「稲葉董通」の版間の差分
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**次男:[[市橋長璉]](1733-1785) - [[市橋直挙]]の養子 |
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**三男:[[稲葉通房 (江戸時代中期)|稲葉通房]] |
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2020年8月25日 (火) 05:09時点における版
稲葉菫通像(臼杵市・月桂寺所蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 宝永6年(1709年)[1] |
死没 | 元文2年1月17日(1737年2月16日)[1] |
戒名 | 本明院殿一源宗徳大居士 |
墓所 | 東京都港区高輪の東禅寺 |
官位 | 従五位下能登守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 豊後臼杵藩主 |
氏族 | 稲葉氏 |
父母 | 稲葉恒通[1]、玉井氏 |
兄弟 |
菫通、朽木徳綱、通古、山高信昉、 柳生俊平正室、勧修寺顕道室 |
妻 | 有馬則維娘梅渓院、河合氏、中原氏 |
子 | 泰通、市橋長璉、通房、一柳末栄正室 |
稲葉 菫通(いなば まさみち)は、豊後国臼杵藩8代藩主[1]。
略歴
享保5年(1720年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし翌年には、天候不順により藩内に大飢饉が襲って大被害を受け、それによってただでさえ悪化していた藩財政がさらに悪化した。このため、享保14年(1726年)には49か条にわたる倹約令を出して藩財政再建を目指した[1]が、享保17年(1732年)には城下にて大火事が起こるなどして大被害を受けるなど、藩政は多難を極め、藩財政も破綻寸前となった。このような中で失意のうちに元文2年(1737年)正月17日に29歳で死去[1]し、跡を長男・泰通が継いだ。