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職貢図

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

職貢図(しょくこうず)は、古代中国王朝皇帝に対する周辺国や少数民族の進貢の様子を表した絵図。「職貢」は「中央政府へのみつぎもの」の意味[1]貢職図とも呼ばれる。南朝梁梁職貢図が有名。

概要

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中国王朝からみた諸と呼ばれた周辺諸民族が、様々な扮装で来朝する様を、文章とともに絵図として描いている。南朝梁から朝の時代まで複数の存在が確認されている。

『梁職貢図』は、南朝梁の武帝(蕭衍)の第7子、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた時代に作成されたと伝えられる。蕭繹は学問好きで、蔵書は10数万巻に及んだという。蕭繹は、南朝梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を荊州や南朝梁の首都建康(現在の南京)で調査し、また裴子野(469年~530年没)の方国使図を参考にしたといわれる[2]

原本は紛失しているが、の画家閻立本による模本(台湾国立故宮博物院蔵)、南唐の画家顧徳謙による模本(台湾国立故宮博物院蔵)、北宋の模本(中国国家博物館蔵)の三種類の模本が現存しているが、いずれも完本ではなく、記事に欠落も多い。「歴史地理風俗的題記」が記された北宋模本でも、絵は12国、題記は13国にとどまっていた。

近年、歴史学者趙燦鵬によって発見された清朝時代の画家張庚による『諸番職貢圖巻』[3]では、18国の題記を含んでいる。

模本

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原本は失われており、模本が次の四種ある。

『蕭繹職貢図』模写

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6世紀に南朝梁元帝・蕭、・繹)時代に作成されたものが中国史上最古とされ、526~539年頃作成。大きさは26.7cm×402.6cmと伝えられる。しかしこの原図は存在せず、模写された「職貢図」(宋人摹本残巻、1077年)が中国国家博物館に収蔵されており、梁職貢図とも呼ばれる。残存する模写図の長さは200.7cmで、絵中には12の地域からの使者が描かれている。

6世紀南朝梁元帝(蕭繹)の職貢図の模写。左から、白題(匈奴部族)、胡蜜丹、呵跋檀、周古柯、鄧至、狼牙脩、亀茲百済波斯滑/嚈噠からの使者。

記載国

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梁職貢図に記載の国々は次の通り[5]

内容

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  • 絵図中の文章の内容。以下中国語漢字含み、また未完全。

末國使
末國漢世且末國勝兵萬[餘]戸[北與丁零東與白]
題接西與波斯接土人剪髮着[氊][帽小袖衣爲衫則開頸而縫前多牛羊]
騾驢今(二)[王]□[姓]安石末粢盤[普通五年遣使來貢獻]

白題國使
白題匈奴旁別種胡也漢初[灌嬰]與匈奴戰斬白題騎一人今在滑
國東六十日行西極波斯二十[日行]土地出□[粟]夌[麥]菓食衣物與滑國
畧同國王姓支名使□毅普通三年[白]題道釋氈獨活使安
遠憐伽到京師貢□[獻]。

胡蜜丹國使
胡蜜丹滑旁小國也普通元年使使隨滑使來朝其表曰(楊)[揚]州天子[日]
出處大國聖主胡□[蜜]王名□㒒遙長跪合掌作禮千萬今滑使到聖
國用附函啓幷水精鐘一口馬一疋聖主有若所勑不敢有異

※「普通元年」は520年

呵跋檀國使
呵跋檀滑旁小國普通元年隨滑使[入]貢。其表曰最所寔恭敬吉天
子東方大地呵跋檀王問訊[兆]一過乃百千[萬]億天子安(隱)[穩]我今遣
使手送此書書不空故上馬一疋銀器一故

周古柯國使
周古柯滑旁小國普通元年隨滑使朝貢[奉]表曰一切所恭敬一切吉具
足如天靜無雲滿月明曜天子身清靜具足亦如此爲四海弘願以爲舟
揚州閻浮提第一廣大國人[民]布滿歡樂庄[莊]嚴如天上不異周
古柯王頂禮弁拜問訊天子□□今上金□一琉璃椀一馬一疋

鄧至國使
鄧至居西涼州界□[羌]別種也宋文帝世鄧至王象屈躭遣其所置[里]
水鎮□[將]象破□[羌]上書□[獻]駿馬天監五年國王象舒彭遣厲僧崇□[獻]
黄耆四百斤馬四疋其俗呼帽曰[突]阿其衣服與宕昌畧同

狼牙脩國使

倭國使

茲國使
茲西[域]所居曰延城漢以[公主]妻烏孫[烏]孫遣其女至漢學皷
琴茲請爲妻其王將降□□以得曰漢外孫□□既及京師□賜
印綬加其妻以公主之號錫車騎笳皷既歸慕漢制乃治宮室作□[紋]
道衛出入傳呼頗自強大歴[歷]魏[晋]至□歳來□[獻]名馬普通二
年遣使康石憶丘波郍奉表入朝

百濟國使

波斯國使
波斯蓋波斯匿王之後也王子祇陁之子孫以王父字爲氏因爲國稱
□[釋]道安西域諸國[志]揵陁越西西海中有安息國揵陁越南波羅
陁國波羅陁國西有波羅斯國城周回三十二里高四□[丈]皆□[築]土爲基
城門皆有樓觀城内屋宇數百閒城外有寺一百四五十里有土山
泉下流向南山中有鷲鳥□[噉]羊時時下地銜羊而去土人患之又優鉢
曇花出□[龍]駒馬別有鹸池□[出]珊瑚馬□[碯]虎□[魄]真珠玫㻁等寶土人不甚
珎交易用金銀婚禮以金帛奴□[婢]牛馬等以四疋馬爲五彩爲蓋
迎婦兄弟把手付度國東萬五千里滑國西萬里極婆羅門國南萬里有
又婆羅門國北萬里即(沉)[泛]壈國大□[通]二年遣[使]至安□越奉□[獻]佛牙

滑國使
(前文缺)有功勇與[八][滑]□□
部索虜入居桑乾滑爲小國屬芮芮齊時始走莫□[獻]而居後強大
征其旁國破波斯□□[槃槃] [罽]賓烏纏龜茲踈勒于闐勾[般]等國開地
千里其土溫暖多山川少林木有五穀國人以□[麪]及羊肉爲糧□[獸]有子兩
腳駱駞野驢有角人善騎射著小袖長身袍金玉爲絡帶(如)[女]人被裘頭上
刻木爲角長六尺金銀飾之少女子兄弟共妻無城郭氊屋爲居東向
開戸其王坐金床隨太歳轉與妻並坐接賓客無文字以木爲契刻之
約物數與旁國通則使旁國胡爲胡書羊皮爲紙無[職官]所降小國使
其王爲[奴]隸事天神毎日則出戸祀神而後食其跪一拜而止止即鳴其
王手足賤者鳴王[衣塟]以木爲□父母死子截一耳塟已即去魏[晋]以
來不通中國天監十五年國王姓厭帶名夷栗陁始使蒲多達□□[獻]
□[延?]賓□□名纈杯普通元年又遣富何了了[獻]黄師子白貂裘
波斯□□子錦王妻□□亦遣使康符真同貢物其使人菶頭剪髮
著波斯錦□[褶]□錦袴朱□[麋]皮長壅鞾其語言則河南人重譯而通焉

張庚『諸番職貢圖巻』

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2011年に発見された張庚による『諸番職貢圖巻』は『愛日吟廬書畫續録』に収められていた[3]。葛嗣枹による『愛日吟廬書畫續録』は四庫全書のうち『続修四庫全書』子部・ 芸術類・1088册に収録されている。以下、張庚模本と表する。

趙燦鵬によれば職貢図における高句麗の題記は『翰苑』高句麗条の記述と関連性が深く、また職貢図は『梁書』諸夷伝の原史料の一つでもあったことが指摘されている。

張庚模本に記された国は、渇槃陀国(タシュクルガン・タジク自治県[6])、武興蕃(仇池国)、高昌国、天門蛮、滑国波斯国、百済国、亀茲国、倭国高句麗国、于闐国、斯羅国(新羅)、周古柯国、呵跋檀国、胡蜜檀国、宕昌国、鄧至国、白題国などである[3]。なお、北宋模本にある狼牙脩国、末国については記載がない。 以下、抄出抄訳。

内容抄出

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  • 渇槃陀国、于闐国は西の小国で、山中の平地にある。渇槃陀王の姓は葛沙氏。大同元年に使を派遣した。
  • 武興蕃=仇池国(族の国)
武興蕃本是仇池國,國王姓楊。其國東連秦嶺,西接宕昌,南接梁漢,北接岐州。去長安九百里。國有十萬戸,世世分減,今已半矣。言語與中國略同。着烏皂突騎帽,長身小袖袍,小口袴,皮靴。種五穀。婚姻備六禮。知詩書。知鶯大同元年,遣使符道安、楊瑍等送啓,乞歸其國


武興蕃は仇池国のことで、国王の姓は楊氏。西で宕昌国に接し、南は梁漢に、北は岐州に接する。
  • 高昌國
「高昌國」はオアシス都市国家の高昌
高昌國,去益州一萬二千里。國人言語與魏略全。有五經、歴代史、諸子集,往往誦讀
  • 天門蠻
天門蛮は不明。

天門蠻者,昔孫休分武陵天門郡,時有怪石自開,故以天門為稱。其種姓曰田、曰覃,主簿者最強盛,金銀各數百石,恃其富豪,不肯賓興。梁初以来,方納質款,輸租賦如平民,遣子田慈入質。

  • 倭国
倭国は南朝斉建元(479年 - 482年)に、上表した。
  • 胡蜜檀国(下記節参照)
  • 斯羅国(下記節参照)

胡蜜檀国についての記述

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西域の胡蜜檀国について北宋模本では「来朝。其表曰、揚州天子、出処大国聖主[7]」という箇所が、張庚模本では「来朝貢。其表曰、揚州天子、日出処大国聖主」となっている。揚州天子が南朝梁の武帝に対し「日出処大国聖主(日出る大国の聖なる主君)」と上表している。南朝梁は東南アジアや西域諸国との交渉が盛んで、諸国の武帝宛国書では仏教用語を用い武帝を菩薩扱いし、南朝梁を礼賛していたといわれる[8]。武帝は仏教信仰でも高名であった。

石井公成は、遣隋使によって煬帝に届けられた倭国(俀國)王に阿毎多利思北孤による国書のうちの「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」[9]という表現との関連について、百済仏教と南朝梁の仏教との密接な関連や、聖徳太子によるとされる三経義疏は、南朝梁の法雲(476年 - 529年)による注釈書『法華義記』、同じく南朝梁の吉蔵(549年 - 623年)による『維摩経義疏』に基づいていることなど関連性の研究がまたれると指摘している[10]

斯羅国(新羅)についての記述

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新羅があるときはの属国であり、あるときはの属国であったと記載されている[11]

斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉

斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。の時代では新羅といい、南朝宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときは倭国に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通2年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して初めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。

韓国の歴史家ユン・ヨングは張庚模本と南京博物院旧蔵模本と比較したうえで「新羅と高句麗を含んだ7国の題起は完全に新しく出現した資料」とした[11]。また、張庚模本の新羅題記の中の「或屬韓或屬倭」(「或るときは韓に属し、或るときは倭(国)に属した」)という記述について、任那日本府369年 - 562年)問題や414年に建立された広開土王碑碑文における

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

百済と新羅は高句麗属民で朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となした。

という記述などの諸問題に関連して議論が起こるだろうとした[11]

脚注

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  1. ^ マイペディア職貢図』 - コトバンク
  2. ^ 榎一雄「梁職貢図について」『東方学』第二十六輯、1963年、東方學會。榎一雄「滑国に関する梁職貢図の記事について」『東方学』第二十七輯、1964年、東方學會。榎一雄「梁職貢図の流伝について」(鎌田博士還暦記念会編『歴史学論叢』所収1969年9月)。榎一雄「職貢図巻」『歴史と旅』1985年(昭和60年)1月号。『榎一雄著作集』第7巻「中国史」、汲古書院、1994年1月)
  3. ^ a b c 趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現」 『文史』2011年第1輯所収、中華書局、北京。南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現
  4. ^ 趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現」 『文史』2011年第1輯所収論文。南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現
  5. ^ 榎一雄「梁職貢図について」『東方学』第二十六輯、1963年、東方學會。榎一雄「滑国に関する梁職貢図の記事について」『東方学』第二十七輯、1964年、東方學會。榎一雄「梁職貢図の流伝について」(鎌田博士還暦記念会編『歴史学論叢』所収、1969年9月)榎一雄「職貢図巻」『歴史と旅』1985年(昭和60年)一月号。榎一雄「描かれた倭人の使節―北京博物館蔵「職貢図巻」―」『榎一雄著作集』第7巻「中国史」、汲古書院、1994年。趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現」 『文史』2011年第1輯所収、中華書局、北京。南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現
  6. ^ a b 玄奘三蔵大唐西域記
  7. ^ 上節参照。「胡蜜丹滑旁小國也普通元年使使隨滑使來朝其表曰(楊)[揚]州天子[日]出處大國聖主」
  8. ^ 河上麻由子「遣隋使と仏教」『日本歴史』717 号、2008年2月、同「中国南朝の対外関係において仏教が果たした役割について : 南海諸国が奉った上表文の検討を中心に」『史学雑誌』第117編第12号,2008年12月。
  9. ^ 隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」。内藤湖南はこの記述を聖徳太子によるとした。『内藤湖南全集第九巻』筑摩書房。
  10. ^ [1]「日出処」を国書で用いた梁代の先例: 趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢図》題記佚文的新発現」
  11. ^ a b c “'양직공도'서 신라ㆍ고구려 제기 발견돼”. 聯合ニュース. (2011年8月23日). オリジナルの2021年5月11日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210511192943/https://www.yna.co.kr/view/AKR20110823082800005 

関連項目

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外部リンク

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