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=== 律令 ===
=== 律令 ===
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[[律令制|律令]]は基本法典として定められた律(刑法)令(行政規定)格(追加規定)式(施行規定)に基づいて国家を運営する体制で、刑法、衛禁、服務、戸婚、後述の均田制や府兵制などもこれによって定められている。隋は政治的には[[北周]]を継承したが、[[律令]]制度は混乱を招いた『[[周礼]]』を基にした北周のものではなく、[[梁 (南朝)|梁]]を基礎とした[[北斉]]のものを模範とした。北斉の『河清律令』が基とされる。[[583年]]に[[高ケイ|高熲]]や[[蘇威]]の貢献が大きい'''開皇律令'''を規定した。律・令を補う法制としての格・式も隋代において完成した<ref name=":0" />。また、残酷な刑罰の廃止や律の簡素化などの改革が行われた。律令は本来皇帝の代替わりごとに修正公布されるもので、煬帝が即位すると'''大業律令'''を定めた。大業律令にも大幅な改革が加えられていたが詳細は判明しない<ref name=":0" />。
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=== 官制 ===
=== 官制 ===

2020年8月17日 (月) 14:17時点における版

大隋
北周
陳 (南朝)
後梁 (南朝)
581年 - 618年 唐
明の位置
隋の領域
公用語 中古漢語
首都 大興城
皇帝
581年 - 604年 文帝
604年 - 618年煬帝
変遷
北周より禅譲・建国 581年
後梁を併合587年
を滅ぼし、全国統一
魏晋南北朝時代から隋へ)
589年
に禅譲618年

呉音: ずい漢音: すい、拼音: Suí581年 - 618年[1])は、中国王朝魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後はが中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。

国号

隋という国号(王朝名)は建業者である高祖楊堅北周時代の爵号である隨(随)国公に因む。楊堅がかつて隨州の刺史に任じられたことで隋朝の名称の由来となった。この隨(国)は地名で現中華人民共和国湖北省随州市に名を遺しているが、唐の時代までは「隨」の略字として辵部(しんにょう、辶)を省いた「隋」と相互に通用され、更にその「隋」から「エ」を省いた「陏」の字が用いられることもあり[2]、その後、おそらくは中唐以降に「隨」と「隋」とは区別されて地名は「隨(随)」、王朝名は 「隋」と固定したようである。その後、高祖楊堅が「隨」字に含まれる辵部に「走る」という字義があって前代迄の寧所に遑なく東奔西走した歴代を髣髴させるためにこれを去り、自らの王朝を「隋」と名付けたとする説、及び辵部には平穏に歩を進める字義がある一方で「隋」には供物としての肉の余りという字義があり、楊堅は改字によって却って王朝の命運を縮めたという附会説も行われ、これが宋朝儒学者たちの儒教的史観による革命解釈に適合するものとして喜ばれたために、以降はこの楊堅改字説が定説となった[3]

歴史

出自

中国歴史
中国歴史
先史時代中国語版
中石器時代中国語版
新石器時代
三皇五帝
古国時代
黄河文明
長江文明
遼河文明
西周

東周
春秋時代
戦国時代
前漢
後漢

孫呉

蜀漢

曹魏
西晋
東晋 十六国
劉宋 北魏
南斉

(西魏)

(東魏)

(後梁)

(北周)

(北斉)
 
武周
 
五代十国 契丹

北宋

(西夏)

南宋

(北元)

南明
後金
 
 
中華民国 満洲国
 
中華
民国

台湾
中華人民共和国

ベトナムの歴史
ベトナム語の『ベトナムの歴史』
文郎国
甌雒
南越
第一次北属期
前漢統治)
徴姉妹
第二次北属期
後漢六朝統治)
前李朝
第三次北属期
南漢統治)
呉朝
丁朝
前黎朝
李朝

陳朝
胡朝
第四次北属期
統治)
後陳朝
後黎朝前期
莫朝
後黎朝
後期
南北朝
莫朝
南北朝
後黎朝後期
阮氏政権 鄭氏政権
西山朝
阮朝
フランス領
インドシナ
ベトナム帝国
コーチシナ共和国 ベトナム
民主共和国
ベトナム国
ベトナム
共和国
南ベトナム
共和国
ベトナム社会主義共和国

隋の皇室である楊氏は『隋書』によれば、後漢代の有名な官僚・楊震の子孫にあたるという。楊震は、かつての教え子が「誰も知らないことですから」と賄賂を渡そうとしたところ、「天知,神知,我知,子知,何謂無知(天地の神々が知っている。私とあなたも知っている。誰も知らぬとどうして言えよう)」と言って拒否したという四知の逸話で有名な人物である。その後、楊氏は北魏初期に武川鎮へと移住し、楊堅の父・楊忠に至るという。武川鎮とは北魏において首都・平城を北の柔然から防衛する役割を果たしていた軍事基地の一つである(武川鎮軍閥六鎮の乱などを参照)。

北魏において、皇室の拓跋氏を元氏に変えるといった風に、鮮卑風の名前を漢民族風に改めるという漢化政策が行われたことがあったが、北周ではこれに反発して、姓名を再び鮮卑風に改め、漢人に対しても鮮卑化政策を行った。この時、漢人である楊氏にも普六茹(ふりくじょ)という姓を与えられたとされる。普六茹とは鮮卑語ヤナギのことである。楊堅も、那羅延という鮮卑風の小字を持っていた。ただし楊氏については、元々は鮮卑の出身で本来の姓が普六茹であり、北魏の漢化政策の際に付けられた姓が楊であるという説[4][5][6][7][8][9][10][11][12]もあり、その根拠として以下のものが挙げられる。

  • 鮮卑人宇文泰が自分と同じ立場の武川鎮軍閥関係者から八柱国と十二大将軍を置いたが、十二大将軍の一人が陳留郡開国公楊忠楊堅の父)であること(の初代皇帝李淵は八柱国の一人の隴西郡開国公李虎の孫)[13]
  • 楊氏は楊震から出たとされるが真偽はわからないこと[14]
  • 楊氏が五胡十六国時代から南北朝時代に、数代にわたり鮮卑の国家北朝官人を務めたことは事実であること[14]
  • 楊堅の祖先は六代の間、北朝の非漢族諸王朝のもとで官人となり、支配階級である鮮卑の名門一族と通婚を行っていること[4]
  • 楊堅の皇后の独孤伽羅は鮮卑族の有力貴族の独孤氏であること[15]
  • 南北朝時代に華北を支配した北朝は鮮卑人を支配層とする王朝であり、隋も北朝の系統から成立したこと[16]

隋の建国まで

楊堅の父・楊忠は北魏が西魏東魏に分裂する際(後にそれぞれ北周・北斉が取って代わる)に宇文泰に従って西魏の成立に貢献し、大将軍を務め、隋国公の地位を得ていた。

568年に楊忠は死去し、楊堅が大将軍・随国公の地位を受け継いだ。北周の武帝は宿敵の北斉を滅ぼし、更に南のを滅ぼす前段階として北の突厥への遠征を企図していたが、576年に崩御した。武帝の跡を継いだ宣帝は奇矯な人物で、5人の皇后を持っていた。このうちの1人が楊堅の長女である麗華であり、麗華は宣帝の側室である朱満月が生んだ太子の宇文闡(後の静帝)を育てた。宣帝の奇行は留まるところを知らず、在位8ヶ月で退位して静帝に位を譲り、自らは天元皇帝を名乗って政務を放棄したので、静帝の後ろに立つ丞相の楊堅への声望が高まっていった。580年に宣帝が崩御すると、楊堅は静帝の摂政として全権を掌握した。これに反発する武川鎮軍閥内の有力者たちは楊堅に対して反乱を起こす。この中で最も大規模なものが尉遅迥によるもので、一時は楊堅の押さえる関中地域以外のすべてで反乱が起きるほどになったが、楊堅は巧みにこれを各個撃破して、北周内における覇権を確固たるものとする。

同年末に随国公から随王へと進み北周の兵権を与えられ、更に581年に静帝より禅譲を受けて隋を建国した[17]

※これ以降は楊堅を(おくりな)の「文帝」で呼ぶ。

南北統一

既に北周武帝により南北統一への道筋は引かれていたが、慎重な文帝は細かい準備を丹念に進めた。当時、南朝の陳では宣帝が北周末期より江北への進出を試みていたが、文帝は陳の間諜を捕縛しても衣服や馬を給して厚く礼をして送り返し、陳とは友好関係を保つようにしていた[18]582年、文帝は陳に対して討伐軍を送り出したが、この年に宣帝が崩御したこともあり、討伐を中止して使者を派遣して弔意を表して軍は撤退した[18]

北の突厥に対しては長城を修復して防備を固める[18]584年に突厥が北方で暴れると、文帝は長城を越えて突厥を攻撃し、その後文帝は突厥内部に巧みに介入して東西に分裂させた[19]

そして淮河長江を結ぶ邗溝(かんこう)を開削して補給路を確保する。更に、かつて南朝から分裂し、北朝の傀儡政権となっていた後梁を併合して前線基地を作る。また文帝は連年にわたり農繁期になると軍を南下させる気配を見せて陳軍に常に長江沿岸に大軍を配置させることを繰り返させることで人心を動揺させて収穫を減らさせ、更に間諜を使って民家に放火させたりした[20]。こうして陳の国力は急速に衰退し、また皇帝が宣帝の子陳叔宝でこれが暗愚極まりない愚帝だったため、陳は内部からも次第に崩壊の色を深めた[20]

588年、文帝は陳への遠征軍を出発させる。この時の遠征軍の総指揮官が文帝の次男楊広(後の煬帝)であり、51万8000という過大とも思える大軍の前に589年に陳の都建康はあっけなく陥落し、陳の皇帝陳叔宝は井戸に隠れているところを捕らえられた[21]。ここに西晋滅亡以来273年、黄巾の乱以来と考えると実に405年の長きにわたった分裂時代が終結した[22]

開皇の治・文帝の治世

7世紀初めの隋と周辺国。
隋帝国〔煬帝時の領土〕と周辺国
隋末の農民反乱地域と群雄の拠点

前後して、文帝は即位した直後から内政面についても次々と改革を打ち出した。

周礼』と鮮卑回帰政策を進めた北周の路線を改めて、北斉の制度も参照しつつ改革を行った。581年には新たな律令である開皇律令を制定した。この律令は晒し首・車折などの残酷な刑罰を廃し、律を簡素化してわかりやすく改めたものであり、後の唐律令はほぼこの開皇律令を踏襲したものである。官制にも大改革を加え、最高機関として尚書省門下省内史省(唐の中書省)の3つを置き、尚書省の下に文書行政機関である六部、即ち人事担当の吏部・財政担当の度支部・儀礼担当の礼部・軍政担当の兵部・法務担当の都官部・土木担当の工部の6つを設けた。その下に実務機関である九寺、またこれとは別に監察機関である御史台を置いた。地方についてもそれまでの州>郡>県という区分を止めて、州>県の2段階に再編を行った。そして文帝の治績の最大のものとして称えられるのが、科挙(正式には貢挙)の実行である。南北朝時代では九品官人法により、官吏の任命権が貴族勢力の手に握られていた。科挙は地方豪族の世襲的任官でなく実力試験の結果によって官吏の任用を決定するという極めて開明的な手段であり、これを持って官吏任命権を皇帝の元へ取り返すことを狙ったのである。このように文帝によって整備された諸制度はほとんどが後に唐に受け継がれ、唐朝274年の礎となった。これらの文帝の治世をその元号を取って開皇の治と呼ぶ。

文帝の皇后の独孤伽羅は非常に強い女性で、文帝に対して「自分以外の女性と子供を作らない」と誓約させていた。これは当時の皇帝としては極めて異例なことであり、しかも独孤皇后は文帝の周囲を厳しく監視し、文帝がほかの女性に近付くことを警戒していた。文帝と独孤皇后の間には6人の子がおり、その長男楊勇が初め皇太子に立てられていたが、楊勇は派手好みで女好きであり、質素を好む文帝・貞操を重視する皇后の両者から嫌われ、それに代わって両親の気に入るように振舞っていた次男楊広が皇太子に立てられる。

604年、文帝は病に倒れた[23]。この病床の間に楊広の本性を知った文帝は激怒して廃太子にした長男楊勇を再び太子にしようとした[24]。しかしそれが叶う直前に文帝は崩御した[25]。病死ともいわれているが、楊広に先手を打たれて右庶子の張衡に殺害されたともいわれる[25]

煬帝の治世

楊広は文帝の崩御により、煬帝として即位した[25]。煬帝は即位後すぐに廃太子の楊勇を探し出して殺害し[25]、更に弟の漢王楊諒の反乱も抑えた[23]。こうして兄弟たちを策謀によって殺害して競合相手を消した煬帝は質素を好んだ文帝とは対照的に派手好みで、父がやりかけていた大土木事業を大々的に推し進め、完成へと至らせた。主なものが首都大興城の建設と、大運河を大幅に延長して河北から江南へと繋がるものとしたことである。これらの大土木工事で河南諸郡の100万余の男女が徴発されて労苦に喘いだ[26]。更に大運河工事に関しても煬帝自身の行幸や首都に対する輸出入、軍隊の輸送などに使われて民間への便益は極めて薄かった[26]。煬帝の派手好みは臣下にも広まり[27]、風紀の弛緩を招いた。更に煬帝は当時は従属していた突厥に備えるため、100万余の男女を徴発して長城の修築を行ない、この過酷な労役で多くの男女が命を落とした[28]。煬帝が行幸を東西に繰り返したことも、国庫や民衆に多大な負担をさせるには十分だった。610年1月には洛陽で諸国の朝貢使節を招いて豪勢な接待をしたことも、民衆に多大な災難を招いた[29]

隋の高句麗遠征
隋の大陸統一により、脅威を感じた高句麗が隋の敵・突厥と結んで隋に対抗しようとする様子を見せたため、隋は100万に及ぶ大軍を起こし、これを3度にわたって攻撃した

611年、煬帝は文帝がやりかけていた高句麗遠征を以後3度にわたって行なった[30]612年から本格的に開始された高句麗遠征は113万人の兵士が徴兵される大規模なものであり、来護児宇文述らが指揮官として高句麗を攻めた[30]。しかし1回目の遠征は大敗し、更に兵糧不足もあって撤退する[31]613年には煬帝自身が軍を率いて高句麗を攻めるが結果は得られず、614年に行なわれた3度目の遠征では高句麗側も疲弊していたこともあって煬帝に恭順の意を示したが、煬帝が条件とした高句麗王の入朝は無視され、煬帝は4回目の遠征を計画する[31]

相次ぐ反乱と群雄割拠、隋の滅亡

煬帝の施政による度重なる負担に民衆は耐えかね、遂に第2次高句麗遠征からの撤兵の途中にかつての煬帝の側近楊素の息子楊玄感黎陽で反乱を起こして洛陽を攻撃した[32]。これは煬帝が派遣した隋軍により鎮圧されて楊玄感は敗死したが、この反乱を契機にして中国全土で反乱が起こり出した[32]

これまで従属していた突厥は隋の衰退を見て再び北方で暴れだしたので、煬帝は自ら軍を率いて北方に向かうも突厥軍に敗れて洛陽に撤退[32]。この敗戦が更なる引き金となり、616年には反乱が各地でピーク状態に達した[33]。やがて反乱軍の頭領は各地で群雄として割拠し、楊玄感の参謀を務めていた李密(北周八柱国・李弼の孫にあたり、関隴貴族集団の中でも上位の1人。楊玄感の敗死後に、洛口倉という隋の大食料集積基地を手に入れることに成功し多数の民衆を集めた)、この李密と激しく争っていた西域出身で隋の将軍を務めていた王世充、高句麗遠征軍から脱走し、同じ脱走兵たちを引き連れて河北に勢力を張った竇建徳、そして隋の太原留守であった李淵(後のの高祖)などが独立勢力となった(隋末唐初の群雄の一覧)。

この反乱に対して煬帝は最初は鎮圧に努めたが、その処理が反徒の殺戮政策という過酷なものだったため、却って逆効果を招いた[33]。激しくなる反乱の中、もはや隋軍では対処し切れなくなり、煬帝は江都に行幸してここに留まり、反乱鎮圧の指揮を執った。しかし煬帝が南方に行幸したことは実質北方を放棄して逃走したも同じであり、北方の反乱はますます激しくなり、遂に李淵により首都大興城までもが落とされてしまう。大興城を掌握した李淵は首都に不在であった煬帝の退位を宣言し(表面上は煬帝を尊んで太上皇としている)、煬帝の孫楊侑(恭帝侑)を即位させた[34]

このような事態にも関わらず、江南に腰を据えた煬帝は次第に酒と宴会に溺れて国政を省みなくなり、遂には諫言や提言する臣下に対して殺戮で臨むようになってまったく民心を失った[34]。だが、煬帝に従って江都に赴いていた隋軍は多くが北方の出身者であり[34]。重臣の宇文化及はこうした情勢の中でついに煬帝を見限り、反煬帝勢力を糾合して618年に謀反を起こし[35]、煬帝を縊り殺した[35]。こうして政権を奪取した宇文化及は、煬帝の甥(煬帝の弟の秦孝王楊俊の子)の秦王楊浩を皇帝に擁立し、江都の隋軍を率いて北へと帰還しようとしたが、王世充・李淵・李密らの勢力に阻まれて大興城を恢復することはできなかった。そこで宇文化及は皇帝楊浩を毒殺し、国号をとして自ら皇帝に即位する。しかし宇文化及は天寿2年(619年)に竇建徳との決戦に大敗して殺害され、ここに許の政権は崩壊した。

また、東都洛陽の留守を任されていた煬帝の孫の越王楊侗は大業14年(618年)の煬帝の死を受け、王世充元文都、皇甫無逸などに擁立されて皇帝に即位した。これが恭帝侗(皇泰主)である。しかし619年には王世充は恭帝侗に禅譲を迫り、自ら皇帝に即位してを立国した。

その一方で、煬帝の死を聞いた李淵は、恭帝侑から禅譲を受けてを建てた。

こうして煬帝は殺害され、煬帝の後継者として隋の正統を名乗った恭帝侑、恭帝侗、秦王楊浩も、それぞれ李淵の唐、王世充の鄭、宇文化及の許に簒奪されたため、隋は完全に滅亡した。なお、煬帝の「」の文字は、「天に逆らい、民を虐げる」という意味を持ち、李淵が贈ったである。

なお、煬帝の孫の一人である楊政道(斉王楊暕の遺腹の子)のみ、唯一生き延びた。彼は突厥の処羅可汗の庇護を受けたが、630年、突厥が滅亡すると、楊政道は唐に帰順して、官職を賜った。楊政道には楊崇礼(隆礼)という子がおり、煬帝の曾孫である。楊崇礼の子女が、楊慎余・楊慎矜・楊慎名の三兄弟で煬帝の玄孫にあたる。特に次男の楊慎矜が兄弟の中でも優秀であったが、747年に隋の復興を企ていると讒言があり、自殺に追い込まれた。妻子は嶺南に流刑に処された。楊慎余と楊慎名も自殺に追い込まれている。

他に煬帝の皇女が唐の第2代皇帝李世民の妃の1人となり、李恪李愔の2男を儲けた。李恪の子孫は少なくとも昆孫の代、李愔の子孫は少なくとも孫の代まで存続し、女系ではあるが隋皇族の血筋はしばらくは保たれている。

政治

律令

律令は基本法典として定められた律(刑法)令(行政規定)格(追加規定)式(施行規定)に基づいて国家を運営する体制で、刑法、衛禁、服務、戸婚、後述の均田制や府兵制などもこれによって定められている。隋は政治的には北周を継承したが、律令制度は混乱を招いた『周礼』を基にした北周のものではなく、を基礎とした北斉のものを模範とした。北斉の『河清律令』が基とされる。583年高熲蘇威の貢献が大きい開皇律令を規定した。律・令を補う法制としての格・式も隋代において完成した[36]。また、残酷な刑罰の廃止や律の簡素化などの改革が行われた。律令は本来皇帝の代替わりごとに修正公布されるもので、煬帝が即位すると大業律令を定めた。大業律令にも大幅な改革が加えられていたが詳細は判明しない[36]

官制

唐代の律令官制の中央行政機関である三省六部は、開皇律令で既に完成しており、三省(中書省門下省尚書省)、六部()、九寺(鴻臚寺など)、一台(御史台)という。ただし隋では「刑部」を「都官」、「戸部」を「度支」とするなど官名が一部異なる。

地方官制としては、州・郡・県の三級制から州・県の二級制(州県制)へ改革した。これは地方長官が任命していた州県官を中央からの派遣に改めて兵権を取り上げることで、門閥貴族を抑圧すると同時に中央集権化を進めた[36]

科挙制度

三国時代曹魏以来、官制としては九品官人法が使われていたが、この制度は家格の高低によって郷品が決められてしまう問題があったため、文帝の時代の地方官制改革と共に廃止された。そのかわりに導入されたのが科挙制度即ち科目別の試験制度である。宮崎市定によると587年に試験が開始され、及第者には高等官となる資格が与えられて科挙の起源となった[37]。ただし、当時の科挙の合格者は毎年数名程度であった[36]

軍事

府兵制

経済

税制としては、隋は北朝以来の均田制を継承しながら租庸調制を確立した。

文化

宗教

国際関係

日本

ヤマト政権推古天皇の摂政であった聖徳太子は遣隋使を5回以上派遣して隋の文化を輸入した。仏教意識が強く、『隋書』内の遣隋使の言葉の中で煬帝に対して「海西の菩薩天子」と呼びかけ、留学僧数十人を派遣している[36]小野妹子が煬帝の家臣である裴世清を連れて帰国した。

朝鮮半島

西域

突厥

隋の皇帝一覧

  1. 文帝(楊堅、在位581年 - 604年
  2. 煬帝(楊広、在位604年 - 618年) 文帝の子
  3. 恭帝侑(楊侑、在位617年 - 618年) 煬帝の孫。李淵に擁立される。
  4. 恭帝侗(楊侗、在位618年 - 619年) 煬帝の孫、楊侑の兄。王世充に擁立される。
  5. 秦王楊浩(在位618年) 煬帝の弟の秦孝王楊俊の子。宇文化及に擁立される

皇帝略歴

文帝
男子5人
女子1人(北周宣帝(宇文贇)の妃・楊麗華
煬帝
恭帝

系図

楊禎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
廃太子房陵王勇
 
 
 
 
 
 
燕王倓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武元皇帝忠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
元徳太子昭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蓋氏
 
 
 
 
 
 
1高祖文帝堅
 
 
蕭皇后
 
 
 
 
 
 
 
(3)恭帝侗(皇泰主)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武元皇后呂氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉王暕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蔡王整
 
 
2世祖煬帝広
 
 
 
 
 
 
3恭帝侑
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
趙王杲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
滕王瓚
 
 
蕭嬪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道王嵩
 
 
秦王俊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
衛王爽
 
 
楊秀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
楊諒
 
 
 
 
 
 
 
 
 

年号

  1. 開皇581年 - 600年
  2. 仁寿601年 - 604年
  3. 大業605年 - 618年
  4. 義寧617年 - 618年)
  5. 皇泰(618年 - 619年

脚注

  1. ^ 宮崎市定は「隋代史雑考」(中公文庫版『隋の煬帝』所収)において、隋は恭帝侗が帝位を奪われる619年まで存続していると説いた。しかし、唐の編纂した正史である『隋書』等では、618年に恭帝侑が唐に禅譲した時点をもって隋が滅んだものとしており、また『隋唐帝国』(布目潮渢、栗原益男著)では煬帝が暗殺されたことをもって隋が滅んだものとしている。本項ではより一般的と考えられる618年を滅亡年としている。
  2. ^ 陏の例としては開皇13年(593年)の曹子建墓碑曹子建の墓碑)がある。
  3. ^ 宮崎前掲論考。文献上で確認できる楊堅作字説の嚆矢は南唐徐鍇説文繋伝』という。
  4. ^ a b アーサー・F・ライト『隋代史』法律文化社、1982年11月、64頁。 「隋朝の創業者である楊堅は、黄河平原の西端近く(弘農郡華陰県=陝西省渭南地区華陰県)に本貫のある古い名族に生まれた。その祖先は六代の間、北朝の非漢族諸王朝のもとで官人となり、支配階級であるテュルクモンゴル(鮮卑)エリートの一族との通婚によってその権力と地位を維持してきた。楊堅の父である楊忠は、最初、北魏に仕えていたが、五三四年、北魏が西魏と東魏に分裂したとき、楊忠は西魏の創業者である宇文泰に忠節を尽くす道を選んだ。楊忠は、文武にわたる功績により、高位で酬いられ、隋公(隋国公)に封ぜられた。また、五世紀末年の徹底的な漢化政策において漢姓に変更されたテュルク・モンゴル(鮮卑)の姓を宇文泰が、その部下に対して復活したとき(虜姓再行)、彼のもとで軍功を立てた漢姓の者に漢姓と同じ意味の(鮮卑)の姓を授けた。楊忠は、モンゴル諸語で柳の一種(楊)を意味するブルスカンの転じた普六茹という姓を授けられた」
  5. ^ 姚薇元『北朝胡姓考(修訂本)』(中華書局2007年)P72-73は、楊氏(普六茹氏)は雁門茹氏、つまりは茹茹(蠕蠕、柔然)の後裔とみる。
  6. ^ 『文藝春秋SPECIAL』2016年7月号、文藝春秋社、p205楊海英「例えば、六世紀の終わり、三百年ぶりにシナ地域を統一した隋は北方遊牧民の一つ、鮮卑系の王朝だった。それが漢人編纂の後の史書では、後漢の名臣、楊震の子孫であると漢化されて伝えられてきたのである」
  7. ^ 『文藝春秋SPECIAL』2016年7月号、文藝春秋社、p67岡田英弘「この隋も鮮卑族の国ですから、シナは完全にアルタイ化してしまうわけです」「隋、唐ともの鮮卑人の創った王朝です」
  8. ^ 岡田英弘『中国文明の歴史』講談社講談社現代新書〉、2004年12月18日、102頁。ISBN 978-4061497610 「この時代の王朝である隋も唐も、その帝室は鮮卑系の王朝であった北魏、西魏、北周のもとで実現した、鮮卑族と、鮮卑化した漢族の結合した集団の中から出てきたものである。」
  9. ^ 加藤徹『貝と羊の中国人』新潮社〈新潮新書 169〉、2006年6月16日。ISBN 978-4106101694 p112₋p113 「隋の楊氏も唐の李氏も、遊牧民族である鮮卑族の血を、濃厚に引いていた」
  10. ^ 守屋洋中国皇帝列伝PHP研究所PHP文庫〉、2006年11月2日、109頁。ISBN 978-4569667300https://books.google.com/books?id=6p8AjHhmEkkC&pg=PT109&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 「楊氏はもと胡族(鮮卑)から出たのではないかと言われているが、このほうがむしろ信憑性が高いかもしれない」
  11. ^ 外山軍治礪波護「隋唐世界帝国」『東洋の歴史5』人物往来社1967年、p12「楊という漢姓を名乗っているが、その実は中国化した鮮卑人であろうという説が有力である」
  12. ^ 日本大百科全書『鮮卑』 - コトバンク 佐藤智水「その後の北朝王朝(北魏、東魏、西魏、北斉、北周)および隋・唐王朝の宗室も祖先は鮮卑系である」
  13. ^ 岡田英弘だれが中国をつくったかPHP研究所PHP新書〉、2005年9月16日、70頁。ISBN 978-4569646190https://books.google.com/books?id=qn1xBAAAQBAJ&pg=PT70&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 
  14. ^ a b 守屋洋中国皇帝列伝PHP研究所PHP文庫〉、2006年11月2日、109頁。ISBN 978-4569667300https://books.google.com/books?id=6p8AjHhmEkkC&pg=PT109&redir_esc=y#v=onepage&q&f=falseef 
  15. ^ 浅野典夫「なぜ?」がわかる世界史学研教育出版、2012年5月22日、237頁。ISBN 978-4053033802https://books.google.com/books?id=g4d1CwAAQBAJ&pg=PA237&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 
  16. ^ 浅野典夫今を読み解く世界史講義新星出版社、2016年9月8日、78頁。ISBN 978-4405120051https://books.google.com/books?id=I8KyDQAAQBAJ&pg=PA78&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 
  17. ^ 駒田『新十八史略4』、P248
  18. ^ a b c 駒田『新十八史略4』、P249
  19. ^ 駒田『新十八史略4』、P264
  20. ^ a b 駒田『新十八史略4』、P250
  21. ^ 駒田『新十八史略4』、P252
  22. ^ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P181
  23. ^ a b 駒田『新十八史略4』、P258
  24. ^ 駒田『新十八史略4』、P259
  25. ^ a b c d 駒田『新十八史略4』、P260
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  30. ^ a b 駒田『新十八史略4』、P269
  31. ^ a b 駒田『新十八史略4』、P270
  32. ^ a b c 駒田『新十八史略4』、P271
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  34. ^ a b c 駒田『新十八史略4』、P273
  35. ^ a b 駒田『新十八史略4』、P274
  36. ^ a b c d e 布目潮渢・栗原益男『隋唐帝国』講談社学術文庫。 
  37. ^ 宮崎市定『大唐帝国』中公文庫。 

参考文献

関連項目

外部リンク

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