女天使]]』(著:[[松本零士]] 1999年 講談社) - 主に松本との交友について書いた。 |
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=== 出演 === |
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* [[課外授業 ようこそ先輩]]「いかせ! 君のキャラクター」(2000年9月10日 NHK) - 小学生を相手に特別授業を行った。 |
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* [[伊集院光とらじおと]](TBSラジオ)- ゲストコーナーで[[伊集院光|伊集院]]と約30分間、話した。 |
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** 2017年12月27日 - 『あしたのジョー』の最終回など。 |
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** 2021年10月20日 - 少年時代の思い出([[木内堯央]]との交友など)、[[コロナ禍]]での活動など。 |
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* [[The News Masters TOKYO]](文化放送 2019年2月4日 - 2月8日) - プロゴルファーの[[タケ小山]]を相手に約4分×5回話した(ゴルフ関連の話題もあり)。 |
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* 『屋根裏のちばてつや』(NHK総合、2020年6月1日) - ちばの日常を追った30分間のドキュメンタリー番組。 |
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* [[浦沢直樹の漫勉|浦沢直樹の漫勉 neo]]『ちばてつや』(NHK Eテレ 2020年10月1日) - 『[[ひねもすのたり日記]]』の製作過程を収録した画像を見ながら[[浦沢直樹|浦沢]]と対談した。 |
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== アシスタント出身者 == |
== アシスタント出身者 == |
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* [[ちばあきお]] |
* [[ちばあきお]]{{sfn|漫画家人名事典|2003|p=243}} |
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* [[川三番地]] |
* [[川三番地]]{{sfn|漫画家人名事典|2003|p=110}} - 2013年よりちばてつやのアシスタント時代を描く自伝的漫画『あしたのジョーに憧れて』を執筆。 |
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* [[倉田よしみ]] |
* [[倉田よしみ]]{{sfn|漫画家人名事典|2003|p=136}} |
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* [[ながとしやすなり]]<ref> |
* [[ながとしやすなり]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1219816922218/html/common/48d22b56005.htm |title=特集 鳥取市出身の漫画家たち |website=とっとり市報 2008年9月号 |publisher=鳥取市役所 |date=2008-09 |accessdate=2011-02-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305050311/http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1219816922218/html/common/48d22b56005.htm |archivedate=2016-03-05}}</ref> |
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* [[政岡としや]] |
* [[政岡としや]]{{sfn|漫画家人名事典|2003|p=341}} |
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* [[梅本さちお]] |
* [[梅本さちお]]{{sfn|漫画家人名事典|2003|p=66}} |
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* [[石井さだよし]]<ref> |
* [[石井さだよし]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://isshy22.com/about/profile/ |title=石井さだよし紹介 |website=石井漫画工房 |accessdate=2021-11-03}}</ref> |
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* |
* 村尾忠義(村尾ただよし){{sfn|漫画家人名事典|2003|p=371}} |
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* [[あべりつこ]](阿部律子) |
* [[あべりつこ]](阿部律子){{sfn|ちば|2014|p={{要ページ番号|date=2021年11月}} }} |
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== 関連文献 == |
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*『少女マンガはどこからきたの? 「少女マンガを語る会」全記録』全349頁(本編335頁+索引など14頁),2023年5月30日第1刷発行,[[青土社]],語る会メンバー12名:[[水野英子]](発起人)/[[上田トシコ]]/[[むれあきこ]]/[[わたなべまさこ]]/[[巴里夫]]/[[高橋真琴]]/[[今村洋子]]/'''ちばてつや'''/[[牧美也子]]/[[望月あきら]]/[[花村えい子]]/[[北島洋子]]【※発起人水野以外はデビュー順<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/527169 |title=少女マンガはどこからきたの?上田トシコ、むれあきこら50~60年代の少女マンガ語る書籍|newspaper=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher=ナターシャ|date=2023-06-02|accessdate=2023-06-02}} “帯:ジャンルを育てたレジェンドたちの証言/1953年の手塚治虫「リボンの騎士」から1972年の池田理代子「ベルサイユのばら」までの期間で、少女マンガというジャンルがいかにして開拓されてきたのかをたどる。”</ref>】{{ISBN2|978-4-7917-7553-8}} |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{Notelist2}} |
{{Notelist2}} |
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=== 出典 === |
=== 出典 === |
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{{Reflist|20em}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|title=ちばてつや 漫画家生活55周年記念号 |date=2011-02-07 |publisher=[[河出書房新社]] |series=文藝別冊 KAWADE夢ムック |isbn=978-4-309-97745-4 |ref={{sfnref|ちばてつや 漫画家生活55周年記念号|2011}} }} |
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* {{Cite book|和書|editor=まんがseek、[[日外アソシエーツ]]編集部 |title=漫画家人名事典 |date=2003-02-01 |publisher=[[日外アソシエーツ]] |isbn=978-4-8169-1760-8 |ref={{sfnref|漫画家人名事典|2003}} }} |
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* ちば てつや(著):ちばてつやが語る「ちばてつや」 (集英社新書) ISBN 978-4087207392 (2014年5月16日)。 |
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* {{Cite book|和書|author=ちばてつや |title=ちばてつやが語る「ちばてつや」 |date=2014-05-16 |publisher=[[集英社]] |series=[[集英社新書]] |isbn=978-4-0872-0739-2 |ref={{sfnref|ちば|2014}} }} |
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* 『屋根裏のちばてつや』NHK総合、2020年6月1日放送。ちばの日常を追った30分間のドキュメンタリー番組。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[戦後70年 ニッポンの肖像]](オープニング映像キャラクターデザイン) |
* [[戦後70年 ニッポンの肖像]](オープニング映像キャラクターデザイン) |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* {{Ameba ブログ|chibatetsu|ちばてつやのブログ『ぐずてつ日記』}} |
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* [http://www.chibapro.co.jp/ ちばてつや公式サイト](公式サイト) |
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* [https:// |
* [https://www.chibapro.co.jp/ ちばてつや公式サイト] |
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** {{Wayback |url=http://www.aruke.com/tetsuya/ |title=ちばてつやホームページ |date=20050203174758}} |
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* {{twitter|chibatetsu8}} |
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* {{Twitter|chibatetsu8}} |
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* [http://www.bunsei.ac.jp/sys/speciality/manga/ 文星芸術大学マンガ専攻] |
* [http://www.bunsei.ac.jp/sys/speciality/manga/ 文星芸術大学マンガ専攻] |
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** [http://www.bunsei.ac.jp/sys/?s=%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%81%A6%E3%81%A4%E3%82%84&sp=&t=&mode=teacher 講師紹介] |
** [http://www.bunsei.ac.jp/sys/?s=%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%81%A6%E3%81%A4%E3%82%84&sp=&t=&mode=teacher 講師紹介] |
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* {{Wayback |url=http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manganavi/manganavi_03-1a.asp |title=荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第3回 ちばてつや編 |date=20140711223729 |
* {{Wayback |url=http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manganavi/manganavi_03-1a.asp |title=荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第3回 ちばてつや編 |date=20140711223729}} |
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* [https://www.animation-nerima.jp/ 練馬アニメーションサイト「ネリマアニメウォーク2 ちばてつや先生」インタビュー動画] |
* [https://www.animation-nerima.jp/ 練馬アニメーションサイト「ネリマアニメウォーク2 ちばてつや先生」インタビュー動画] |
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2024年11月23日 (土) 07:30時点における最新版
ちば てつや | |
---|---|
本名 | 千葉 徹彌[2][3] |
生誕 |
1939年1月11日(85歳)[2] 日本・東京府東京市京橋区 (現:東京都中央区)[2] |
国籍 | 日本 |
職業 | 漫画家 |
称号 |
紫綬褒章 旭日小綬章 文化功労者 日本芸術院会員 文化勲章 |
活動期間 | 1956年[2] - |
ジャンル |
少女漫画 少年漫画 青年漫画 |
代表作 |
『あしたのジョー』(原作:高森朝雄) 『ハリスの旋風』 『おれは鉄兵』 『あした天気になあれ』 『のたり松太郎』 『みそっかす』 『ユカをよぶ海』 |
受賞 | |
公式サイト | ちばてつやのブログ『ぐずてつ日記』 |
ちば てつや(本名:千葉 徹彌[2]、1939年〈昭和14年〉1月11日[2] - )は、日本の漫画家。男性[3]。代表作に『あしたのジョー』(原作:高森朝雄)、『ハリスの旋風』、『あした天気になあれ』、『のたり松太郎』、『みそっかす』など。
東京府(東京都の前身)出身[2]。現在は練馬区在住。日本大学第一高等学校卒業[4]。
2005年からは文星芸術大学教授を務める[5]。2012年7月から2018年6月まで日本漫画家協会理事長を務め、2018年6月から同協会会長。2019年4月1日より2022年3月31日まで文星芸術大学学長[6][7]。
『キャプテン』『プレイボール』などが代表作の漫画家ちばあきお、ちばプロダクション社長千葉研作、漫画原作者七三太朗は実弟。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]1939年(昭和14年)1月11日、東京府東京市京橋区(現:東京都中央区)明石町の聖路加国際病院で生まれる[2][8]。同年11月に日本を離れ、朝鮮半島を経て1941年1月、2歳の時に満州国奉天(現:中華人民共和国遼寧省瀋陽市)に渡る。印刷会社に勤めていた父親が暖房用にと貰ってきた紙の切れ端に絵を書いて寒い冬を過ごしていた[9]。
1945年(昭和20年)、同地で終戦を迎え、敗戦に伴い暴動や略奪などが相次ぐ社会的混乱の中、生と死が隣り合わせの過酷な幼少の一時期を過ごした。父の同僚の中国人徐集川に一家は助けられて、屋根裏部屋にかくまってもらった。翌年家族共々葫芦島へ約200kmを移動、いわゆる葫芦島在留日本人大送還により舞鶴港に引き揚げ、父親の故郷である千葉県海上郡飯岡町(現:旭市)に住んだ後、東京都墨田区に移り住んだ。『ユカを呼ぶ海』を描いた時の浜辺のモチーフは、この飯岡町である。
道ばたに落ちていた豆本で初めて漫画を見る。『アラビアンナイト』を題材にした杉浦茂の作品で、その面白さに衝撃を受け、漫画にのめり込む[10]。しかしちばの家は漫画に対して厳しく、一切禁止されていたため購入や家で読むことはできず、友人の家でこっそりと読むなどしていた[11]。
小学生時にちばが絵を好きなことを見て声をかけた木内堯央[12]と親友になり、彼が作成していた同人誌「漫画クラブ」に1950年(昭和25年)より参加するようになる[11]。
貸本時代
[編集]高校生だった16歳のちばは、新聞の三行広告で漫画家を募集しているのを見つけて日昭書店に応募[9]。社長の石橋国松[注 1]は、ちばにプロの生原稿を見せて道具の使い方を教え、試しに描いてくるように指示したため、ちばは本格的な執筆を始めた。約3か月間にわたり、毎回20ページから30ページずつ原稿を持って行くとそのたびに続きを描くように言われていたちばは、これをテストだと思い込んでいたが、128ページ目で話を終わらせるように指示を受けて描いた最後の原稿を持ち込むと、その場で当時の大卒初任給を超える1万2351円を原稿料として石橋から手渡された[9]。
この時に執筆した『復讐のせむし男』は1956年(昭和31年)に貸本として出版され、ちばは17歳で漫画家としてデビュー[11]。以降、高校に通いながら貸本の執筆を続けた。
雑誌デビュー
[編集]高校卒業を前に先輩の漫画家である鳥海やすに付いて訪れた『少女クラブ』(講談社)の編集部で自身の原稿(江戸川乱歩原作の『魔法人形』)を見せて執筆依頼を受け、読み切り『リカちゃん』を執筆。また同時期に訪れた『少女ブック』(集英社)でも執筆依頼を取り付け、読み切り『舞踏会の少女』を執筆する。両作共に1958年(昭和33年)に発表されたが『少女ブック』が先に発売されたため、『舞踏会の少女』が雑誌デビュー作となった。ともに少女誌となったのは、当時執筆陣が固まっていた少年漫画に比べ、少女漫画の方が新人の入る隙があったためであった[9]。
両作をきっかけに連載も依頼され、同年6月号より『オデット城のにじ』(『少女ブック』)と『ママのバイオリン』(『少女クラブ』)を同時に連載開始する。しかし『少女ブック』がちばの了承なしに別冊への掲載を予告したことを機に講談社との専属契約を結び、『オデット城のにじ』は連載途中で降板する[13]。
1961年(昭和36年)には『週刊少年マガジン』(講談社)において野球漫画『ちかいの魔球』(原作:福本和也)の連載を開始し、少年漫画の執筆にも活動を広げる。1962年(昭和37年)より『少女クラブ』の別冊ふろくで『1・2・3と4・5・ロク』を連載開始し、同年に同作と『魚屋チャンピオン』で第3回講談社児童まんが賞を受賞する。
『あしたのジョー』で社会現象に
[編集]その後も『紫電改のタカ』、『ユキの太陽』などヒット作を手がけ、1965年(昭和40年)に発表された『ハリスの旋風』はテレビアニメ化され、注目を集めた。
1968年(昭和43年)には劇画作家である高森朝雄(梶原一騎)と組み、ボクシングを舞台とした『あしたのジョー』を発表。同作品は爆発的なヒットとなり、連載されていた『週刊少年マガジン』の発行部部数を飛躍的に伸ばしたほか、一躍社会現象にもなった。
スポーツ漫画の長期連載
[編集]その後は、角界を舞台にした『のたり松太郎』や、プロゴルフを舞台にした『あした天気になあれ』などスポーツ漫画のロングランヒット作に加え、幅広い作品を発表。1980年(昭和55年)にはこれまでの功績を称え、青年漫画家の発掘を主とした講談社主催のちばてつや賞が設立された。
1984年(昭和59年)の創刊時から『GOLFコミック』(秋田書店)の表紙イラストを担当し、2018年の休刊まで続いた[14]。
連載活動の休止
[編集]『少年よラケットを抱け』の執筆中、心臓疾患と網膜剥離を患って手術を受けることになり、ちばの身を案じた妻がちばの入院中にスタッフを解散させた[15]。このため、1994年(平成6年)に連載を終了した『少年よラケットを抱け』以降は短編作品の執筆を中心とし、大人数を雇うプロダクション形式での長期連載は行っていない[16][17]。
1998年(平成10年)には、社団法人日本漫画家協会の常任理事に就任[18]。また、2002年(平成14年)に横浜市で開催された『第5回アジアMANGAサミット』実行委員長に就任し、漫画文化の担い手として活躍する一方、2005年(平成17年)からは文星芸術大学でマンガ専攻の教授を務め、後進の育成に力を注いでいる。
2012年、日本漫画家協会理事長に就任し、2018年6月から同協会会長となる。
2015年、『ビッグコミック』にて『ひねもすのたり日記』を連載開始[19]。
2021年10月29日、体調を崩し東京都内の病院へ入院した[20]。持病の心臓疾患などの治療を受け、年内に退院予定[20]。
2022年1月4日、自身のブログを更新し仮退院したことを報告した[21][22]。
2022年2月22日、2022年3月1日付けで文部科学大臣が発令する予定の日本芸術院の新設分野「マンガ」の新会員候補として選出された[23][24]。同年3月31日、文星芸術大学学長を退任[7]。
2024年8月30日、自身のブログを更新し左目の手術を終えたことと、しばらくの間は休筆することを報告した[25]。
受賞・栄典
[編集]- 1962年 - 第3回講談社児童まんが賞 - 『1・2・3と4・5・ロク』・『魚屋チャンピオン』
- 1976年 - 第7回講談社出版文化賞児童まんが部門 - 『おれは鉄兵』
- 1977年 - 第23回小学館漫画賞青年一般部門 - 『のたり松太郎』
- 1977年 - 第6回日本漫画家協会賞特別賞 - 『のたり松太郎』
- 2001年 - 文部科学大臣賞
- 2002年 - 紫綬褒章[26]
- 2009年 - 第33回講談社漫画賞講談社創業100周年記念特別賞
- 2012年 - 旭日小綬章[27]
- 2014年 - 文化功労者[28]
- 2017年 - 練馬区名誉区民[29]
- 2022年 - 日本芸術院会員
- 2024年 - 第72回菊池寛賞[30]、文化勲章[31][32]
家族構成
[編集]四人兄弟の長男で、実弟に漫画家のちばあきお(三男)[33]と漫画原作者の七三太朗(四男)[34]がいる。妻は漫画家のチバユキコ[35]。ちばの次男の千葉修平は文星芸術大学で専任講師を務め、父の助手として漫画教育に携わっている[5]。
功績・評価
[編集]- キャラクター作りの名手として知られる。特に「品行方正」な人物が求められた1960年代の少年、少女漫画の世界に、破天荒で欠点だらけだが愛嬌のある主人公(『ハリスの旋風』)、勝ち気で情に厚いヒロイン( 『みそっかす』)など型にはまらない人間味のあるキャラクターを登場させ、従来のストーリー重視の作風から、キャラクターの意志に沿ってストーリーを構築していく「キャラクターがストーリーを創る」作劇方法を確立させた[36]。生き生きとしたキャラクターと彼らの作り出す物語は読者の多くの共感と支持を集め、加えてキャラクターの心理や行動を巧みに描写した手法は後進の漫画家にも大きな影響を与えた[37]。
- また誠実な人柄と共に80を過ぎた現在も新作を発表し、漫画文化の担い手として活動する姿は多くの漫画家たちの尊敬を集めている。青山剛昌、高橋留美子、浦沢直樹[38]、荒木飛呂彦、大友克洋[39]、秋本治、あだち充、井上雄彦、宮崎駿などジャンルを超えてその影響や敬意を公言する漫画家も少なくない[40]。
- 少年、少女漫画以外にも1970年代に頻発していた暴力事件から発想を得た『餓鬼』[37]、終戦時の引き上げの際に壮絶な体験を描いた『家路』といった作品も数多く発表しており、人間の暗部を生々しいタッチで描いたリアリズムは批評家からも高い評価を受けている[41]。
- 漫画編集者の鳥嶋和彦は、ちばの漫画を「一目見ただけで、登場人物のキャラクターや心理、ストーリーや状況が理解できる」と評し、少年漫画には必要不可欠なものであると語っている。また鳥嶋自身もちばの代表作である『おれは鉄兵』の19ページの漫画を50回読み返すことで漫画の基礎を学び、その培った知識を若手漫画家に伝授したところ飛躍的に技術が向上したと語っている[42]。
エピソード
[編集]- 漫画家デビュー作の『復讐のせむし男』の元版(日昭館書店)は2018年現在、5冊のみ現存が確認されている(まんだらけ調べ)[43]。
- 漫画家の松本零士とは親友であり、松本が上京したその日に旅館で出会い、松本の部屋に行く約束を交わしたものの、その旅館で生まれて初めてビールを呑んでしまい、酔った挙句にトイレで気絶してしまったことがある[44]。
- 昭和の30年頃、松本零士に騙されて、猿股に生えたササクレヒトヨタケやツヤマグソタケがトッピングされたチキンラーメンを食べさせられたが、「美味い!」とそのまま完食し、後日に松本が白状した際も、一笑にして許したことがある[45]。
- スポーツ愛好家として知られる。執筆中にノイローゼに陥り、気分転換で運動をしたことがその解消につながったことがきっかけであると自著で語っている[46]。漫画の取材を通じて、野球やゴルフなどを嗜むようになりそれがきっかけでさいとうたかをや松本零士など他ジャンルの漫画家と親交を深めるきっかけになったという[47][48]。
- 『ママのバイオリン』(1958年7月 - 1959年5月、『少女クラブ』講談社)の連載時、トキワ荘のメンバーである赤塚不二夫、石ノ森章太郎をはじめとしたメンバーが代筆したことがある。締め切りが迫っていて缶詰状態になった際、ふざけて弟のちばあきおに電気あんまをかけた際に乱闘となり、蹴飛ばされた拍子に窓ガラスに体を突っ込み大けがをしたことが原因である。この一件からちばとトキワ荘のメンバーとの交流が始まり、一連の出来事は後に『トモガキ』という作品にまとめられ、2008年に『週刊ヤングマガジン』にて同年に逝去した赤塚不二夫の追悼として発表された。
- 戦時中の検閲や1950年代の悪書追放運動に遭遇した経験から、「表現は法律などで規制すべきものではなく、常に描く側の良識に委され己れの仕事に対する誇りや自粛に計るべきである」という持論を貫いている。東京都青少年の健全な育成に関する条例改正問題に関しても何度も積極的に発言しており、“非実在青少年”規制には否定的な見解を述べたり、また松文館裁判では証人として持論を述べたほか、自身のホームページでもその件に関わる漫画を公表している。
- 人間描写の力を磨くため、大学に通勤する電車の中で車内の人物をこっそり無断でスケッチしている。ただ、それが元でトラブルになったことも何度かあるという[49]。
- 『あしたのジョー』の力石徹が亡くなったのはちばがボクシングをよく理解せずに、力石徹を丈より大柄に描いてしまったため、設定の都合で、力石徹に減量が必要になってしまったためである。『トリビアの泉』で「力石徹は作者のつじつま合わせで死んだ」というトリビアが紹介され、ちばがコメントをしておりVTRの最後で力石をつじつま合わせで死なせたことに対して、「彼(力石)には申し訳なく思っている」とコメントしている[50]。ただし、ちばは後年、この見解を撤回している。最初は少年院編でのみ登場するキャラクターだったが、梶原が力石のキャラクターを気に入って方針変更したのではないかと語っている[注 2]。
- 漫画家志望者に対しては「キャラクターはシルエットでわかるようにする」「編集者など作品にはじめて触れる読者の反応を意識して作品を作る」「いったん失敗だと思ったキャラクターや物語でも廃棄せずに保存し、時間がたってから再度内容を吟味する」ことをアドバイスとしている[52]。
作品リスト
[編集]連載作品のみを記載。詳細はちばてつやの漫画作品一覧を参照。
- オデット城のにじ(1958年6月号 - 8月号、少女ブック、集英社) - 初連載作品。
- ママのバイオリン(1958年7月 - 1959年5月、少女クラブ、講談社)
- (単行本。母と娘でみる漫画名作館シリーズやちばてつや全集において各全3巻。)
- ユカをよぶ海(1959年6月 - 1960年8月、少女クラブ)
- リナ(1960年9月 - 1961年12月、少女クラブ)
- ちかいの魔球(1961年1月 - 1962年12月、週刊少年マガジン、講談社、原作:福本和也)
- 1・2・3と4・5・ロク(1962年1月 - 12月、少女クラブ) - 1972年及び1988年-1989年に2度ドラマ化されている。
- ユキの太陽(1963年1号(創刊号)[53] - 48号、週刊少女フレンド、講談社)
- ハチのす大将(1963年1月 - 5月、週刊少年マガジン)
- 紫電改のタカ(1963年7月 - 1965年1月、週刊少年マガジン)
- パパのお嫁さん(1964年1号 - 9号、週刊マーガレット、集英社)
- 島っ子(1964年3月 - 1965年6月、週刊少女フレンド、講談社)
- 少年ジャイアンツ(1964年11月 - 1966年11月、少年ブック、集英社)
- ハリスの旋風(1965年4月 - 1967年11月、週刊少年マガジン) - 2度のテレビアニメ化
- アリンコの歌(1965年9月 - 1966年7月、週刊少女フレンド)
- みそっかす(1966年8月 - 1967年8月、週刊少女フレンド) - 『あかねちゃん』としてアニメ化。
- ジャンボ・リコ(1967年39号 - 48号、週刊少女フレンド)
- あしたのジョー(1968年1月 - 1973年6月、週刊少年マガジン、原作:高森朝雄) - アニメ化・映画化
- テレビ天使(1968年7号 - 50号、週刊少女フレンド)
- 若とのゴン(1968年6月15日付 - 1971年8月26日付、産経新聞)
- モサ(1969年20号 - 1970年2・3号、週刊少年ジャンプ、集英社)
- 餓鬼(1970年6号 - 36号、ぼくらマガジン、講談社)
- おれは鉄兵(1973年8月 - 1980年4月、週刊少年マガジン) - アニメ化
- のたり松太郎(1973年8月 - 1993年6月、1995年10月 - 1998年5月、ビッグコミック、小学館) - アニメ化
- おれイガオくん(1975年3月23日付 - 12月21日付、読売新聞)
- 練馬のイタチ(1980年7月 - 10月、ヤングマガジン、講談社)
- あした天気になあれ(1981年1月 - 1991年5月、週刊少年マガジン) - アニメ化
- 男たち(1982年1月 - 1983年7月、コミックモーニング、講談社)
- 少年よラケットを抱け(1992年5月 - 1994年6月、週刊少年マガジン、講談社)
- ハネ太(1998年4号 - 1999年13号、コミックアルファ、メディアファクトリー)
- ひねもすのたり日記(2016年1号 - 、ビッグコミック、小学館)
アニメ作品
[編集]- テレビアニメ『3月のライオン』第7話エンドカード
- テレビアニメ『おじゃる丸』放送20周年記念イラスト[54]
- テレビアニメ『UQ HOLDER!』第12話エンドカード
- テレビアニメ『アニ×パラ〜あなたのヒーローは誰ですか〜 episode5 車いすラグビー』キャラクターデザイン[55]
- アニメ映画『風のように』(2016年7月9日)原作(1969年)
- テレビアニメ「住友生命 青春アニメ全集 日本名作文学 『姿三四郎 』」(1986年10月、日本テレビ系列、全3回)キャラクターデザイン
展覧会
[編集]その他の活動
[編集]文庫解説
[編集]出演
[編集]- 課外授業 ようこそ先輩「いかせ! 君のキャラクター」(2000年9月10日 NHK) - 小学生を相手に特別授業を行った。
- 伊集院光とらじおと(TBSラジオ)- ゲストコーナーで伊集院と約30分間、話した。
- The News Masters TOKYO(文化放送 2019年2月4日 - 2月8日) - プロゴルファーのタケ小山を相手に約4分×5回話した(ゴルフ関連の話題もあり)。
- 『屋根裏のちばてつや』(NHK総合、2020年6月1日) - ちばの日常を追った30分間のドキュメンタリー番組。
- 浦沢直樹の漫勉 neo『ちばてつや』(NHK Eテレ 2020年10月1日) - 『ひねもすのたり日記』の製作過程を収録した画像を見ながら浦沢と対談した。
アシスタント出身者
[編集]- ちばあきお[4]
- 川三番地[57] - 2013年よりちばてつやのアシスタント時代を描く自伝的漫画『あしたのジョーに憧れて』を執筆。
- 倉田よしみ[58]
- ながとしやすなり[59]
- 政岡としや[60]
- 梅本さちお[61]
- 石井さだよし[62]
- 村尾忠義(村尾ただよし)[63]
- あべりつこ(阿部律子)[37]
関連文献
[編集]- 『少女マンガはどこからきたの? 「少女マンガを語る会」全記録』全349頁(本編335頁+索引など14頁),2023年5月30日第1刷発行,青土社,語る会メンバー12名:水野英子(発起人)/上田トシコ/むれあきこ/わたなべまさこ/巴里夫/高橋真琴/今村洋子/ちばてつや/牧美也子/望月あきら/花村えい子/北島洋子【※発起人水野以外はデビュー順[64]】ISBN 978-4-7917-7553-8
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ "令和5年11月1日 マンガ・アニメ・ゲームに関する議員連盟による申入れ - 総理の一日". 首相官邸ホームページ. 内閣官房内閣広報室. 2023年11月1日. 2024年7月28日閲覧。
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- ^ 佐藤正弥編著 『データ・バンク にっぽん人』現代書林、1982年、196頁。
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- ^ “【インタビュー】ちばてつやさん(漫画家)|漫画家デビュー60年、戦争体験を描き続ける”. サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト. 小学館 (2018年1月8日). 2021年11月3日閲覧。
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- ^ "ちばてつや×鳥嶋和彦 公開対談「マンガの話」". COMITIA. 2023年12月11日閲覧。ページ内の動画で対談を行っている。総再生時間 1h24m13s。「キャラクターはシルエットで」については1h15m57sから、「初めて触れる読者の反応を大切にする」は14m10sから、「失敗しても廃棄しない」は43m13sからそれぞれ発言している。
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- ^ “少女マンガはどこからきたの?上田トシコ、むれあきこら50~60年代の少女マンガ語る書籍”. コミックナタリー (ナターシャ). (2023年6月2日) 2023年6月2日閲覧。 “帯:ジャンルを育てたレジェンドたちの証言/1953年の手塚治虫「リボンの騎士」から1972年の池田理代子「ベルサイユのばら」までの期間で、少女マンガというジャンルがいかにして開拓されてきたのかをたどる。”
参考文献
[編集]- 『ちばてつや 漫画家生活55周年記念号』河出書房新社〈文藝別冊 KAWADE夢ムック〉、2011年2月7日。ISBN 978-4-309-97745-4。
- まんがseek、日外アソシエーツ編集部 編『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月1日。ISBN 978-4-8169-1760-8。
- ちばてつや『ちばてつやが語る「ちばてつや」』集英社〈集英社新書〉、2014年5月16日。ISBN 978-4-0872-0739-2。
関連項目
[編集]- 国松さまのお通りだい - 『ハリスの旋風』の2度目のアニメ化作品
- 松文館裁判(証人として)
- ちばてつや賞(選考委員)
- トキワ荘
- 有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト
- 戦後70年 ニッポンの肖像(オープニング映像キャラクターデザイン)
外部リンク
[編集]- ちばてつやのブログ『ぐずてつ日記』 - Ameba Blog
- ちばてつや公式サイト
- ちばてつやホームページ - ウェイバックマシン(2005年2月3日アーカイブ分)
- ちばてつや (@chibatetsu8) - X(旧Twitter)
- 文星芸術大学マンガ専攻
- 荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第3回 ちばてつや編 - ウェイバックマシン(2014年7月11日アーカイブ分)
- 練馬アニメーションサイト「ネリマアニメウォーク2 ちばてつや先生」インタビュー動画