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* [[宝誌]]([[418年]] - [[514年]]) - 南朝宋から梁の僧侶・神異や予言で知られ「[[野馬台詩]]」の作者に擬せられる。
* [[宝誌]]([[418年]] - [[514年]]) - 南朝宋から梁の僧侶・神異や予言で知られ「[[野馬台詩]]」の作者に擬せられる。
* [[陶弘景]]([[456年]] - [[536年]]) - 南朝梁の医学者・科学者・梁の武帝の信任が厚く「山中宰相」とも呼ばれる。著作に『[[真誥]]』など。
* [[陶弘景]]([[456年]] - [[536年]]) - 南朝梁の医学者・科学者・梁の武帝の信任が厚く「山中宰相」とも呼ばれる。著作に『[[真誥]]』など。
* [[劉キョウ|劉勰]]([[466年]]? - [[532年]]) - 南朝梁の文学評論家。中国で最初の体系的な文芸理論書『[[文心雕竜]]』を著す。
* [[劉勰]]([[466年]]? - [[532年]]) - 南朝梁の文学評論家。中国で最初の体系的な文芸理論書『[[文心雕竜]]』を著す。
* [[周興嗣]]([[470年]]? - [[521年]]) - 南朝斉から梁の官僚・文章家・初学者の漢字習得用テキスト『[[千字文]]』の撰者。
* [[周興嗣]]([[470年]]? - [[521年]]) - 南朝斉から梁の官僚・文章家・初学者の漢字習得用テキスト『[[千字文]]』の撰者。
* [[慧皎]]([[497年]] - [[554年]]) - 南朝梁の僧侶・後漢から梁までの中国僧の事跡を集めた『[[高僧伝]]』の撰者。
* [[慧皎]]([[497年]] - [[554年]]) - 南朝梁の僧侶・後漢から梁までの中国僧の事跡を集めた『[[高僧伝]]』の撰者。

2020年8月24日 (月) 09:20時点における版

千年紀: 1千年紀
世紀: 5世紀 - 6世紀 - 7世紀
十年紀: 500年代 510年代 520年代 530年代 540年代
550年代 560年代 570年代 580年代 590年代
地中海の再統一。ゲルマン系諸国家を滅ぼし、イタリアと北アフリカを回復して、東ローマ帝国の勢威は地中海周辺に轟いた。画像はラヴェンナサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。
サーサーン朝の栄光。画像はホスロー1世を描いたサーサーン朝時代の大皿で、パリのフランス国立図書館メダル陳列室(コイン・メダル博物館)英語版所蔵のもの。
無明時代のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダードの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。
タミル文学の展開。南インドでは紀元前以来の伝統を持つタミル文学が体系化された。画像は インド南端カンニヤークマリ港に近年建てられた、箴言詩集『ティルックラル』でタミル文学を代表するティルヴァッルヴァルの巨像。
前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。
禅宗の祖師達磨。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟等楊の「慧可断臂図」(愛知県常滑市斉年寺蔵)。
六朝の都建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。
文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。
関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。
九州の装飾古墳。古墳時代後期には九州で独特な古墳が展開した。画像は福岡県宮若市諏訪神社の境内から発見された竹原古墳横穴式石室に描かれた装飾絵画で、馬を引いた人物や竜が特徴的である。
モチェ文化。ペルー北部海岸地帯に成立した文化で、紀元前1世紀から紀元後7世紀まで続くが、6世紀半ば以降には急速に衰退した。画像はトルヒーヨ近郊にある「太陽のワカ、月のワカ」の神殿基壇部レリーフに極彩色で描かれた最高神アイアパエクの像。
東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟
ロッサーノの福音書』。古代末期の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。
エジプトのコプト正教会。歴代東ローマ皇帝の妥協にもかかわらず、エジプトでは単性論とも呼ばれる非カルケドン派が主流派であり、この時期には帝国からの分離傾向が強まった。画像は6世紀に作られたコプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている。
アンティオキアの繁栄と凋落。東ローマ帝国シリアの要衝であり、総主教座が置かれたのがアンティオキアである。しかしこの都市も526年の大地震で多数の死傷者が出て、以後かつての賑わいは戻らなかった。画像はこの世紀前半に作られた鍍金銀細工「アンティオキアの聖杯英語版」(メトロポリタン美術館蔵)。
ベイト・アルファ遺跡英語版。現在のイスラエル北部にあるユダヤ教のシナゴーグの遺跡。画像は東ローマ帝国支配の時代に作られた床面のモザイク画で黄道帯(ゾディアック)の輪が十二宮の象徴を伴って描かれている。

6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀

できごと

500年代

510年代

520年代

530年代

  • 530年 - ユスティニアヌス1世が古代ローマ法の集大成である『ローマ法大全』編纂を命じる(533年完成)。
  • 531年
  • 532年 - 東ローマ帝国でニカの乱
    • 皇帝ユスティニアヌス1世は退位逃亡寸前まで追いこまれるが、皇后テオドラの助力で反徒を武力鎮圧。
    • この後コンスタンティノポリス市街の再建が進められ、巨大な地下貯水池(バシリカ・シスタン)もこの時期に造られる。
  • 532年 - 東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシアとの間に「永久平和条約」が結ばれ国境が固定化される。
  • 533年 - 東ローマ帝国が北アフリカのヴァンダル王国を征服。
  • 534年
  • 535年
    • インドネシアクラカタウ火山の爆発による地球規模の大異変が起きる。
      • 世界各地の古文書・年代記・伝承などに異常寒波・自然災害・飢饉・疫病が発生し、その結果政変や文明の崩壊がおきたことが記されている[1]
    • 東ゴート元女王アマラスンタが殺害され、東ローマ帝国が軍事介入を開始(ゴート戦争)。
  • 536年 - 安閑天皇死去、宣化天皇即位。
  • 537年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によりニカの乱で焼失したハギア・ソフィア大聖堂が再建される。
    • 現存するイスタンブールの「アヤソフィア」は再建されたこの3代目の建物を指す。
  • 538年
  • 539年 - 宣化天皇死去、欽明天皇即位。

540年代

550年代

560年代

570年代

  • 570年 - 福岡県元岡古墳群で出土した「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の銘文を持つ鉄製大刀が作られる。
  • 571年 - 北斉の高官徐顕秀の墓中国語版太原に作られる。
  • 572年 - 欽明天皇死去、敏達天皇が即位。
  • 574年 - 北周の武帝の廃仏が始まる(建徳の廃仏、三武一宗の法難の一つ)。
  • 577年 - 北周が北斉を滅ぼし華北を統一する。

580年代

590年代

600年代

  • 600年
    • 日本が第1回遣隋使を派遣(『隋書』倭国伝にみえるが、『日本書紀』に書かれていない)。
    • 隋で三階教が邪教とされ弾圧される。

伝説・フィクションのできごと

  • 502年 - 514年 - 梁の武帝は風狂の僧宝誌を尊崇し、その肖像画を描かせるべく三人の画家を遣わした。宝誌が画家たちの前で自らの顔に裂け目を入れ、顔の皮を左右に拡げると、中から十一面観音菩薩の顔が現れた。かくして画家たちが描いた肖像画を見て武帝は再度宝誌を追うが、その姿を二度と見ることはなかった(『宇治拾遺物語』ほか。京都市西住寺の宝誌和尚像も有名)。
  • 502年 - 549年 - 梁の武帝の治世に活躍した画家の張僧繇が金陵安楽寺の壁画に龍を描き、ややあって目を書き入れたところ龍が画中から動き出し瞬く間に天上に駆け上っていった(張彦遠『歴代名画記』「画竜点睛を欠く」の故事。他の出典として『水衡記』)。
  • 507年 - 越前国味真野に住んでいた、応神天皇の子孫である大迹部皇子(男大迹皇子・継体天皇)のもとに急使が届き、次の帝の候補として白羽の矢が立てられた。皇子は都への旅路を急ぐかたわら、この地に残すことになる恋人照日の前に使者を送り、手紙と愛用した花筐(はながたみ(花籠))を届けさせる(世阿弥の謡曲「花筐」)。
  • 528年 - コネチカット州ハートフォード出身のハンク・モーガンは、兵器工場の職長であった。ある日モーガンは部下に殴られて気絶する。意識を取り戻すと目の前には騎士がいて、騎士に連れて行かれた先はキャメロットだった。モーガンは自分がかのアーサー王宮廷にいることを知る(マーク・トウェインの小説『アーサー王宮廷のヤンキー』)。
  • 564年 - 洛陽が北周軍に包囲された時、敵の策謀を疑い門は閉じられたままだった。救援に来た北斉の将軍高長恭(蘭陵王)が門前で兜を脱ぎ顔を晒したところ、類いまれな美貌を見て門兵が扉を開いた。以後もその美貌が兵卒たちの士気を下げることを恐れ、高長恭は常に異形の仮面をつけて戦い続けた(雅楽蘭陵王」)。
  • 557年以降 - 581年頃 - 北周からの間に長安にいた若者杜子春が財産を使い果たし、仙人の鉄冠子のもとで修行に励むが、ふとした過ちで不老長寿の夢を絶たれてしまう(原作は唐の李復言の伝奇小説『続玄怪録』の「杜子春伝」。日本の芥川龍之介の翻案小説『杜子春』は時代・場所のほか物語に大きく変更あり)。
  • 581年以降 - 広東省の羅浮山麓は梅の名所で、隋の開皇年間に将軍趙師雄がここである清楚な美女に出会い、歓談し酒を酌み交わした。酔いが覚めるとただ一人。美女は梅花の精霊であった(柳宗元「龍城録 趙師雄酔憩梅花下」に見える「羅浮仙伝説」)。
  • 585年以前 - 日本の敏達天皇の時代、元興寺(飛鳥寺)の童子が怪死する事件が相次いだ。雷神により授かったとされる尾張出身の怪力の童子がその元興寺の妖怪を倒し、怪異は収まった。この童子こそ道場法師の前身である(景戒日本霊異記』)。

時代の動向

東アジア

大陸

華北を統一していた北朝北魏の政権中枢が前世紀末に南遷し漢化政策を推し進めた結果、モンゴル高原から南下する柔然の侵攻からの国土防衛を担っていた六つの軍事駐屯地、すなわちの軍隊が著しい地位低下に見舞われ不満を募らせた末に反乱を起こす(六鎮の乱)。戦乱の末に北魏は東西に分裂し、懐朔鎮出身の高歓率いる六鎮の主力と山東系の漢人貴族が結びついて北魏皇族を戴く東魏と、武川鎮出身の宇文泰率いる武川鎮軍閥関中に拠って北魏皇族を戴く西魏が成立する。やがて東魏では高氏、西魏では宇文氏が皇位に登り北斉北周が成立する。当初の劣勢を跳ね返した北周が北斉を下して華北を再統一するが、北周政府の実権を掌握したやはり武川鎮軍閥軍閥出身の楊氏(普六茹氏)への禅譲が行われてが成立し、この政権のもとで柔然に代わって北方から圧力をかけてくる突厥に内部離間を誘って東西分裂により弱体化させることに成功するとともに南朝のが征服され、西晋滅亡以来の南北朝統一が成る。

朝鮮半島

日本

日本では古墳時代後期にあたる。ただし、泊瀬部大王(後の崇峻天皇)が暗殺され異母姉の額田部皇女(後の推古天皇)が立てられた崇峻天皇5年(592年)以降、または厩戸王(後の聖徳太子)が摂政になった推古天皇元年(593年)以降は、飛鳥時代に区分される場合もある。

  • それまでのヤマト王権の王統嫡流が断絶し、誉田別尊大王(後の応神天皇)五世の子孫とされ越前近江に地盤を持ち尾張連草香の娘を妃としていた男大迹王(後の継体天皇)が、大伴氏物部氏巨勢氏らにより畿内に迎えられて前王統の手白香皇女を皇后に迎え、治天下大王として擁立される。やがてこの継体系の王家は新興の蘇我氏と結びつき、武川鎮軍閥系の政権によって大陸が華北の再統一から南北朝の統一へと向かう中、前世紀の「倭の五王」後に途絶えていた活発な東アジア外交を再開する。
  • 考古学の発掘研究によればこの世紀の半ばになって日本列島での鉄鉱石からの製鉄遺構が初めて出現する。同時期に大陸では倭国が弥生時代以来鉄素材の供給源としていた弁韓の後身加羅諸国が新羅に併合されている。
  • 前世紀に九州などで造られ始めていた古墳横穴式石室が全国規模で普及する。
  • この世紀の後期になると畿内では前方後円墳がつくられなくなり、前方後円墳の伝統を保持していた天皇陵含む大型古墳も渟中倉太珠敷大王(後の敏達天皇)の陵墓を最後に以後方墳となる。関東でも群集墳が盛んに造られるようになる。ヤマト王権中央、さらには地方首長の統治下でも仏教の導入が進行し、前方後円墳と結びついていた首長祭祀は以後氏寺における仏教儀礼が担うようになる。

西アジア

南アジア

東南アジア

ヨーロッパ

人物

地中海世界とヨーロッパ

イタリア(東ゴート王国からランゴバルド王国まで)

フランク王国

イングランド・アイルランド

西ゴート王国

東ローマ帝国

西アジア

中央アジア

南アジア

東アジア

南朝

  • 蕭衍464年 - 549年) - 南朝梁の初代皇帝(武帝)(在位502年 - 549年)・仏教保護政策により「皇帝菩薩」と称される。
  • 達磨(ボーディダルマ)(? - 528年頃?) - インド出身の僧侶で禅宗の開祖。梁の武帝と交流があったか。
  • 朱异483年 - 549年) - 南朝の梁の政治家・東魏から亡命した将軍侯景を受け入れ反乱を誘発させた。
  • 侯景503年 - 552年) - 北朝東魏から南朝梁へ降った軍人・侯景の乱を起こし建康を占領・梁の武帝を餓死させる。
  • 宝誌418年 - 514年) - 南朝宋から梁の僧侶・神異や予言で知られ「野馬台詩」の作者に擬せられる。
  • 陶弘景456年 - 536年) - 南朝梁の医学者・科学者・梁の武帝の信任が厚く「山中宰相」とも呼ばれる。著作に『真誥』など。
  • 劉勰466年? - 532年) - 南朝梁の文学評論家。中国で最初の体系的な文芸理論書『文心雕竜』を著す。
  • 周興嗣470年? - 521年) - 南朝斉から梁の官僚・文章家・初学者の漢字習得用テキスト『千字文』の撰者。
  • 慧皎497年 - 554年) - 南朝梁の僧侶・後漢から梁までの中国僧の事跡を集めた『高僧伝』の撰者。
  • 真諦499年 - 569年) - インド出身の訳経僧・四大訳経家の一人・梁から陳の時代に『摂大乗論』『倶舎論』を翻訳。
  • 蕭統501年 - 531年) - 南朝梁の武帝の皇太子・文章家・詩文のアンソロジー『文選』の撰者。
  • 王僧弁(? - 555年) - 南朝梁の将軍・侯景の反乱を鎮圧し元帝を擁立・江陵失陥後は陳霸先と対立し敗死する。
  • 陳霸先503年 - 559年) - 南朝陳の初代皇帝(武帝)(在位557年 - 559年)。王僧弁の残党の反乱に苦慮する。
  • 徐陵507年 - 583年) - 南朝梁から陳の文学者・政治家・梁の太子蕭綱(後の簡文帝)の命で『玉台新詠』を編纂。

北朝

朝鮮

  • 武寧王462年 - 523年) - 百済の第25代国王(在位502年 - 523年)・宋山里古墳群の武寧王陵からは墓誌や副葬品が発見される。
  • 聖王(聖明王)(? - 554年) - 百済の第26代国王(在位523年 - 554年)・日本に仏教を伝える(仏教公伝)・新羅との戦いで戦死。

日本

脚注

注釈
出典
  1. ^ 石弘之著『歴史を変えた火山噴火ー自然災害の環境史ー』刀水書房 2012年 84ページ

参考文献

関連項目

外部リンク

  • ウィキメディア・コモンズには、6世紀に関するカテゴリがあります。