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「武 (鹿児島市)」の版間の差分

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|blank1_info=46500-1117<ref>{{cite web|url=https://www.kodokensaku.mlit.go.jp/motas/addresscodedownload|title=自動車登録関係コード検索システム|publisher=国土交通省|accessdate=2021-04-26}}</ref>
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'''武'''(たけ、[[英語|英]]:Take)は[[鹿児島県]][[鹿児島市]]の[[町丁|町名]]。旧[[鹿児島郡]]鹿児島近在'''武村'''、鹿児島郡[[西武田村]]'''大字武'''、鹿児島市'''武町'''の一部。武一丁目から武三丁目まであり、全域で[[住居表示]]を実施している。[[郵便番号]]は890-0045。人口は7,267人、世帯数は4,158世帯。(2020年4月1日現在)<ref name="tokei">{{Cite web|url=https://www.city.kagoshima.lg.jp/soumu/soumu/soumu/shise/toke-02/jinko/h2704age5.html|title=年齢(5歳階級)別・町丁別住民基本台帳人口(平成27~令和2年度)|date=2020-04-01|accessdate=2020-05-08|publisher=鹿児島市}}</ref>。
'''武'''(たけ<ref>{{cite web|url=https://www.city.kagoshima.lg.jp/kensetu/toshikeikaku/tochiriyou/images.html|title=鹿児島市の町名|publisher=鹿児島市|accessdate=2020-10-02}}</ref>)[[鹿児島県]][[鹿児島市]]の[[町丁]]{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}。旧[[薩摩国]][[鹿児島郡]]鹿児島近在'''武村'''、[[鹿児島郡]][[西武田村]]'''大字武'''、[[鹿児島市]]'''武町'''。[[郵便番号]]は890-0045<ref>{{cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=46&city=1462010&id=158052|title=鹿児島県鹿児島市武の郵便番号|publisher=日本郵便|accessdate=2021-04-09}}</ref>。人口は7,267人、世帯数は4,158世帯。(2020年4月1日現在)<ref name="tokei">{{Cite web|url=https://www.city.kagoshima.lg.jp/soumu/soumu/soumu/shise/toke-02/jinko/h2704age5.html|title=年齢(5歳階級)別・町丁別住民基本台帳人口(平成27~令和2年度)|date=2020-04-01|accessdate=2020-05-08|publisher=鹿児島市}}</ref>。武一丁目から武三丁目まであり、武一丁目から武三丁目までの全域で[[住居表示]]を実施している<ref>{{Cite web|url=http://www.city.kagoshima.lg.jp/kensetu/toshikeikaku/tochiriyou/machizukuri/tochi/hyoji/documents/jissikuikiitirann0223.pdf|title=住居表示実施区域町名一覧表|publisher=鹿児島市|accessdate=2020-10-02|date=2020-02-03}}</ref>。

「武」という町名は[[産土神]]である建部神社に由来するという説と、稲田がこの付近に多く所在していた為それを田毛と呼称されるようになったという説がある<ref name="kadokawar"/>。


==地理==
==地理==
鹿児島市の中部、新川の下流域に位置している。町域の北方には[[西田_(鹿児島市)|西田]]、南方から西方にかけては[[田上_(鹿児島市)|田上]]、東方には[[鹿児島中央駅]]を挟んで[[中央町_(鹿児島市)|中央町]]、西方には[[武岡]]それぞれ接している。
鹿児島市の中部、新川の下流域に位置している。町域の北方には[[西田_(鹿児島市)|西田]]、南方から西方にかけては[[田上_(鹿児島市)|田上]]、東方には[[鹿児島中央駅]]を挟んで[[中央町_(鹿児島市)|中央町]]、西方には[[武岡]]それぞれ接している。


町域の北部を[[九州新幹線]]の高架橋が東西に通っており、町域の東端部には[[鹿児島中央駅]]がある。中央部には[[鹿児島県道24号鹿児島東市来線]]及び[[国道3号]][[鹿児島バイパス]]が通り、鹿児島バイパスは[[武岡トンネル]]を通り[[鹿児島インターチェンジ|鹿児島IC]]に至るが、県道24号は武岡トンネルの周辺を南回りに通り、田上の中心部を通り[[松元町|松元]]方面に至る。また、[[2013年]][[9月29日]]に[[武岡トンネル#新武岡トンネル|新武岡トンネル]]が開通し、既存の武岡トンネルは鹿児島市街方面、新武岡トンネルは鹿児島IC方面の一方通行の2車線道路として運用されている。
町域の北部を[[九州新幹線]]の高架橋が東西に通っており、町域の東端部には[[鹿児島中央駅]]がある。中央部には[[鹿児島県道24号鹿児島東市来線]]及び[[国道3号]][[鹿児島バイパス]]が通り、鹿児島バイパスは[[武岡トンネル]]を通り[[鹿児島インターチェンジ|鹿児島IC]]に至るが、県道24号は武岡トンネルの周辺を南回りに通り、田上の中心部を通り[[松元町|松元]]方面に至る。また、[[2013年]][[9月29日]]に[[武岡トンネル#新武岡トンネル|新武岡トンネル]]が開通し、既存の武岡トンネルは鹿児島市街方面、新武岡トンネルは鹿児島IC方面の一方通行の2車線道路として運用されている<ref name="minaminihon20130930">『南日本新聞』 2013年9月30日付 1面(新武岡トンネル開通)</ref>


教育施設は南東端部には[[鹿児島市立武小学校]]、西部にある丘陵の上に[[鹿児島市立武中学校]]がある。また、[[鹿児島本線]]を挟んで[[田上_(鹿児島市)|田上]]や[[上荒田町]]に接しており、[[鹿児島車両センター]]も附近に位置する。
教育施設は南東端部には[[鹿児島市立武小学校]]、西部にある丘陵の上に[[鹿児島市立武中学校]]がある。また、[[鹿児島本線]]を挟んで[[田上_(鹿児島市)|田上]]や[[上荒田町]]に接しており、[[鹿児島車両センター]]も附近に位置する。

=== 土地区画整理事業 ===
[[1967年]](昭和42年)には鹿児島市街地の西部に位置する武町・西田町・常盤町・上荒田町・田上町の各一部にあたる61[[ヘクタール]]の区域において武・田上地区[[土地区画整理事業]]に着手し{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=740}}、[[1980年]](昭和55年)度に工事が完了した{{Sfn|南日本新聞|1990|p=775}}。基本事業費は65億5400万円、2,135戸の建物を移転した{{Sfn|南日本新聞|1990|p=775}}。

=== 町名の由来 ===
「武」という町名の由来については以下の説がある。
* [[産土神]]である「建部神社」に由来するという説{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}
* [[水田|稲田]]がこの付近に多く所在していた為それを田毛と呼称されるようになりそれが訛化したものという説{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}{{Sfn|木脇栄|1976|p=107}}
* [[アイヌ語]]で水を汲むところを指す「タ」と場所を意味する「ケ」に由来する説(鹿児島地名考){{Sfn|木脇栄|1976|p=107}}


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 武の成立と中世 ===
=== 武の成立と中世 ===
[[File:Tatebe shrine Kagoshima.jpg|thumb|建部神社(2021年撮影)]]
武という地名は[[南北朝時代 (日本)|南北朝期]]より見え、[[薩摩国]][[鹿児島郡]]のうちであった。武は田毛、岳とも書かれている。
武という地名は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]より見え、[[薩摩国]][[鹿児島郡]]のうちであった。武は「田毛」、「嶽」とも書かれている{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}{{Sfn|芳即正|五味克夫|1998|p=171}}。

[[建徳]]3年([[1372年]])の[[薩藩旧記雑録]]に収録されている「禅恵譲状」には「さつまのくにかこしまのこほりのうち、たけむらハうハうのかとの事」とあり、村内の門の田地や山野が禅恵の子息二郎四郎(久成)に譲与されているとある{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1969|p=193}}{{Sfn|芳即正|五味克夫|1998|p=171}}{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}。[[応安]]7年([[1374年]])には武村が久成からとよまさに譲与された{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1969|p=194}}。[[応永]]10年([[1403年]])には[[島津元久]]によって宿敵である[[渋谷氏]]の渋谷重頼に武之村が与えられている{{Sfn|芳即正|五味克夫|1998|p=171}}{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1969|p=215}}。武村にある建部神社は[[鎌倉時代]]に[[大隅国]]小根占郷(後の[[肝属郡]][[根占町]]、現在の[[南大隅町]]の一部)において創建されたもので、[[永正]]17年([[1520年]])には武村の高麗(現在の[[高麗町]]付近)または{{Sfn|豊増哲雄|1996|p=106}}、上之園(現在の[[上之園町]]付近)に移転し、[[明和]]頃に現在地に移転したものである<ref>{{cite web|url=http://www.kagojinjacho.or.jp/search/kagoshima/kagoshima/post-630.html|title=建部神社|publisher=鹿児島県神社庁|accessdate=2012-06-02}}</ref>。


地内の武岡山上(現在の[[武岡]]周辺)や野元原は南北朝期の古戦場跡である{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}。武村は田上村と共に[[天正]]年間頃より開発がすすめられた{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1969|p=439}}{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}。
[[建徳]]3年の禅恵譲状には「さつまのくにかこしまのこほりのうち、たけむらハうハうのかとの事」とあり、村内の門の田地や山野が二郎四郎に譲与されているとある。地内の武岡山上(現在の[[武岡]]周辺)や野元原は南北朝期の古戦場跡である<ref name="kadokawar"/>。


=== 近世の武 ===
=== 近世の武 ===
[[江戸時代|江戸期]]には鹿児島郡鹿児島近在のうちであり、村高は「[[天保郷帳]]」では1,657[[石 (単位)|石]]余、「[[旧高旧領取調帳|旧高旧領]]」では1,135石余であった。武村は天正年間開発さたとされ村内の天保山(現在の[[天保山町 (鹿児島市)|天保山町]]調広郷による財政改革一環として[[甲突]]を埋め立て、幕末からは藩の演習場として利用され、砲台も設置された<ref name="kadokawar"/>
[[江戸時代]]には[[薩摩国]][[鹿児島郡]]鹿児島近在のうちであった{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}。「歴代制度巻二〇」によれば武は鹿児島近在のうちの近名に属していた{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1969|p=403}}。[[石|村高]]は「[[天保郷帳]]」では1,657[[石 (単位)|石]]余{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}、「郡村高辻帳」では1,657石余{{Sfn|芳即正|五味克夫|1998|p=171}}、「三州御治世要覧」では1,814石余{{Sfn|芳即正|五味克夫|1998|p=171}}、「[[旧高旧領取調帳]]」では1,135石余であった{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}。武村には[[庄屋]]が置か城下士から選任されまた、[[名主]]が5名、名頭が51名置かれていた{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1969|p=415}}。[[宝暦]]頃の武村に屋久島蔵、御船手と呼ばれる役が置かれていた{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1969|p=323}}。「三州御治世要覧」によれば塩屋村(現在の[[甲突]])が武村に含まれいたが{{Sfn|芳即正|五味克夫|1998|p=171}}[[寛永]]5年([[1628年]])に武村から塩屋村が分立して設置された{{Sfn|芳即正|五味克夫|1998|p=169}}


また、武村には八幡田圃と天保山と呼ばれる[[飛地]]があった{{Sfn|四元幸夫|1974|p=6}}。天保山(現在の[[天保山町 (鹿児島市)|天保山町]]の一部)は[[天保]]年間に天保の改革の一環として[[甲突川]]の浚渫土砂によって埋立てられ造成された{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1969|p=368}}{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1969|p=384}}{{Sfn|芳即正|五味克夫|1998|p=170}}。江戸時代末期には[[薩摩藩]]の演習場として利用され、[[砲台]]も設置された{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}。[[嘉永]]元年([[1848年]])には武之橋が架けられた{{Sfn|芳即正|五味克夫|1998|p=171}}。[[明治時代]]初期には村域の一部が新屋敷通町(現在の[[新屋敷町 (鹿児島市)|新屋敷町]])に分割された{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}。
また、明治初期には村域の一部が新屋敷通町(現在の[[新屋敷町 (鹿児島市)|新屋敷町]])に分割された<ref name="kadokawar"/>。


=== 町村制施行以後 ===
=== 町村制施行と鹿児島市との境界変更 ===
[[1889年]](明治22年)には[[町村制]]が施行されたのに伴い、西別府村、武村、田上村の3村より西武田村が成立し、江戸期の武村は[[西武田村]]の大字「'''武'''」となり、[[1911年]](明治44年)には字域の一部が鹿児島市に編入され鹿児島市の町「武町」と「天保山町」に分割された<ref name="kadokawar"/>
[[1889年]](明治22年)[[4月1日]]には[[町村制]]が施行されたのに伴い、鹿児島近在のうち西別府村、武村、田上村の区域より[[鹿児島郡]][[西武田村]]が成立した{{Sfn|有田忠雄河口貞徳、村田凞、稲葉行雄、村野守治、四本健光、紀野健一郎|1955|p=487}}。それに伴って、それまでの武村は[[西武田村]]の[[大字]]「'''武'''」となった{{Sfn|角川日本地大辞典編纂委員会|1983|p=405}}


[[1904年]](明治37年)、[[1908年]](明治41年)には天保山が[[大日本帝国陸軍]]の[[演習場|演習地]]に編入され、大蔵省の管轄となった{{Sfn|鹿児島市|1935|p=410}}。
[[1913年]]([[大正]]2年)に字域内に川内線(後の[[鹿児島本線]]の一部)の武駅が設置された<ref>『日本鉄道旅行地図帳 12号 九州・沖縄』 p.51 新潮社</ref><ref>当時は現在の駅の所在地である中央町の区域は西武田村大字武の一部であった</ref>。この武駅は後に西鹿児島駅に改称し、[[九州新幹線 (鹿児島ルート)|九州新幹線鹿児島ルート]]開業に伴い鹿児島中央駅に改称している。


[[1911年]](明治44年)になり、[[府県制]]における鹿児島県の議決機関であった鹿児島県[[参事会]]は、西武田村のうち鹿児島市との[[飛地]]となっている天保山・八幡田圃及び、武の大半を鹿児島市に編入することを決定した{{Sfn|四元幸夫|1974|p=102}}。これに対して西武田村は土地の肥えた水田が多い地域であった前述の区域が鹿児島市へ編入されることは死活問題であるとして大いに反対し、熊本県における市郡の関係を調査したほか、当時[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]であった[[原敬]]に対して[[請願]]を行うなど編入の防止に努めた{{Sfn|四元幸夫|1974|p=102}}{{Sfn|有田忠雄、河口貞徳、村田凞、稲葉行雄、村野守治、四本健光、紀野健一郎|1955|p=520}}{{Sfn|松本栄児|1915|p=2}}。
[[1934年]](昭和9年)に西武田村が鹿児島市に編入され、大字武の残部を全て武町に編入し<ref>鹿兒島市内大字名廢止町名改稱竝ニ區域變更(昭和9年鹿児島県告示第334号、{{ws|[[:s:鹿兒島市内大字名廢止町名改稱竝ニ區域變更|原文]]}})</ref>、天保山町となった区域を除いた大字武の全域が鹿児島市の町名である「'''武町'''」となった<ref name="kadokawar"/>。


しかし、反対運動の甲斐もなく同年[[8月4日]]に鹿児島県公報に掲載された「{{ws|[[:s:市村の境界変更 (明治44年鹿児島県告示第400号)|市村の境界変更]]}}」(明治44年鹿児島県告示第400号)により、同年[[9月30日]]を以て大字武のうち、[[小字]]大坪、森田、一町田、溝添、前田、西牟田、下小田崎、永田、上小田崎、榎田、冷水、小汐手、小丸、南牟田、二枝、三枝、浮牟田、番田、島廻、堀之口、川ノ口、堤内、一貫地、塚濱、入物田、汐入、天保山、四ツ枝、雪之口、濱田、大水町、宮田、八反田、上山田、栗木田、中福羅、城本、砂走、大鍋、福廻が隣接する[[鹿児島市]]に編入された{{Sfn|鹿児島市|1916|p=3}}<ref>市村の境界変更(明治44年鹿児島県告示第400号、明治44年8月4日鹿児島県公報第3151号所収、{{ws|[[:s:市村の境界変更 (明治44年鹿児島県告示第400号)|原文]]}})</ref>。これにより、鹿児島市を挟んだ[[飛地]]となっていた通称「八幡田圃」(現在の[[鹿児島市立甲南中学校]]付近)にあたる小字川ノ口、堤内、一貫地、塚濱、入物田、汐入、四ツ枝、雪之口、濱田の区域が[[高麗町]]に編入され、通称「天保山」(現在の[[天保山町 (鹿児島市)|天保山町]]の北半分)の区域にあたる小字天保山の区域が[[下荒田|下荒田町]]にそれぞれ編入され{{Sfn|鹿児島市|1935|p=410}}{{Sfn|有田忠雄、河口貞徳、村田凞、稲葉行雄、村野守治、四本健光、紀野健一郎|1955|p=521}}、また鹿児島市に編入された大字武のその他の区域を以て新たに鹿児島市の[[町丁|町]]「'''武町'''」が設置された{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}。編入時の鹿児島市武町の人口は724人、世帯数は156戸であった{{Sfn|有田忠雄、河口貞徳、村田凞、稲葉行雄、村野守治、四本健光、紀野健一郎|1955|p=520}}。また、この編入によって四十九町一反二畝一歩の水田が鹿児島市に編入され、西武田村大字武に残った水田は僅かに一町二反二畝十九歩であった{{Sfn|四元幸夫|1974|p=102}}。
[[1970年]](昭和45年)には一部が[[中央町 (鹿児島市)|中央町]]、西田一丁目となり、[[1975年]](昭和50年)に武町の一部の他に[[上荒田町]]、[[西田 (鹿児島市)|西田町]]、[[常盤 (鹿児島市)|常盤町]]の各一部より'''武一丁目'''及び'''武二丁目'''が成立した。武町は同年に一部が西田二丁目及び西田三丁目に分割され、[[1980年]](昭和55年)に武町の全域より'''武三丁目'''が成立した<ref name="kadokawar">『[[角川日本地名大辞典]] 46 鹿児島県』角川書店 p.405</ref>。

=== 鹿児島市編入後の武 ===
[[ファイル:Nishi-Kagoshima_Station_1959.jpg|thumb|1959年ごろの西鹿児島駅駅前広場。当時の西鹿児島駅は武町の区域であった。]]
[[1911年]](明治44年)の西武田村大字武の一部が鹿児島市へ編入されて以降(前述)、[[1934年]](昭和9年)に西武田村の全域が鹿児島市に編入されるまでの間(後述)、武は鹿児島市に属する「武町」と、西武田村に残存している「大字武」が存在した。

[[1913年]]([[大正]]2年)[[10月11日]]には鹿児島市武町に川内線(後の[[鹿児島本線]]の一部)の武駅が設置された{{Sfn|鹿児島市|1935|p=366}}<ref>九州川内線鹿兒島東市來間鐵道運輸營業開始(大正2年鉄道院告示第91号、大正2年10月18日官報掲載、{{ws|[[:s:九州川内線鹿兒島東市來間鐵道運輸營業開始|原文]]}})</ref><ref>『日本鉄道旅行地図帳 12号 九州・沖縄』 p.51 新潮社</ref>。この武駅は[[1927年]](昭和2年)[[10月14日]]に西鹿児島駅に改称し{{Sfn|鹿児島市|1935|p=366}}、[[2004年]](平成16年)には[[九州新幹線 (鹿児島ルート)|九州新幹線鹿児島ルート]]開業に伴い、[[鹿児島中央駅]]に改称している{{Sfn|南日本新聞|2015|p=527}}<ref group="註">現在の鹿児島中央駅の所在地は[[中央町 (鹿児島市)|中央町]]であるが、1970年まで鹿児島市武町の区域であった。</ref>。

[[1934年]](昭和9年)[[8月1日]]に[[西武田村]]が[[鹿児島郡]][[中郡宇村]]及び[[吉野村 (鹿児島県)|吉野村]]と共に[[鹿児島市]]に編入された<ref>中郡宇村西武田村及吉野村ヲ廢シ鹿兒島市ヘ編入(昭和9年鹿児島県告示第327号、昭和9年7月27日付鹿児島県公報号外所収、{{ws|[[:s:中郡宇村西武田村及吉野村ヲ廢シ鹿兒島市ヘ編入|原文]]}})</ref>{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=783}}{{Sfn|有田忠雄、河口貞徳、村田凞、稲葉行雄、村野守治、四本健光、紀野健一郎|1955|p=600}}。同日発行の鹿児島県公報に掲載された[[鹿児島県]][[告示]]「{{ws|[[:s:鹿兒島市内大字名廢止町名改稱竝ニ區域變更|鹿兒島市内大字名廢止町名改稱竝ニ區域變更]]}}」により「大字武ノ區域ヲ武町ニ編入」することが鹿児島県知事によって許可され、西武田村の大字武の全域が鹿児島市武町に編入された{{Sfn|有田忠雄、河口貞徳、村田凞、稲葉行雄、村野守治、四本健光、紀野健一郎|1955|p=601}}{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}。

[[第二次世界大戦]]中の[[鹿児島大空襲]]では、西鹿児島駅付近において爆撃が行われ、西鹿児島駅が焼失したほか{{Sfn|松本栄児|1915|p=112}}、西鹿児島駅の近隣に所在していた[[鹿児島師範学校]]が焼失した{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=963}}。

[[1970年]](昭和45年)に西鹿児島駅前一帯(中洲工区)において[[住居表示]]が実施されることとなり、町界町名の変更が実施された{{Sfn|南日本新聞|1990|p=778}}。武町・[[上荒田町]]・[[上之園町]]・[[西田 (鹿児島市)|西田町]]の各一部より[[中央町 (鹿児島市)|中央町]]が設置され、一部が[[上之園町]]に編入された{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=127}}<ref name="city-s451001">{{cite web|url=http://kagoshima-hiroba.jp/wp/oldpdf/s45/s45_10_01.pdf|title=かごしま市民のひろば|publisher=鹿児島市|page=2|author=鹿児島市広報室|accessdate=2020-12-19|date=1970-10-01}}</ref>。

[[1975年]](昭和50年)[[6月27日]]には武・西田地区において住居表示が実施されることとなった{{Sfn|南日本新聞|1990|p=778}}。それに伴う町域再編により、武町・[[上荒田町]]の各一部より「'''武一丁目'''」、武町の一部より「'''武二丁目'''」、武町・[[西田 (鹿児島市)|西田町]]の各一部より[[西田 (鹿児島市)|西田二丁目]]、武町・[[常盤 (鹿児島市)|常盤町]]・西田町の各一部より[[西田 (鹿児島市)|西田三丁目]]が設置された<ref>町の区域の新設及び変更(昭和50年鹿児島県告示第698号、昭和50年6月27日付鹿児島県公報第6805号所収)</ref>{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}<ref>{{cite web|url=http://kagoshima-hiroba.jp/wp/oldpdf/s50/s50_06_01.pdf|title=かごしま市民のひろば(昭和50年6月号)|date=1975-06|publisher=鹿児島市|accessdate=2021-04-10}}</ref>。[[1980年]](昭和55年)[[7月28日]]には、武・田上地区において住居表示が実施されることとなり{{Sfn|南日本新聞|1990|p=778}}、武町・[[田上 (鹿児島市)|田上町]]・常盤町の各一部より「'''武三丁目'''」が設置され、武町の一部が武一丁目及び武二丁目の一部に、西田町・常盤町・武町の一部が西田三丁目に編入された<ref>町の区域の新設及び変更(昭和55年鹿児島県告示847号、昭和55年6月13日付鹿児島県公報第7526号所収)</ref>{{Sfn|南日本新聞|1990|p=778}}{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}<ref>{{cite web|url=http://kagoshima-hiroba.jp/wp/oldpdf/s55/s55_07_01.pdf|title=かごしま市民のひろば(昭和55年7月号)|date=1980-07|publisher=鹿児島市|accessdate=2021-04-10}}</ref>。また、同年には[[1967年]](昭和42年)に計画が決定された「武・田上地区[[土地区画整理事業]]」が完工した{{Sfn|南日本新聞|1990|p=775}}。総事業費は65億7500万円であった{{Sfn|南日本新聞|1990|p=775}}。

[[1986年]](昭和61年)[[2月10日]]には東田上・田上団地地区において住居表示が実施されるのに併せて町域再編が実施され{{Sfn|南日本新聞|1990|p=778}}、田上町の一部及び武町の全域より[[田上 (鹿児島市)|田上一丁目]]が設置された<ref>町の区域の設定及び変更(昭和61年鹿児島県告示第257号、昭和61年2月10日付鹿児島県公報第8352号所収)</ref><ref name="city-s61-01">{{cite web|url=http://kagoshima-hiroba.jp/wp/oldpdf/s61/s61_01_01.pdf|title=かごしま市民のひろば(昭和61年1月号)|date=1986-01|publisher=鹿児島市|accessdate=2021-01-03}}</ref>。同年[[7月10日]]には豪雨を原因とするがけ崩れが武二丁目において発生した{{Sfn|南日本新聞|1990|p=800}}。

[[1990年]]([[平成]]2年)[[2月13日]]には田上町中園地区において住居表示が実施されることとなり{{Sfn|南日本新聞|2015|p=828}}、それに伴い町の区域の再編が実施された<ref name="city-h02-02">{{cite web|url=http://kagoshima-hiroba.jp/wp/oldpdf/h02/h02_02_01.pdf|title=かごしま市民のひろば1990年 (平成2年1月号) 第273号|publisher=鹿児島市(鹿児島市広報デジタルアーカイブ)|accessdate=2012-04-13}}</ref>。田上町及び田上一丁目の一部が武三丁目に編入された<ref name="city-h02-02"/>。


=== 町・字域の変遷 ===
=== 町・字域の変遷 ===
{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
|-
|-
!変更後
!分割・統合実施後
!変更年
!分割・統合実施年
!変更前
!分割・統合実施前
|-
|-
|鹿児島近在塩屋村(新設)
|colspan="3"|<center>西武田村大字武</center>
|[[寛永]]5年([[1628年]])
|rowspan="2"|鹿児島近在武村(一部)
|-
|-
|鹿児島城下新屋敷町
|鹿児島市天保山町||rowspan="2"|[[1911年]](明治44年)||rowspan="2"|西武田村大字武の一部
|明治時代初期
|-
|-
|鹿児島市
|鹿児島市下荒田(編入)
|rowspan="3"|[[1911年]](明治44年)
|鹿児島郡西武田村大字武字天保山(全域)
|-
|-
|鹿児島市||[[1934年]]昭和9年||西武田村大字武の全域
|鹿児島市高麗町(編入
|鹿児島郡西武田村大字武(八幡田圃)<ref group="註">鹿児島郡西武田村大字武のうち小字川ノ口、堤内、一貫地、塚濱、入物田、汐入、四ツ枝、雪之口、濱田の区域</ref>
|-
|-
|colspan="3"|<center>鹿児島市武町</center>
|鹿児島市武町(新設)
|鹿児島郡西武田村大字武(一部)<ref group="註">鹿児島郡西武田村大字武のうち[[小字]]大坪、森田、一町田、溝添、前田、西牟田、下小田崎、永田、上小田崎、榎田、冷水、小汐手、小丸、南牟田、二枝、三枝、浮牟田、番田、島廻、堀之口、大水町、宮田、八反田、上山田、栗木田、中福羅、城本、砂走、大鍋、福廻の区域</ref>
|-
|-
|鹿児島市武町(編入)
|中央町||rowspan="2"|[[1970年]](昭和45年)||rowspan="2"|武町の一部
|[[1934年]](昭和9年)
|鹿児島郡西武田村大字武(全域)<ref group="註">この際に鹿児島市武町に編入された大字武とは[[1911年]](明治44年)に鹿児島市に編入された区域を除く西武田村に残存した区域である</ref>
|-
|-
|rowspan="4"|中央町(新設)
|西田一丁目
|rowspan="5"|[[1970年]](昭和45年)
|武町(一部)
|-
|-
|上之園町(一部)
|武一丁目及び二丁目||rowspan="2"|[[1975年]](昭和50年)||武町、上荒田町、西田町、常盤町の各一部
|-
|-
|西二丁目及び三丁目||武一部
|上荒田町一部
|-
|-
|西田町(一部)
|武三丁目||[[1980年]](昭和55年)||武町の残余部の全域
|-
|上之園町(編入)
|武町(一部)
|-
|rowspan="2"|武一丁目(新設)
|rowspan="8"|[[1975年]](昭和50年)
|武町(一部)
|-
|上荒田町(一部)
|-
|武二丁目(新設)
|武町(一部)
|-
|rowspan="2"|西田二丁目(新設)
|武町(一部)
|-
|西田町(一部)
|-
|rowspan="3"|西田三丁目(新設)
|武町(一部)
|-
|常盤町(一部)
|-
|西田町(一部)
|-
|rowspan="3"|武三丁目(新設)
|rowspan="5"|[[1980年]](昭和55年)
|武町(一部)
|-
|田上町(一部)
|-
|常盤町(一部)
|-
|武一丁目(編入)
|rowspan="2"|武町(一部)
|-
|武二丁目(編入)
|-
|rowspan="2"|田上一丁目(新設)
|rowspan="2"|[[1986年]](昭和61年)
|田上町(一部)
|-
|武町(全域)
|-
|rowspan="2"|武三丁目(編入)
|rowspan="2"|[[1990年]](平成2年)
|田上町(一部)
|-
|田上一丁目(一部)
|}
|}


== 施設 ==
== 人口 ==
=== 町丁別 ===
[[ファイル:Take Elementary School.JPG|thumb|[[鹿児島市立武小学校]]]]
[[ファイル:Kagosimahonsen Nishikagosima eki 6.jpg|thumb|[[鹿児島中央駅]]西口]]
;教育
:*[[鹿児島市立武小学校]]
:*[[鹿児島市立武中学校]]
:*鹿児島医療事務専門学校
;郵便局
:*鹿児島武郵便局
;金融機関
:*かんぽ生命鹿児島支店
;寺社
:*建部神社
:*: 鎌倉期に[[大隅国]]小根占郷(後の[[肝属郡]][[根占町]]、現在の[[南大隅町]]の一部)に創建されたもので、[[永正]]17年には武村の高麗(現在の[[高麗町]]付近)<ref>[[#古地図1996|古地図に見るかごしまの町]] p.106</ref>または上之園(現在の[[上之園町]]付近)に移転し、[[明和]]頃に現在地に移転したものである<ref>[http://www.kagojinjacho.or.jp/search/kagoshima/kagoshima/post-630.html 建部神社] - 鹿児島県神社庁 2012年6月2日閲覧。</ref>。
;宿泊
:*JR九州ホテル鹿児島
:*ホテルアービック鹿児島
;その他
:*[[九州旅客鉄道鹿児島支社]]

== 交通 ==
===鉄道===
;[[九州旅客鉄道]]
:*[[鹿児島中央駅]](西口)

===道路===
;[[地域高規格道路]]
:*[[鹿児島東西幹線道路]](鹿児島東西道路)
:**[[建部インターチェンジ]]
;[[国道]]
:*[[国道3号]]([[鹿児島バイパス]])
;県道
:*[[鹿児島県道24号鹿児島東市来線]]
:*[[鹿児島県道35号永吉入佐鹿児島線]]

==世帯数・人口==
{| class="wikitable" style="text-align:right"
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|+ 世帯数・人口<ref name="tokei"/>
|+ 世帯数・人口<ref name="tokei"/>
176行目: 233行目:


=== 人口の変遷 ===
=== 人口の変遷 ===
以下の人口の変遷は明治時代から昭和初期にかけてのデータである{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}。
{| class="wikitable" style="background-color:#fee0fb width:40%"
{| class="wikitable"
|-
|-
| |'''統計年次〔年〕'''
!統計年次〔年〕
| |'''世帯数〔世帯〕'''
!世帯数〔世帯〕
| |'''総人口〔人〕'''
!総人口〔人〕
| |'''出典'''
!出典
|-
|-
|[[1882年]](明治15年)
![[1882年]](明治15年)
|style="text-align:right;"|315
|315
|style="text-align:right;"|1,282
|1,282
|{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}
|<ref name="kadokawar"/>
|-
|-
|[[1911年]](明治44年)
![[1911年]](明治44年)
|style="text-align:right;"|764
|764
|style="text-align:right;"|5,394
|5,394
|{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}
|<ref name="kadokawar"/>
|-
|-
|[[1912年]](大正元年)
![[1912年]](大正元年)
|style="text-align:right;"|156
|156
|style="text-align:right;"|724
|724
|{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}
|<ref name="kadokawar"/>
|-
|-
|[[1920年]](大正9年)
![[1920年]](大正9年)
|style="text-align:right;"|757
|757
|style="text-align:right;"|3,498
|3,498
|{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}
|<ref name="kadokawar"/>
|-
|-
|[[1935年]](昭和10年)
![[1935年]](昭和10年)
|style="text-align:right;"|2,400
|2,400
|11,580
|style="text-align:right;"|11,580
|{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=405}}
|<ref name="kadokawar"/>
|}
|}


以下の表は[[国勢調査]]による小地域集計が開始された1995年以降の人口の推移である。
== 小・中学校の学区 ==
{|
!colspan="2"|統計年
!colspan="2"|人口
|-
|[[1995年]](平成7年)
|<ref>{{cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?&stat_infid=000023630600|title=国勢調査 / 平成7年国勢調査 小地域集計 / 小地域集計 46鹿児島県|publisher=総務省統計局|accessdate=2021-04-09}}</ref>
|style="text-align:right;"|6,491
|<div style="width:64.91px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|[[2000年]](平成12年)
|<ref>{{cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?&stat_infid=000025138246|title=国勢調査 / 平成12年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県|publisher=総務省統計局|accessdate=2021-04-09}}</ref>
|style="text-align:right;"|6,877
|<div style="width:68.77px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|[[2005年]](平成17年)
|<ref>{{cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?&stat_infid=000025514538|title=国勢調査 / 平成17年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県|publisher=総務省統計局|accessdate=2021-04-09}}</ref>
|style="text-align:right;"|7,108
|<div style="width:71.08px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|[[2010年]](平成22年)
|<ref>{{cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?&stat_infid=000012671630|title=国勢調査 / 平成22年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県|publisher=総務省統計局|accessdate=2021-04-09}}</ref>
|style="text-align:right;"|7,220
|<div style="width:72.2px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|-
|[[2015年]](平成27年)
|<ref name="gov-2015">{{cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?&stat_infid=000031522312|title=国勢調査 / 平成27年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県|publisher=総務省統計局|accessdate=2021-04-09}}</ref>
|style="text-align:right;"|7,164
|<div style="width:71.64px;height:10px;background:#9999ff"></div>
|}

== 文化財 ==
=== 市指定 ===
* 武一丁目の田の神(有形民俗文化財(民俗資料)){{Sfn|鹿児島市|2020|p=4}}

== 施設 ==
[[File:Kagoshima Take Post office.JPG|thumb|鹿児島武郵便局]]
=== 公共 ===
* 武福祉館{{Sfn|南日本新聞|2015|p=646}}<ref>{{cite web|url=http://www.city.kagoshima.lg.jp/kenkofukushi/fukushi/chi-fukushi/shisetsu/kenko/011.html|title=武福祉館|publisher=鹿児島市|accessdate=2021-04-09}}</ref>
* 西郷公園(西郷隆盛屋敷跡)
* 鹿児島市営鹿児島中央駅西口自転車等駐車場{{Sfn|南日本新聞|2015|p=848}}

=== 教育 ===
* [[鹿児島市立武中学校]]{{Sfn|南日本新聞|2015|p=951}}
* [[鹿児島市立武小学校]]{{Sfn|南日本新聞|2015|p=950}}
* 武幼稚園{{Sfn|南日本新聞|2015|p=942}}

=== 寺社 ===
* 建部神社
*: [[大己貴命]]を祀る{{Sfn|鹿児島市|1935|p=331}}。武の[[産土神]]であり、「でめ神社」とも呼ばれる{{Sfn|四元幸夫|1974|p=51}}。
* 興照寺{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=688}}
* 正縁寺{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=688}}

=== 郵便局 ===
* 鹿児島武郵便局<ref>{{cite web|url=https://map.japanpost.jp/p/search/dtl/300178481000/|title=鹿児島武郵便局|publisher=日本郵便|accessdate=2021-04-09}}</ref>

=== その他 ===
* [[自衛隊鹿児島地方協力本部]]鹿児島募集案内所<ref>{{cite web|url=https://www.mod.go.jp/pco/kagoshima/about/access/|title=所在地・アクセス|publisher=自衛隊鹿児島地方協力本部|accessdate=2021-04-10}}</ref>
* [[長島美術館]]{{Sfn|南日本新聞|2015|p=1044}}
* [[九州旅客鉄道]][[九州旅客鉄道鹿児島支社|鹿児島支社]]
* [[FMぎんが]]

== 交通 ==
[[File:Sakurajima n700.jpg|thumb|武二丁目を通る[[九州新幹線 (鹿児島ルート)|九州新幹線]]と[[鹿児島中央駅]]]]
[[File:Takeoka Tunnel 2021.jpg|thumb|[[武岡トンネル|新武岡トンネル・武岡トンネル]]]]
[[ファイル:Kagoshima_prefectural_road_35_at_Takema-chi_Crossing.JPG|thumb|武町交差点]]
武の北部を[[九州新幹線 (鹿児島ルート)|九州新幹線]]が東西に通っており、武と中央町の境界線上に[[鹿児島中央駅]]が設置されている。また、鹿児島中央駅から武の南端を[[鹿児島本線]]が通っている。

[[1988年]](昭和63年)[[3月29日]]には[[田上 (鹿児島市)|田上町]](現在の田上八丁目)に設置された[[鹿児島インターチェンジ]]と武との間を結ぶ[[国道3号]][[鹿児島バイパス]]([[武岡トンネル]])が供用を開始した{{Sfn|南日本新聞|1990|p=792}}。[[2013年]](平成25年)[[9月29日]]には[[鹿児島東西幹線道路]]の[[田上インターチェンジ]]から[[建部インターチェンジ]]までの供用が開始された{{Sfn|南日本新聞|2015|p=1234}}。
=== 鉄道 ===
;[[九州旅客鉄道]]
:*[[鹿児島中央駅]](西口)

=== 道路 ===
; [[一般国道]]
:* [[国道3号]]
:** [[鹿児島東西幹線道路]](鹿児島東西道路)
:*** [[建部インターチェンジ]]
:** [[鹿児島バイパス]]
; [[主要地方道]]
:* [[鹿児島県道24号鹿児島東市来線]]
:* [[鹿児島県道35号永吉入佐鹿児島線]]

=== バス ===
* 鹿児島中央駅西口([[鹿児島交通]]・[[南国交通]]・[[鹿児島市交通局]])
* 柳田通([[鹿児島交通]]・[[南国交通]]・[[鹿児島市交通局]])
* 武小学校前([[鹿児島交通]])
* 武二丁目([[南国交通]]・[[鹿児島市交通局]])
* 武町([[鹿児島交通]])
* 宮田通([[鹿児島交通]])
* 武中学校下([[鹿児島交通]]・[[南国交通]])

== 教育 ==
[[ファイル:Kagoshima-Take Junior High School - panoramio.jpg|thumb|[[鹿児島市立武中学校]]]]
[[ファイル:Take Elementary School.JPG|thumb|[[鹿児島市立武小学校]]]]
=== 旧制学校 ===
かつて武町には現在の[[鹿児島大学]]教育学部の前身となる[[鹿児島師範学校]]が設置されており、[[1910年]](明治43年)に[[山下町 (鹿児島市)|山下町]]に設置されていた師範学校の男女分離に伴って武町に男子を対象とする鹿児島県師範学校が設置された{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=826}}。また師範学校の付属小学校が設置された{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=847}}。[[1920年]](大正9年)に鹿児島県第一師範学校に改称{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=849}}、[[1934年]](昭和9年)には鹿児島県第二師範学校を統合し、鹿児島県師範学校に改称した{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=912}}。[[1943年]](昭和18年)の[[師範教育令]]によって国立移管され、[[鹿児島師範学校]]となった{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=913}}。[[第二次世界大戦]]中の[[鹿児島大空襲]]によって校舎が焼失したことにより、[[1946年]](昭和21年)に[[鹿屋市]]の[[青年学校]]の仮校舎に移転した{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=963}}。

また、その他の学校として[[1912年]](明治45年)[[5月27日]]に鹿児島鍼灸学校{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=866}}、[[1914年]](大正3年)には鹿児島産婆学校{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=863}}{{Sfn|四元幸夫|1974|p=119}}、[[1919年]](大正8年)には鎮西高等簿記学校{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=864}}、[[1936年]](昭和11年)には三州商業学校{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=864}}、[[1925年]](大正14年)には鹿児島中等学校{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=864}}がそれぞれ設置された。

=== 中学校 ===
武には[[鹿児島市立武中学校]]が設置されている。武中学校は[[1947年]](昭和22年)[[5月1日]]に鹿児島市立第六中学校として設置され{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=948}}、鹿児島市立武小学校及び[[鹿児島市立田上小学校]]を借用していた{{Sfn|四元幸夫|1974|p=129}}。[[1949年]](昭和24年)[[4月1日]]には鹿児島市立武中学校に名称を変更した{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=948}}。[[1950年]](昭和25年)には武小学校の隣接地に新校舎が建設され、田上分教場を統合した{{Sfn|四元幸夫|1974|p=130}}。[[1963年]](昭和38年)には現在地に移転した{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=949}}{{Sfn|四元幸夫|1974|p=130}}。

=== 小学校 ===
武には[[鹿児島市立武小学校]]が設置されている。武小学校は[[1937年]](昭和12年)[[4月1日]]に中洲尋常小学校(現在の[[鹿児島市立中洲小学校]])の校区のうち武町と上荒田町の一部を校区として武尋常小学校として分離され設立された{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1970|p=880}}。[[1941年]](昭和16年)に[[国民学校令]]により武国民学校となり、[[1947年]](昭和22年)に武小学校に改称した{{Sfn|四元幸夫|1974|p=125}}。

=== 小・中学校の学区 ===
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる<ref>{{Cite web|url=http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/5kyouiku/5-1school/_24025.html|title=小・中学校の校区表|publisher=鹿児島市役所|accessdate=2010-08-16}}</ref>。
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる<ref>{{Cite web|url=http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/5kyouiku/5-1school/_24025.html|title=小・中学校の校区表|publisher=鹿児島市役所|accessdate=2010-08-16}}</ref>。
{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
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|-
|}
|}

== 関係する人物 ==
[[ファイル:Saigo_Takamori.jpg|thumb|150px|[[西郷隆盛]]は[[1873年]]から[[1877年]]までの4年間、武村に居住していた。]]
=== 居住 ===
* [[西郷隆盛]]([[武士]]・[[軍人]]・[[維新の三傑]]の一人)
*: [[1873年]](明治6年)に[[征韓論]]に敗れた西郷隆盛は鹿児島に帰郷し武村(現在の武二丁目)に屋敷を構え、[[1877年]](明治10年)の[[西南戦争]]勃発まで居住していた<ref>{{cite web|url=https://www.kagoshima-kankou.com/guide/51925/|title=西郷武屋敷跡|publisher=鹿児島県PR・観光戦略部観光課 公益社団法人鹿児島県観光連盟|accessdate=2021-04-10}}</ref>。西郷の屋敷を訪れた[[庄内藩]][[武士]][[菅実秀]]に同伴した石川静正が著した「薩摩紀行」では武の西郷屋敷について「この武村の邸は、囲いは柴垣で小さい門に小さい古札に西郷吉之助と書いてあり、門の右の方は物置小屋、猟犬をここにつなぎ、左方は入口で土間になり、玄関はなかった。いつも庭の方に廻って座敷に上がった。その座敷の前の庭に大きな松四・五本あるだけで、踏み石なく、少し前は野菜畑であった。敷地外は田圃にて遠く桜島を望み景色絶佳であった。」と記している{{Sfn|四元幸夫|1974|p=36}}。[[1967年]](昭和42年)に計画された土地区画整理事業において、この屋敷付近を児童公園とする計画が立案されたが、西郷屋敷跡は京都の建設会社の所有となっていたことから、地元住民は「西郷屋敷保存会」を発足し、鹿児島県及び鹿児島市に対して西郷屋敷の保存を訴えかけた{{Sfn|四元幸夫|1974|p=151}}。その結果、西郷屋敷跡は[[1979年]](昭和54年)4月に西郷公園として整備され、古井戸や手水鉢、門柱などが残された<ref>{{cite web|url=http://kagoshima-hiroba.jp/wp/oldpdf/s54/s54_06_01.pdf|title=かごしま市民のひろば(昭和54年6月号)|date=1979-06|publisher=鹿児島市|accessdate=2021-04-11}}</ref>{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=688}}。[[2019年]](令和元年)[[11月7日]]には西郷隆盛の[[漢詩]]「南洲翁遺訓」を刻んだ石碑が西郷屋敷跡に建立された<ref>{{cite web|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/557632/|title=西郷隆盛の漢詩刻んだ石碑 西郷屋敷跡の公園に建立 鹿児島市と山形・鶴岡市の兄弟都市盟約50周年|author=上野和重|publisher=西日本新聞|date=2019-11-07|accessdate=2021-04-10}}</ref>。また住人には西郷家に同居していた[[書家]][[川口雪篷]]がおり、西郷隆盛の留守役を果たした{{Sfn|四元幸夫|1974|p=42}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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=== 註 ===
{{Reflist}}
{{Reflist|group=註}}

=== 出典 ===
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書
*{{Cite book|和書
|author = 豊増哲雄
|author = 松本栄児
|year = 1996
|year = 1915
|title = 西武田村誌
|title = 古地図に見る かごしまの町
|publisher = [[鹿児島市立田上小学校|田上尋常高等小學校]]
|ref = {{SfnRef|松本栄児|1915}}
}}
*{{Cite book|和書
|author = 鹿児島市
|year = 1916
|title = 鹿兒島市史
|publisher = 鹿児島市
|ref = {{SfnRef|鹿児島市|1916}}
}}{{近代デジタルライブラリー|1901454}}
*{{Cite book|和書
|author = 鹿児島市
|year = 1935
|title = 鹿児島地誌
|publisher = 鹿児島市
|ref = {{SfnRef|鹿児島市|1935}}
}}{{近代デジタルライブラリー|1223620}}
*{{Cite book|和書
|author = 有田忠雄、河口貞徳、村田凞、稲葉行雄、村野守治、四本健光、紀野健一郎
|year = 1955
|title = 鹿児島のおいたち
|publisher = [[鹿児島市]]
|isbn =
|ref = {{SfnRef|有田忠雄、河口貞徳、村田凞、稲葉行雄、村野守治、四本健光、紀野健一郎|1955}}
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*{{Cite book|和書
|author =木脇栄
|year = 1976
|title = かごしま市史こばなし
|publisher = 南日本新聞開発センター
|isbn =
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*{{Cite book|和書
|author = 四元幸夫
|year = 1974
|title = 武郷土誌
|publisher = [[鹿児島市立武小学校|武小学校]]PTA郷土誌刊行委員会
|ref = {{SfnRef|四元幸夫|1974}}
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*{{Cite book|和書
|author = 鹿児島市史編さん委員会
|year = 1969
|title = 鹿児島市史 第一巻
|publisher = 鹿児島市
|isbn =
|url = http://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/kagoshima-04.html
|ref = {{SfnRef|鹿児島市史編さん委員会|1969}}
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|author = 鹿児島市史編さん委員会
|year = 1970
|title = 鹿児島市史 第二巻
|publisher = 鹿児島市長 [[末吉利雄]]
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|ref = {{SfnRef|鹿児島市史編さん委員会|1970}}
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* {{Cite book|和書
|author = [[南日本新聞]]
|year = 1990
|title = 鹿児島市史 第四巻
|publisher = 鹿児島市長 [[赤崎義則]]
|ref = {{SfnRef|南日本新聞|1990}}
|url = http://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/kagoshima.html
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*{{Cite book|和書
|author = [[南日本新聞]]
|year = 2015
|title = 鹿児島市史 第五巻
|publisher = 鹿児島市長 [[森博幸 (政治家)|森博幸]]
|ref = {{SfnRef|南日本新聞|2015}}
|url = http://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/kagoshima-05.html
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*{{Cite book|和書
|author = 角川日本地名大辞典編纂委員会
|year = 1983
|title = 角川日本地名大辞典 46 鹿児島県
|publisher = [[角川書店]]
|isbn = 978-4040014609
|ref = {{SfnRef|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983}}
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*{{Cite book|和書
|author1 = [[芳即正]]
|author2 = [[五味克夫]]
|year = 1998
|title = [[日本歴史地名大系]]47巻 鹿児島県の地名
|publisher = [[平凡社]]
|isbn = 978-4582910544
|ref={{SfnRef|芳即正|五味克夫|1998}}
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*{{Cite book|和書
|author = 豊増哲雄
|year = 1996
|title = 古地図に見る かごしまの町
|publisher = 春苑堂出版
|publisher = 春苑堂出版
|isbn = 4-915-09337-9
|isbn = 4-915-09337-9
|ref = 古地図1996
|ref = {{SfnRef|豊増哲雄|1996}}
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*{{Cite book|和書
|author =[[今尾恵介]]
|year = 2009
|title = 日本鉄道旅行地図帳 12号 九州・沖縄
|publisher = [[新潮社]]
|isbn = 978-4107900302
|ref = {{SfnRef|今尾恵介|2009}}
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*{{cite web
|url=http://www.city.kagoshima.lg.jp/kyoiku/kanri/bunkazai/bunka/bunka/bunkazai/documents/siteiitiran.pdf
|title=鹿児島市内の指定文化財等一覧表
|publisher=鹿児島市
|date=2020-04-01
|accessdate=2020-11-08
|ref={{SfnRef|鹿児島市|2020}}
}}
}}


==関連項目==
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Take (Kagoshima, Kagoshima)}}
*[[鹿児島市]]
*[[武]]
* [[武 (曖昧さ回避)]]


{{Geographic Location
|Centre = 武
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2021年4月27日 (火) 14:49時点における版

建部神社から鹿児島市街方面を望む
建部神社から鹿児島市街方面を望む
武の位置(鹿児島市中心部内)
武
武の位置(鹿児島市内)
武
武の位置(鹿児島県内)
武
武の位置(日本内)
武
北緯31度34分49.3秒 東経130度32分20.5秒 / 北緯31.580361度 東経130.539028度 / 31.580361; 130.539028座標: 北緯31度34分49.3秒 東経130度32分20.5秒 / 北緯31.580361度 東経130.539028度 / 31.580361; 130.539028
日本の旗 日本
都道府県 鹿児島県の旗 鹿児島県
市町村 鹿児島市
地域 中央地域
地区 武・田上地区
人口
2020年(令和2年)4月1日現在)
 • 合計 7,267人
等時帯 UTC+9 (JST)
郵便番号
890-0045
市外局番 099
ナンバープレート 鹿児島
運輸局住所コード 46500-1117[1]
地図

(たけ[2])は、鹿児島県鹿児島市町丁[3]。旧薩摩国鹿児島郡鹿児島近在武村鹿児島郡西武田村大字武鹿児島市武町郵便番号は890-0045[4]。人口は7,267人、世帯数は4,158世帯。(2020年4月1日現在)[5]。武一丁目から武三丁目まであり、武一丁目から武三丁目までの全域で住居表示を実施している[6]

地理

鹿児島市の中部、新川の下流域に位置している。町域の北方には西田、南方から西方にかけては田上、東方には鹿児島中央駅を挟んで中央町、西方には武岡にそれぞれ接している。

町域の北部を九州新幹線の高架橋が東西に通っており、町域の東端部には鹿児島中央駅がある。中央部には鹿児島県道24号鹿児島東市来線及び国道3号鹿児島バイパスが通り、鹿児島バイパスは武岡トンネルを通り鹿児島ICに至るが、県道24号は武岡トンネルの周辺を南回りに通り、田上の中心部を通り松元方面に至る。また、2013年9月29日新武岡トンネルが開通し、既存の武岡トンネルは鹿児島市街方面、新武岡トンネルは鹿児島IC方面の一方通行の2車線道路として運用されている[7]

教育施設は南東端部には鹿児島市立武小学校、西部にある丘陵の上に鹿児島市立武中学校がある。また、鹿児島本線を挟んで田上上荒田町に接しており、鹿児島車両センターも附近に位置する。

土地区画整理事業

1967年(昭和42年)には鹿児島市街地の西部に位置する武町・西田町・常盤町・上荒田町・田上町の各一部にあたる61ヘクタールの区域において武・田上地区土地区画整理事業に着手し[8]1980年(昭和55年)度に工事が完了した[9]。基本事業費は65億5400万円、2,135戸の建物を移転した[9]

町名の由来

「武」という町名の由来については以下の説がある。

  • 産土神である「建部神社」に由来するという説[3]
  • 稲田がこの付近に多く所在していた為それを田毛と呼称されるようになりそれが訛化したものという説[3][10]
  • アイヌ語で水を汲むところを指す「タ」と場所を意味する「ケ」に由来する説(鹿児島地名考)[10]

歴史

武の成立と中世

建部神社(2021年撮影)

武という地名は南北朝時代より見え、薩摩国鹿児島郡のうちであった。武は「田毛」、「嶽」とも書かれている[3][11]

建徳3年(1372年)の薩藩旧記雑録に収録されている「禅恵譲状」には「さつまのくにかこしまのこほりのうち、たけむらハうハうのかとの事」とあり、村内の門の田地や山野が禅恵の子息二郎四郎(久成)に譲与されているとある[12][11][3]応安7年(1374年)には武村が久成からとよまさに譲与された[13]応永10年(1403年)には島津元久によって宿敵である渋谷氏の渋谷重頼に武之村が与えられている[11][14]。武村にある建部神社は鎌倉時代大隅国小根占郷(後の肝属郡根占町、現在の南大隅町の一部)において創建されたもので、永正17年(1520年)には武村の高麗(現在の高麗町付近)または[15]、上之園(現在の上之園町付近)に移転し、明和頃に現在地に移転したものである[16]

地内の武岡山上(現在の武岡周辺)や野元原は南北朝期の古戦場跡である[3]。武村は田上村と共に天正年間頃より開発がすすめられた[17][3]

近世の武

江戸時代には薩摩国鹿児島郡鹿児島近在のうちであった[3]。「歴代制度巻二〇」によれば武村は鹿児島近在のうちの近名に属していた[18]村高は「天保郷帳」では1,657[3]、「郡村高辻帳」では1,657石余[11]、「三州御治世要覧」では1,814石余[11]、「旧高旧領取調帳」では1,135石余であった[3]。武村には庄屋が置かれ城下士から選任された。また、名主が5名、名頭が51名置かれていた[19]宝暦頃の武村には屋久島蔵、御船手と呼ばれる役所が置かれていた[20]。「三州御治世要覧」によれば塩屋村(現在の甲突町)が武村に含まれていたが[11]寛永5年(1628年)に武村から塩屋村が分立して設置された[21]

また、武村には八幡田圃と天保山と呼ばれる飛地があった[22]。天保山(現在の天保山町の一部)は天保年間に天保の改革の一環として甲突川の浚渫土砂によって埋立てられ造成された[23][24][25]。江戸時代末期には薩摩藩の演習場として利用され、砲台も設置された[3]嘉永元年(1848年)には武之橋が架けられた[11]明治時代初期には村域の一部が新屋敷通町(現在の新屋敷町)に分割された[3]

町村制施行と鹿児島市との境界変更

1889年(明治22年)4月1日には町村制が施行されたのに伴い、鹿児島近在のうち西別府村、武村、田上村の区域より鹿児島郡西武田村が成立した[26]。それに伴って、それまでの武村は西武田村大字」となった[3]

1904年(明治37年)、1908年(明治41年)には天保山が大日本帝国陸軍演習地に編入され、大蔵省の管轄となった[27]

1911年(明治44年)になり、府県制における鹿児島県の議決機関であった鹿児島県参事会は、西武田村のうち鹿児島市との飛地となっている天保山・八幡田圃及び、武の大半を鹿児島市に編入することを決定した[28]。これに対して西武田村は土地の肥えた水田が多い地域であった前述の区域が鹿児島市へ編入されることは死活問題であるとして大いに反対し、熊本県における市郡の関係を調査したほか、当時内務大臣であった原敬に対して請願を行うなど編入の防止に努めた[28][29][30]

しかし、反対運動の甲斐もなく同年8月4日に鹿児島県公報に掲載された「 市村の境界変更」(明治44年鹿児島県告示第400号)により、同年9月30日を以て大字武のうち、小字大坪、森田、一町田、溝添、前田、西牟田、下小田崎、永田、上小田崎、榎田、冷水、小汐手、小丸、南牟田、二枝、三枝、浮牟田、番田、島廻、堀之口、川ノ口、堤内、一貫地、塚濱、入物田、汐入、天保山、四ツ枝、雪之口、濱田、大水町、宮田、八反田、上山田、栗木田、中福羅、城本、砂走、大鍋、福廻が隣接する鹿児島市に編入された[31][32]。これにより、鹿児島市を挟んだ飛地となっていた通称「八幡田圃」(現在の鹿児島市立甲南中学校付近)にあたる小字川ノ口、堤内、一貫地、塚濱、入物田、汐入、四ツ枝、雪之口、濱田の区域が高麗町に編入され、通称「天保山」(現在の天保山町の北半分)の区域にあたる小字天保山の区域が下荒田町にそれぞれ編入され[27][33]、また鹿児島市に編入された大字武のその他の区域を以て新たに鹿児島市の武町」が設置された[3]。編入時の鹿児島市武町の人口は724人、世帯数は156戸であった[29]。また、この編入によって四十九町一反二畝一歩の水田が鹿児島市に編入され、西武田村大字武に残った水田は僅かに一町二反二畝十九歩であった[28]

鹿児島市編入後の武

1959年ごろの西鹿児島駅駅前広場。当時の西鹿児島駅は武町の区域であった。

1911年(明治44年)の西武田村大字武の一部が鹿児島市へ編入されて以降(前述)、1934年(昭和9年)に西武田村の全域が鹿児島市に編入されるまでの間(後述)、武は鹿児島市に属する「武町」と、西武田村に残存している「大字武」が存在した。

1913年大正2年)10月11日には鹿児島市武町に川内線(後の鹿児島本線の一部)の武駅が設置された[34][35][36]。この武駅は1927年(昭和2年)10月14日に西鹿児島駅に改称し[34]2004年(平成16年)には九州新幹線鹿児島ルート開業に伴い、鹿児島中央駅に改称している[37][註 1]

1934年(昭和9年)8月1日西武田村鹿児島郡中郡宇村及び吉野村と共に鹿児島市に編入された[38][39][40]。同日発行の鹿児島県公報に掲載された鹿児島県告示 鹿兒島市内大字名廢止町名改稱竝ニ區域變更」により「大字武ノ區域ヲ武町ニ編入」することが鹿児島県知事によって許可され、西武田村の大字武の全域が鹿児島市武町に編入された[41][3]

第二次世界大戦中の鹿児島大空襲では、西鹿児島駅付近において爆撃が行われ、西鹿児島駅が焼失したほか[42]、西鹿児島駅の近隣に所在していた鹿児島師範学校が焼失した[43]

1970年(昭和45年)に西鹿児島駅前一帯(中洲工区)において住居表示が実施されることとなり、町界町名の変更が実施された[44]。武町・上荒田町上之園町西田町の各一部より中央町が設置され、一部が上之園町に編入された[45][46]

1975年(昭和50年)6月27日には武・西田地区において住居表示が実施されることとなった[44]。それに伴う町域再編により、武町・上荒田町の各一部より「武一丁目」、武町の一部より「武二丁目」、武町・西田町の各一部より西田二丁目、武町・常盤町・西田町の各一部より西田三丁目が設置された[47][3][48]1980年(昭和55年)7月28日には、武・田上地区において住居表示が実施されることとなり[44]、武町・田上町・常盤町の各一部より「武三丁目」が設置され、武町の一部が武一丁目及び武二丁目の一部に、西田町・常盤町・武町の一部が西田三丁目に編入された[49][44][3][50]。また、同年には1967年(昭和42年)に計画が決定された「武・田上地区土地区画整理事業」が完工した[9]。総事業費は65億7500万円であった[9]

1986年(昭和61年)2月10日には東田上・田上団地地区において住居表示が実施されるのに併せて町域再編が実施され[44]、田上町の一部及び武町の全域より田上一丁目が設置された[51][52]。同年7月10日には豪雨を原因とするがけ崩れが武二丁目において発生した[53]

1990年平成2年)2月13日には田上町中園地区において住居表示が実施されることとなり[54]、それに伴い町の区域の再編が実施された[55]。田上町及び田上一丁目の一部が武三丁目に編入された[55]

町・字域の変遷

変更後 変更年 変更前
鹿児島近在塩屋村(新設) 寛永5年(1628年 鹿児島近在武村(一部)
鹿児島城下新屋敷町 明治時代初期
鹿児島市下荒田町(編入) 1911年(明治44年) 鹿児島郡西武田村大字武字天保山(全域)
鹿児島市高麗町(編入) 鹿児島郡西武田村大字武(八幡田圃)[註 2]
鹿児島市武町(新設) 鹿児島郡西武田村大字武(一部)[註 3]
鹿児島市武町(編入) 1934年(昭和9年) 鹿児島郡西武田村大字武(全域)[註 4]
中央町(新設) 1970年(昭和45年) 武町(一部)
上之園町(一部)
上荒田町(一部)
西田町(一部)
上之園町(編入) 武町(一部)
武一丁目(新設) 1975年(昭和50年) 武町(一部)
上荒田町(一部)
武二丁目(新設) 武町(一部)
西田二丁目(新設) 武町(一部)
西田町(一部)
西田三丁目(新設) 武町(一部)
常盤町(一部)
西田町(一部)
武三丁目(新設) 1980年(昭和55年) 武町(一部)
田上町(一部)
常盤町(一部)
武一丁目(編入) 武町(一部)
武二丁目(編入)
田上一丁目(新設) 1986年(昭和61年) 田上町(一部)
武町(全域)
武三丁目(編入) 1990年(平成2年) 田上町(一部)
田上一丁目(一部)

人口

町丁別

世帯数・人口[5]
世帯数 人口
武一丁目 1,753 2,853
武二丁目 1,281 2,153
武三丁目 1,124 2,261
4,158 7,267

人口の変遷

以下の人口の変遷は明治時代から昭和初期にかけてのデータである[3]

統計年次〔年〕 世帯数〔世帯〕 総人口〔人〕 出典
1882年(明治15年) 315 1,282 [3]
1911年(明治44年) 764 5,394 [3]
1912年(大正元年) 156 724 [3]
1920年(大正9年) 757 3,498 [3]
1935年(昭和10年) 2,400 11,580 [3]

以下の表は国勢調査による小地域集計が開始された1995年以降の人口の推移である。

統計年 人口
1995年(平成7年) [56] 6,491
2000年(平成12年) [57] 6,877
2005年(平成17年) [58] 7,108
2010年(平成22年) [59] 7,220
2015年(平成27年) [60] 7,164

文化財

市指定

  • 武一丁目の田の神(有形民俗文化財(民俗資料))[61]

施設

鹿児島武郵便局

公共

  • 武福祉館[62][63]
  • 西郷公園(西郷隆盛屋敷跡)
  • 鹿児島市営鹿児島中央駅西口自転車等駐車場[64]

教育

寺社

郵便局

  • 鹿児島武郵便局[71]

その他

交通

武二丁目を通る九州新幹線鹿児島中央駅
新武岡トンネル・武岡トンネル
武町交差点

武の北部を九州新幹線が東西に通っており、武と中央町の境界線上に鹿児島中央駅が設置されている。また、鹿児島中央駅から武の南端を鹿児島本線が通っている。

1988年(昭和63年)3月29日には田上町(現在の田上八丁目)に設置された鹿児島インターチェンジと武との間を結ぶ国道3号鹿児島バイパス武岡トンネル)が供用を開始した[74]2013年(平成25年)9月29日には鹿児島東西幹線道路田上インターチェンジから建部インターチェンジまでの供用が開始された[75]

鉄道

九州旅客鉄道

道路

一般国道
主要地方道

バス

教育

鹿児島市立武中学校
鹿児島市立武小学校

旧制学校

かつて武町には現在の鹿児島大学教育学部の前身となる鹿児島師範学校が設置されており、1910年(明治43年)に山下町に設置されていた師範学校の男女分離に伴って武町に男子を対象とする鹿児島県師範学校が設置された[76]。また師範学校の付属小学校が設置された[77]1920年(大正9年)に鹿児島県第一師範学校に改称[78]1934年(昭和9年)には鹿児島県第二師範学校を統合し、鹿児島県師範学校に改称した[79]1943年(昭和18年)の師範教育令によって国立移管され、鹿児島師範学校となった[80]第二次世界大戦中の鹿児島大空襲によって校舎が焼失したことにより、1946年(昭和21年)に鹿屋市青年学校の仮校舎に移転した[43]

また、その他の学校として1912年(明治45年)5月27日に鹿児島鍼灸学校[81]1914年(大正3年)には鹿児島産婆学校[82][83]1919年(大正8年)には鎮西高等簿記学校[84]1936年(昭和11年)には三州商業学校[84]1925年(大正14年)には鹿児島中等学校[84]がそれぞれ設置された。

中学校

武には鹿児島市立武中学校が設置されている。武中学校は1947年(昭和22年)5月1日に鹿児島市立第六中学校として設置され[85]、鹿児島市立武小学校及び鹿児島市立田上小学校を借用していた[86]1949年(昭和24年)4月1日には鹿児島市立武中学校に名称を変更した[85]1950年(昭和25年)には武小学校の隣接地に新校舎が建設され、田上分教場を統合した[87]1963年(昭和38年)には現在地に移転した[88][87]

小学校

武には鹿児島市立武小学校が設置されている。武小学校は1937年(昭和12年)4月1日に中洲尋常小学校(現在の鹿児島市立中洲小学校)の校区のうち武町と上荒田町の一部を校区として武尋常小学校として分離され設立された[89]1941年(昭和16年)に国民学校令により武国民学校となり、1947年(昭和22年)に武小学校に改称した[90]

小・中学校の学区

市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[91]

町丁 番・番地 小学校 中学校
武一丁目 全域 鹿児島市立武小学校 鹿児島市立武中学校
武二丁目 全域
武三丁目 全域

関係する人物

西郷隆盛1873年から1877年までの4年間、武村に居住していた。

居住

  • 西郷隆盛武士軍人維新の三傑の一人)
    1873年(明治6年)に征韓論に敗れた西郷隆盛は鹿児島に帰郷し武村(現在の武二丁目)に屋敷を構え、1877年(明治10年)の西南戦争勃発まで居住していた[92]。西郷の屋敷を訪れた庄内藩武士菅実秀に同伴した石川静正が著した「薩摩紀行」では武の西郷屋敷について「この武村の邸は、囲いは柴垣で小さい門に小さい古札に西郷吉之助と書いてあり、門の右の方は物置小屋、猟犬をここにつなぎ、左方は入口で土間になり、玄関はなかった。いつも庭の方に廻って座敷に上がった。その座敷の前の庭に大きな松四・五本あるだけで、踏み石なく、少し前は野菜畑であった。敷地外は田圃にて遠く桜島を望み景色絶佳であった。」と記している[93]1967年(昭和42年)に計画された土地区画整理事業において、この屋敷付近を児童公園とする計画が立案されたが、西郷屋敷跡は京都の建設会社の所有となっていたことから、地元住民は「西郷屋敷保存会」を発足し、鹿児島県及び鹿児島市に対して西郷屋敷の保存を訴えかけた[94]。その結果、西郷屋敷跡は1979年(昭和54年)4月に西郷公園として整備され、古井戸や手水鉢、門柱などが残された[95][70]2019年(令和元年)11月7日には西郷隆盛の漢詩「南洲翁遺訓」を刻んだ石碑が西郷屋敷跡に建立された[96]。また住人には西郷家に同居していた書家川口雪篷がおり、西郷隆盛の留守役を果たした[97]

脚注

  1. ^ 現在の鹿児島中央駅の所在地は中央町であるが、1970年まで鹿児島市武町の区域であった。
  2. ^ 鹿児島郡西武田村大字武のうち小字川ノ口、堤内、一貫地、塚濱、入物田、汐入、四ツ枝、雪之口、濱田の区域
  3. ^ 鹿児島郡西武田村大字武のうち小字大坪、森田、一町田、溝添、前田、西牟田、下小田崎、永田、上小田崎、榎田、冷水、小汐手、小丸、南牟田、二枝、三枝、浮牟田、番田、島廻、堀之口、大水町、宮田、八反田、上山田、栗木田、中福羅、城本、砂走、大鍋、福廻の区域
  4. ^ この際に鹿児島市武町に編入された大字武とは1911年(明治44年)に鹿児島市に編入された区域を除く西武田村に残存した区域である

出典

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  26. ^ 有田忠雄、河口貞徳、村田凞、稲葉行雄、村野守治、四本健光、紀野健一郎 1955, p. 487.
  27. ^ a b 鹿児島市 1935, p. 410.
  28. ^ a b c 四元幸夫 1974, p. 102.
  29. ^ a b 有田忠雄、河口貞徳、村田凞、稲葉行雄、村野守治、四本健光、紀野健一郎 1955, p. 520.
  30. ^ 松本栄児 1915, p. 2.
  31. ^ 鹿児島市 1916, p. 3.
  32. ^ 市村の境界変更(明治44年鹿児島県告示第400号、明治44年8月4日鹿児島県公報第3151号所収、 原文
  33. ^ 有田忠雄、河口貞徳、村田凞、稲葉行雄、村野守治、四本健光、紀野健一郎 1955, p. 521.
  34. ^ a b 鹿児島市 1935, p. 366.
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  36. ^ 『日本鉄道旅行地図帳 12号 九州・沖縄』 p.51 新潮社
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  41. ^ 有田忠雄、河口貞徳、村田凞、稲葉行雄、村野守治、四本健光、紀野健一郎 1955, p. 601.
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参考文献

関連項目